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自分の外に愛を見つけることはできない

 Q、肉体的な痛みの恐怖心が強いのですが、どうしたらいいでしょうか。

   
つまり、あなたは自分が肉体だと思っているのですね。
   ところが人間は、実は肉体以上の存在なのです。ですからあなた方はどんな種類の怖れも持たずに生きることができるのです。ただし、そのような意識のレベルに達するためには究極まで突き進み、自分は単なる肉体以上のものであることをはっきりと理解しなくてはなりません。

   自分が怖れているものをよく見てみると、それらはたいてい「自分は肉体だ」という考えに基づいたものであることがわかります。自分が肉体でしかないのであれば当然、怖れるべきものがたくさんあるでしょう。しかし自分が肉体以上の存在だということがわかると、それ以外の可能性が見えてきます。

   「この肉体が自分だ」という考えに囚われていると、確かにあなた方は苦しむことが多いでしょう。つまり、あなたは死ぬでしょう、取り残されるでしょう、捨てられるでしょう、飢え死にするでしょう、暑すぎたり、寒すぎたりするでしょう、自分が欲しいものを得られないでしょう、自分が欲しくないものを押し付けられるでしょう・・・とリストは延々と続きます。このような怖れを根絶やしにするためには、「あなたは肉体ではない」ということを真から理解することです。

   では病気でボロボロになっている体や、耐えられないような痛みや苦しみはどうしたらいいのでしょうか。痛みがある時、当然、体は肉体的な反応を示します。そして覚醒レベルにある人々は、痛みの存在を非常な落ちつきを持って観察します。彼らは痛みそのものに巻き込まれることなく、ただ痛みの存在を認めるのです。

   ここで問題となっている幻影は、「人間は肉体そのものでしかない」という考え方にあることがわかります。毎日瞑想をするようになると、自分は肉体だという幻影から自由になることができます。深い瞑想状態になると、自分が肉体から引っ張り出されるのを感じるでしょう。また意識が肉体の外まで拡大したり、幽体離脱状態のように体から完全に抜け出し、自分が肉体ではないということを理解することができます。あるいは一般的に体験するのは、自分の体がまったく違う何かに、完全に溶けてしまうのを心眼で見ることです。

   「私は肉体ではない、私は肉体ではない」と唱えるだけではあまり効果はありません。
   もちろんそれは真実には違いないのですが、たとえ深い意味を持っている真実の言葉であっても、口先で唱えるだけでは自分の意識を変えることはできません。もし自由になりたいのであれば、自分なかの、自由を促す能力がもっとも強い部分に働きかけることです。それは自分の内面です。私が「神聖なる厳粛さ」と呼んでいるものとともに瞑想状態に入り、この事実を自分に示してくれるように願うと、それがあなたに示されます。

   何度も繰り返しますが、この宇宙は優しさに満ちています。
   たとえば子どもが親のところに来て、「今から勉強がしたい」というのに、「まだダメ。あと10年たったら」というような親がいるでしょうか。親は、「じゃ、ここに座って。さあ、始めましょう」と言うでしょう。人間の親がそうできるのであれば、「エネルギーの源」なる力もそうできないはずはないでしょう。

   「すべてなるもの」との統合への強い願いを、決して小さいことだと考えないで下さい。
   あなたが「すべてなるもの」と一つになりたいと強く願うことで、あなたは宇宙と調和し、宇宙を満たす力のすべてがあなたを助けるためにやって来るのだということを理解してください。あなたが怖れを捨てようと決心すると、「すべてなるもの」はあなたのために活動を開始します。

   あなた方が苦痛に対する怖れを語っているときというのは、過去の経験にもとづいて未来の出来事を想像して話しているわけで、過去と未来という本来存在しない状態の間に自分を置いて身動きがとれなくなっている状態なのです。しかしあなたには唯一見過ごしている時点があり、それが実在する「今という現在」なのです。宇宙の「すべてなるもの」の力とつながることができる場というものが一つだけあるのですが、それが今、というこの瞬間なのです。

   あなたが考えていることは外の世界に現実として現れます。
   つまりあなたは望むと望まないとにかかわらず、自分が考えていることを体現化せざるを得ないのです。ですから自分の不運を嘆き、そうした失意の人生を実は得意に感じている人は、自分をみじめにしているのは自分自身であることを知らなければなりません。自分の人生がなぜ今のような状態であるのかを知りたければ、ゆっくり時間をかけて自分の考え方や思い込み、感情といった想念を観察してみてください。そうすると自分というものがはっきり見えてきてわかってきます。

   なぜ自分の人生がこんなにメチャクチャなのか、なぜ悩みで頭が混乱し、いろいろ解決策を思いつくのに決断できないのか。こうした悩みを持っている人は、自分が何を考えているかに注意を払ってください。そうすると自分の思考のエネルギーがいろんなところに分散している結果、多くの混乱した現実を創り出していることがわかるでしょう。「エネルギーは想念に従う」というのは「宇宙の法則」の一つなのです。

   「自分が最大の関心を払うものが、最大のパワーを持つ」という真理があります。
   しかし怖れは一見、それとはわからない形で現れます。たとえば癌という病気を怖れている人がいたとします。その人は自分がいつか癌になり、苦しんで死ぬのではないかという怖れにすっかり囚われています。しかし一方ではその人は「神の愛の豊かさ」を世に現したいとも思っています。そのどちらの考えが現実になるかは、その人がどちらのほうにより多くの思いとエネルギーを向けたかによるのです。つまりその人が望むならば、どんな悲惨な人生も作り出すことができるし、解放された非常に自由な人生を創り出すこともできるのです。

   こうしたことの真理を理解し、自分自身の解放は自分の責任だと自覚できるようになると自由になることができます。人生の制約や拘束を生み出したのは自分であるので、それを壊すのも自分でなければなりません。それはむつかしいことではありませんが、むしろ問題なのは、あなた方が自分の人生の拘束や制約、制限を喜んでおり、本当は手放したくないと思っていることなのです。なぜなら制約や規則は人生に意味を与えてくれるからです。

   もし人生に何の悩みもなかったら、あなたはどんな状態にあるでしょうか。
   あなたはどんな生き方をしているでしょうか。このことをよく考えてみてください。自分の想念という意識を注意深く観察してみると、悩みを解決することに人生の意義を見出していることがわかるはずです。いったん悩みを解決すると、それを喜ぶ代わりに今度は別の悩みを見つけます。それが本物の悩みでなければ、本物を作り出します。それが緊急の悩みでなければ、出かけていって人の悩みを借りてきます。そしてお互いにこぼし合うのです。このように、
あなた方の人間同士のコミュニケーションや人間関係は、お互いの悩みを解決しあうことに基づいて成り立っています。そうした人生観を持つのも結構ですが、それでは自由にはなれないでしょう。

   ここであなたに宿題を差し上げましょう。
   これから1ヶ月の間、自分には悩みがないのだと思って暮らしてみてください。そうして、それに対して自分のエゴがどのような抵抗をするかを観察してください。自分の悩みや人の悩みを解決したいという欲求の強さを観察してください。そして、悩みの解決にやっきになっている限り、それを乗り越えることはできないのだということを理解してください。求道者は多いのに、悟りを開いた者が少ないのはこういう理由からなのです。

   「問題解決が人生でもっとも重要なこと」という考えを脇へ押しのけてしまうことができれば、あなた方は素晴らしい波動のエネルギーに満たされ、自分自身の不調和ばかりか、回りの人の不調和さえも癒すことができるようになります。真理の道を歩みたいと真剣に思っている人は、まず「実在しない」自分の問題について悩むことをやめることです。そして人生のおもむくままに従い、自分を自由にしてくれる内なる深みに意識を集中してください。

   私の言うことは気に入らないかもしれません。
   しかしあなたが、自分の悩みはこんなにも大きいとどんなに固く信じていても、本当は問題などまったく存在しないのです。この世は「大いなる愛と光」に満ち満ちたところで、問題など存在しないと信じることができた瞬間からそれが実現し始めます。そして本当にその通りになったとき、他人に向かって「あなたの悩みは重要ではない」とあなたが言ったとすると、その人はイヤな顔をするに違いありません。ではどうすれば他人を助けられるのでしょうか。

   ただ、ありのままの自分でいる
ことです。
   つまり、あなたの「在り方」そのものが問題の解決になるのです。人とはお互いを映し出す鏡です。あなたは自分のなかの何を反映させることを選ぶのでしょうか。人はお互いの悩みを反映し合うことで、ともに自分たちが非力な存在だという考えを確認し合い、強化し合っています。相手はあなたの顔を映し出し、あなたは相手に映し出される自分の顔を見ているのです。こうしてあなたは自分自身を見ていることになります。

   ですからもしあなたが自分の内なる調和に意識を集中すると、あなたはまったく違う顔を人々に投影し始めるようになります。この別の顔を投影し始めることができるようになると、あなたに会う人はすべて希望を感じ、満たされるようになります。それは自分もまた究極の自由を得られるかもしれないという希望の波動です。

   人に尽くしたいのなら、自分自身の鏡をきれいに磨くことです。
   そうすれば他の人も、あなたの鏡に映る「神聖なるもの」だけを見るようになります。人を助けたいのならおしゃべりをやめ、あれこれ考えることをやめ、愛し始めることです。怖れるものは何もないということを理解できるのは、無条件の愛の力によります。力とは愛なのです。愛以外のものを反映する鏡は、真理を反映していません。

   自分が愛されていることがわからないというのは、実に大きな苦悩です。
   どうか信じて欲しいのですが、自分以外のものに愛を求めている限り、決して見つけることはできません。たった一つの完全なる愛は、自分の内側から出てくる愛です。それは変わることのない永遠の「大いなる愛」につながっています。人間の愛は非常に気まぐれで変化するものであることを、あなたは心の底では十分わかっているはずです。


        book 「バーソロミュー」 チャネラー メアリーマーガレット・ムーア著
                      ナチュラルスピリット

                          抜粋
 

③ すべての「怖れ」から解放されて生きる

 Q、 怖れについて話してください。

   あなた方が「恐れ」と呼んでいるものを、私は「理解の欠如」と呼びたいと思います。
   なぜならこの宇宙には怖れるべきものは何もないからです。あなた方のエゴの暗い鏡が映し出して見せる幻影が、あなた方の人生観を歪めてしまった結果、人生には怖れるべきものが存在すると思い込ませているのです。地球に生きる多くの人々は、一つの怖れから別の怖れへと、怖れを渡り歩きながら人生を生きています。

   あなた方は人生の困難という恐怖を一つ乗り越えるたびに元気になり、自分自身を取り戻し平常心を取り戻します。ところがあるとき、再び恐ろしい出来事が姿を変えて目の前に現れるのです。このように怖れというものを根こそぎにしてしまえないのは、非常に大きな間違いをおかしているからなのです。それはあなた方が、怖れというものを一つ一つ解決して引っこ抜いてしまわなければ、怖れのない状態は手に入れられないと考えていることにあります。

   しかし現実的に考えてみるならば、このような方法ではいつまでたっても恐怖というものからは、解放される見込みはないということがわかります。なぜなら誰でもいつかは、あなた方にとって究極的な怖れである死というものに直面しなければならないからです。あなた方はそれをまだ自分には考える必要がないとして、考えないようにして遠くに押しやっているだけに過ぎません。しかしながら死の瞬間は必ず訪れます。

   死と深く向き合ったことのある人々は、死の怖れというものは克服できることに気づきます。ですから生活の中で起きる小さな恐れや心配に対して、そのたびに小さな応急処置をする代わりに、怖れというものの全体的な姿を徹底的に理解し、それを目の前に見据えて怖れというものを完全に取り除いてしまってはどうでしょうか。

   「まったく恐怖心なしに生きることができる」――このことをどれだけの人が信じることができるでしょうか。「万能の力の源」である存在は、人間の人生が死ぬまで、恐れや不安、病気で満たされたものであるようにと創造したわけではありません。それは人間が自ら創り出したものであり、あなた方は非常に手の込んだみじめな人生を創ってきたのです。しかしそんな人生にはもううんざりしており、怖れを持って人生を生きるのではなく、大胆さと勇気、やる気と思いやり、そして理解を持って人生を生きたいと思っている人もいるので、その人たちのためにお話します。

   そのためには、自分が「何を怖れているか」ということがわからなければなりません。
   それがどうしたらわかるでしょうか。そしてどうすればそれを取り除くことができるのでしょうか。ここでまずお伝えしておきたいことは、自分の人生と真剣に取り組むつもりのない人は、当然ですが自分のなかにある究極的な恐怖と対決することはできません。自分の人生と真面目に取り組むときに見えてくることの一つは、自分の心の表面を騒がせるものがたくさんあるということです。

   それらは意識の深い淵に入っていき、そのまた下にある暗闇に渦を巻いて下りていきます。この暗闇は自分では見たくないと思っている暗闇です。私は心理学者を批判するつもりはありませんが、この暗い無意識の淵には怖れるものは何もないばかりか、そんなものは「まったくない」のです。現代の人々が抱いている怖れの一つは、無意識の世界には恐ろしい化け物が住んでいるというものです。こうした考え方は意図的に作り出されたものであり、これらの化け物も人間の心が創り出した想像の産物に過ぎません。

   この意識の深い淵に本当に存在するのは、あなた自身の「神性」です。
   ただそれだけなのです。あなたが自覚するザワザワ動いている心の表面の下にある、意識の深いところには、「大いなる源」が存在します。あなたはこの大いなる源から生まれたのですから何も怖れる必要はありません。つまり人間は自分で恐れを創りだし、自分で創り出したものを怖れているのです。それはなぜなのでしょうか?

   自分の人生に現れる「魔物」は、自分が創り出したものであるという事実に直面しなければなりません。そうすればそれに立ち向かう勇気が出てきます。そして自分で生み出したものに立ち向かうことができます。なぜなら自分ではないどこかの神や他の何かが創ったと思っている限り、それは怖いもので見ることができないでしょう。悪魔は自分の知らないところからやって来る見知らぬ存在だと思っている限り、とても自分の手に負える存在ではないので、勇気も出ません。

   万物のエネルギーの源である存在は、あなたが思っているような悪魔などは創らなかったのです。どんな種類の怖れであれ、あなたが怖れて生きるのはもうたくさんだと心に決心しさえすれば、それまで見ることを怖れていたものに直面する勇気が与えられます。これはそれほど難しいことではありません。「大いなる自由」を真剣に求める人は、自分の心のうちを見つめ、自分の恐れがどこにあるかを発見してください。

   それを見つけられないということはありません。
   自分の感じていることを注意してよく見ていると、恐れがさまざまな形をとって表面化し始めるのに気がつくでしょう。それは日常の生活の中において、いろいろな姿になってあなたの前に現れます。読む本のなかに、あるいは夢のなかに現れるかもしれず、他人の言葉や行動や、自分の考えや想像の中に現れるかもしれません。それは必ず、あなたの前にはっきりと姿を現すので、あちこち探し回る必要はありません。

   この宇宙は慈愛に満ちた世界であることを忘れないでください。
   宇宙はいつでもあなたの味方なのです。自分の不調和に満ちた世界に留まらず、宇宙の調和の中に生きることを決心した人には、「大宇宙」のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。宇宙は、あなたが孤独な殻にこもって、みじめな人生を生きることを望んではいません。宇宙は、あなたが創造の過程におけるパートナーとなることを望んでいるのです。

   みじめな人生とは、人が自分で創り出したものです。
   そうして自分のみじめな人生のなかで孤独に生き、今までと同じようなものの見方や発想や感じ方を繰り返し、いつもと変わらず暗闇や外の世界を恐れ、偏って歪んだ思い込みを自分に引き寄せては、それを繰り返し繰り返し自分の心のイメージとして見ています。

   たとえばここに、人から見捨てられるのではないか、一人ぼっちになるのではないか、といった非常に大きな怖れを抱いている人がいるとしましょう。この場合、いくつかの対処の方法があります。まずセラピスト(心理療法士)にかかることがあげられますが、この場合必ずしも大学でたくさん学んだ人である必要はありません。それよりも一番重要なことは、人間というものが霊的な存在であることを理解していると思われる人を選ぶことです。セラピーにおいてその瞬間に心に影響を及ぼし、隠され秘密を解き放つ力となるものは、セラピストの直感力の強さです。

   隠された秘密の鍵はしばしば過去世にあることがあり、非常に直観力のあるセラピストはクライアントにそれを理解させることができます。しかしあなたにセラピーを受けるだけのお金がなかったり、そのような目覚めたセラピストを見つけることができない場合、そこにあるのは自分自身だけです。そして私はこれが結局は一番良い方法だと思います。

   あなた方人間は物事を直線的に考えます。
   つまり、今ここに悩みがあり、答えは未来にある、というわけです。しかし実際にはそうではなく、今ここに悩みがあり、今ここに答えがあるのです。悩みのなかに答えがあるのです。しかしほとんどの人は悩むのが大好きなので、悩みを持つことで生きていると感じ、ダイナミックでクリエイティブでエネルギーに溢れているように感じられるために、実は悩むことで大きな精神的満足感を得ているのです。

   しかし私は別の方法を提案します。
   怖れや不安といった悩みはあなた方の心を縛り、拘束して不自由に感じさせます。ですからこれらの本当の問題は、「どうしたらそれから自由になれるのか」
ということであるはずです。自分のエゴが心と精神を、自分で創った思い込みという幻影で支配し、さまざまなもので手かせ足かせをはめている状態から、どうしたら自由になれるのか、たった今も、そしていつでも自由であるためにはどうしたらいいのか、ということです。

   私の提案は、自分の悩みをちょっとあいだ脇に置いて、その時間を「宇宙のエネルギー」とつながり、それと一つになることです。そうすれば比較にならないほどの創造的な力に満たされるようになり、二度とそれを忘れることはありません。怖れというものは人間の創り出した創造物であり意識であるので、他の次元には存在しないものです。ですからそれを克服するためには、この地球世界の次元で直面するしかないのです。人間が創ったのなら、それを取り除くのも人間の意識において行なわれねばなりません。

   怖れを感じるとき、人はそれを肉体を通して感じます。
   つまり、怖れとは肉体的なものなのです。怖れに満たされたときしばしば、胸や喉や頭が締め付けられる感じがします。そうした状態になったとき、今までの効果のないやり方を繰り返す代わりに、次のことを試みてください。

   まず、怖れのエネルギーが体の中を動くのにまかせてください。
   つまりそれから逃れようとして何かに気を逸らせようとしたり、押さえ込もうとしたり、それから逃げようとしないことです。完全に受身になってその動きにまかせてください。まず「なるにまかせる」というのが第一のステップです。注意して意識していると、怖れには波のような起伏があることがわかります。なぜなら怖れというものは、宇宙のエネルギーによって動いているものではないので、一定の力を持ってはいないのです。そしてありがたいことにだからこそ、怖れを終わらせる可能性があることがわかるのです。ですから、まず怖れの感情のあるがままでいてください。

   次に、怖れの波の「谷」を感じたら、怖れが存在しているという意識に注意深く心を向けてください。「こわい」とは言わないでください。「怖れが在る」と言うのです。この二つの表現には非常に大きな違いがあります。そしてそのとき、自分のハートの中心(心臓あたりにある愛のエネルギーのチャクラ)に意識を深く集中してください。自分にできる最大の意志の力を込めて意識を集中し、じっとしています。ただじっとしているのです。

   怖れという感情をしっかり見つめようと固く決心していると、おもしろいことが起こり始めます。長い時間をハートのチャクラに意識を集中して過ごせば過ごすほど、困難に出会ったときの自分の力が増してくるのです。ですから怖れを感じていない時でもその日々を最大限に活かし、そうした意識の集中が必要になる時のために備えてください。なぜなら心の平安というものは急には呼び出すことができないからです。それには練習が必要なのです。「宇宙の大いなる愛のエネルギー」も、いつもそれを願っていないと呼び求めることはできず、あなたの命令一下ですぐさま飛んで来てくれるわけではありません。そのためには宇宙との調和の中に生きる努力が必要なのです。

   静かに意識を集中していると、自分の中で動きを感じます。
   そしてハートのチャクラですべての怖れが消えていくのがわかります。自分のなかにある怖れを正面から見据えるようになると、常にあなたのなかを何かダイナミックなものが満たすようになり、自ら生み出した幻影という現象からあなたを解放してくれるのがわかります。それを人間は、「大いなる愛」と呼んでいます。それはハートチャクラにあるパワーであり、自分がすべての人やすべてのものとつながっていることを理解させてくれます。つまりすべては自分の中にあり、外の世界には何もないことに気がつきます。そして、怖れるものも実は何もないのです。

   このことを信じられない人は、1年だけ私の言うようにしてみてください。
   そのためにできるだけたくさんの時間をとって、この方法を実行してください。そうすれば私は次のことを約束できます。あなたが求めている無条件の愛は、「あなたの存在の中心
で」静かにあなたを待っています。その愛といったん結びついたなら、あなたはもう決して、二度と怖れを感じることはありません。「愛は何ものも怖れない」と言われますが、それはまさに真実なのです。愛が何ものも怖れないのは、愛以外のものはすべて幻影に過ぎないことを愛は知っているからです。

   私の言葉を疑う人は、私の挑戦を受けてください。
   あなたが疑うのは当然ではありますが、もしそのようになりたいのであれば、やってみてください。1日のうちできるだけ多くの時間を、自分の存在の中心に意識を集中し、怖れにその状態を破られないようにしてください。そうすれば、私が話したことを体験するでしょう。


        book 「バーソロミュー」 チャネラー メアリーマーガレット・ムーア著
                      ナチュラルスピリット

                          抜粋      
   
   

② 「私は自分を愛している」

   ①の続きです。
   次に、いわゆる否定的感情が湧いてくるときには、いったい何が起きているかについて説明します。たとえばあなたは今椅子にすわって、穏やかで満ち足りた気分でいるとします。と、そこに電話がかかってきました。受話器を取るといきなり相手が、「ばかやろう! お前はなんて酷いやつだ!」と大声で罵ったのです。そこであなたのなかには、一瞬前にはなかった感情が生まれます。そしてすでに述べたプロセス、つまり引き寄せの原理が始まります。電話から受けた刺激の中にあるあなたのまわりにさまざまな想念が近づき、あなたはある想念を引き寄せて「それを感じます」

   あなたが引き寄せた想念という感情はどんなものでしょうか。
   恐らく不愉快なものであったでしょう。
あなたの「感じた」ものは荒々しくて大きな岩のように感じられたかもしれません。あなたはそれを取り除きたいと思い、自分の頭の中に入ってきたその不愉快な感情という想念を否定しようとしますがうまくいかず、憤りは居座り続けます。以前にも否定することでそうしてみましたがうまくいったことはありません。

   では、代わりにこの方法を試してみてください。
   自分の中に不愉快な感情が引き起こされた瞬間に、自分にこう言うのです。「私はこの感情を愛する。この感情は私の一部なので、去る必要もなければ変わる必要もない」 そうすると、心の中にいつもある温かさが、荒々しい岩のように見える感情の方へ近づいていき、それを囲み、滑らかにし、ボロボロに砕いていきます。そしてこの「岩」に対するあなたの愛の力を通して、「岩」はその愛を自分にまとい始め、岩はあなたの愛で満たされます。つまり、愛がこの「醜い」感情の塊りに注ぎ込み、それを囲み、高揚させるのです。そしてこの感情は今や「愛にあふれた」感情に変わるのです。

   そこであなた方は、自分の持つ愛だけでなくそこにある苦しみという二つのものを、同時に感じることができることに気づくでしょう。愛の力は限りなく大きく、愛が包み込めないものは何もありません。この限りない愛の力を使うことこそ、あなたが学ばなければならないものなのです。たとえば愛する者を失った悲しみがどんなに大きくても、その悲しみと限りなく大きな愛を心のなかに同時に持つことは可能です。どちらかだけを選ぶ必要はないのです。

   嘆き悲しみたいときは、思いきりそうしたらいいのです。
   その結果病気になってもいいのです。どんな悲しみも後悔も罪悪感も、すべて思いきり感じていいのです。感じていけないものなどありません。あなたの心のなかにある愛は限りなく大きなものなので、どのような感情も包み込んでくれます。何も心配する必要はありません。

   感情はあなたの子どもです。
   それはあなたの子どもなので、子どもたちはあなたの愛を欲しがっています。その感情を生み出したのはほかならぬあなた自身なのに、あなたはそうした感情をまるで親なし子のように扱っています。しかしそれを創り出したのはあなた自身なのです。こうした否定的感情をあなたの愛で温め、受け入れることで、それは変化し変容していきます。そして自分とは限りなく大きな存在であり、どんな感情を抱いても大丈夫なんだとわかり確信できると、あなたは何も怖れることがなくなります。つまりこの世に存在するもので、自分が包み込むことができないものは何もないのだとわかるとき、怖いものがなくなるのです。

   何かを失った悲しみがどんなに大きくとも、どのようなひどいことが自分の身に起きようとも、あなたはその感情を自分の心に抱き、なだめて温め、心を開いて愛することができるのです。ですから大きな心の痛手を受けたとき、それから逃げないでください。そしてそれを愛してください。でもそれはあなたを傷つけた人を愛するということではなく、そうではなく、あなたのその苦しみの感情を愛することによって変容させるのです。

   あなた方は「できれば隣人を愛したい」と思っていない人はいないはずです。
   しかし愛したくても愛せないというジレンマと抵抗を感じるので、残念ながらうまくいきません。それがうまくいかない理由は、本当は自分のほうが欲しいと思っているものを相手に与えるという難題を自分にさせようとしているからなのです。つまり、愛して欲しいのはあなたの方なのです。それなのにあなたは、自分を愛してくれてはいないと感じている人に、本当は自分こそが欲しい愛を与えようと、自分に言い聞かせているのです。

   そこで一つの方法を提案します。
   それは、「その人たちを愛したくない自分」を愛することです。つまり、「その人たちを嫌っている自分」を愛するのです。そのように頭で考えると言っているのではなく、心で感じる感情でそうするということです。これは実際にやってみるとわかるのですが、私が述べた心の温かい気持ちを感じられない人はいないはずです。人を愛せない自分、誰かを嫌っている自分さえも愛し始めると、素晴らしい魔法の力によって変化が起きてきます。そしてその状況そのものが温かさを帯びるようになり、人を愛せない自分に自己嫌悪し、嫌な気持ちになるということがなくなります。

   あなた方はこれまで、「愛」というものを外の世界に求め続けてきました。
   しかし自分が常に求め続けてきて得られなかったものが、実は「自分で生み出す」ことができることに気づいたとき、あなたはやっと自分の人生のマスターになり、自分の人生の本当の主人になるのです。多くの人々はこれまで愛情や生活の安定や、心の安らぎ、支えなどを自分以外の誰かや外の世界に求め続けてきました。そしてそれらが実は自分のなかにあることに気づき、それを見出した瞬間から、人は自分の人生の主人になるのです。これは傲慢などというものではなく、まさに人生のすばらしさを意味するものであり、そうして初めて、あなたは他人を愛することができるようになるのです。

   そのようになるまでは駄目なのです。
   人というものは巧妙に取引をし、代償を求め、見返りを期待し、お互いに何らかの要求をせずにはいられないのです。自分が求めているものを相手が与えてくれないと、傷つけられたと感じたり、悲しくなったり、みじめになったり、誰も愛してくれないと感じて憂鬱な気分になったりするのです。しかし自分の人生の主人になり、自分を愛していると感じられるようになると、あなたの人生は愛の行動ではなく、愛の流れとなります。

   つまり誰が目の前にいようとも、自分のなかに愛の流れを感じることができるようになります。しかもこの愛は特定の個人に向けられたものではなく、目の前を犬が通り過ぎても、子どもが通っても、近所の人であっても、敵であっても全て同じことです。自分の子どもと同じように敵を愛するというのは、何だかあり得ない恐ろしい気がするかもしれません。しかし自分が愛の流れそのものになることで、あなたは解放され自由になるのです。

   今まであなた方は外の世界に向かって交渉し、依頼し、請い願い、さまざまな方法を用いてやってもらおうとしたことが、自分自身の手でできるようになると、人生のゲームは終わるのです。流れ出す愛そのものとなったあなたの行動のすべては、満ち足りている意識によって動機づけられているゆえに、もうゲームを演じる必要がなくなります。それは人とともにいることを望まなくなるということではなく、人と一緒にいる必要がなくなるということであり、この二つは異なった状態です。

   自分という人間である存在をおもしろく、すばらしさを深く感じるからこそ、他人ともオープンに誠意をもって交流することができます。必要からつき合うのではなく、喜びをもってそうします。そうしたいからそうするのであって、どうしようもなくそうするのではありません。


   一人で心静かに座って、「私は自分を愛している」と唱え始めると、自分に対していやだと思っていることや、だめだと思っていることが次々と頭に浮かんできます。「こんなに太っていなかったら・・・」「こんなに痩せていなかったら」「こんなに醜くなかったら・・・」「こんなに頭が悪くなかったら・・・」etc.  こうしたリストを紙に書き出し、どんなに時間がかかってもいいので、その内容を逆のものにしてください。つまり、「こんなに頭が悪い自分を愛します」と書き換えます。このようにして、今まで自分を愛そうとしてこなかった部分や蔑(さげす)んできた部分のすべてを愛する努力をするのです。


        book 「バーソロミュー」 チャネラー メアリーマーガレット・ムーア著
                      ナチュラルスピリット

                          抜粋
   

① 自分にあるのは、結局「自分自身だけ」

 Q、人生は学びであるということはわかりますが、なぜこんなにも辛くて苦しいのでしょうか。

   
この質問には非常に心に迫るものがあります。
   人生は自然において感動と美しさに満ちているものだと言われるのに、なぜ多くの人の人生がそれらとかけ離れているように見えるのでしょうか。私たちはこれまで宇宙的現実や希望や欲望などについて広大な理論を展開してきました。しかし最後に行き着くのはたった一つの基本的事実です。そして自分には、結局、ただ一つのものしかないということに気づく時が来るのです。
   
   そのただ一つのものとは「自分自身」です。
   人生を生きるうえで便利な小道具のすべてはいつかはなくなります。あなたの人生に意味を与えてくれたような人との関係もいずれはなくなります。子どももいつかは親元を去っていきます。重要な地位についていても退職したり、職を失ったりします。美しい人もいつかは老い、パワフルな人も力をなくし、体力が衰えていきます。

   そうして多くの人々は、自分というものに直面するようになります。
   まず気がつくのが、自分の中にある怒りや嫉妬、反感などの否定的感情であり、その感情をどうしたらなくせるのだろうと考えるのです。しかし本来自分の一部であるそれらを、どのようにして取り去ることができるのでしょうか。

   そのために人々が試みる方法はいろいろありますが、まず多くの人々のする第一の方法は、自分を怒らせるような状況や人々を避け、嫉妬や反感を感じさせるような人間関係を作らないことです。自分の理想の姿を貶めることになる嫉妬や怒りの感情を自分のなかから取り除こうとして、その結果、自分の生き方を小さくて縮んだ狭いものにしてしまいます。

   極端な場合は、こうした行動は「放棄」という形をとるようになり、自分が避けたいと思う感情を刺激するような外界と自分を切り離すために、洞窟や人里離れた場所、そうした家などに閉じこもることになります。ところがある日、彼はそうした場所から出て、あるいは山を降りて、店で買い物をしようとしたところ、誰かが、並んでいる列に割り込んできます。するとたちまちこの人のこれまでの平和な気持ちが怒りと不愉快さに変わってしまうのです。

   そこで、このような「放棄」は効果がないと悟ったこの人が、次に試みるのは、意思の力で怒りを感じないようにすることです。そのためにこの人の顔は仮面になります。顔には常に作り笑いがあり、顎(あご)は緊張しています。いつも笑顔を絶やさずにいなければなりません。少しでも油断すると怒りを現したり、「すべきでないこと」を言ったり、したりしてしまうかもしれません。

   つまり意志の力で、自分の体の中を流れる感情を抑えつけようとするのです。
   この方法はしばらくは効き目があるでしょう。しかしある日、この人の感情を爆発させるような何かが起きて、顎を引き締めて抑える間もなく、自分がこれまで避けようと努力してきた激しい感情や恐れが表面に出てしまいます。そうしてあなたは自分はまだ駄目だと自己嫌悪に陥り、自分を否定してしまいます。

   また一方であなたは他人を操作するという方法も用います。
   つまりまわりの人々が自分を困らせたりしないように、彼らを自分の思い通りに動かそうとするのです。彼らが自分の思うように行動してくれれば、あなたが腹を立てて「よからぬ行動」に出る必要がないからです。恋人があなたの思うような行動をして嫉妬させないように注意してくれさえすれば、あなたは嫉妬する必要がないのです。決して怒ったりしない上司の元にいれば、自分の怒りの感情に直面しなくてもいいからです。

   よって、あなたはまわりの人々や環境を自分の思うようなものにしようとします。
   どうすればいいかわからないようなことは放っておきます。自分の中のそういう部分に直面したくないからです。つまり、自分の中の否定的な面を見たくないために、自分の強い感情を刺激して引き出さずにすむような、自分を映し出す「弱い鏡」を求めて人間関係や恋愛関係を渡り歩くのです。

   しかし結局は、この方法も失敗します。
   そしてある日、あなたは自分の中を駆け巡る「小悪魔」を、自分の力では追い出すことができないことに気づきます。そして今度こそすばらしいアイディアを思いつきます。「神様にお願いしよう!」というわけです。そうして多くの人々は何らかの宗教を求めてその中に神を見つけます。そうして自分にはできなかった「自分の好ましくないもの」をすべて取り去ってくれるように頼むのです。誰もが一度はこうしたことを神に頼んだことがあるでしょう。その結果、何かが変わったのでしょうか。

   そうして次に今度は、「魂の覚醒」という新たなゲームともいうべき、目標を掲げて「悟り」への長い道のりを歩き始めます。あなたは師のもとに通い、あるいは読むべき本は全て読み、するべきことはすべてして、正しいマントラをすべて唱え、非常に熱心で模範的な弟子になります。これを全て実行したら神を見つけ、自分の中の否定的な部分を捨てることができると考えます。

   私が今日、お伝えしていることは、私のチャネラーである彼女(メアリーマーガレット・ムーア)が何年も前に発した問いに対する答えです。あなた方は気づいてはいませんが、究極的には、すべての人は孤島に一人ぼっちでいる状態なのです。あなたがこれまで読んだどんな本も、今まで唱えてきたすべての祈りも、あなたが感じている空しさの前では何の意味もありません。

   
そこでまずするべきことは、「あなたがどんな人間かという基本的な部分はほとんど変わらない」ということを受け入れることです。つまりあなたがどのようなことをしようと、どんな精神修業をしようとも、あなたはほとんど変わらないのです。あなたという存在は何十億という経験を積み重ねてきた成果なのです。あなたはあなた以外の何ものでもなく、「自分はありのままの自分である」ということを、まず認めるところから始めなくてはなりません。

   この事実を心の奥深くで噛みしめて自分のものにした後でも、嫉妬心が起きたり憤りが起きたりします。そして自分が再び感情に縛られており、そうした感情に囚われていることに気づきますが、しかしそうした嫉妬心のような感情から逃れることはできません。なぜならそもそも逃れる必要はないからです。

   今までのあなたは、「自分にはどこかいけないところがあるので、直さなくてはいけない」という考えに基づいて生きてきました。しかしあなたにはどこも悪いところはないし、直さなければいけないところなどはありません。ただしあなたは自分の中の特定の部分を愛していないことが原因で、心の緊張を生み出しています。あなたがそういった自分の一部を愛せないのは、同じく、自分の愛せない部分を無視している人たちから、それは愛してはいけないと教えられてきたからです。

   あなたは自分の心のなかに入っていき、自分の全存在の力を使い、次のように言ってください。「私は嫉妬心と疑いの真っ只中にいる自分を愛します。憤りと悔しさの行動の真っ只中にいる自分を愛します。みじめで否定的になっている自分を愛します」 
そのように言うことで、あなたは自由を獲得することができます。自分が醜いと思っているどんな感情であれ、どんな思い、行動であっても、その真っ只中で、「私はこの瞬間に、今のありのままのこの自分を愛します」と宣言することから、あなたの自由が生まれるのです。

   このように言うと、「自分の醜いところも愛してしまうと、一生それを捨てられないのではないか」と心配する人がいるでしょう。そのためにこれからそれについて、あなた方人間の内部やまわりで実は何が起きているのか、こうした感情がどのようにして発生するのか、自分を受け入れることがなぜ解決になるのかについて、宇宙的な観点からお話しましょう。ですからこれから話すことを実行するように努めてください。

   あなた方人間が発した想念、つまり思いや考え、感情というものはあなた方のまわりにいつも漂っており、そうした想念と人との間には人間の持つオーラ(霊域)と呼ばれるものがあります。あなた方はそれぞれ
が持つ考え方という観念の癖により、まわりに漂っている想念の中から特定のものを選び、自分に引き付けています。しかし実際には選んだという意識はなく、「類を持って集まる」という原理から自分と同じ想念を引き寄せているだけなのです。

   その結果、その想念が作り出す同じ現実を何度も何度も経験するはめになります。
   思考や感情というものは現実を作る原動力なのです。自分には価値がないという考えや、恐れや憂鬱、自分を卑下する考えや否定的な想念などを抱いているなら、そういった想念をより多く引き寄せてその現実を作り出し、それを生きることになります。

   そしてここが重要な点なのですが、あなたが想念を引き寄せてそれが入って来る時点で、それは感情に変わります。この感情があなたの中に入ってきて、いわゆる魂と呼ばれるものの中に記録を残します。その瞬間にあなたの行動が形成されるのです。

   このプロセスが理解できるでしょうか。
   もともと想念というものはあなたの外にあるのです。そして類を持って集まる原理から想念はあなたのオーラを貫いて入って来ます。それはあなたにぶつかり、感情として記録され、その感情からあなたは未来の行動を創り出すのです。たとえば「あいつは俺を嫌ってる」という想念がやって来ます。あなたの中にそれに反応する感情があるとき、その想念はあなたの中に入り「怒り」という感情に転化します。そしてその感情はあなたを動かし、あなたに引き起こす未来の行動は復讐というものの実現化なのです。

   あなた方が地球という世界にやってきたのは、こうしたあらゆる感情を経験し、これらの感情をクリアし、マスターできるようになることが目的です。そのためには自分がどのような状況でどういった反応をするかや、どのような想念を引き寄せやすいのか、どんな行動パターンを自分の人生に生み出しやすいのかを自覚し、そうしたものは「自分で選ぶことができる」という事実に気づくことによって、マスターできるようになります。

   そしてここで私が伝えたいことは、あなたが引き寄せている想念のほとんどは、「自分にはどこかいけないところがある、自分は愛されるべき人間ではない、愛されるには何かをしなければならない」というものなのです。そしてあなたはその想念を自分の考えとして生きようとしては挫折してきたのです。この否定的な考えと傾向を変えるためには、新しい言葉を繰り返し唱えることで、自分本来の姿勢を取り戻すことができます。このマントラとも言うべき言葉は、あなたが今まで考えもしなかったものであり、「私は自分を愛している」というものです。

   あなたは自分に対してこの言葉を繰り返し言うことによって、憂鬱な気分から幸せな気分に一瞬にして変わることができます。こうしてあなたは、気分をすっかり変えてしまう能力を自分が持っていることに気づくことができます。あなた方はある意味容器のうつわのようなものであり、そこに入っている自分の想念を違うものに選択して入れ変えることができるのです。

   静かに座って、「私は自分を愛している」と心から信じて唱え始めると、自分の中で何かが起き始めるのを感じるでしょう。それは温かさであり、心の中には本当に「炎」があるのです。それが、愛によって点火されるチャクラのことであり、こうしたことはすべて真実なのです。自分に対する愛の感情に浸ることによって、あなたの心は温かさという熱を生み出すのです。これから1ヶ月のあいだ、毎日心静かに座り、この感じを味わう時間を自分のために作り出し、何が起きるか試してみてください。


        book 「バーソロミュー」 チャネラー メアリーマーガレット・ムーア著 
                      ナチュラルスピリット

                          抜粋     

   

抗精神病薬は脳を「萎縮」させる (21) 

   ここでは「ロサンゼルス・タイムズ」紙にも掲載された、有名なナンシー・アンドリーセン医師の話を紹介しよう。

   『彼女は抗精神病薬の投与が、患者の脳の萎縮に関連しているとする研究の主任研究員であった。この研究は実に14年にわたって行なわれ、統合失調症と診断された新たな患者の脳を定期的にスキャンし、全体脳と脳の主構成部位を測定したものである。

   その結果もっとも脳質量の減少(萎縮)が大きかったのは、集中的に抗精神病薬の薬物治療を受けた患者であり、つまりもっとも長期的かつ最大用量の投薬を受けた患者であることが判明した。それにより精神症状の重症を引き起こす違法薬物やアルコールなどの乱用よりも、抗精神病薬による薬物治療のほうがはるかに脳を萎縮させることが判明したのである。萎縮は脳の随所に見られ、脳の異種領域や左右の脳の伝達「白質」、また重要な能力を司る「灰白質」でも起きていた。』

   抗精神病薬は、代謝変化、たとえば糖尿病や体重増加にも関連するとされている。このように精神薬は体の代謝を変化させ、脳を萎縮させて破壊し、さまざまな副作用と依存と後戻りのできない不可逆的な損傷をもたらす危険な毒物なのである。だからこそ、精神薬はやめなければならない。

     薬を減らす原則 ―― 本書のP.200~P.204に記載されている。

   
薬物から離脱するための最も重要な方法は、教育であり勉強である。
   そのためには医療用薬物の危険性や精神科領域の間違いと詐欺的問題を、よく認識することが大切である。この認識なしに、これまで述べてきたさまざまな対応策に手を出しても、ほぼ間違いなく失敗する。麻薬や覚醒剤のドラッグ離脱施設においても最初に行なわねばならないのは、薬の危険性に対する徹底した教育である。このことも忘れないでいただきたい。


  おわりに―― まともな精神科医に出会うためには

   精神科の領域でうるさく言われることに、患者は必ず同じところに通院しなければいけないというのがある。ゆえに転院するときに必ず紹介状がなければいけないことになっているのも、精神科だけである。つまりこのこと自体が、これまで述べてきたように精神科の利権を守るシステムになっているのだ。

   しかし患者側としてはそれに縛られてはいけない。
   患者にとって精神科医や医師という相手は自分を丸投げする相手ではなく、協調はするが鵜呑みにはせず、自分の必要のために医師をうまく利用することができるくらいでなければならない。

   精神科医は危険な毒薬を処方する人たちであり、毒薬に侵される人々を収容する管理人である。ゆえにそういった人たちに、癒しや根本的な改善を求めることが間違っており、決して望んではいけないのである。本来、毒を処方するような科は世の中に存在してはいけないし、実際に平和な南国などには精神科などは存在しないはずである。世の中が成熟していくほど、精神科の必要はなくなるのであり、日本が未熟だと言われればそれまでであるが、日本とてそのまま未熟であっていいはずはない。この国からも精神科は放逐されていかねばならない。

   もしこの本を読んでもなお、あなたが精神科にかかろうと思うのであれば、副作用の少ない処方にこだわる精神科医をこそ選んでほしい。またまともな精神科医に出会うためには、第一印象で判断せず、何よりも人間性で精神科医を判断しないことが重要である。そして精神科医に癒しを求めてはいけない。

   多くの薬を出す医者とは、名医や良医に対して対極に位置するものである。
   何も出さない医師や、必要なときだけ必要最低限のものを処方し、薬を毒だと認識している医師こそ、私などより優れた真の精神科医であるだろう。

   現在、日本国内で引き起こされているのがメンタルヘルスを充実させる動きであり、それに伴って起きているのが膨大な薬害被害者の増加である。しかもそれは国家レベルで推進されているのである。それが精神医療界の現実であり真実であることを理解できないならば、あらたな薬害被害者となり、一生をただ食い物にされて生きていくしかないだろう。


         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋   

   
   

精神薬を飲まずに治すためには  ⑳

   私が本書で繰り返し述べてきたことは、精神薬では何も根本的に解決しないということである。ではどうするのかという方法論についてもいくつか提示する必要があるだろう。昔から精神修行という言葉があるが、現在ではどのようなことを指していうのかは定かではない。さまざまなものが考えられるが、少なくとも精神薬という薬で考える力をなくして麻痺するよりは相当良いだろうとは思う。しょせん精神的な症状とは、メンタルの強さ弱さに起因するものがほとんどなのである。

   これまでに述べてきたように、精神的な症状が病気であるとしたり、科学的な疾患であるとする論理はすでに破綻している。自身を鍛える修養や努力を重ね、たとえ失敗したようでも続けて継続していくことで自信というものが生まれ、はじめて精神的な症状を克服できるのである。修行や修養といわれるようなものは、我々の持つはかないプライドや夢物語を一網打尽に打ち砕いてくれる。

   少なくとも現在精神科にかかっている人々のうちの9割は、こういった修養によって精神を鍛えることが「できるならば良くなる」と言える。それをやるかやらないかということであり、それをやらないでいて不都合な状態に留まることを、病気とは言わない。それは単なる逃げであり、逃げたい人は逃げてもいっこうに構わない。

   現代において厳しいことを勧める人間とは、患者の苦しみを理解しない「人でなし」であるらしい。しかし「しのぐ」ことの中にこそ人間の成長があるのであり、それを通して鍛えられ強くなることで精神的症状からの卒業がある。そういったことを正直に指摘できない今の現代社会の中にこそ、問題があるのではないだろうか。

   注目すべきは、精神薬の投与により禁断症状に苦しんだ人たちの成長である。
   依存性になった精神薬を抜くということは、覚醒剤や麻薬を身体から抜くことと同義であり、それを成し遂げるには相当の根性と知識を必要とする。つまり精神薬と闘うことはそのまま修行になっており、その結果、それを成し遂げた患者たちはちょっとしたことでは動じない。なぜなら「あの禁断症状の苦しみに比べればこんなことは楽勝だ」と考えるからである。このことは修行が厳しければ厳しいほど、精神症状が改善する理由と符号するのである。

   修行という言葉のイメージからは滝打ちや座禅などが思い浮かぶが、別に宗教的なものである必要はない。そのほかにも精神的な症状への対処法としては身体を動かす必要から次のようなことが挙げられる。

 登山やマラソン
   
登山やマラソンはいろんな意味で効果があると思う。
   これらが流行っているというのは、日本人全体が精神的な病気になる前の状態であり、かつそれを克服するために、自らの力でそれと取り組もうとしている表れではないかと思われる。こういうことを行なっている人で精神科にかかった人を、私は今のところあまり見たことがない。逆に言うなら治療が難しいと思われる患者で、前にこういうことをやっていたという人も見たことがない。

 太極拳やヨガ
   
もう少し軽いものだと太極拳やヨガなどがあり、これは心療内科の教科書に載っているくらいである。腹式呼吸や丹田を重視するように教えられるので、病気にならないために大いに役立つと思われる。特に腹式呼吸は精神症状を良くするうえで、基本中の基本ともいうものである。こういうことをやっている人は、どこが痛いとかどこが凝るなどとも言わないし、痛くてもそれが自然であることを理解できるので、そのような訴えだけで病院に行くような人間にはならない。

 断食
   
断食も一定の効果があるらしい。
   経験者によると、一つの壁を乗り越える感覚があるらしい。これも苦痛を乗り越える経験を身につけたからこそで、さまざまな精神的症状に自ら対処することができると思われる。

   ただ難しい患者の親を見ていてわかることは、大人しくて手がかからない子どもにコミュニケーションの訓練や考え方などを教えた経歴がほとんどないということである。つまり、親の育て方が悪いと、患者が親を恨む理由の筆頭がこのことである。人の中に入りたがらない子どもをそのままにしておいて、後でどうしようもなくなった時に、親があわてて精神科に連れて行くというのはどこか見当違いではないだろうか。

   私はこのようなことを言うので「人でなし医者」と呼ばれたりするが、私はトラウマや傷つき体験やコンプレックスを積極的に勧めているわけではない。問題はそれが誰にでもあり、それによって人間は強くなり鍛えられて、前に進む原動力になるのであり、多くの場合病院にかかる事態は避けられるということである。例えて言えば、我々の体は重力という抵抗が必要であり、それが無重力の中では人間の体はたちまちボロボロになってしまう。つまり抵抗や重力に相当するストレスやトラウマがあるからこそ、人間はバランスを養い生きて行けるのである。

   自らの精神状態を改善するのは自分自身しかいない。
   それに関しては誰も助けることはできないし、たとえカウンセリングを受けたとしてもそれは自分の持っている考えに気づくためのヒントでしかない。そしてそれ以上のカウンセリングは意味がないか、カウンセラーの偏狭的な考えでしかない。問題は自分の考え方にあるからだ。

   しかしたとえば仮にカウンセリングで改善して「治されて」しまったとしよう。
   それは大いに考えねばならないことで、過保護で他力本願になる可能性がある。そうなると苦しみから逃れることができても、困難に立ち向かう気力はなくなり、何事においてもリスクを避けて行動するようになりかねない。そうなるとカウンセラーの言葉を頼りに生きて行くことになり、こうした状態をカウンセリング中毒と呼ぶ。こうしたカウンセリングはしてはいけないのだ。

    ① 向精神薬を複数飲んでいる
    ② 向精神薬を3年以上にわたって飲んでいる
    ③ 薬を飲んでからむしろ悪くなっている
    ④ 社会的・環境的な事情から起きた症状のために向精神薬を飲んでいる
    ⑤ 精神科、心療内科にかかってから状態が悪化しているといわれる

   このうちのいくつかに当てはまる人は要注意である。
   その人はすでに精神科の詐欺か薬害にはめられている可能性があるからだ。私はここ数年で精神薬の恐ろしさや、特にその強力な鎮静効果を体験しており、最近はさらにそうしたものを使う回数は激減している。少なくとも私の著作活動や精神科というものの怖さを何も知らない人の場合、私はほとんど精神薬を出さなくなった。出すとしてもまず1剤少量で、頓服として出すことが多い。そして特にまだ薬漬けになっていない人の場合、これでほとんどの人が良くなることに今さらながら驚きを感じている。

   たとえば不安やパニックを起こしたという患者、職場のトラブルや人間関係でうつになったという患者、近所トラブルや社会的な問題でさまざまな身体症状、たとえば動悸、胸部の締め付け、食欲低下、便通異常などを示す患者、体裁や人の目や評価を気にして妄想的になっている患者、DVやパワハラに関係する患者など、こうした人々は皆精神薬を使わないほうが良くなる。具体的には、
       
        精神薬を使わない
            ⇓
 
        精神的苦痛を感じる、麻痺しない
            ⇓
        根本的解決のためには何をすべきか考えようとする
            ⇓
        改善する

   という過程をたどる。
   もしあなたが①~⑤に当てはまり、これまで述べてきた精神科の詐欺について心当たりがあるのなら、薬はできる限りやめなければならない。しかし向精神薬というものは、そんなに甘い代物(しろもの)ではない。やめるときに強力な禁断症状や悪化を起こすことがあるので注意しなければならない。やめたとしても後遺症が残る可能性もある。つまり飲んでいる限り、悪くなりこそすれ決して良くなることは期待できない。止めるにあたっては「行くも地獄、戻るも地獄」といった一面があるかもしれない。


         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋  

精神科不要論 ⑲

   ここまで書いてきて、筆者は精神科は不要だと思っているのかと考える人は多いだろう。結論をひと言で言えば、精神科は不要であると断言できる。しかしこれまで書いてきたことに対してこれはある意味矛盾している。なぜなら「まともな精神科医などいないし、いたとしても存在価値がない」と思っているのに、「まともな精神科医のかかり方」について書いているからである。ただ私は前者の「まともな精神科医」は目指すべき目標として、後者の「かかり方」は妥協的な対策として示している。

   これまでに示した数々の詐欺や人権侵害、被害、嘘、非科学性はもちろんのこと、薬物による依存や禁断症状、そして不可逆的つまり決して元には戻らない脳損傷などはもはや犯罪と言っても過言ではない。精神科や心療内科では誰も治らないので、クリニックでも病院でも患者はたまっていく一方である。このような事態は、治すつもりもないし治せないのが真相であるがむしろ悪くすることによって通院患者数を増やし、利益を上げようと企んでいるに等しい。それは「社会が病んでいるから精神科に患者が溜まるのではない」のであるが、その事実を未だに一般の人々は理解できないようである。

   これらの罪はさておいても、そもそも人の心や精神などの問題は特に人間的な問題であり、社会的な問題でもあるがそれは決して医学の問題ではない。それを医学の問題であるかのようにすり替え、自分たちの利益へと巧妙に誘導した精神医学界の謀略は、実に驚くべき「奸智」のひと言に尽きる。それとともに人々が生きるうえで避けるべきではない根本的な問題から逃げるようになり、精神科や心療内科という名前だけの看板と専門家に、自分の問題を丸投げするようになったとも捉えることができる。

   今や、家族の問題を真剣に捉えて考え、取り組む人間は日本にはいなくなってしまった。誰もが今や個人的問題や心理的問題を、まるで何かの宗教や、あるいは教会で啓示を与えられたり聖母に癒されに行くかのような気分で、気軽に精神科や心療内科を受診するのである。そもそも、そういう心の問題は医学が引き受けるべき仕事ではなかったにもかかわらず、そうしたものを周到に医療という名のもとに巧妙に誘導したことから、現在の膨大な精神医療被害者が生み出されることになった。

   ゆえに精神科や心療内科などというものはこの世に存在するべきではない。
   こういうものが存在するからこそ人々は甘いものに群がる蟻のように精神科に集まり、そして最後には踏み潰されるのである。最初から、「自分で取り組むべき精神的問題を治療してくれるような都合のいい組織や科学などはない」という本来の前提に立つならば、人間は必ず自分の足で立ち、生きていく力を見出すものなのである。人間は本来、自分自身を癒す力を備えているものであり、自分に解決できない自分の問題などはないのだ。

   精神科治療を前面否定するなら代案を示せと、各所で必ず質問される。
   だが代案という考え方そのものが、すでに精神医学を必要とする考えに洗脳されていることに他ならない。しかも治療とは建前であって、実際には毒で症状を抑える投薬しかないのであり、これを治療といい、そのような治療の代案というならば、まさに毒である精神薬の使用をやめること以外に何があるというのだろうか。

   自らの精神的問題の解決の抜け道など誰も持ってはいないし、そんなものがあろうはずがない。普通に誰が考えてもわかるように、自らの問題の解決策は、原因をよく調べてトラブルと取り組み、取り除いていくことしかないのである。

   少し別の視点から考えてみよう。
   多くの人々にとって懐かしいであろう戦後から高度成長期における頃の時代には、精神科などというものは存在しなかった。街中にメンタルクリニックなどは存在せず、精神病院というものはあっても、山奥の怖い場所にある特別な病院というイメージが強かった。大学病院や総合病院にも精神科医と呼ばれる人たちがいたが、そういった人たち自体が変人に見え、彼らこそが精神病ではないかという雰囲気が強かった。

   ではそのような時代に、人々は自らの精神的な問題や社会的なトラブルにどのように対処していたのだろうか。それは想像するまでもなく明らかなことであり、そういった時代を生きてきた人々に聞くとよい。トラブルや喧嘩、深く激しい議論などは当たり前であり、そうした徹底的な人間ドラマの中で悩みながら自らの精神的問題を解決していたのである。

   しかしそれがある時、1990年代後半から社会が変わってしまったのである。
   テレビのCM と新聞広告によって、「精神科は怖くない」「精神科は精神を治してくれる」といった間違ったイメージが流されるようになり、それが浸透していったのである。マスコミの影響力は大きく、すでに蔓延してしまったこういう考え方を覆すのはかなり困難なことである。しかも今や、全国民がそういったイメージに洗脳されているのである。

   人々は安楽しか求めてはおらず、とにかく何が何でもトラブルを避けることだけを考え、一時的でしかなくても、臭いものには蓋(ふた)をすることしか考えない。一番大切なことは「体裁」であり「プライド」であり、「しがらみ」や「周囲の目」、「踏み込み」などであり、それらを気にする結果、蓋(ふた)をしてごまかすことだけを考え、問題に対処して正面から取り組むことをしないで逃げようとする。

   それはそのまま、精神科や心療内科に群がる人々の心理状態そのままである。
   問題に直面したとき、それによって起きた自分の反応をごまかして臭いものにフタをするために精神科に行き、精神薬を処方してもらう。飲めばそのことを忘れることができて、一時的に気分がよくなるかもしれないが、それは覚醒剤を飲んで感じないように逃げているのと同じなのである。つまり精神科、心療内科とは、自らの問題に対処するように人を援助するのではなく、問題から目を逸らさせ、フタをし、逃げるように勧めるのである。

   だからこそ私は何度でも言おう。
   精神科は存在してはいけない。それはたとえ精神科の改善を目指すとしたり、薬の良い利用法を試行錯誤するなどといったところで、そうした覚醒剤のような毒を用いるのである限り、世の中を混乱に陥れることに変わりはないのである。精神科さえ存在しなければ、人々は自分の前に置かれた自らの精神的問題を自分で解決するのである。


          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋  

精神科・心療内科を受診する前の10の心得 ⑱

   医療の世界には、私などよりも薬学に秀でた温厚な精神科医はたくさんいると思う。
   しかし問題は、優秀ではあっても、彼らの多くは精神薬を一生飲むように勧めるのである。たとえ薬を減らしてくれる良心的な精神科医のようであっても、決して「なくしてはくれない」。このことは何を意味するのだろうか。

   このことはつまり、患者を低温保存状態に置き、患者を受診させ続ける状態を維持させているのと同じなのである。薬を減らせば当然身体は楽になるので喜ばれるのは決まっているし、その結果、最小限の投薬処方ですめば患者からは感謝され、まるで神のように扱われるだろう。しかし決して投薬を「なくすることはない」のだ。たとえ少量の投薬ですんでいるとしても、完全に服用することがなくならない限り、その状態は薬の依存状態にあると言えるからである。

   このようにして一生薬を飲み続ける「薬漬け」で人生を終わらせることになり、まさにカルト宗教と変わらぬやり方が、未だに精神医療界の「良識派のやり方」として続けられているのである。また日本人は権威というものに非常に弱い。そして医者や精神科医ともなれば、もうそれだけで精神のすべてを知っているかのように思い、何も言えなくなってしまうのである。しかし特に精神科という領域はまた別であり、ベテランであったり有名な人であるほど危ないと考えねばならない。なぜなら繰り返し述べているように、すべての精神科医の判断は主観に基づいた診断であるからだ。

   権威のある大先生がいる病院は、私が挙げた18項目の条件(P170、171)のうち、いくつかを満たすはずである。彼らは権威を利用してお金を集め、スタッフを集めているはずであり、そういった大きい病院が本当にいい精神科とは限らないのだ。しかもたとえ患者が何と言おうが権威が黒と言えば白いものも黒にされてしまうのであり、まさにそれが精神医療界なのだ。

   だからそういったことに引っかからないためには、相手の肩書きや権威というものに振り回されないようにしなけらばならない。逆に言うならば、権威というものに価値を置いて受診した段階ですでに「カモ」なのである。あなたが本当に詐欺に遭いたくないと考えているのなら、権威に頼ることこそをやめねばならないのである。


   精神科を受診する前の10の心得
   
   
もしあなたが何かしら精神的苦痛や症状を抱えたとき、精神科に行ってみようかと思うその前に、できれば次に挙げることくらいは考えてから行ってほしいものである。しかしもうすでに精神科医にかかって「ドツボ」にはまっているとしたら、できるだけ早く病院を変えると同時に、自分でできる以下のことを実践してほしい。

   それは自分の症状が心療内科、精神科ではないかと思うくらいだから、心掛けが大事であるに決まっている。しかし多くの患者の場合、この心掛けからしてすでに外れていることが多いのだ。まずここを修正しなければ、たとえまともな精神科医にかかったところで無駄なのである。その心得となる次の項目についてよく検討してみることである。

 ① その精神的な症状が、本当に医療でしか解決できないものなのか
 ② 働きすぎになっていないか
 ③ 社会の常識に惑わされていないか
 ④ そもそも病気であるのか
 ⑤ 他の医療分野でしっかり検査したか
 ⑥ その症状を改善するために自分でできることはないか
 ⑦ いろんなトラブルや苦痛も人生の1ページである
 ⑧ 今の精神科医に洗脳されていないか
 ⑨ 日常生活や食生活に問題はないか

 ⑩ それでも薬を飲むのなら、ごく少量になっているか


 ① 精神的な症状が本当に医療でしか解決できないのか

   
あなたの精神的な症状は何を原因として起きているのか。
   それらが借金や虐待、DV、ストーカー被害、身近な人の死や喪失、パワハラ、いじめ、不登校、挫折などに起因してはいないか。こうしたことによる精神的な苦痛は、当然ながら精神科で処方される投薬で治るものではない。投薬で治ったようでもそれは見かけだけである。覚醒剤や麻薬のような薬で感じないようにさせるだけであり、解決するためには原因を取り除くしかない。

   借金は返せる見通しが立つか実際に返し終わらなければ、それに付随して起きてきた精神的な症状は消えるはずはない。虐待もDVもストーカー被害も同じで、その状態をなくさない限り症状はなくならない。社会には借金のための本当の金策を提言し、2000人の相談を受け、死ぬしかないと考える自殺者をゼロに導いている組織が存在する。精神科で投薬を受けなくても精神的な問題は解決できる。また愛する人の喪失による精神的苦痛は必ず時間の経過という受容期を経るしかなく、これは投薬により消してはいけないものなのである。

   パワハラやいじめは、何よりもそうした会社や学校へ行かないことが基本である。
   そして具体的に人間的な対処をしないといけない。不登校に陥るのは理由があってそうなるのであり、その理由を頼りに解決を図らねばならない。これらのすべてが精神科の処方する薬で解決できるものではないことを理解しなければならない。

 
② 働きすぎになっていないか

   このことは特に日本人にありがちなことである。
   仕事が生きがいであったり、リストラの影におびえて無理をしたり、中間管理職にあってにっちもさっちもいかなくなった場合によくみられる。しかしそうであっても体調を崩すよりは、人間としては休むほうが大事に決まっている。しかしそれを休めないと思っている段階で、すでに社会の奴隷になっていることに気づかねばならない。しかし気づくことができないとたとえ回復したとしてもまた同じ経路にはまってしまう。すべてにおいて働きすぎは病気の源であることを知らねばならない。病気は誰かが代わってはくれないのだ。働くことにおいて、ON・OFFをはっきりさせることが重要である。


 ③ 社会の常識に惑わされていないか

   「美人とはテレビで見る痩身モデルのような体型のことである」とか、「社内の輪を乱すような行動をしてはいけない」などといった、いわゆる「社会の常識」に過剰に囚われる必要はない。こうしたことに囚われ過ぎると、もうその行き着く先には精神的苦痛しかない。痩身が美の象徴であるとした考えは、テレビのCM などによって作られた強い刷り込みである。こうした価値感には日本特有のものがあり、どこの国でもそうだとは限らないのであり、こういった「常識」に支配されるとそれこそ限りなく精神的な苦痛を生み出すことになる。このような精神的苦痛に対して効く薬など存在するはずもなく、そのような偏った常識や洗脳から自分を解放する以外に改善する余地はない。

 ④ そもそも病気であるのか

   これまでさまざまな精神科の「詐欺話」によって説明してきたとおりであるが、たとえば「不安」を感じて精神科や心療内科を受診すると、「不安障害」と診断される。しかし本来、人間にとって不安というものはあって当たり前のものであり、むしろないほうが不思議なくらいであるが、それをなくそうという目的で精神科の門を叩くこと自体が、すでにそういったことをわかっていないカモなのである。そのことを知らなければならないのだ。

   また月経時に起きてくる精神的な諸問題や、季節性や天候性の「うつ」といわれる状態があるが、こういったことに精神薬を投与するなどというのはまさに愚の骨頂である。そうして投薬による副作用によってホルモン機能を狂わせてしまい、新たな不都合を生み出すことになるのだ。個人的意見であるが、こうしたことは人間の持つ動物的本能の名残に関係していると思われるので、化学的薬剤ではなく自然物に近いもので対処するのがいいと思われる。それらが漢方の得意分野であることもそれを示唆している。


 ⑤ 他の医療分野によってしっかり検査したか

   
しっかりした医学的検査もされないまま、精神疾患と診断されている例が跡を絶たない。たとえば、甲状線障害や膠原病、更年期障害、血糖調節障害や低血圧、栄養障害、アレルギー性のもの、髄液漏出症候群、高次脳機能障害などに起因するものが、精神疾患と診断されやすいという現状がある。そのために他科を受診して見極めることも必要である。

 ⑥ その症状を改善するために自分でできることはないか


   たとえば運動することである。
   適度な運動を無理なく、好きな運動をすることを勧める。ただし長続きしてできることがもっとも大切である。また踊ることもお勧めする。古来から人間は踊ることを通して思いというものを表現してきたし、踊りは精神的な発露においても切り離せないかかわりを持っていたのだ。自分を表現する場として踊ることとともに、歌うことも大切である。一人で歌うことも、カラオケボックスに一人で行くのもいい。聴く音楽療法というものもあるが、人間は古来から歌うことや踊ることを通して自らを癒してきたのである。

   私はサウナ風呂をよく勧める。
   サウナ風呂は白夜のフィンランドで生まれただけあって、不眠に対して効果的であり、かつ副交感神経優位になり汗をかくのもそのままよい治療になる。また囲碁や将棋、チェスなどの古典的ゲームにも意味があり、単純だが奥が深く、その中で相手の心理を読む必要のあるゲームでもある。自閉症や発達障害とレッテルを貼られるような人たちには特にお勧めである。

   しかし逆に、テレビゲームや携帯ゲームはまったくお勧めできない。
   こういったものは自閉傾向の強い人がやると、いわゆる「ネトゲ廃人」になる可能性がある。農業や自然に親しむことは何よりも重要である。自然の中で一人暮らししたり、農作業に従事して良くなった人を私は何人も知っている。農作業や自然に触れることは、それだけで本来の自分に戻る癒しと強さを取り戻すことでもあるのだ。


 ⑦ いろんなトラブルや苦痛も人生の1ページである

   人生を生きていくうえでは誰しも苦痛を避けて通ることはできず、そのゆえにさまざまな精神状態になることがある。そうした中でいろいろな混乱状態があり、絶えられないような出来事の結果、錯乱状態になったりすることがある。しかしそうしたものは一般的に病気ではなく、何らかの理由があって起きた混乱状態であるのに、多くの場合原因に目を向けることなく症状だけを見て人々や精神科医はそれを病気と捉えるのであるが、そのほとんどは脳の疾患とは何の関係もない。

   それは病気なのではなく、本人の属する環境という社会の問題なのである。
   それを薬でなんとかしようとする行為が、いかに陳腐で的外れであるかがわかるだろう。そもそも原因という理由があって起きているものは、その原因を取り除かない限り消滅することはないのだ。薬の為し得ることは、ただそれを感じないように脳を麻痺させることであり、しかも麻痺だけでは終わらない。たとえどんなに面倒で苦痛であろうとも、自分の道に置かれた問題は解決しなければならず、それが人とのぶつかり合いであろうともそうすることによってしか、解決できない代物(しろもの)であることを知らねばならない。


⑧ 今の精神科医に洗脳されてはいないか

   
すでに精神科や心療内科に通院している人は、何らかの病名を診断されていると思われるが、その「00病、00症」という診断を鵜呑みにしてはいないだろうか。すでに何度も述べたが、精神科や心療内科というところでは医師の主観で診断はどうにでもなるものなので、人によっては診断が変わる。精神科を変えても同じ診断になるのは、前の精神科医の顔を立てているからに過ぎず、精神科ではセカンドオピニオンなどを受けても意味はない。

   精神科医のほぼすべては「優生学」思想の持ち主であり、精神医学という科学でもなく根拠もない主張を、根本から信じきっている人々である。そのゆえに精神医学を否定できる精神科医でなければ、セカンドオピニオンの意味はなく存在価値もないのだが、そのような精神科医はまったく存在しない。ちなみに私は内科医であって、精神科医ではない。「何か違う、何かおかしい」という素朴な感覚を、無視したり決しておろそかにしてはいけない。精神科医ではない人間の意見に耳を傾け、それらを総合する視点を持つことが重要であり、そうでなければ一生を食い物にされて終わることになる。


⑨ 日常生活や食生活に問題はないか

   
人間にとってもっとも基本的欲望である食欲や睡眠欲、性欲について見直すことも必要である。食事の内容は、他のどんなものよりも精神衛生にとって大切なものである。インスタント食品に頼った食事では必ず精神的不調に陥る。気分が上がらない人は肉食中心に、イライラしたりノイローゼ気味の人は野菜食中心の食事に切り替えてみてほしい。・・・。炭水化物や甘いものだけの食事では精神状態も影響を受けずにはいない。・・・。

⑩ それでも薬を飲むのなら極少量になっているか

   これまで①から⑨に述べてきた心得を意識し実践したとしても、良くならないという人は一定数いるだろう。そこで始めて医師の出番が来るのである。そしてその場合にも、精神薬の使用は最低限度であることにこだわらねばならない。なぜなら精神薬そのものが覚醒剤や麻薬まがいのものであり、言い換えれば精神薬とは毒そのものであり、つまり毒を持って(強い精神症状という)毒を制するのである。しかも決して根本的な改善はもたらされないことを知らねばならない。もし落ち着くからと、飲むことを習慣にするようなら依存するのも早く、やめるにやめられなくなるのも時間の問題である。



         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋



      

精神医療は存在そのものが悪 ⑰

 薬で統合失調症になる原理

   
統合失調症について考えるとき、必ず「薬剤性精神病」についての知識を持つ必要がある。これは少し薬理学的な話になるが、ぜひ勉強して欲しい。

   たとえば不安などの症状があるだけで、幻覚や妄想はないとする患者がいるとしよう。
   そのとき精神科医のとる最初のパターンは、抗不安薬や抗うつ薬を投与することが多い。それに関する問題点はすでに述べているので省くが、投与された薬の影響で今度は逆に暴れたり、暴力をふるったりすることがあるが、そうすると診断は統合失調症になる。

   しかしそれでも症状が「改善」しなかった場合、今度は抗精神病薬(メジャートランキライザー)という薬剤が処方される。そしてここが重要な問題である。抗精神病薬は、基本的にドーパミンというホルモンを抑える薬剤であり、それは「統合失調症とはドーパミン過剰になっている状態」という仮説に基づいて開発された薬なのである。ここでも仮説である。

   しかしドーパミンが過剰になっているわけではない患者に、この薬が投与されるとどうなるのだろうか。

   薬の投与により脳は、「あれ?、ドーパミンが出せなくなったがなぜだろう?」、と疑い始める結果、脳の中のレセプターと呼ばれる「受け皿」を増やすようになる。しかしここで急に薬を止めたり減薬したりするとどうなるだろうか。薬の量に対応していた脳内はいきなりレセプターを減らすことができない結果、擬似ドーパミン過剰状態になる。そうすると統合失調症と似たような症状を示すようになる。これを過敏性精神病や、薬剤性精神病などと呼ぶ。この理論もまた他のものと同じく、仮説の域を出ていないのだが、こうしたケースは臨床の現場では非常に多く起きているのである。つまりどういうことかと言うと、統合失調症ではなかったのに、薬物投与によって擬似統合失調症にされてしまったということなのである。

   統合失調症の頻度であるが、ネットや書類などの統計を見ると、統合失調症は100人に1人程度とされており、まったく珍しいものではないと記載されている。しかし個人的な経験で言えば、これはまったくの間違いであると断言できる。当院は小さいクリニックではあるが本を書いたりして知られていることから、かなり重症の人々が集まって来る。その中でも明確な幻覚や妄想があり、会話も成立しない支離滅裂さも持ち合わせている患者がいないわけではない。しかしその割合は、患者全体の100人に1人いるかいないか程度である。

   しかし難しいのは、これらを科学的に証明できないことなのである。
   だから前に述べた治療条件(省略P.158.159)には常に留意しなければならない。現在では全国民の約40人に1人が心療内科を訪れると言われているので、単純に計算しても統合失調症と診断される可能性のある人は、3000人に1人程度ということになる。

   治療を希望する人や治療が必要だと私が考える人はさらに少なくなり、5000人に1人くらいとも考えられる。よってこの100人に1人という数字は操作であり、誘導であると私は考えている。つまり、怖れずに受診して投薬を受けなさいというわけである。そのようにして大きな問題のない人が統合失調症と診断され、飲む必要のない薬を飲まされて副作用に苦しむことになる。つまりは「100人に1人」とは宣伝販売行為なのである。

   私の個人的意見であっても結論から言うと、現在、統合失調症と呼ばれている患者の中では、真に統合失調症と呼べるレベルで、本人も治療を望み、毒でも麻薬でもあり得る薬を投与する必要のある人は、約3000人から5000人に1人であり、それは0.033%から0.02%に過ぎないのである。

   ここまで述べてきて、精神科や心療内科における診断が、いかに基準の存在しない非科学的で主観的なものであり、しかもその判断がいかに本人の苦痛ではなく、周囲の苦痛に左右されているかがわかると思う。そして日本の精神科の治療とは薬物投与でしかないことや、そういった薬物投与がいかに無意味であり、それは単なる利益追求の儲け主義でしかないこともわかる。非科学的なことを根拠とした診断で薬を投与し、多くの人々の人間性を損なっている行為は、犯罪と言ってもよいものだ。まさに日本中の精神科医は詐欺師と言っても過言ではない状況にある。

   しかし私は日本にも、精神薬の投与だけでない精神科医がどこかにまだまだ隠れていると信じたいのだ。親ではなく、社会ではなく、本人がどうしたいかの望みを最優先する医師がどこかにいることを信じたい。相手が怒っても泣いても、喜ぼうが叫ぼうが、喧嘩しようが、病名を決め付ける診断や薬の投与ではなく、利益や権威によるものでない素(す)の人間のまま対応してくれる精神科医も、どこかにいると信じたい。

   もしメンタルヘルスという概念があり、絆(きずな)というものの弱い日本社会でそれが必要なら、医師はそれぞれその工夫をすればよいし、癒しの能力があると思う人はそれを使えばよい、スパルタ式が自分には向いていると思えばそうすればよい。しかし私の知る限り、そのような医師にはお目にかかったことはない。どんな精神科医でも向精神薬を使う。しかも大量に使う人がほとんどである。そしてごく数少ない良識的精神科医と呼ばれる人たちでさえ、必ず精神薬を使う。それは抗精神病薬(メジャートランキライザー)を使わない代わりに、精神安定剤や抗うつ薬を使っているに過ぎないのだ。

   私は子どもだけ精神障害呼ばわりして、精神科医と一緒になって、子どもを薬漬けにする親たちの自己都合的な行動を擁護するつもりはまったくない。自閉症は親には関係ないなどとする、事実を無視した都合のいい意見などは潰れてほしいと思う。私は、患者たちに大量投与の多剤療法や電気けいれん療法を行なったり、医療観察法により一生病院へ入れておくことは反対である。そんなことをしなくとも、患者たちがもし社会においてトラブルを起こしたなら、ひたすら法律にのっとって彼らの違法行為を裁けばいいのだ。

   なぜなら精神病院でそういった治療とされるものを施すことは、法律によって刑罰を受けることよりもはるかに現実的で深刻な罪であるからだ。そしていったん精神病院へ入ってしまうと社会復帰への道は極端に狭くなる。

   しかしどうして精神科の悲劇が起きてしまうのだろうか。
   それは「精神科医性善説」という考え方が元にあるからである。しかしそのような理屈が通るわけもなく、精神医療とは西欧社会において生み出された「優生学」を元にしており、歴史において収容隔離を基本としたなのである。それでも存在価値があるというなら、それは必要悪である。

   精神病のすべては、医学的、科学的には証明することができず、しかも人間性に関わるものなのですぐに人権侵害につながるのだ。そのゆえに本来精神医療というものは、本人の意志と選択をもっとも重視して行なうとする考え方なしには、成り立たないものなのである。しかも精神薬として使われている薬はそのほとんどが猛毒であり、取り返しのつかない依存性を持ち、脳を破壊していく。そのような薬で治療などできるはずがなく、それをなぜ治療と呼ぶことができるのだろうか? それを悪と呼ばないなら一体何だというのだろうか?

   それらの向精神薬のリスクという副作用を全て説明し、理解させ、それでも飲むことを希望するものだけが精神医療を受ければよいのであるが、こうした最低限のことさえが精神科医や心療内科医のあいだではまったく守られておらず、ほとんどの人々は知らずに猛毒を身体に入れているのである。日本人は権威というものに弱く、権威を振りかざされると目がくらみ、「精神科医の先生」がおっしゃることは正しいに決まっていると考えると、思考はストップし、そして医師に丸投げして引っかかってしまう。

    精神科ではよく「誤診」と言う言葉を耳にする。
   しかし心療内科や精神科の領域にそもそも誤診という言葉は存在しない。なぜなら恣意的に作り出された多くの病名そのものが誤診と呼ぶべきものだからである。これまで指摘してきたように、精神病と呼ばれる病名のほとんどすべてが医師の主観によって左右されるものであり、周囲の事情によっても左右されるほど曖昧なものである。つまり親が統合失調症から発達障害に変えたいと願うなら変わるのであり、変えても何の不都合もないほど診断基準というものが存在しないのである。

   
          
          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                           抜粋
   
   

精神医療業界は何を目指しているのか ⑯

   現在もっとも普遍的な精神病といわれる統合失調症であるが、そのほんどが病気と言えるものであるかどうかさえ疑わしいのである。まず統合失調症の基本的な症状についておさらいしておく。

   基本は妄想、幻覚(幻聴)、(支離滅裂な)思考の解体の三つである。
   これを前提として読んでほしい。

   今や、劣等感などから被害妄想的になっているものも統合失調症なら、自分の思考と幻聴が区別されない人も統合失調症で、社会的に追い詰められている人も統合失調症であるとされている。もしそうであれば、昔の暗殺者に狙われた君主などはみな統合失調症である。つまり、すべての人が敵に思えてしまう=被害妄想を持っていると判断されてしまうからだ。

   統合失調症という概念には、思考の解体というものがある。
   支離滅裂な会話があったり、行動があればすべて統合失調症と診断される。そしてこうした判断の基準はすべて精神科医の主観で決められており、それに対する科学的な根拠は一切ない。

   しかも、そもそも統合失調症と診断されているほとんどのケースを見ると、本人の意志ではなく家族に無理やり病院に連れて行かれたというケースが多く、その場合には実際に支離滅裂であるというよりも、「家族の理解を超えている=異常者」という判断によって連れて行かれるケースが跡を絶たないようである。これは家族が持つ考え方と、狭い了見の表れでしかないと言える。

   一つの例を上げるが、これは大学病院の心療内科で統合失調症とはっきり診断されたケースである。

   この女性は18歳になった時、突然「キャバクラ嬢になりたい」と言って親に訴えた。
   そのきっかけになったのが、一流のキャバクラ嬢のまねをして一流のお酒を飲み、「どんちゃん騒ぎ」をしたことであった。それを聞いた親は娘の頭がおかしくなったと判断し、精神科に連れて行った。その某大学病院の有名な精神科医は親の話を聞いて、「異常である」と判断した。そして診断は統合失調症とされた結果、強力な薬が処方されたのであった。処方された薬は次のとおりである。

      ・ジプレキサ        10mg
      ・ランドセン          0.5mg
           ・デパケン         400mg
      ・リーマス錠        600mg
      ・マグラックス330     1日9錠
      ・ツムラ大建中湯     1日3包

   そして娘は投薬された後、人が変わったようになり、何もできなくなってしまった。
   それを見た親はおかしいと思い、私のところに相談に来たのだった。その後、彼女は数ヶ月かけて薬を減量して、現在は何の薬も飲まずに元気でやっている。

   世の中には実は、このようなケースが溢れているのだ。
   確かにキャバクラ嬢になるということは、社会のエリートのレールからは外れているかもしれない。この時親は娘の言うことが、「自分たちの価値感から外れるもの=異常」であると判断したのであり、そうであるからこそ娘を無理やり受診させたのであった。こうした行為はどんな言い訳をしようとも、子供に対してまったく無理解な極みであり、ある意味ネグレクトに近い行為とも言える。

   そして某大学病院の有名な精神科医は、彼女に幻覚さえないのに統合失調症であると診断したのであった。本人は「妄想などありません」と訴えたのにもかかわらず、「突然キャバクラ嬢になりたいという考え方がおかしい」「一流のキャバクラ嬢になれると考えるなど妄想に過ぎぬ」と断言したのだ。

   しかしなぜなってはいけないのだろうか、なぜなれないと決めつけるのだろうか。
   もしなれなかったとしても、それは本人の選択による痛みとともに知るべき事実であり、それを精神科医などに決めつけられる筋合いの話ではないはずである。

   また幻覚(幻聴)があるから統合失調症と診断する精神科医もいる。
   しかし、幻覚とは何なのか、これは本人以外誰にもわからないはずであり、しかも何を指して幻覚、幻聴というのかさえその基準となるものは一切ないのである。しかし全国の精神科、心療内科では、本人が「幻覚などない」と言っているにもかかわらず、「いやあるはずだ」として統合失調症と診断する医者が跡を絶たないのである。

   幻覚や幻聴があっても、すでにそれとうまく付き合っている人もいる。
   こうした場合はまったく投薬の対象にはならないのであるが、ほとんどの精神科医は、こういった人にさえも多量の向精神薬を投与しているのが、今の日本の精神医療の現状である。幻覚、幻聴があるから統合失調症であるとは限らないのである。

   人間には記憶があるがゆえに、過去の記憶を幻視したりするのは不思議なことでも何でもなく、多くの人がそういうものを見たりしている。しかしそういった人々はそれが人間に起きる普通のことであると理解しているので、心療内科を受診したりすることはない。もしそういったことが統合失調症の基準になるというのであれば、世の中のもっと多くの人々が統合失調症だと言うことになる。

   そういった人間本来が持つ可能性について理解できないということは、その意味では、現在統合失調症として診断されている患者の多くは、適応力が低いと言えるのかもしれない。幻覚などは人間として普通にあり得ることであるのを理解できていないからである。その結果、何の疑いも抱くことなく精神科医の診断を信じ、脳を傷つける副作用を持つ強力な薬を飲むことに抵抗がなくなる。こうしてその状態に留まることで一生薬を飲み続ける、精神科の生涯顧客となっていくのである。

   何度も繰り返すが、統合失調症とされる幻覚や幻聴や思考解体だけでなく、精神医療の教科書とされるものに載せられた他の症状についても、それらはすべて精神科医の100%主観による判断でしかない。つまり医師や権力者がどのように判断したいかによっては、いかようにでも診断されるのである。人間であれば誰にでも妄想や支離滅裂状態になったりすることがあるものであり、そういったことが何一つない人間だけが健常者とされるのであれば、人間という存在がそもそも健常ではなく異常者ということになる。

   妄想があるからといって、他人を害したり犯罪を起こすとは限らない。
   そして統合失調症を病気であると判断する、精神医療の教科書が述べる概念そのものが何かを意図しているとしか考えられない。なぜならその考え方は、体制が人々をロボットのように管理するために、「少しでもおかしな行動は許さない」とする思想そのものであるからだ。

   精神科医たちは、統合失調専門医でも発達障害専門医でも、これらを病気であり障害であるとし、すべて薬物によって改善させるべき問題であると述べる。改善と表現したところで投薬しかないのであるが、これは恐ろしいことである。これらが薬物によって改善されることは決してないので、私にはこれは「人間を人間でなくさせるための方針」決定と呼ぶにふさわしいと思える。 

   この初期統合失調症や発達障害という精神医療の概念により、本来存在しないものが存在するとされるようになれば、それは必ず我々にとって大きな負の遺産を生み出すに違いない。それが、すでに始まっている薬物投与であり、薬物依存であり、差別、人間の可能性の排除、人にレッテルを貼る、そういう負の遺産である。

   つまり、その概念が推進しているものが「早期介入、早期支援」であり、その結果が精神科、心療内科で投薬の被害を受ける人の増加なのである。そして精神医療の教科書の概念が存在するからこそ、病気を作り出し患者を増やすことで利益を上げ、虐待を隠蔽(いんぺい)できる親が増加していくのである。


          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                           抜粋  

   

摂食障害を治すのは薬ではない ⑮

   「摂食障害」と呼ばれているものがある。
   それは拒食症と過食症とに分けられ、これを交互に繰り返すとされているが、実はここにも詐欺的な部分が多く含まれている。確かに、食べたくても食べられなかったり、食べたくないのに食べてしまうような人がいることは事実である。しかし見落とされてはならないことはその状況に隠されている観念であり、何の固定観念も執着心もなしにこの状況に陥っている人というのを、私は見たことがない。

   たとえば拒食症の場合であるが、食べることを拒む状況の裏には、「モデルのように細くないと女性として美しくない」と決めてかかっている本人の観念がある。あるいは過去に、実際には太ってもいないのに太っていると言われたことを根に持ち、それに執着しているために食べて太ってはならないと思い詰めるのがそれである。これも精神医療の教科書的には強迫性障害の延長ということになるが、理由があって起きていることを障害と呼ぶのは妥当ではない。

   まず注目すべきことは、拒食をする理由である考えそのものが、すでに社会的な洗脳の結果であることだ。つまり、マスコミを通じて流される美しさといったものの基準に洗脳されているのだ。何の理由もなしに突然拒食になるわけではなく、そこには必ず理由という原因がある。他にも食べられない理由はさまざまあり、たとえば家族の死に直面したり、失恋したりするショックでも食べられなくなることがあるが、精神科や心療内科ではそういった状況まで最近は拒食症と診断するようである。

   深い悲しみがあったり、ショックなことがあれば、人は食欲がなくなっても何の不思議もない。そして悲しみがやわらぎ食べられるようになるには、本人がそうした過程を少しずつ受け入れていく時間が必要なだけである。

   過食症の場合であるが、嫌なことがあると思い切り食べてしまうと訴えて精神科を訪れる人もいる。しかしこうしたことと「やけ食い」と、一体何が違うのかという問題になる。精神科や心療内科ではこういったこともすべて病気や障害として治療対象にされ、薬が投与されているのである。

   もし表面的に良くなっている場合があるとしても、薬の副作用を免れることはできず、その裏でさまざまな脳の機能が傷つけられていることは間違いないし、これまでに述べてきたとおりである。向精神薬は数日の服用で依存症になることがあり、服用をやめると、めまいや頭痛、筋肉痛、灼熱感や視野の歪み、呼吸発作といった禁断症状を引き起こす。また認知障害や記憶障害もあり得る。

   そこまでして、そういった副作用のある薬を飲む必要がどこにあるのだろうか?
   だからこそ摂食障害の投薬は慎重にしなくてはならないのだ。拒食症によって体重が著しく減少し、死を招くかもしれないような時や、あるいは過食症で体重が標準の2倍から3倍になって命にかかわる時以外は、摂食障害には投薬して治療してはいけないのだ。そうではないのに薬の投与を受けることは、同時に副作用からも免れられないのだ。


   次に上げるのは、摂食障害と診断された看護士の女性の体験談である。
   彼女は投薬によってではなく、考え方を変えたことにより回復した例である。

  『私は、接触障害の拒食と過食嘔吐による苦しみを7年かけて克服しました。
   その間にはうつ状態やパニック症状、自殺企図などを経験しました。現在は摂食障害専門の克服支援活動を行なっています。

   私は高校3年の時、大学受験のストレスをきっかけとして強い痩身願望により、徹底したダイエットを始めました。しかしいつまでも食べない生活は続けられるわけもなく、飢餓状態は今度は過食へと転じ、食欲が暴走を始めました。しかし太るのは困ると考え、友人がやっていたことを思い出し、食べたいだけ食べてそれを嘔吐することを繰り返すようになりました。

   始めは、痩せていく自分に達成感を得ていたこともあり、目標体重になったらやめようと考え、すぐに止められると思っていたのですが、その繰り返しは中毒のようになっていき、どんなに気合を入れてもやめられなくなっていました。自分をコントロールできない焦りと食べ物を吐くことの罪悪感がありました。 「どうして自分はこうなったんだろう」「一生これが続くのか」と、毎日が不安で恐怖のどん底にいました。

   ある時、大学の精神科の講義で「摂食障害」のことを知り、助けて欲しいとすぐに精神科を受診しました。そこでは精神薬が処方されてそれを飲むようになりました。しかしそれ以後も摂食の異常は変わることはなく、薬の影響なのか頭は絶えずボーっとしていて、考えることが億劫になるばかりでした。そしてこの時期に自殺企図が始まりました。それまでは辛い、辛いと言いながらも大学の講義だけは受けていましたが、薬を飲むようになってからは授業にもまったく集中できなくなっていきました。

   「これはだめだ! 薬じゃ治らない!」
   そう思った私は勝手に薬をやめ、病院へも行くのをやめました。そしてカウンセリングを受けることにして、そういったクリニックを探し5軒回りましたが、摂食障害を理解してくれるカウンセラーに出会うことはできませんでした。

   私は、「医療には答えはない」と思いました。
   その後私は、自己啓発系のものや心理治療に関する本などを読み、最新の栄養療法や海外の食事などについて勉強を始めたのです。私はそういった本を読んで学んだことは、「普通なんてない」「完璧なんてない」「変でいい」、といったことを理解できたことでした。私が摂食障害を克服できたのは家族のサポートがあったことと、学ぶことによって自分を認め、考え方を変えることができたからです』


         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋
   

自分をコントロールする力を「薬」に明け渡すな ⑭

   「人格障害」という言葉がある。
   確かにそういう行動形態も存在するかもしれない。しかしながらこのような行動形態も、精神医療の単なる投薬によって治るというものでもない。優秀な精神科医であれば人格障害というような診断はしないし、したとしても治療対象には含めないだろう。なぜなら人格障害という診断は、サイコパスやトラブルメーカー、自己中、そしてわがままやナルシストなどと置き換えることも可能であるからだ。つまりこれらを疾患と捉えること自体が間違いなのである。

   別の言い方をすれば、こちらにとって都合が悪い人物はすべて人格障害と診断できるのであり、利権を維持しようとする精神医療業界からすれば、私のような内部告発するような人間は人格障害の最たるものであるだろう。そして少し前であれば政治犯なども人格障害として扱われてきたのであり、時代が時代であればロック歌手やヤンキー、やくざなども精神医療の教科書に従うならば人格障害と認定されるのである。つまりそれが自分たちのやり方や集団にそぐわないとき、人格障害というレッテルを貼られかねないのである。

   そして実際にはこの診断は、問題を起こすトラブルメーカーやリストカッターにつけられるかと思えば、彼らにとって不都合な異論を唱える有識者にもこの診断がされるのである。まさにこの診断も他の診断と同じく、精神科医の都合と自主判断によって行なわれるのである。私は、社会に迷惑ばかり与える人格的障害行動や思想を良いと言っているわけではない。このような行動は精神医療によって治るものではなく、ましてや投薬で治るようなものではない。

   だから家族が子供の行動に困るとき、それが理由で精神科に行ったところでまったく意味はない。そのような子どもの行為は、長く続けられた厳しいしつけの結果であったり、度重なる恨みへの転嫁であったり、そのような何らかの原因によるものなので、投薬で何とかなるものではなく、社会的にしか解決することができない。

   もし患者が嘘をついていたらどうだろうか。
   本当は気力がないわけでもないのに、何らかの目的で気力が低いと嘘をつくこともあり得るわけで、実際にかなりの数そういう人がいると言われている。これも精神科医療の教科書に沿うならば、嘘をつく人も人格障害なのであり、そのゆえにそれを知っている優秀な精神科医は「人格障害」を治療しないのである。

   そのような行為をこの業界では「疫病利益」と言っている。
   なぜそんな演技や嘘をつくのかと言えば、処方された薬を転売することが目的であったりする。病気ではないのに病気のふりをすることで、手に入れた薬をネット上で、あるいは直接販売するのである。これは立派な違法行為であるが、かなりの人間がこうして法の網をくぐり抜けているのである。

   また仕事をサボりたい、働きたくない、生活保護をもらうなどの理由で、生活力はあるのに病気のふりをする人も多い。これも精神的にはおかしいことで、腐っているかもしれないが病気ではないし精神病でもない。逸れに対し、一定の診断基準というものが存在する内科や外科では病気に対して嘘などつけない。しかし精神科医の自主判断によってどのようにでも
できる診断基準であれば、そういった人々が増加するのもまったく不思議なことではない。

   「気分変調症」も同じである。
   その名の通りこれは、気分が落ち込んだり元に戻ったりすることであるが、こういったことも誰にでもあることであり、まったく当たり前の生理反応である。またこういった人はイライラするのを非常に嫌がるが、そもそもイライラすることのない人間のほうが珍しいくらいである。そしてこうした定義が存在すること自体がおかしいのだ。なぜなら完璧に自分をコントロールし、まったく感情的にならない人間以外はすべて病気であると言っているようなものだからだ。

   こうした人間特有の生理的反応を病気として取り込んだ理由は、それができれば莫大な利益を得ることがわかっていたので、精神医療界は後にそれを病気として加えたのである。

   この気分変調症とされるものに対して精神医療では、抗うつ薬投与と、気分安定薬の躁うつ病薬を投与するやり方がある。しかしどちらにせよ、だいたいが悲惨な結果しか待ってはいない。その一番の落とし穴は、一見すると表面的には改善するケースが存在することであり、そのために結局は薬に依存するようになるのだ。つまり通常、抗うつ薬をこうした気分変調症なるものに投与すると気分が上がった状態になり、そのときの状態を脳が忘れられなくなる結果、その薬を引き続き欲するようになる。しかし低い気分を上げる薬なので、本来が低い気分変調のサイクルは安定せず、むしろ高低の波が増強されて大きくなるのだ。

   こうして気分変調症と診断された人に抗うつ薬が投与されることで、躁うつ病のような状態になり悪化していった人は数え切れない。そして逆に今度は前述のように気分安定剤を投与すると、今度は感情の起伏が小さくなる。これも最初はいいようであるがやはり問題は依存性であり、「あの薬を飲んでいないと怒ったりイライラする。だから薬を飲み続けたい」という欲求が強くなる結果、ここでもまた薬依存の生涯患者が生まれることになる。

   しかし問題は、現実的な後遺症にある。
   後遺症という言葉はふさわしくないかもしれないが、私はあえてこのこの言葉を使う。それはこうした精神安定剤を飲み続けるといったいどうなるか、という問題である。こうした薬は文字通り気分安定薬なので気分の波を小さくする作用を持つが、薬を飲み続けることにより作り出される感情の状態が普通であるように感じられてくることである。簡単にいうと、薬を飲み続けることにより、喜怒哀楽の感情が失われていく
ということである。

   たとえば家族の葬式の時、「悲しいはずなのに涙が出ない」といった服用者の体験談があるが、こういう状態がもっと進めば、どんな物事が起きても能面のような顔で何一つ感じない人間に変わっていく。もしあなたが精神科や心療内科に通院中であるなら、表情がなく感情が消失したような患者を待合室で見かけたことはないだろうか? そのようになってしまうのである。そんなロボットのようになりたい人が本当にいるとは、私には思えない。

   私から見ると今の日本人は、喜怒哀楽を表現できなくなってきているように感じる。
   怒ることは社会的にいけないことだと刷り込まれているし、悲しかったり泣いたりすることは恥ずかしいことだと刷り込まれている。また喜んだり楽しいのは好きだが、自分だけ楽しむのはいけないと感じている。喜怒哀楽は人間に本来備わった感情で、当然の生理反応であり、人間の権利であるのだ。人生を豊かに感じるためにこうした感情が備わっており、これらを必要以上に抑えることで何一つ良いことはないのである。

   感情を抑え、平坦化することは、ロボット管理社会への第一歩を踏み出しているとも言える。こうしたことを総合して考えると、人間に本来備わる精神的な情動に対して、それらを病気とする精神科医療界の定義は、まさに儲けるための詐欺行為であることがよく理解できるだろう。中でも気分変調症とされるものは、その最たるものである。


          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                         抜粋   
        

「誰かに治してもらおう」という落とし穴 ⑬

   人間は皆、常に何かしらの精神的不具合を抱えるものであり、たとえそうであってもほとんどの人は心療内科や精神科になど通わなくても、自らを治癒してきたのである。厳密に言うならば、トラウマ(心的外傷ストレス症候群)と呼ばれるようなものを抱えていない人などどこにもいないのである。戦争体験者や被災者、犯罪被害者、いじめの体験、パワハラ、DV、虐待などその他さまざまな体験があり、そういったものを何一つ体験せずにぬくぬくと生きて来た人がどれくらいいるというのだろうか。

   私にはそんな人は一人もいないと思えるし、もしそれが病気であれば、日本人はすべてPTSD(トラウマ)と診断されるはずであり、すべての人が治療対象となる。フラッシュバックの一つや二つ、私でも持っている。古来より人間はトラウマを抱えながら、そのトラウマをばねにして人生の原動力としてきた。長期的に継続的に何かを成し遂げてきたものは、みな何か自分にとって嫌な思い出をばねにして動いているものだ。

   意外に思うかもしれないが、残念ながら精神科医は癒しの技術などは教わらない。
   そうしたものはそもそも教えられてはいないし、教わって身につくものでもない。しかし多くの人は心の内を理解してくれ、癒してくれると思って期待して行くのだが、実際には薬が処方されるだけである。なぜなら精神科医が教えられているのは、ただひたすら「何かおかしい」と主観によって思える人を「薬によって沈静化」するという、この一点だけだからである。

   しかし決して、薬でPTSDなどが治りはしないのだ。
   治っていると錯覚するのは、考えそのものを消し去り、考えなくていいように薬を投与されているからであり、そのために大量の薬が必要とされるわけである。つまり投薬は、「記憶という問題」自体を先送りし、意識を他へ逸(そ)らせるというだけであり、その状態を維持するためには薬を飲み続けない限りフラッシュバックは再発するのである。このようにしてここでも、一生薬を飲み続ける生涯顧客が作られることになる。

   トラウマやフラッシュバック、PTSD幻聴を一時的に消すことによって、その代わりに多くのものを失っていることも一般の人は気づいていない。こうした投薬だけを治療と呼び、そんな治療を勧める精神医療界は、ここでもやはり私には詐欺的としか感じられない。もちろん私はすべての患者に対して愛を注げるほど人間ができているわけではないし、その点においても医者は特別な人間ではなく、そうした治療を行なうことはできないし、する気も毛頭ない。ただ医師としてできることは、場合によっては良い心理カウンセラーを紹介することであり、少なくとも投薬することではない。

   PTSDを考える上で避けては通れない問題、それが虐待である。
   精神医療界の医療者のほとんどに欠けているのが、患者が虐待を受けていたという認識である。つまり親が子供を支配し、虐待を繰り返している例は挙げればきりがないのである。虐待といってもさまざまなものがあり、支配や過剰なまでの干渉、ネグレクトや薬によるコントロールなどは虐待というよりは「隠れ虐待」と呼ぶべきものである。私は子供が不都合な状態に陥ったとき、精神科に連れて行き薬を飲ませることを、「精神科医と親による共同虐待」と呼んでいる。子供というものはすべて発達の過程にあり、その過程において精神的に不安定になったり、おかしな行動をとることは誰にでもあることなのである。

   しかしその「不穏な行動」に耐えられない親は、自分たちなりに考えて親として対処しようとるのではなく、すぐに精神科の門をたたき、自分の子どもがおかしいのかどうかを判断してもらおうとするのである。たとえ子供が暴力を振るったり、不安でパニックになったり、変な妄想を持ったりしても、そこには子供なりの必然性があってそういった行動をとる理由があるのだ。それを精神科に連れて行って、他人や投薬によって矯正してもらおうとする行為は、親の責任逃れに他ならない。

   たとえば子どもが親に虐待されてきた場合、子供の親に対する深い憎しみは常軌を逸する妄想を生み出すことがあるが、しかし親は自分が虐待してきたことに気づかなかったり、あるいはひたすらその事実を隠そうとする傾向がある。このことから精神病と診断されたり投薬されるべきは本来親であるはずなのに、親はそれを避けるために振る舞い、子供に対して優位的な行動をとるのである。その延長線が精神科受診であり、自分たちより先に子供を精神病に仕立てるのだ。多くの場合、PTSDという診断の裏にはこのような事情があるのだが、そのことを知るものは少ない。

   ここで体験談を紹介しよう。
   これは親のDVと薬物中毒に仕立てられた体験であり、精神科でPTSDと診断された結果どうなったかという典型例である。

   『私はIT企業の一部上場企業で働いていました。
   徹夜続きの仕事と父親によるDVという家庭トラブルを抱えており、私自身はいつも心にイライラを抱えていました。そこで自分の状態を何とかしたいと思い、ネットで調べると、自分はアダルトチルドレンに該当するのではないかと思われました。また海外のDV加害者をカウンセリングで治療しているという記事も見つけました。

   そこでカウンセリングを受けに、そのメンタルクリニックに行くようになりました。
   初診時にカウンセリングも受けましたが、医師から「心を安定させる薬を出しておきますね」と言われました。その時薬の副作用の説明も何もなく、病気とも言われなかったので、医師の指示通りに、それ以後も治療を受けに通いながら仕事をしていました。

   しかしその後、私の状態はますます悪くなっていき、気づくと薬の量が増えており、結局仕事にさえ行けない状態になっていきました。そんな中で私は自殺企図までするようになり、仕事はまったくできなくなり、生活保護受給者になってしまいました。それまで行っていた病院で悪化したので、私は自主的に病院を転院しました。

   <その病院で処方されていた薬
  メイラックス、ミグシス、ロミアン、トリプタノール、ノクスタール、ベタマック、マイスリー、ネルロレン、ランドセン、エチカーム、アンデプレ、ジェイゾロフト、フルニトラゼパム、セレニカ、エビリファイ、トレドミン、リフレックス、ルボックス、サインバルタカプセル

   次のCクリニックでは初診時に、医師から「うつ病ですね」と言われました。
   そしてその時、生活のリズムを整えるためにデイケアを利用してくださいと言われました。そこでは麻雀や絵画教室、将棋、囲碁などいろいろな講座がありました。各週の週末には寿司、うな重が出され、まさに至れり尽くせりでした。最初の頃は、心のリハビリの講座があると思っていました。しかし1ヶ月通院して知り合いができ、話を聞くと、その人はもう20年間この生活を続けているというのです。これを聞いて、ここはただの患者を飽きさせないための娯楽施設ではないかと思いました。

   「このままここにいては自分も彼らのようになってしまう、染まりたくない」と思うようになりました。そんなとき、ある患者が倒れました。しかしスタッフは誰も、救急車を呼びませんでした。失神し倒れた状況は「心の問題が原因なのでこちらで対応します」と言ったのです。それは明らかに失神であり、私はそれを何度も目撃しました。

   「抜け出せないかもしれない」という恐怖を覚え、医師に、「そろそろ働いてもいいですか?」と聞くと、「まだ早い」と言われました。「どうしてですか?」と尋ねると、医師は「私の勘です」と言ったので、今まで勘で診察していたのかと思いビックリしました。そこで私は自主的にまた次の病院へ転院しました。

   <この病院で処方された薬
  ジェイゾロフト、ソラナックス、デパス、レスタス、トレドミン、レキソタン、ドグマチール、ミオナール、クラリス、ダーゼン、ムコダイン、メイアクト、ロキソニン、メジコン

   
私は良い医者に診てもらいたくて、今までの精神医療の疑問をぶつけても受け入れてくれる医師を探しました。Dクリニックが見つかり、初診で、「あなたはADHDです。発達障害なので一生治りません」と言われました。発達障害という診断には疑問を持ちましたが、ネットのチェック診断で調べるともしかするとそうなのかなとも思い始めました。

   しかしここでも同じように、患者で回復したり良くなっている方はおらず、同じくデイケアは娯楽化していました。一方で私の薬も徐々に増えていき、終には頭痛と吐き気、めまい、発汗、自殺企図と、いつ自殺してもおかしくない状態になりました。

   <この病院で処方された薬>
  
ベタナミン、リリカカプセル、パキシル、ハルシオン、サインバルタカプセル、デパケン、ロキソニン、ランドセン

   
この時は私は、保健士や福祉事務所、厚生労働省、都の医療相談など、思いつく限りの行政に助けを求めましたが返答はすべて同じで、「主治医の言うことを聞きなさい」でした。私は「殺される!」と本気で思いました。薬の影響で自分はいつ自殺してもおかしくない状況だったので、私は友人の家に泊めてもらいました。友人の家にいる以上迷惑はかけられないと、その時できる自分なりの心のブレーキでした。

   そして友人宅でネットで薬の副作用を調べているとき、人権擁護団体のサイトを偶然見つけることができました。私は人権擁護団体にすぐ問い合わせ、減薬や断薬の治療をしている医師を紹介していただきました。その後、おかげで薬も抜けてきて、現在では月に何度か頭痛が発生するだけになりました。今では心の健康は完全に取り戻しています』

   この体験例からわかることは、どの精神科や心療内科に行っても、
残念ながら事態は何も変わらないということである。


         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋


      

      

どんな不安も病気ではない ⑫

   「不安障害・社会不安障害」という病名がある。
   その名のとおり、何かについての不安を持っていれば「不安障害」とされ、それが社会的なことであれば「社会不安障害」だとされる。会社でプレゼンする時に緊張してしまうのは、社会不安障害だとされている。しかしこれまで述べてきたように、本来このような反応は人間としての自然な反応であり、特別なものではない。生きるということはそういうことであり、生きていれば何かに不安を感じるのは当然のことで、それが人間というものである。

   予測不能な出来事が起きれば誰でもパニックを起こすだろうし、気が小さくて、しかも始めてやることであれば誰でも大舞台で、人前で、緊張して声が出せないのは当たり前のことである。緊張すると汗をかき、発表する時に声が震える、誰もが経験するこんな程度の当たり前のことが、今の時代では精神疾患として認可されている。それはどんな時にも緊張せず、完璧な行動が取れない限り精神疾患だと言っているのに等しいことである。本来そのようなことは誰もが通ってきた道であり、経験を積むことで解消してきた出来事ではなかっただろうか。

   これらが病気として扱われるようになったのには二つの大きな理由がある。
   一つは私のように、「不安障害などは存在せず、それらは誰にでもあるただの人間的な弱さに過ぎない」と言うと、それをドクターハラスメントであるとか、人権侵害だととる風潮が出来上がっていることである。つまり目の前の困難を自ら乗り越えようと努力する者たちを評価するのではなく、ちょっとした不安や恐れに対しても逃げてチャレンジしようとしない人たちが「病気」とされて、大切にされるようになったのである。人間は新しいことを始めることに不安を感じるものであると同時に、困難を乗り越えて成長しようとする自然な欲求を持つものであることも確かなことなのだ。

   もう一つの理由は、こうした「不安」という生理的な反応を病気であると定義することによって、莫大な利益を手にしている人々が存在することである。それが、精神医療界であり、心理学界である。「不安」という、人間が持つ自然な情動の一つである反応を、病気だとする考え方が世間に蔓延するようになると、人々は何とかしてもらおうと気軽に心療内科の門を叩くだろう。その結果、処方された薬剤を飲むことで引き起こされる「本当の」病気になり、治ることのない長期的な患者に仕立てられていくのだ。それが現在起きていることである。

   現在、日本の抗うつ不安薬の売り上げは、文句なしのダントツ一位であり、しかも二位以下を大きく引き離している。あるエピソードを紹介するが、日本でも権威ある医学雑誌として知られる「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(The New England of  Medicine

)」に、「製薬企業と医師の腐敗構造」というマーシャ・エンジェル医師の記事がある。その中でパキシル
のマネーシャーであるバリー・ブランドが次のように語っている。

   まだ誰も気づいていない顧客マーケットを掘り起こして拡大させ、利益を生み出すことは、マーケティングをする人間の夢である。社会不安を障害とすることによって我々がやっていることが、まさにそれなのである』

   つまり何が起きているかというと、アメリカ精神医学界と製薬会社
が計画的に、病気を作り出しているという告白なのである。その他にも権威ある精神科教授のローレン・モシャーや、精神科医ステファン・クルシェフスキーも次のように述べている。

   DSM (米国で精神医療の教科書的存在)第4版は、精神医学が医学に認められるようにそれを模造して作られたものである。それに関しては我々内部の者は、その書物が科学的というよりも政治的な目的を持って編纂されたものであることを知っている。(略)DSM 第4版はそうした最大の欠陥を持つにもかかわらず、権威ある教科書となり、莫大な利益を生み出すベストセラーとなった

   「我々は人々に継続的に薬物を与えるために、本来正常な気分や考え方を好きなように診断して病名をつけ、病気を作り出すことができる。(略)こうして疾患を作り出すことに関しては、精神医学に並ぶものはない」   

   「不安に対して薬を飲む」という行為はどういうことだろうか。
   それはその不安を乗り越えようとするのではなく、薬によってそれを感じなくさせようとすることである。つまり表現を変えれば、乗り越えるべき不安を感じなくさせることで、問題を克服することなく先送りにすることなのである。そして薬を飲むことで感じることを逃げているので、いつまでも問題を克服することは出来ない結果、一生薬を飲み続けるという依存の中に生きることになる。

   このような不安障害と呼ばれるものに対し、抗不安薬や抗うつ薬の投与が当たり前のように行なわれており、しかしこれは依存症患者を作り続けているに等しい。抗不安薬はベンゾジアゼピン系と呼ばれており、昔から依存性が強いと指摘されているものである。しかも常用量であれば依存しないというわけではなく、常用量であっても一定の割合で必ず依存するのである。そして国連の麻薬統制委員会ではこれをれっきとした麻薬と指定している。

   またその後に出てきた抗うつ薬は、依存をもたらさない夢の薬として宣伝されたが、実際には非常に強力な依存性の強い薬であることが明らかとなった。つまりこのような薬の目的は依存状態にすることであり、そこには必ず消費というマーケティングが絡んでいるのだ。そういう薬をただでさえ不安が強い患者に飲ませると、当然、依存に気づくことはなくても、薬をやめることにさらに大きな不安を抱くようになるのは必然である。こうして精神科医にとっての生涯優良顧客が生産されていくわけだが、これを詐欺と呼ばずして何と呼ぶのだろうか?

   最後に、インディペンデント紙に掲載されて、イギリスで話題となったエピソードを紹介しよう。題して「ベンゾジアゼピン―― 30年前に脳障害との関連性が疑われていた」

   イギリスで、のちに何百万人もの人々に処方されることになる「精神安定剤」には、脳障害を引き起こす可能性があることが、すでに30年前に政府の専門家によって警告されていたとする秘密書類が登場したのである。

   それによるとベンゾジアゼピンの服用は、アルコールの長期依存による影響と類似する脳の萎縮が見られるとする、ある精神科医の研究報告が出された。それを受けて1982年に医学研究審議会(MRC)は、ベンゾジアゼピン類の長期的影響についての大規模な研究に着手することが同意された。

   この薬剤は最初はまったく無害な薬と宣伝されたために、1960年代には世界初のワンダー・ドラッグ(奇跡の特効薬)としてベンゾジアゼピンは、イギリスにおいてもっとも一般的に使われる薬となっていたのである。

   しかしその後、実際にはそのような研究は行なわれることはなかった。
   ところがそうであるにもかかわらず、ベンゾジアゼピン類は不安症やストレス、不眠、および筋肉のけいれんなどの薬として医師によって処方され続けられたのである。

   この文書を一つのスキャンダルであると考える、イギリスの国会議員や法律の専門家たちは、これが膨大な額にのぼる集団訴訟へと発展する可能性を予測している。なぜならイギリスには「知らない間に薬物依存」にされてしまった人々が、現在約150万人いると推定されており、その多くが脳障害によるものと思われる症状なのである。

   「精神安定剤による不本意依存」について調査するジム・ドッビン委員長は、「薬をやめた後も多くの人が、身体的、認知的そして精神的な問題を抱えた被害者になっている」と言う。また「この書類こそが、被害者が法的手段に訴えるために待ちわびていた爆弾書類になるものと確信している。なぜその後適正な追跡調査が行なわれなかったのか。なぜ安全委員会が設置されなかったのか。それなのになぜ処方し続けたのか。これは一大スキャンダルだ」

   このベンゾジアゼピンは数日の服用でも依存症になることがあり、服用をやめると灼熱感や視野の歪み、頭痛や致命的な発作といった禁断症状を起こす場合がある。数ヶ月から数年間の服用の場合は、永続的な神経的痛み、頭痛、認識機能障害、および記憶喪失もある。現在の医師向けのガイドラインでは、最長4週間の処方とされている。しかしなぜか30年経った今も、それに関する医学的研究は行なわれてはいないが、処方は現在も続けられている。

   これでもまだあなたは不安を病気だと思い、それから逃れるためにこれほど危険な薬を飲むだろうか?


         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋

薬で強迫性障害は治せない ⑪

  「強迫性障害」と呼ばれているものを少し噛み砕いて表現すると次のようになる。

            「繰り返し同じことが頭に浮かんでやめられない」
            「心配しすぎのために頭から離れない」
            「無意味だとわかっていてもやめられない」
            「ばかばかしいことを悩んでいるがやめられない」

   などの考えにより、それを不合理だと認識してわかっている状態が強迫観念である。
   そしてそれらが実際に、手洗いや順番確認、鍵確認、その他あらゆる儀式などの行為であり、つまり嫌でもやらずにいられない状態にあることを強迫行為という。確かにこのような強迫観念がつきまとうことは苦しいことではある。しかしこうしたことは特別なことではなく、よく考えてみれば人間であれば誰であれ、頭の中に何らかの考えがめぐって悩んだり苦しいことがあるのは当然であり、生きていれば必然のことなのである。

   こうしたことは百歩譲って考えてみても、それを助けるのは医学の役割ではなく他の分野の役割であり、どう転んでもそれを解決するのは薬であるとは考えられないのである。また強迫性障害とされる「強迫観念」は、頑固さや堅い信念、思い込み、執着、妄執など似たような意味の言葉でも言い換えることができる。つまりそれが意味することは強迫性とは障害や病気ではなく、人間の持つ普遍的な情動であるということを示唆(しさ)するものだ。

   もしそれを障害であり病気であるとするならば、人間は全て何らかの強迫性障害であり病気だということになってしまう。人間が生きる上で必要な知恵や知能を持ち、思考する存在である以上、こだわりや強迫観念を持つのは必然でしかないのである。しかし現実の精神医学ではそのようには扱われず、そういったことは強迫性障害であり、脳の病気であり、それを治すためには薬が必要なので投薬を受けねばならない、と精神医療の教科書には記されている。しかしそれが脳の病気であるとするデータは今もどこにも存在しない。

   強迫観念は病気ではないので、それを治療できる薬などは存在しない。
   思考するゆえに生まれる悩みや苦しみなどの観念は、人間にとって生きて行く上で必然のものであり、それを精神医学的に薬の投薬などで治療してはいけないのであり、またそうしても治療できるわけではない。


  抗精神病薬が引き起こす「強迫観念」と「強迫行為」

   抗精神病薬には一つ大きな問題がある。
   しかしそれについても、なぜか未だに科学的な解明は行なわれてはいない。抗精神病薬の副作用の一つに「強迫観念」や「強迫行為」の増加がある。そして当然このことは教科書にも書かれてはおらず、添付文書にも載せられてはいないが、患者に接する多くの精神科医が指摘していることである。そしてそれが薬物の副作用であるにもかかわらず、実際には多くの診断が「強迫性障害」であるとされていることである。

   また強迫性障害には抗うつ薬の大量投与が基本的治療であると精神医学の教科書には記されている。しかしこの大量投与によって強迫性障害とされるものの状態が良くなった人を私はほとんど知らない。仮に良くなったという医師がいるとしても、それは抗うつ薬を大量に投与したことによるハイであったり、ラリッて強迫観念が一時的にすっ飛んでしまっている状態を言っているだけであり、その評価は非常に主観的だと思われる。しかも抗うつ薬の大量投与がさまざまな副作用や依存形成をもたらさないはずがないのに、精神科医はそのことをも無視している。このようにしてまた新たな長期患者というお客様が作られるわけである。


   ここであるケースを紹介しよう。

   この青年は、風呂に入るのに時間がかかり、手洗いを頻繁にしてしまうということで精神科を受診した。通常通りの診察が行なわれた後、強迫性障害だと診断され投薬が開始された。薬の内容は次のとおりである。
 
       パキシル60mg、ドグマチール100mg、メイラックス2mg 

   このパキシルという薬は、これまでにも多数出てきた悪名高いSSRI(抗うつ薬)である。パキシルに限らずルボックスなどでもその処方のされ方は、大量処方というのが精神科の一般的な薬物治療である。その結果このケースはどうなっただろうか?

  ・ 彼は家族に対して攻撃的で、暴力的な性格に変貌してしまった。
  ・ そのうえ自傷行為を行なうようになり、自殺願望が強くなった。
  ・ 幻覚が起きるようになり、
  ・ 発狂したり、叫んだりするようになった。

  これらのすべては、受診前には何一つ存在しなかった症状ばかりである。
  その後、この青年はいろいろと情報をたどり、当院において減薬する道に入った。2012年の段階でパキシルは10mgにまで減り、メイラックスは1mgに減量し、ドグマチールは中止することができた。そしてこれらの薬による副作用や禁断症状と呼ぶべき現象はほぼ消失した。

   ここで特筆すべきことは、風呂に長く入りすぎてしまうという強迫観念が、現在ではほとんど消失していることである。これは決して薬が効いたというたぐいのものではない。つまり、薬を飲むことによってもたらされた予期せぬ強い苦痛により、本人の中に「このままではいけない」という意識が呼び起こされた結果、認知転換がはかられたのである。そして大きな外的変化が起きたのであった。

   このようなケースは挙げればきりがない。
   それでもあなたは、強迫性障害などと呼ばれるものの治療に、薬物を飲もうとするだろうか?


         book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋 

長期的な生涯患者を多数獲得することが目的 ⑩

   2011年現在で、躁うつ病(双極性障害)や気分変調症という診断がまさに爆発的に増加している。この原因は2011年に入って、精神医療業界が大々的にキャンペーンを張ったということが大きく関係している。そしてなぜ精神医療業界がそんなキャンペーンを張ったのかということについて考えてみなければならない。

   たとえば日本イーライ・リリー社
(元米大統領のジョージ・ブッシュ・ジュニア所有)は一時期、新聞の折込チラシとして「躁うつ病の治験広告」を出している。それは主力製品である統合失調症治療薬「オランザピン(商品名ジプレキサ)」を、躁うつ病へ適用させ認めさせるために治験を行なうことを考えていたからである。つまり近年に入ってにわかに、躁うつ病のキャンペーンが行なわれるようになった一つの理由は、今までは単に統合失調症だけの処方であった薬たちを、もっと売ろうとするための戦略なのである。そして実際にジプレキサだけでなく、大塚製薬のアリピプラゾール(商品名エビリファイ)も、2012年に躁うつ病治療薬の認可を受けることが決定している。

   そしてもう一つの理由は、うつ病は薬では治せないことや抗うつ薬の副作用を隠蔽(いんぺい)するための戦略として、躁うつキャンペーンを張っているということである。しかもNHKまでが、2012年のNHKスペシャルという番組において、そのキャンペーンを支持する放送を流したのである。「うつ病患者の4割程度は、うつ病ではなく躁うつ病であった」「抗うつ薬を飲んで治らないうつ病は、躁うつ病である」と放送したのである。ちなみにアメリカだと、その割合は4割ではなく7割だとされている。

   しかしこれは、少し考えればおかしいと思わないだろうか。
   なぜなら、つまり精神科医が4割(7割)も誤診したということにもなるからである。しかもである、うつでないから躁うつ病と、なぜ今の時点で決め付けられるのか。それに薬が効かないから別の病気だと決められるなどあり得ないことである。もともと精神医学の領域とは薬害や医原病だけだったのであるから、つまりここでもあらゆる意味において、精神医学とされるものが生み出した詐欺行為があからさまなのである。

   一般の人々は躁うつ病という病気を、気分が上がったり落ち込んだりする状態だと考えているだろう。しかし実際はまったく違うのである。そのような状態は単なる生理的な気分の変動であって、ごく普通の状態の範囲に過ぎないし、その程度の気分の波がない人間のほうが普通ではないのである。しかし現在の専門書やネット上の知識を参考にすると、「気分が上がったり落ちたりする」程度でもはや躁うつ病というゆるい判断になってしまう。では本当の躁うつ病とはどんな状態なのか?

   本来の躁うつ病の条件を私見として述べるならば、

   まず、いかなる薬も飲んでいない白紙の状態で

  
① 躁の時には暴れたり、誇大妄想があったり、裸で踊ったり、
  ② 周りが対応しきれないレベルでのエピソードがあり、
  ④ かと思うと気分が落ち込むと動けず、食べられず、外に出ず、
  ⑤ あまりに落ち込んだ状態なのでイライラもせず、自殺など考えられない
  ⑥ ということを自然に複数回繰り返す

   から躁うつ病なのである。
   昔は躁うつ病とは、精神分裂病と並んで二大精神病であったものが、単なる気分の浮き沈みごときで定義されるような代物(しろもの)であるはずがないのだ。この躁うつ病という状態は確かに存在するものだとは思う。しかし科学的にはやはりまだ未定で、未解明なのであるが、一部は脳内や脳以外のホルモン動態で説明がつくと思われる。

   しかしこの条件を満たす躁うつ病の人が、現在躁うつ病だと診断されている人の内、実際に何割が該当するかと言われれば、非常に少ないと断言できる。そのデータはないので私の個人的意見になるが、前述の基準を満たす躁うつ病は全体の5%にも満たないだろうというのが私の実感である、つまりあとの95%以上は躁うつ病ではなく、薬を飲む意味がない人たちであり、詐欺に引っかかっていることになる。

   似たような概念に気分変調症があるが、これには躁状態はなく、普通に近い状態と落ち込みがちなネガティブな感じが交互にくることを言う。これもまた誰でも生理的に当然ある状態であるが、この気分変調症も気分障害に分類され、躁うつ病のように扱われるようになってきている。このようにして間口(まぐち)を広く、緩(ゆる)い診断でそういった症状をすべて取り込むことにより、精神医療業界や心理療法界にしてみれば、まさに病気の売り込みにより薬の販売作戦が大成功を収めているという感じに違いない。

   躁うつ病を宣伝する目的は当然、新しい躁うつ病薬の売り込みであり、今まであったリーマスデパケンなどの薬や、これから認可されるはずのメジャートランキライザーの躁うつ病に向けて適用拡大をすることであるだろう。しかしその中でも一番の目的は抗うつ薬の副作用を隠すことであり、うまく隠蔽することにある。このことを別の視点から考えてみよう。

   精神医療の教科書からすると、躁うつ病に抗うつ薬を投与することは禁忌である。
   なぜならうつよりも躁のほうが怖い病気であるのに、抗うつ薬を躁うつに投与して無理やりハイの状態に躁転させてしまうと、ひどい躁状態を生み出してしまう。それにすぐ躁転しないとしてもラピッドサイクラーという、躁とうつがどんどん切り替わる現象が起こりやすくなり、非常に危険なのである。

   しかし躁うつ病と診断しながら、抗うつ薬をどっさり出している精神科医にとっては、もうすでにここだけでも、治癒させないことで長期的な利益を得ることに成功しているのだが、実は真の問題はそこではないのだ。そこにある目的は、躁うつ病という、より重い病気のイメージを持たせることで長期的な優良患者を獲得することが目的なのである。そのために別に躁うつ病ではなかった、もっといえば何でもなかった人に抗うつ薬を投与して強制的に躁転させた後、知識のない精神科医から「あなたはうつではなく躁うつ病だったようです」と言われ、引き続き騙されているケースがほんとどなのである。

   結局、キャンペーンを張ってまでうつ病から躁うつ病への切り替えをした目的は、こうした精神科医の診断や薬の副作用を隠蔽(いんぺい)するためであり、そして新たな詐欺により長期的生涯患者を確保するためだと思われる。そしてすでにほとんどの人が、その新たなやり方に引っかかっているとも言えるのだ





            book 
「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋

   

   
   

抗うつ薬を飲むとセロトニンは激減する ⑨

   2010年の7月と8月の報道に殺人事件のニュースを集めたものがあり、これは犯人が「うつ病の薬」を服用していたとされるものである。以下に紹介する。

  ・7月10日 「複数の抗うつ薬」使用のイギリス人男性が3人を射殺し、1週間後に自殺。
  ・7月15日 「レクサプロ」使用のテキサス州の男性が、生後6ヶ月の幼児を殺害。
  ・7月16日 「複数の抗うつ薬」使用のインディアナ州の"産後うつ”の母親が、生後3ヶ月の我が子を殺害。

  ・7月16日 「うつ薬の薬」
使用のテキサス州の女性市長が、娘を殺害。
  ・7月19日 「セレクサ」
使用のオクラホマ州の男性が、親友を殺害。死刑の求刑に対し、専門家は薬物の影響によるものと主張。

  ・7月23日 
「うつ薬の薬」使用のカナダ人女性が、近所に住む12歳の自閉症児を殺害。
  ・7月23日 
「うつ薬の薬」使用のミシガン州の女性が、障害を持つわが子を殺害し、その後自殺。

  ・7月24日 
「うつ薬の薬」使用のイギリスの殺人事件容疑者。
  ・7月26日 
「うつ薬の薬」使用のマレーシア人男性が母親を殺害。
  ・7月27日 
「うつ薬の薬」使用のペンシルベニア州の女性が、40歳の娘を殺害し、後に自殺を図ったが未遂。

  ・8月6日  「プロザック」使用のネブラスカ州の母親が、12歳の娘を殺害。
  ・8月10日 「抗うつ薬」使用のメリーランド州の母親が、自閉症の娘を殺害。3週間前に抗うつ薬を中止したばかりであった。

  ・8月10日 「プロザック」使用のイギリス人女性が、3歳のわが子を殺害。
  ・8月11日 「ウエルブトリン」使用のネバダ州の男性が、ガールフレンドを刺殺。
  ・8月11日 「抗うつ薬」使用のニュージーランドの女性が、浴槽で生後13ヶ月のわが子を溺死させる。

  ・8月11日 「複数の抗うつ薬」使用のミシガン州の男性が、薬の服用を開始してまもなく男性を殺害し、その後自殺。
  ・8月12日 「抗うつ薬」使用の南アフリカの刑務所看守が、妻を殺害。抗うつ薬の不規則な服用によって引き起こされた可能性もある。

  ・8月18日 「抗うつ薬」使用のミネソタ州の男性が、妻の留守中に生後6ヶ月のわが子を溺死させる。
  ・8月19日 「抗うつ薬」ウイスコンシン州のイラクの帰還兵が、妻と子供を殺害した後に自殺。

  ・8月25日 「抗うつ薬」使用の男性がアルコールと抗うつ薬の同時摂取により、異常行動で殺人。
  ・8月26日 「抗うつ薬」使用のペンシルベニア州の32歳の女性が、母親を刺殺、
  ・8月31日 「ゾロフト」使用のフロリダの男性が、殺人。

   これらは外国の事例であり、日本でも実際には同様の事件が頻発しているのであるが、日本の場合には、それらが「薬物の作用」であってもそれが明示されることは決してない。

   
なぜこういうことが起きているのだろうか?
   ひと言でいえば、利益であり、抗うつ薬を売るための販売戦略に精神医療業界が騙されているのである。その薬の副作用で患者がどうなろうと彼らの知ったことではないからである。しかも精神科の門を叩く人々はうつ病と診断されることから、処方された薬に疑問を抱くことはほとんどない。そしてたとえ問題が生じたとしても、それらは全部患者自身や精神科医のせいにできるので、薬を世に送り出している製薬会社が責任を問われることはまったくないので困ることはない。

   そして実際には、精神科以外でうつ状態を示す疾患は多く存在するのであるが、現代の医療においては、そういった「うつ病」の多くが見逃されているという状況がある。例をあげれば次のようなものがある。

  ① 脳出血や脳梗塞などの脳機能低下からくるもの
  ② パーキンソン病や多発性硬化症などの神経疾患によるもの
  ③ 内分泌系の異常によるもの(甲状腺、副腎、副甲状腺など)

  ④ 膠原病などが隠れているもの
  ⑤ 歯科治療後の後遺症や詰め物の金属中毒などによるもの
  ⑥ 更年期障害や性ホルモンに関係するもの

  ⑦ 血糖調節障害や低血圧由来のもの
  ⑧ ミネラルやタンパクや、脂質不足からくる栄養障害によるもの
  ⑨ 季節性の気分からくるもの

  ⑩ 知的障害や自閉症で(環境の変化についていけず)続発するもの
  ⑪ アルコールによるもの
  ⑫ その他の物質(たとえば違法ドラッグ、カフェイン、ニコチン)によるもの

   そしてもう一つ、見逃せない重要な存在がある。
   それが、「医療薬物性うつ」
であり、つまり薬によるものである。しかも医療用精神薬は決して安全な薬などではなく、覚醒剤や麻薬や麻酔薬と同じような物質でしかないので、多くの量を長年にわたり飲み続ければ、必ずうつ状態や認知機能低下をもたらすのは当然である。そして多くのうつ障害とされる割合としてはこれがもっとも多いのであるが、日本人のほとんどはこれに気づくことさえない。

   一般の人々のほとんどは、うつが何年も続くのは病気のせいだと思っているようだが、実際にはそのほとんどの場合が薬物によるものであり、あとはわがまま病である。わがまま以外のほぼすべては、無投薬であれば1年以内に回復する。

   ある一つの研究を紹介するが、これは抗うつ薬SSRIが長期にわたり、どのようにセロトニン作動系に影響するかを調べたオランダ研究チームによるものである。・・・それによるとシタロプラム(セレクサ)という抗うつ剤を2週間与えた後突然投与を中止するラットのグループと、さらに引き続き3日間与えたグループに分けて行なわれた。

   その結果、薬剤投与が続けられたラットでは、セロトニン量が普通のラットより「脳の9領域で平均60%減少」していた。この変化は投薬された薬への代償性反応として起きると推測されている。つまりこの変化は抗うつ剤が投与されることにより、結果的には脳組織によるセロトニンは、最後には著しく使い果たされた状態になったのである。

   またセロトニン作動系がこの劇的な変動の中にあった投薬中止期間中、ラットは大きな音に対して「強い行動反応性」
を示した。それは人が薬を断った場合に、「攻撃性、刺激を受けやすい、煽動される、不安、抑うつ気分」を特徴とする「断薬症候群」を経験するのと同じである。

   こうした結果は驚くにはあたらない。
   脳内セロトニンというものが、抗うつ剤の投与により増えるどころか激減するという研究結果や、抗うつ剤の断薬に関連して起こる問題もすでに広く知られているのだ。こうしたことがすでに明らかであるにもかかわらず、うつ状態の原因や除外診断を追求することもなく、すべてを単なるうつとして扱うことで、薬が引き起こす問題など我関せずで投薬を推進する現在の風潮が、いかに詐欺的であり犯罪的であるかがわかるはずである。

   抗うつ薬を飲むことは覚醒剤を飲むことと大差はなく、脳はそれにより避けられない障害と依存性、そして禁断症状のリスクを負うのである。それでもこのような薬を飲むことで、うつが本質的に改善すると思う人がいるだろうか? 精神薬を飲んだところでうつは改善したりはしないのである。改善しないだけならまだしも、服用によって脳の損傷と禁断症状を生み出し、長期的には間違いなくより深く悪化するのである。百歩譲ったとしても、このような薬は実際に衰弱死寸前のうつだけに限って用いられるべきであり、しかも一時的に使われるべきものなのである。


          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋

うつ状態は薬では治せない ⑧

   何度も述べるようだが他の医療分野と違い、精神科診断には科学的根拠は何もなく、ただ行動や思考の傾向によって医者の主観で判断するだけであるが、こんないい加減な診断体系が他にあるだろうか? だからこそ薬害や虐待、差別というものが起きるし、それを利用した疫病利益も発生するのである。その疫病利益であるが例として、たとえば働きたくない人たちが自閉症の基準さえ満たしていないにもかかわらず、自らをアスペルガーだと名乗ったりするケースが多いのだ。つまり働きたくない理由として都合がいいからである。

   他にも、自分を認めて欲しいがために、発達障害という立場を利用する人間も多い。
   自ら発達障害だと名乗りながら堂々と講演までする人がいるが、自己優遇もはなはだしく、本来定義にのっとれば、講演などできないくらいに先天的に社会適応力がなく、強迫性も強いからこそ発達障害なのである。自閉症協会の人間が自分を自閉症だと名乗りながら講演をするなど、もはや笑い話でしかない。

   現在では多くの精神科医が、以前よりも発達障害の「中身」という実情を理解するようになってきた。その「中身」とは、その疾患が自分たちに長期的な儲けをもたらす可能性があることと、自らかかわる精神医学の曖昧さというごまかしを隠蔽できる作用があること、そして親と共同で自分たちの望むように患者をコントロールできることである。つまり、発達障害という概念そのものが、病気でも何でもない人を精神科に連れ込む「最高の餌」になることを理解し始めたのである。

   その結果多くの患者や家族が、私の子供は発達障害でしょうか、と精神科医の門をたたくようになってきている。これらのすべてにおいて言えることは、発達障害の概念を余りに広く適用しすぎているために、何もかもがそうであるかのように思わせる混乱を招いており、まさにそれこそが精神科の詐欺の温床となっているのだ。こうしたことは決してやってはならないことであり、この概念を本来のものに狭め、そしていわゆる本当の自閉症だけを福祉と教育にうまく組み込まねばならない。それ以外に医療や福祉としてできることはないのである


  「うつ病」とは脳のどこの疾患なのか?   

   
「うつ病」。こんないい加減でおかしな病名はない。
   しかし今や、この言葉をあらゆる日本人が使っている。これらはすべて、製薬会社と大手メディアの洗脳がもたらしたものである。「うつ」という状態は確かに存在するだろう。それをなぜ私はおかしいと言うのか。なぜなら気分が沈む、やる気がしないといった状態を「うつ病」と呼ぶのであれば、そんなものは誰にでも訪れる精神状態であるし、それを病気であるというにはあまりに気分的で感覚的過ぎることであるからだ。

   また一方で、不愉快さから暴れたり、しかし好きな遊びはできる、ただ仕事だけができないという状態を、精神医学の教科書的にはうつ病(新型うつ病という)と診断するようであるが、これもおかしなことである。もし仮にうつ病というものが存在するならば、それは気力体力がともに低下しきっていて何もできない状態にあることをさすのであり、それが暴れたりイライラしたり、リストカットしたりできる状態の人間をうつ病などとは言わないのである。つまりこれは、医師、患者双方の拡大解釈の最たるものでしかないのである。

   一昔前には、うつ病を「わがままと呼ぶな」という意見が幅を利かせていた。
   つまり、うつ病は脳の疾患であるので自分でどうにかできる代物(しろもの)ではないのだと言っていたわけだが、では脳のどこの疾患なのか、何が原因なのかと聞かれても答えられるものはいない。うつ病にはセロトニンの不足が関係していると多くの医師が訴えて、メディアもそれを支持してきた。しかしこのことは脳科学的にはすでに否定されている。

   しかもそもそも医療現場においても、セロトニン濃度を計測することさえが困難であり、
そうであるにもかかわらず、精神医療においては治療と称してセロトニンを上昇させる薬が使われている。今や、セロトニン理論は何の根拠もない、単なる仮説でしかないのである。このことはうつ病の理論そのものが非科学的であるという証明である。しかし注目すべきは、セロトニン濃度が低くないのにセロトニンを上げる薬を使った場合どうなるのか、ということである。そこには悲劇的な結果が待っているのだ。

   たとえば2010年11月に、サンディエゴで開かれた北米神経科学会で4件の発表が行なわれた。それは幼年期に精神病の薬物治療を受けると、脳の正常な発達をどの程度妨げるかを調べた研究発表であった、それによると、「幼児期」あるいは「胎児期」に精神治療薬を使用した場合、それが比較的短期間の使用であっても、成熟して大人になったのちの脳の機能に障害が見られたという。

   マウスの胎児脳に、抗うつ薬シタロプラム(商品名セレクサ)がどのように影響するかについて発表したのは、ワシントン大学の研究者であった。彼は、胎児発育の過程で重要な役割を持つSSAという神経活動が、シタロプラムの投与によって変化することを発見したのである。そしてこの研究者は、「抗うつ薬の投与は、胎児の後脳の発達に有害な影響が及ぶ可能性を示唆(しさ)する」と結論づけた。

   またメリーランド州聖マリアカレッジの研究者によると、子供の雄マウスに生後2週間にわたり、乳を通して抗うつ薬フルオキセチンに被爆させ、その後は大人になるまで何もせずそのままにしておいた。成長後、このマウスは他の正常なマウスに比べ、はるかに行動がぎこちなかったと報告している。

   さらにメリーランド大学とレスプリッジ大学(カナダ)の関連した二つの研究では、オランザピン(ジプレキサ)を幼いマウスに投与して調べた結果、成長後、これらのマウスには「作業記憶に有害な障害があった」とし、「これらのデータはオランザピン(ジプレキサ)の青年期の投与は、長期の行動欠陥パターンを引き起こすことを示唆する」と結論した。

   これらの研究は、こうした薬に被爆することがたとえ短期間であっても、永続的な欠陥を引き起こす可能性があることを懸念させるものである。このように精神薬を投与すればするほど脳には不都合が生じるわけであるが、もちろんこのことはマウスだけの話ではない。たとえば以下に例を挙げるが、このような論文はきりがないほど膨大に存在する。海外の事例においては、特に日本で販売されているパキシルルボックス、デプロメールなどの被害は著しいものがある。

   うつ病患者148人を対象にイギリスで行なわれた研究では、服薬していない患者群は6ヶ月で症状が62%軽減したのに対し、投薬治療群ではその半分のわずか33%であった。

   オランダの研究では、抗うつ剤による薬剤治療を受けずに回復した患者は、76%でその後一度も再発しなかったのに対し、抗うつ剤投与を受けた患者では50%であった。

   カナダでは9508人のうつ病患者を対象に行なわれた研究では、うつ状態であった期間が、投薬を受けた患者では年平均19週間であったのに対し、薬剤を服用しなかった患者は11週間であった。この研究結果から、「抗うつ薬による治療は、気分障害の長期化を悪化させる可能性がある」とする仮説が裏付けられたと結論している。

   いま、うつ病と呼ばれている多くの人が、ただのノイローゼであったり社会ストレスによるものでしかなく、また一部分は、(たとえ人でなし、医師失格と言われようが)わががま病である。しかもそれらが全て混同されてうつ病診断とされており、これだけが社会病として扱われているがために、治らない数が圧倒的に多いのである。確かにうつ状態というものは存在するだろう。しかしそれは病気ではなく、その症状の起き始めた時期における出来事や理由を追ってゆけば、原因のわかるものがほとんどなのである。


          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋    
   

   

      

ADHDの治療薬はほとんど覚醒剤 ⑦

   ある時期から突然のように広められたものの一つに、ADHD(注意欠陥多動性障害)という概念がある。この概念のほうがより詐欺的で,、被害が大きいように思われる。ADHDの詳しい知識は置いておくが、ひと言でいえば不注意で片付けが下手で、思いつきで行動するということである。これが特に子どもの病名に使われるということは、いったい何を意味するのだろうか? 

   アメリカのある良心的な精神科医は、ADHDについて、「昔は注意欠陥多動性障害(ADHD)なんて言葉は使わなかった。それを子どもって言ってたんだよ」と嘆いたと言われる。しかもいったい何割の子どもが、不注意ではないというのだろうか? それに片付けが上手か下手かということは、まず親のしつけによって規定されるものであり、十分なしつけによっても片付けられない子どもがいるとしても、それはごく少数であると思われる。

   また思いつきで行動するなど、子どもの子どもたる所以(ゆえん)であり、夢多き子どもの行動としては最たるものではないのか。もっと言えば、子どもも片付けができないといけないとする発想そのものがすでに、子どもをコントロールしようとする固定観念の最たるものである。

   そうであるとすれば、この定義は何なのだろうか?
   まさにこの定義は、新たに病人を作り出したいとする精神医療業界の意図であり、十分な教育やしつけをすることなく、責任逃れをしようとする親側の思惑が合致した結果と思われる。そして子どもは何も知らずに騙された被害者そのものであり、だからこそ私はこの作られた診断名が詐欺以外の何物でもないと言うのである。



  ADHDの治療薬は、ほとんど覚醒剤

   
そしてADHDの場合、特に問題となるのが薬の問題である。
    ADHDでは専用の治療薬として、ストラテラコンサータという薬が承認されている。つまりADHDは集中力がないとされるので、これらの薬で集中力を高めようというのがその意図するところである。しかしながら実はこれらの薬は、実際に覚醒剤そのものと言ってもいいような薬であり、普通に考えても子どもに飲ませられるような代物(しろもの)ではないのである。そのため海外では多くの注意が喚起されているが、日本だけでなく、不思議なことにどこの精神科医たちも、そういったことを全て無視しているのが現状である。たとえばストラテラの場合、各国政府機関による警告として次のようなものがある。

  『2005年』
2月・・・イギリス医薬品庁は、ストラテラが肝臓障害を引き起こす危険性について通知した。
8月・・・欧州医薬品審査庁医薬品委員会は、パキシルなどの抗うつ剤やADHD治療薬のストラテラが、自殺未遂、自殺念慮、攻撃性、敵意、反抗的行動、そして怒りを引き起こすとして、子どもの抗うつ剤服用に対し、それまででもっとも強い警告を発し、注意を喚起した。

9月・・・FDA(米国食品医薬品局)は、ストラテラに対し、服用している子どもや若者に自殺念慮の危険性が増大するという枠組み警告表示などの改訂をイーライ・リリー社に指示した。
9月・・・カナダ保健省は、ストラテラが自傷行為のリスクを含む行動と、感情の変化を引き起こす可能性について医療関係者に通知した。

  『2006年』
2月・・・FDA諮問委員会は、ADHDに対する中枢神経興奮剤について、心臓発作や脳梗塞、突然死を引き起こす可能性があるとして、パッケージに今まででもっとも強い〔ブラックボックス〕警告を記載するように要請した。

2月・・・英国医薬品庁は、ストラテラが発作や鼓動間隔を長くする潜在的な危険性と関係があることを報告した。またストラテラブロザックやパキシルのような抗うつ剤と併用した場合には、心臓のトラブルを引き起こす可能性についても警告した。

5月・・・カナダ保健省は、ADHDの治療薬として処方されたストラテラなどのすべての治療薬に対して、まれに突然死を含む心臓病の危険性があるという新たな警告を発した。この公的な注意書きには、中枢神経興奮剤が心拍数と血圧を上げ、その結果「心不全や心臓発作、突然死」を引き起こす可能性について警告されている。

10月・・・オーストラリアの保健省 薬品・医薬品行政局は、ADHD治療薬であるストラテラ     が攻撃性を引き起こしたという苦情を受けて、製造元が出す情報により強い警告を追加するように命じた。

  『2008年』
6月・・・カナダ保健省は、前年までにストラテラの使用との関連が疑われる有害反応報告を189件受け、このうち55件が自殺企図と分類され、うち41件が小児(6歳~17歳)であったことを発表した。そしてストラテラの製品の注意書きに「患者の年齢を問わず、自殺念慮や自殺行動を示すしるしについて注意深くモニタリングすべきである。これには激しい感情や行動の変化、および症状が悪化する際のモニタリングが含まれる」という文章を追加した。

   さらに危険な薬がコンサータである。
   コンサータは悪名高いリタリンの除放剤(成分が徐々に効き目を表すように工夫されたもの)であり、メチルフェニデートと呼ばれる物質である。メチルフェニデートはアンフェタミン系の類似物質であり、アンフェタミン系の薬物の代表格のメタンフェタミンである覚醒剤(ヒロポン、スピード)である。

   つまり、コンサータを子どもに飲ませるということは、長時間にわたって効く覚醒剤を子供に飲ませているということなのである。

   前章で、製薬会社が公表している薬剤の、副作用発現率の数字を見てもらったと思うが、この数字を見て、あなたは集中力を高めさせるために子どもに薬を飲ませたいと思うだろうか? もしそれでも飲ませたいと思うのなら、私はあなたを子供を虐待する親だと言ってはばからないだろう。あのピーター・ブレギンが述べたように。


   ある女性の実体験を紹介する。

   「彼女は当時15歳で、双子ということもあってか大人しく、友達の輪の中に積極的に入って遊ぶのは苦手で、偏食の多い子供であった。しかし手のかからない子で、姉の面倒を見るしっかりものでもあった。

   中学生になると、ますます真面目で成績もトップクラスになり、友達からも先生からも信頼を得ていた。あるとき中学二年生の後半に、男子生徒数人から「勉強ができてクールぶってるところがムカつく」と言われて、酷いいじめに遭った。そして中学三年生になった頃から不登校になっていった。その後、それでもなんとか保健室登校を続けていたが、だんだんと眠れなくなり、ついに不登校になってしまった。

   そして「独りで家にいると、誰かがいるような気がして怖い」と訴えるようになり、親は児童精神科を掲げている個人クリニックを受診させた。そこで「統合失調症の初期段階(初期統合失調症)」と診断され、ショックではあったが母親は治療に専念させようと考えた。しかし父親はどうにも腑に落ちなかった。なぜならこういうことは誰にでもあり得ることではないかと考えていたからである。

   [彼女がもっとも飲んでいた時の処方内容](1日の量)
 ・リスパダール(抗精神病薬/リスペリドン)・・・・・・・・・・・・・・4mg
 ・ペゲタミンB(睡眠薬・抗精神病薬/合剤)・・・・・・・・・・・・・・1錠
 ・アキネトン(抗パーキンソン病薬/ビペリデン)・・・・・・・・・・・2g

 ・デバケン(抗てんかん薬/バルプロ酸ナトリウム)・・・・・・・・300mg
 ・ピレチア(抗ヒスタミン薬)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25mg
 ・ロヒプノール(睡眠薬/フルニトラゼパム)・・・・・・・・・・・・・・・2mg
 ・ベンザリン(睡眠薬/ニトラゼパム)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5mg(頓服)

   医師は、彼女が少しでも状態が良くないことを伝えると、3日~7日くらいで薬を変えた。
   そして結局、通院していた1ヵ月半の間に、ほとんど全種類の非定型抗精神薬を投薬された。ジプレキサという薬を飲んだ時、彼女は「この薬を飲むとダメ。イライラする!」と訴え、そのイライラはずっと治まらないままだった。そして彼女はこの医師に不信感をと不快感を抱き、前もって予約していた大学病院へ転院した。

   ところがそこでも、「断定はできませんが、統合失調症の可能性がかなりあると思います」と言われて、抗精神薬の処方が続いた。そして彼女の状態は1ヶ月もしないうちに悪化し、姉や妹に暴力を振るったり、包丁や刃物で自分を傷つけようとしたり、幻覚や幻聴を訴えて毎日暴れるようになってしまった。大学病院にこれ以上通院しても良くなる見込みがないと判断した家族は、担当医の勧めに従い、県内最大の入院施設を持つ公立の病院へ入院させた。

   しかしその大病院の担当医はその3ヶ月前まで、彼女が通院していた大学病院で研修医をしていた。入院して2日目に家族が面会に行くと、うつろな目をしてロボットのように歩く娘の姿を見た。自分の洋服さえもロッカーにしまうことができなかった。家族は驚いて病院の担当医に面談を申し込み、なぜ急にそのようになってしまったかの事情を聞こうとしたが、担当医はそれさえも聞く耳を持たなかった。

   その後、新聞に載った精神薬の記事から私のクリニックを知り、たどりついた。
   彼女は現在、それまで飲んでいた膨大な薬をすべてやめ、漢方だけを服用している。今は通信制の高校へ通い、大学を目指しており、内気な感じはあるが大きな問題は一切ない。彼女には人並みの頑固さと対人の苦手さだけしかない。つまりそれは精神医学においてさえアスペルガー症候群ではないということであり、この子はただの内気な少女でしかなかったのである。


    book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋


         

      

精神医学の発祥は西洋の「優生学」 ⑥

   皆さんは精神医学の発祥について知っているだろうか?
   「精神」というものについて考察してきた偉人は過去にはたくさんいたが、それを医学と結びつける考え方というものは近代まで存在しなかったのである。それが「教科書的」には1818年とされており、今から約200年前のことである。精神医学が他の医学と比べて歴史が浅いのは、他の病気と違って精神の動向というものが、個性や宗教、哲学と結びつけて考えられてきたからであり、それらを「病気である」とする認識が以前には存在しなかったからに他ならない。

   しかしながら、いわゆる精神病者の扱いにおいては、古代においても現代においてもそれほど大きな違いはない。つまり一般的多勢における少数を異質であるとして、それを社会的に好ましくないものとして規定し、隔離するという考え方がその基本として存在してきたのである。その呼び名が狂人であったり変人であったり、天才であったりしたものが、たとえば「精神病者」に変わったに過ぎない。そのことはつまり精神医学であろうと心理学であろうと、その発祥をたどれば「優生学」という概念にたどりつくのだ。

   そこにあるのは、自分は「変」ではなく、他の人間は「変」である、だから「自分のほうが優れている」とした考え方が根本にある。逆に言うならば、「なぜ彼らは劣っているのか」ということを学問として規定したいという動機から生み出されたという点において、精神医学というものは他の医学とはまったく異なる目的を持っている。そしてすべてはそういった優生学を基本とする考え方をもとにして進められてきた。

   精神医学のさまざまな変遷は歴史書に譲るとして、それらの目的は人を救うという点にあるのではなく、人を矯正し、洗脳し、問題行動を示すすべてのものを排除しようとするものであった。そうやって精神医学はあらゆる問題に利用され、応用されてきたのであった。それが民族差別であり、人種差別であり、集落的差別、政治犯や反逆者に対する扱いもそうなのである。

   そしてそれは現代精神医学においても同じであり、措置入院であり、医療保護入院であり、大量の薬物投与、保護室による拘束、電気けいれん療法、患者会や家族会の構成もそうなのである。

   
 もっとも流行している精神疾患「発達障害」

   
この数年でもっとも流行りの疾患は「発達障害」であろう。

   最近は親が「この子は発達障害ではないでしょうか?」と相談に来るケースがかなり増えた。しかしそのほとんどは私が診察した限りでは、発達障害などというレベルではなかった。確かに「発達障害」と定義されるような行動形態があるのかもしれないが、しかしあまりにも不確定的なものであり、しかも日常的で普通のことなのである。この発達障害という概念について考えてみよう。たとえば以下に上げるのは精神医学の「教科書」に載せられている発達障害の4徴とされるものである。

  ① 言語発達、コミュニケーション障害(無関心や対人関係の不器用)
  ② 社会性の障害(友人を作れず、遊ぶことが苦手)
  ③ 同一性保持行動(儀式化され常同化した行動を変えることへの抵抗)
  ④ 多くは知的障害を合併する。

  ごく簡単に言えばすべてを兼ね備えていればカナー型自閉症圏内で、②と③に限られていればアスペルガー症候群である。しかしよく考えてみてほしいのだが、たとえば③の同一性保持であるがこれは簡単に言えば、頑固者で自分のやり方を変えないだけであったり、ただ単に融通が利かないというだけなのである。

   しかしいったいどこに、自分のやり方に固執しない頑固でない人間がいるというのだろうか? そうではないそんな人間がどれだけの割合で存在するというのか? また②の友人が作れない、あるいは作らないことが社会性の上で問題があるのなら、いったい日本人の何割がこれに該当するというのだろうか?

   これらは所詮、団塊世代で今の精神医療の流れを作ったと言われる「発達障害専門医」と、製薬業界によって作り出された新たな虚構なのである。


「発達障害」診断により利益を得る人たち

   
逆に言えば、もし発達障害というものが存在するのであれば、それは先天的な障害であり性格的側面が強いのであるから、発達障害児の親はすべて発達障害者であるし、もっといえば、遡ることによって人類全体が発達障害種でないとつじつまが合わないことになる。しかし自分たちもそうであると認めた親を私はほとんど知らない。

   知識を得て学ぶことによって、発達障害などというものは本来あり得ないことを知るはずである。あるのは「人間そのもの」であり、人間にそのようなレッテルを貼ろうとする経緯と、大人たちが自分たちの子育ての無能を隠すためのカムフラージュに過ぎないとわかるのである。大人の発達障害などは、まさにその極みなのだ。

   今の児童精神科医たちが発達障害を流行にした一番の理由は、「お金」である。
   児童精神科医の間では有名な言葉があり、それは「発達障害の生涯支援」である。つまり彼らにとって患者は、一生彼らに金を貢いでくれる存在なのである。ここでも100歩ゆずって発達障害というものがあると認めるとしても、いつまでも患者であるとは限らない。私の知っている自閉症の人や発達障害とされる人であっても、ずっと続く「支援」など必要としてはいない人々のほうが圧倒的に多いのだ。

   少し前の昔の時代で考えてみると、その時代には発達障害や精神疾患などという概念そのものが存在しなかった。たとえば内気な人は単に内気なだけであって、それを判断したりすることはなかった。昔の女性は内気で口数が少なく、大人しいのが良いとされ、良くしゃべりコミュニケーションのうまい女性は「あばずれ」とされたのである。しかし今や、内気であるとか大人しいといった人間が持つ普遍的な特性までが、発達障害として判断され、規定されてしまうようになっている。

   これは学校教育も同じであり、今、教育現場では発達障害やアスペルガーを見つけることに躍起になっており、学校で行なわれるアンケート用紙に答えれば、必ず発達障害になるよう質問が構成されている。そして向かう先は児童相談所や発達障害支援センターであり、知能や特質のばらつきを検査で指摘されたあとは精神科へ紹介され、そして精神薬を飲まされるというのがパターンになっているのだ。

   ここでも確かに症状の重い場合があるかもしれず、知的障害や重症自閉症という行動形態があるかもしれない。しかしそれでも生活や生存のすべてが成立しないほどのレベルでないならば、診断する必要はない。なぜならそういう特性があったとしても、何の介入も支援もなしに、社会適応をしてきた団塊世代や戦前世代の人々はたくさんいるからである。しかもこれらのすべては薬を投与してもどうにかなるものではなく、治るものではないのだ。このように子どもを判断しレッテルを貼ろうとする行為こそが「優生学」が生み出す「差別」であり、そしてすべてが儲け主義の延長であり、利益追求なのである。


          book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著 三五館

                          抜粋

「早期介入・早期支援」という国家プロジェクト ⑤

   私はかつて「精神科オピニオン活動」と呼ばれるものにかかわっていた。
   その活動は、ネット上で行なう診断の見直しや、薬の相談にかかわるボランティア活動であり、重症の患者やドクターショッピングを繰り返す患者たちの相談に応じることであった。相談を受けることにより良くなる人々が過半数いた中で、悪化した人が一部いたことも確かであるが、しかし悪化した原因のほとんどは病気によるものではなかった。それらのほとんどは、元々ある症状とはまったく無関係のものであり、いわゆる精神薬による禁断症状であった。

   私は当時のこれらの活動の中で、精神科の診断や治療の選択、そして薬をいかに活かして適度に害なく使っていくかについて考え、こだわってきた。しかしより多くの人々から相談を受ける中で、同時に裏事情を知っていくにつれて、私の抱いていた考えそのものに疑問を抱くようになっていった。それは私の考えそのものが精神医療業界に洗脳されているも同じであり、それによりむしろ害を広げているのではないかと思うようになったのだ。

   「精神疾患という詐欺」について気づくためには、まず精神疾患というものが規定された「いきさつ」について知らねばならないし、その上で現在の世界の動きと、精神医療に関する利権の動きに注目する必要がある。つまり人々が精神疾患というものをどのように捉えているかといった、世論における拡大解釈に注意しなければならない。

   なぜ日本においてここまで精神科や心療内科という分野が拡大したのか、なぜこれほど多くのメンタルヘルスにかかわる人々が増大したのか、なぜ周囲にいる精神疾患の人々のほとんどが治らないのだろうか? 

   精神医療業界だけでなく、医療業界全体にとって、私は重大な裏切り者ということになるだろう。そして事実私はあらゆる友人や知人に止められたことも事実である。しかし私はペンを置くことができなかった。私が著書に述べているようなことは医者であれば決して書かないことである。なぜなら日本の精神医療業界ではずっと前からタブーになっていたことであり、それだけでなく、このようなことを正直に述べる人間は、患者にとっては人の痛みを理解しない人間と受け取られてきたからだ。そして何よりも精神医療業界にとっては、内部告発そのものであったのだ。

   しかしその言い訳はもうすでに限界に近づいている。
   日本で行なわれている精神医療の現実を、人々はもうそろそろ知らねばならない時期に来ているのである。

   現在では未だに、精神医学の教科書は正しいものであり人々に寄与するものであると、医療関係者や医師、精神科医たちは考えているはずである。しかしそうではなかったのである。つまり精神医学の教科書や精神医学の実践こそが人々の脳を破壊し、人々の精神を破壊する元凶であることに、私は気づいていなかったのである。私はこの著書の前に3冊の自著を出しているが、その時の私はこうした根源の問題に目を向けることなく、精神医学の教科書を妄信したがゆえに書いたものである。

   私は精神科セカンドオピニオン活動をしていたころには未だ、より良い精神医療というものが存在するのではないかといった幻想を抱いていた。そのために診断や治療においても、精神医療に準拠した行動しかとれず、障害という考えや、薬は正しいものだという考えから抜けだすことができなかったのである。

   その後、私には多くの人々との出会いがあった。
   世界中の人権団体関係者や精神医療被害者会の人々、また他の分野の医師たち、精神医療を否定している福祉関係者たち、精神医療に取り組む法律家たちとの出会いを通して、私が抱いていた考えはまさに幻想でしかないことを教わったのである。またネット上における多くの被害者から寄せられた声も、私にさまざまな気づきを与えてくれた。そしてそのどれもが、私の知らないことばかりであった。

   そのような経験を重ねるうちに、私の中に劇的な変化がもたらされることになった、
   つまりそれは、「精神医学は正しく、薬は必要である」とする洗脳からの解放であった。そこにあったのは精神科という存在が、これまでいかに世界の人々に悪事を働き、家族と精神科医とが一緒になって患者を苦しめてきたかという実態であった。薬の副作用や離脱症状を赤裸々に語る声は、ネット上ですぐ見ることができる。そのような問題はまさに、詐欺と呼ぶにふさわしい安易な診断体系と、精神薬の薬害が引き起こしているのである。製薬会社は精神薬でいかに被害が出ようと、副作用の調査などやる気はなく、日本ではなぜか責任が問われることはない。


   早期介入、早期支援という国をあげての一大詐欺

   「
早期介入・早期支援プロジェクト」なるものを知っているだろうか。
   これは国や関東系の精神病院や、有名福祉法人などの施設が大きなグループになって進める国家プロジェクトなのである。その内容は次の通りである。

   「精神病や精神的に問題のある人を早く見つける」
   「速く精神病院へ連れて行き、早く薬を飲ませて安定させる」
   「早く福祉施設に入れて障害者として作業所などで働かせる」

   というのが基本概念である。
   一見善意のように見えて、実は薬を飲ませる患者を早く見つけ、そうして長期間薬を消費する患者を作り、精神障害者のレッテルを貼り、福祉施設に入れることでさらに利益を上げることが目的である。もちろん中には能力的な困難のために福祉がかかわる場合もあるだろう。しかしそうであっても、その中で薬が必要な人や病気であると判断すべき人、実際に福祉が必要な人がいったいどれくらいいるというのだろうか。私の答えはもちろん、「非常に少ない」であり、それが実情なのである。

   米国の精神科医の良心といわれたピーター・ブレギンも次のように告白している。
   「・・・人々にはまったく認識されてはいないが、現代社会でもっとも破壊的かつ広範囲で児童虐待が行なわれていることは、注意深くある大人なら誰でも、そして子どもたちの多くもそれに気がついている。おそらく大人のアメリカ人や、そして大人になりかけている子供なら誰でも、この虐待に遭っている子供を少なくとも1人は知っている。特に教師や、子どもを相手に仕事をする人ならこの「新たな虐待に遭っている子どもたち」を何十人、あるいは何百人も知っているだろう。私たちの社会に特有な新たな児童虐待、それは子どもに対する精神科診断と投薬である」

   
そしてすでに日本でも、一部の地域では早期介入のモデル地域が存在しており、この流れが強くなれば、学校で少しでも異質な子どもたちはすべて精神疾患であるとして扱われるようになるだろう。本書のP.56、57、58、59に揚げたADHDチェックリストを見てほしい。これは教育現場に配布されているものであるが、このチェックにより精神病を鑑別し、子どもを精神科に送るのであればほぼすべての子供が精神病に当てはまってしまうのではないだろうか。

   もっと言えば大人でも同じであり、当てはまる人はたくさんいるだろう。
   そういった人たちがみな精神科にかかり、薬を飲まねばならないことになる。この状況を良く考えてみてほしい。これではまるで私たちの近未来とは、統制とコントロールによって支配される社会そのものであり、このような社会が私たち人間にとって本来、本当に必要なものであるとは私にはとても思えないのである。


     book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡(うつみ さとし)著 三五館

                          抜粋

なぜ内閣府が「睡眠キャンペーン」を? ④

   精神疾患治療を詐欺と呼ぶことに関して、「善意の陰謀」という絶妙な造語を作った人がいる。これはイギリスで精神薬の薬害問題に取り組んだチャールズ・メダワーの造語である。彼の邦訳された著書「暴走するクスリ?」には、精神薬が開発されてきた経緯や、権威ある学会が善意を見せながら利益誘導する方法を捉えて皮肉っているが、それは精神科にかかわるすべての物事は善意の陰謀であると捉えられなくもない。

   ここでまた一つの例を上げる。
       (P.64の)こんなポスターを見たことはないだろうか? これは自殺対策の一環として、内閣府が2010年3月から始めた「睡眠キャンペーン」のポスターである。実はこのキャンペーンの事前試行として静岡県富士市では、全国に先駆けてこのキャンペーンを2006年から施行していた。それは「うつを脳の機能障害として、薬で良くなる」とする精神科医の主張を掲げた自殺防止キャンペーンである。

   その効果はどうだったのか? 
   P.65の図を見れば、それが「逆効果」以外の何物でもなかったことがわかる。しかし実は逆の話もあるのだ。自殺遺族が集まる自死遺族連絡会(代表・田中幸子)では、睡眠薬や向精神薬が自殺率を高めていると考えており、地域の啓蒙運動として精神科を受診しないことや、精神薬を服用しないことなどを市民や役所向けに行なってきた。その結果、その本拠地である宮城県では20%も自殺率が改善したのであった。

   確かに自殺対策に取り組もうという方針そのものは善意であり、精神薬を飲んで楽にさせてあげたいという行為も一見すると善意である。しかし当初の思いつき自体は善意であっても、そのようにした結果はむしろ悪化するのである。そして精神医療学会と製薬会社が強調して行なう睡眠薬の販売キャンペーンが、実は真の目的が自殺対策を借りた薬の販売目的にあるとすれば、これはまさに善意の陰謀に他ならず、詐欺と呼ぶ以外の何に当るのだろうか?

「うつ=セロトニンの減少」ではなく「抗うつ薬=セロトニンの増加」ではない

   今ではよく知られている抗うつ薬だが、抗うつ薬の作用を簡単に説明するとセロトニンを増やすということに尽きると思われる。そして「うつ病=セロトニンの減少」に対し、「抗うつ薬=セロトニンを増加させる」ということで、この薬の発売当時は夢の薬のように扱われたものだった。しかしこのことが真実であったかと言えば、当然そうではなかったのである。次の表は精神薬の副作用発現率を示したものであり、製薬会社が正式に発表しているものである。

    薬品名   発売元・製造元       対象        副作用発現率
  サインバルタ  イーライリリー社     SNRI(抗うつ剤)           90.2%
  リフレックス   明治製菓         NaSSA (抗うつ剤)         82.7%
  コンサータ    ヤンセンファーマ     主にADHD治療薬       80.6%

  スルモンチー  塩野義製薬         抗うつ剤             77.7%
  ストラテラ     日本イーライリリー  ADHD治療薬、実際は抗うつ剤 71.9%
  パキシル        グラクソ・スミスクライン     SSRI(抗うつ剤)    68.5%

  ジプレキサ    イーライリリー   抗精神病薬(主に統合失調症薬)  65.5%
  セロクエル      アステラス/アストラゼネカ 主に統合失調症薬     62.5%
  ルーラン      大日本住友         主に統合失調症薬       62.2%

  リタリン       ノバルティス・ファーマ       中枢神経刺激薬         61.9%
  エビリファイ   大塚製薬              統合失調症薬          60.8%
  ジェイゾロフト  ファイザー               SSRI(抗うつ剤)         59.6%
  タミフル     中外製薬      インフルエンザ感染症治療薬    27.5%  

   うつ病がセロトニンの減少に関係しているのではないかという仮説を立てたのは、ジョゼフ・シルドクラウトという人である。この仮説をモノアミン仮説と言う。しかし提唱されたこの仮説はすでに否定されている。つまり仮説というより、関係がないと「証明された」のである。

    にもかかわらず2010年に発表された研究によると、アメリカ人の87%が、統合失調症はセロトニンやドーパミンがバランスを失う「化学的不均衡論」が原因であると考えており、同じくうつ病の人も、80%がそのように考えているという結果が出ている。

   この件に関しては、アメリカ精神医学雑誌「The American Journal of Psychiatry」には、「10年以上にわたるモノアミン枯渇、およびモノアミン関連遺伝子の解析結果、セロトニン系、ノルアドレナリン性、またドーパミン神経伝達の欠陥に関係すると思われる証拠はほとんど存在しなかった」 そして2012年の現在に至っても、脳内のセロトニン濃度すらも測定できないでいるのである。

   にもかかわらずこの仮説は一人歩きを始め、世界中でうつ病にかかわる基本理念であるかのように語られ、しかも抗うつ薬もその仮説を基本に作られてきたのである。これはまさに「先に薬ありき」で、まったく嘘の仮説をさも根拠があるかのように用いている典型である。

   また次のような話もある。
   米国での2000年の科学誌の発表によると、若手の精神科医たちが患者を診察した際に、診察の所見において、偶然が起こらない限り彼らの間では意見が一致しないことが明らかになったという。つまりそれぞれの精神科医の診断はバラバラであり、何の評価基準もないがゆえに、すべてが主観によって左右されてしまうことが明るみに出てしまったのである。

   こういったことは、内科や他の医療の領域では絶対にあり得ないことである。
   糖尿病といわれれば、必ず誰の所見であれ血糖値の高さが見出され、がんであれば血液検査や画像検査で必ずその様子が示される。ところが精神科の診断では、極論すれば、精神科医が患者を嫌っていれば病名が変えられてしまう場合だってあり得るのだ。そしてまさにこの点が「詐欺の温床」になっているのである。

   もう一つ例を出そう。
      これはアメリカの有名雑誌「サイエンス」に掲載された1973年の記事である。それによると8人の一般市民が、それぞれ別の12の病院を受診した際に、「空っぽだ」「虚しい」という声が聞こえたり、「ドサッ」という音が絶えず聞こえて辛いという演技をした。その結果1人を除いて7人全員が入院させられることになり、何日かしてから統合失調症の「寛解」だとして退院になったという。最初から嘘で受診したのに、である。

   日本でもさまざまないい加減な話があった。
   国内にも抗うつ薬を大量に処方する精神科医がいたが、その副作用で躁転したり被害が拡大すると、発達障害のせいであるとか、躁うつ病であるとかと都合のいい理由を持ち出すケースが多数見受けられた。そして私もそのように考えていた時期があることを否定しない。

   しかもそのようなことが知られることを防ぐために、精神医療側では数々の隠蔽工作を行なうのが普通であり、時には製薬会社、またある時は家族会などを取り込んで、ひたすら自分たちのしてきたことを隠すのが精神科医の現実なのである。

   なぜそれほどやりたい放題が可能かと問われれば、これまで指摘してきたように病気を既定する科学的根拠がないからであり、すべてが精神科医の自由な主観に左右されているからと言うほかはない。しかしいい加減なのは精神科医だけではなく製薬会社も同じである。たとえばロイターが掲載したニュースに次のようなものがある。

   「ファイザー社による研究データの捏造」
   この製薬会社が販売するガバペンチン(てんかん薬)のマーケットの拡大に不都合な研究結果のもみ消しや改ざんを、同社が行なっていたことを示す社内文書が見つかり、製薬企業がどのように科学研究の操作を行なっているかを知る機会となった。

   臨床試験では前もって設定されている科学的疑問を調べるのだが、実際には20の試験報告のうち、8試験は医学ジャーナルに公表されず、その8試験は元の研究計画のものとは異なるものに変更され、入れ替えられていた。ファイザー社は2004年の違法プロモーション裁判で4億3000万ドル支払うことで決着したが、その後この問題を別の弁護士が取り上げて再度ファイザー社は訴えられている。


 book「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡著(うつみ さとし)著 三五館

                          抜粋
   

精神病「チェックリスト」とは何なのか ③

   精神薬の場合、少なければ副作用が心配ないというわけではない。
   たとえば鎮静作用、認知障害や記憶障害、自殺衝動の悪化などで、たとえ薬が一種類であってもその副作用は多数報告されている。たとえばパキシルという薬は、アメリカでは特に槍玉に挙がっていて多数の訴訟を抱えている。「ブルームバーグニュース」から引用する。

   「1992年にパキシルが発売されて以来、グラクソ・スミスクライン社(GSK)に対して起こされた訴訟には三つのタイプがあり、出生異常、自殺、そして依存症に分けられる。2009年12月4日の時点で約150件の自殺に関する訴訟の平均的和解額が200万ドルで、約300件の自殺未遂の和解額が30万ドルとなっている。

   またパキシルの引き起こした依存症の約3200件の訴訟では、GSK側がそれぞれ5万ドルを支払うことで決着した。そして600件を超える出生異常訴訟の最初の評決となった2009年10月13日の裁判では、妊娠中のパキシル服用により心臓に三ヶ所欠陥を持って生まれた原告側の家族に、賠償金2500万ドルが支払われることになった」

   精神薬はパキシルだけではない。
   抗精神病薬としてもっとも有名なリスパダールにも次のような話がある。アメリカ・ボストンの「リーガル・ニュースライン」から引用する。

   「抗精神病薬リスパダールを違法にマーケティングしたとして、マーサ・コークリー司法長官は製薬会社オーソ・マクニール・ヤンセンを告訴した。ヤンセン社は高齢者の認知症や児童の多くの症例に、安全性や有効性が未確認のまま、FDA(米食品医薬局)の承認を得ずに治療薬として使用したとされる。提訴の申し立てによると、リスパダールの使用により、過度の体重増加や糖尿病、また高齢の認知症患者の死亡リスクが増加するなどの副作用の開示を怠ったとされている」

   さらにニューヨーク・タイムズによると、
   「統合失調症の治療薬として大成功を収めた、セロクエルの製造元アストラゼネカ社は、医師にリベートを払って未承認の薬を販売したとして、5億2000万ドルを支払うことで決着した。ロンドンに本社を持つアストラゼネカ社は、薬剤のリスクを開示しなかったとして患者側から2万5000件に上る民事訴訟を抱えている」

   こうした製薬企業に対する裁判は、海外ではこれまでもたびたび行なわれてきたことであり、製薬会社が売り上げを伸ばすために臨床試験をいかに操作してきたかがうかがわれる。このように多くの薬がすでに古くなっていたり依存性が高いことや、さまざまな副作用で訴訟が起こされていることが明らかであっても、日本では依然として、そういった精神薬の多くが認可されたままなのである。

   
そういう体質のために、すでに日本は世界における精神薬の在庫処分場と化しており、たとえばベンゾジアゼピン系(精神安定剤、睡眠剤として用いられる種類)では、どの国よりも突出して世界一の精神薬消費国となっているのだ。それは決して日本人の精神が病んでいるということだけではなく、薬品企業と精神医療との利権と権益が深く絡んでいることから生まれた状況であることを、国民ははっきりと知らねばならないのである。

   国民が思っているのとは違い、実際には医療や薬という世界はいかにやりたい放題の世界なのかということがよくわかると思う。人々の認識という思い込みは、いつも医者は「善」であるはずだと信じ込んでいることである。しかし「善」だと思い込んでいる人々がなぜそういったことを実行するかという、その裏を読み取っている人は皆無である。製薬業界と精神科医の癒着によって作り出されている状況は、まさにカルト宗教顔負けのやり方であり、その真相がばれないように洗脳者を増やして依存させていくのが彼らのやり方なのである。

   医者の立場というものは、善意や悪意があるなしにかかわらず、免許を持っていればすべてが正当化されてしまうほどの資格であり、しかも医者の行為のその多くが法律的には擁護されている。医師が最高の職業であり、権威であり専門医であり、エライというのは意図的に作られた考えであって人々の幻想でしかないのだ。主観的で基準の存在しない精神医療においては、どのような医療犯罪も正当化されてしまう。この認識なくしてはどのような薬害からも抜け出せないことを、人々ははっきりと知らねばならない時にもう来ているのだ。


誰でもあてはまる、ADHDチェックリスト

   
さまざまな精神症状というのは、万人に必ず存在する普遍的なものだ。
   たとえば不安、脅迫感、うつ状態、怒り、妄想、幻覚、不眠、フラッシュバック、人とのコミュニケーションへの恐怖、依存など挙げればきりがなく、生きていれば何かしら誰にも必ずあるものである。私たちがよく目にするものに、「チェックリスト」なるものがある。それは普通に生活において自覚する精神症状を、あたかも「精神疾患=医師に治療してもらう疾患」と思わせるためにチェックリストが準備され、それによって不安を煽り、精神科を受診させようとするキャンペーンなのである。

   それらは一見思いやりに満ちた善い行為に見えるかもしれないが、そこにあるのは人間の向上を願うものからではなく、人々にラベルを貼り、不安を煽ることで精神薬を売ろうとするマーケティングの戦略なのである。次ページに掲載するのは、教育現場に配られているADHDの子どもを選別するためのチェックリストである。さてあなたはいくつ当てはまるだろうか? (省略) 

   ここに書かれている特徴はすべて、「子供そのもの、人間そのもの」であって障害などと診断するような種類のものではない。つまりこれはどういうことかというと、人間が本来持つ喜怒哀楽や性格や特徴であるのに、あえて集団とは違う部分をあぶり出して病気と見るように設定したということなのだ。別の言い方をすれば、人と同じように「普通になりたい」人たちの願望を利用して、病気であるかのように思い込ませるためなのである。その目的は明らかで、精神科医と製薬業界が癒着することでマーケティングを行なうことである。

   本来病気ではないものを病気とし、薬によって治すものではないのに「良くなる」とする「嘘」を並べ、実際にほとんど良くならないという現実がありながら、それを治療という現代の精神医療の姿を私は「詐欺」と呼んでいる。もしそれで良くなる人がある程度いるのであれば、精神科医に大いに儲けてもらっても結構だと私は思う。医療に限らず、すべての分野でそのようにビジネスが行なわれているのは事実だからである。

   しかし問題は、その治療行為による治癒の成功率があまりにも低いことと、良くなったとされるものが実際には見かけだけであり、結局は薬に依存させられて、永久的に薬を飲み続けるだけの患者を作り出すマーケティングなのである。「良くなる」という定義も重要である。つまり、精神薬を飲み続けてその状態を保っている状態を「良くなった」とは言わないのであり、それは改善ではなく、「依存」というのだ。

   今の精神医学の価値感では、精神を完全にコントロールできない人間はすべて精神病ということになってしまう。それができるように切磋琢磨することが私たちの人生であり、出来なくて当たり前のことを精神病と分類する価値感がそもそもおかしいのである。その精神医学の価値感は、「完璧」を求めて周囲に合わせて「普通」を装う価値感を人々に押し付けるものであり、そのように洗脳された一般の人々はそういった「完璧」を求めて薬を飲み、薬によって自分の性格を変えようとまでするのである。

   わたしたち人間は不完全であるのが当たり前であり、それがあたかも特別なことや落ちこぼれであるかのように思わせ、それを薬で何とかしようと考える思考がいかに異様なことであるかが理解できるだろうか。これは一般的な詐欺と同じであり、人間の金銭的欲望を利用するので詐欺が成り立つように、人が他人からどう思われるかという恐怖心を逆利用した巧みな詐欺の手口なのである。もし精神医学の言う価値感を生きるとしたら、私たちは本来の自然な感情というものが持つ表現を消して生きるしかないのだ。

   現代の社会は異様である。
   本来私たち人間はさまざまな気質や個性を重視し、互いに受け入れあって時代を築いてきたものだが、そうした時代はすでに過去のものとなり、その結果、少しでも社会にそぐわないものや異質なものはすべて病気として分類されるようになった。それがいかにおかしなことかは今さら説明の必要はないだろう。人間は本来感情豊かな生きものであり、ちょっとしたことに怒り、泣き、笑い、悲しむし、ちょっとしたことに不安になり、つまらないことにこだわったりするものなのだ。限界のある人間の感覚には時に変なものが見えたり、聞こえたりするのは自然なことなのだ。それが人間として普通で当たり前であることを、人々は忘れてしまったように見える。


     book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡(うつみ さとし)著 三五館

                          抜粋
   

野放し、やり放題の「精神科医療」 ②

   私のところに通院中の、ある患者が書いた入院体験を記載しておこう。

   「入院されて薬を大量に投与された。
   隔離室というところはすごいところだ。壁は爪で書かれたわけのわからない文字や引っかき痕でいっぱいで、血だらけである。水は1日に2回しか与えられない。トイレも流せない。薄い汚い布団が1枚敷いてあり、着替えはない。刑務所のようだと思った。体調が悪く呼んでも誰も来てくれない。暴れれば全身を縛り付けられる。大声を出せば、さるぐつわのようなものをされる。1日中壁やドアを蹴る音や叫び声、うめき声でいっぱいだ。

   私はもうこのような病院とはかかわりたくなく、自分からすべての薬をやめた。
   薬を飲むのが怖くなったからだ。すると禁断症状が出て、今度は寝たきりになってしまった。私は過去に何回救急車に乗ったかわからない。今は薬はまったく飲まず、飛び降りも自殺志向もなくなった。しかし入院のトラウマは消えず、彼らを同じ目に、いやもっとひどい目に合わせてやりたいとさえ思う。」

   ちなみにこの病院は某県ではもっとも権威のある病院であり、病床数も多い病院である。このように全体的に見ても、精神科医療というものが、医療としてまともな行為を行なっているとは到底言えない現在の状況なのである。そしてそのことは多くの精神科以外の医師が認識していることであるが、ただ精神科医だけが裸の王様のように、自分たちのやっていることは正しいと主張してきたのである。

   しかし、もう限界である。
   これまで精神科医が行なってきた数々の拷問的治療行為、特に何種類もの大量薬物療法や電気けいれん療法、違法的な強制入院による被害に対し、これから数年の間に訴訟行為が爆発的に広まっていくだろう。なぜなら世界ではすでに先行して精神科への訴訟が増加しており、特に何種類もの大量薬物療法(多剤薬物療法)については、今後集団訴訟という形をとる可能性が高いと思われる。

   現在の日本においてもっとも問題視されているのが、精神薬の大量投与による被害と、精神薬そのものの副作用である。ある人権団体のデータによると、日本では精神病院への入院者数が31万人を超えるが、そのうち「死亡退院」していく数は1ヶ月で1515人という厚生労働省の「精神保健福祉資料調査」のデータがある。(2009年6月30日現在) 米国では1776年以降に戦死した人間の数よりも多いとされている。

   なぜ精神病院でこれほど多くの人が死んでいくのか、疑問には思わないだろうか。
   精神病院では老人よりも若い人や中堅層の患者が多いのが普通で、つまり身体の病気で死ぬ確率は低いと推測される。これの意味することは、その多くが薬物による中毒死や、理不尽な治療などによって死亡者が出ていることを物語っているに他ならない。精神薬の多剤大量療法による副作用でもっとも惨(むご)いものは、もちろん副作用死である。そんなに多くはないはずだと思わないでほしい。以下に私が鑑定書を提出した、ある死亡者の処方データを紹介する。

〔精神病院入院後、死亡したあるケースの処方データ〕(処方量は1日当り)
   トロペロン(点滴)       8~24mg
   トロペロン《内服)       25mg
   セレネース(抗精神薬)    30mg
   リスパダール(抗精神薬)   6~9mg
                                     
   ジプレキサ(抗精神薬)    20mg
   セロクエル(抗精神薬)    100mg
   レボトミン(抗精神薬)     30mg
   テグレトール(抗てんかん薬) 800mg
   ベンザリン(睡眠薬)      10mg
   ヒベルナ(抗ヒスタミン薬)   30mg
   マイスリー(睡眠薬)      10mg

   ここで薬物量を計算する目安として、CP(クロルプロマジン)換算値と呼ばれる数値を使う。つまり強い精神病の薬には投与量の目安となるように、参考となる数値があるのだ。たとえばコントミン12.5mgという薬であれば、一般の人が飲むと眠気で困るほどの強さで、この薬の換算値は12.5であり、1日8錠飲んでいる計算になる。

   統合失調症と言われるものには多くの薬が使われている。
   幻覚や妄想を抑えるためには仕方がない、と多くの人々は考えるかもしれない。では入院後に死亡した上記のケースでは、いったいどれだけの薬が投与されたのだろうか。このケースで入院初日から投与された薬の量は、実にCP換算値6300である。これを先ほどのコントミン錠で計算すると、1日に500錠以上を飲んでいる計算になるのだ! この量は常軌を逸している。

   その結果どうなると思うだろうか?
   1日中寝っぱなしで呼吸も止まってしまうかもしれない、と考える人がいればそれが自然な発想なのだ。しかもこのケースは極端な場合とも言えないのである。なぜなら、裁判における証人尋問でこの患者を担当した精神科医は、「私は悪くない。この量の投薬は病院においては当然の量である」と言い切ったからである。

   この発言と、1ヶ月で1515人が死亡するというデータを見れば、日本の精神科で何が起きているかが理解できるはずだ。しかもこのようなことが、精神病院で日常的に行なわれているという現状があるのだ。


不審死から続々検出される精神薬

   
もう一つ意義深いデータを示そう。
   (P.37の)このデータは、東京都医務監察院が論文にしたものを、精神医療被害者連絡会がまとめたものである。医務監察院というのは、不審死の原因を調べるための組織である。これは2010年度の東京23区の不審死者から検出された薬物および医薬品データである。その中で薬物死にかかわるものを見ると、

  医薬品     51.8%
  エタノール   40.2%
  その他     8%

   その中でエタノールの検出はアルコール中毒で亡くなったり、凍死したようなケースもあると思われる。それらを除くと、医薬品が全体の半分を占めることが明らかであり、その薬剤のほとんどは精神科で処方される薬なのである。

  睡眠剤     36.2%
  精神神経剤  36%
  抗てんかん剤 9.4%
  その他の薬物 14.7%
  その他     3.7%

   ここで重要なポイントは、本人が自殺目的で多量服用したのではないということである。つまり精神病院においてではなく、外来通院している状況において主治医の処方を守り、決められたように飲んでいたら不審死に至ってしまったということなのである。これは尋常な話ではなく、ある意味、医療殺人なのだ。

   精神医療の被害は多量の投薬治療だけではなく、すでに述べたが電気けいれん療法についても多くの被害者の話がある。たとえばカルテには治療の記録が残っているが、患者自身にはまったく電気けいれん療法を受けた記憶がないというのも珍しくない。子どもを持つ患者が、子育てや子どもがいることまで忘れてしまった事例もある。また家族が精神科医と秘密裡に、電気けいれん療法をやり続けてきたという例もある。軽犯罪を行なった患者が、懲罰ついでに電気けいれん療法を受けて亡くなる事例もある。

   たとえば都内でもっとも有名な精神病院「都立松沢病院」では、本人はもちろん、友人も知らないうちに電気けいれん療法が行なわれていた。なぜ行なわれたかについて都立松沢病院の医師は、「イレウス(腸閉塞)を起こして、これ以上投薬できなくなったから」と語っている。なぜイレウスが起きたかは、少々の薬学知識があれば明らかなことである。イレウスは精神薬の服用によってもっとも頻発する副作用であり、つまり、何の考えもなく大量の薬を投与した結果起きる薬害に他ならないのだ。

   つまり都内でもっとも有名な精神病院の精神科医は、自分が投与した薬による副作用のために、必要のない電気けいれん療法を施行したのである。しかし、これもまた日常的なことなのだ。


     book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡(うつみ さとる)著 三五館

                          抜粋

         

精神疾患に群がる薬品業界と精神医療業界 ①

   精神医学はその症状を「脳の異常」ととらえようとするが、そもそも精神医学においては未だに疾患の原因は科学的にわかってはいない。それは薬物の効果についても同様である。現在ある疾患理論や薬物理論というのはすべてが、2012年現在においても未だに仮説なのである。

   それはつまり証明されたり、因果関係をを導けるものが何一つないということであり、精神医学や精神疾患のすべてが主観であり、医者の人格の采配にゆだねられているという危うさなのである。それにもかかわらずこの分野が、科学であるはずの「医学」として普及してきたことは、一種の驚きでもある。非常に非科学的なはずの精神医学が、あたかも科学的であるかのように扱われることによって、さまざまな被害の温床となってきたのである。


   科学ではないからこそ、精神科の診断基準はとてもいい加減である。
   たとえばアメリカでは「DSM」という精神科診断基準というものがあるが、その決定にあたっては製薬会社と癒着の深い精神科医により、多数決やその日の気分で決められたというエピソードが残っているくらいなのだ。「DSM」は現在まで第4版が発行されており、2013年に出される第5版の編纂がアメリカ精神医学会によって進められている。

   しかし第4版の編集に携わったアレン・フランセス博士は現在では、世界中で大規模な健康被害を広げてきた現代型精神医療に対し、国際規模の抗議活動に乗り出している。それは精神疾患に科学的な裏付けはなく、それらが政治的でありマーケティングに基づくものであることに対する抗議である。つまり精神医療業界と製薬会社が癒着し、その双方が儲かるように診断基準が設定されてきたのである。

   そのようにして編纂された「DSM」が精神医療の教科書であるのなら、当然まっとうな医療など成立するはずはない。しかも恐ろしい話だが、薬が先に開発されて、その薬を売るために、都合のいい精神疾患が作り出されているという現実が存在する。たとえば「社会不安障害」であるとか、「気分変調症」、「経度・中度発達障害」、「大人の発達障害」、「うつ病」などはその典型であろう。

   この抗議活動には「DSM」編纂にかかわった、ロバート・スピッツァー博士や前述のアレン・フランセス博士であるが、彼らはかつての精神医学の大御所であり、その彼らが現在の精神疾患や精神医学を否定しているのである。彼らの提言は、現代の精神医学が起こした甚大な被害状況を考えると、遅きに失したと言えるのだが、それでも大きな意味があると考えられる。それが現在の世界の状況であるが、日本はこの分野においては何十年も遅れているという現実がある。日本の精神医学界はこういった反対や良心的意見を無視し、薬物の引き起こす問題を無視して、日本に膨大な薬物療法を流行させ、普及させてきたのである。


効果のない拷問治療・電気けいれん療法

   精神医学とは、医者の主観により決定されてしまう医学である。
   昔から精神医学の治療は、現代人には理解しがたい拷問的な治療が普通であった。そしてそのなかでも、現在も続けられている治療の代表的なものが「電気けいれん療法」である。これは第二次世界大戦前にイタリアで発明され、精神分裂病、現在でいう統合失調症に用いられるとされていた。

   特に前頭葉へ通電することで治療しようとするものだが、効果に対する科学的裏付けは現代においても明らかにされてはいない。しかもそのあまりにも非人間的な治療法は非難されているのにもかかわらず、それでも未だに用いられている。実際に私が会ってきた患者の中にも電気けいれん療法を経験した人がいるが、それによって改善したと語る人は一人もいない。しかも、何をもって改善したととらえるかにおいても不鮮明なこの治療法が、医学と呼べるとは私にはとても思えない。

   たとえば極端な話として(精神科では極端ではないが)、親が子どもに虐待を続けてきたなかで、その後成人した子どもが親に暴力を振るい返したと仮定しよう。暴力は親に対してだけである。この場合子どもから見れば、自分の生存と仕返しのために暴力行為は行なわれており、それは善い行ないではないかもしれないが、それは精神病にはあたらないのである。

   しかし精神科では、この青年は精神病の患者として扱われることになる。
   そしてこれまで、この青年を虐待してきた親は精神病とは扱われないのである。その結果、多量の投薬が行なわれ、場合によっては電気けいれん療法が行なわれることになるが、これは虐待を重ねていた親が自らの罪を隠し、自分たちに不都合な行動を起こす患者を、さらに侵害する手段となり得るのだ。そしてこのようなことは決して珍しいことではないのだ。実際にこれらの治療は政治犯などの「矯正」のために用いられ、死者が多数出たにもかかわらず続けられたことが報告されている。

   精神的な治療と呼ばれるものは、その程度がいかなるものであれ、本人の感覚を抜きにして決定されることは許されない。これは基本的人権と、最低限の医学倫理の実現でもあるからだ。しかし実際にはその建前は無視されており、現在でも日本中の精神病院において、電気けいれん療法が続けられているという現実がある。


安全な精神薬はあり得ない

   
私のところに来られた人たちの研究データを紹介したい。
   それによると、ほとんどの人たちが何種類もの薬を与えられており、約7割以上の人たちが3~4種類以上の投薬をされていた。そして「薬剤性過鎮静」といって、薬剤の副作用のために気力が低下し、ほとんどずっと寝ているような状況の患者が4割以上に上った。具体名までは控えたいが、実はこのような薬剤による過鎮静をもたらしている病院の多くは大病院であり、有名な権威的な病院であった。しかもその多くは大学病院であったり、国立病院、都立病院だったのである。

   そして当院に転院した219例のうち、約3分の2にあたる134例の患者がほぼ断薬に成功し、症状も改善した。しかし薬の増減に対して何も変化しない患者も約17%くらい存在した。このことは薬物療法の無意味さを象徴しているとともに、このグループが病気ではなく性格的側面が強いことを示すものである。

   減薬して悪化した人というのは、病気の再発と考えられるものは少ない。
   それは病気の再発ではなく、「禁断症状」と考えられる。たとえば最初に何かが理由で気分が落ち込み、食欲が低下したとすればそれが症状であり、精神科に通院した患者のほとんどは、そのまま症状がよくなったという経過はたどらない。そのほとんどのケースが薬を飲むと逆に悪くなっており、仮に良くなったとしても一時的であり、結局悪くなるという経過をたどることが多い。

   そうすると最初は食欲低下が主な症状であったのに、治療を受ける経過でどんどん症状が変化し、動けない、寝たきり、仕事もできない、動悸・息切れ、さらにひどくなると暴行、自殺企図、自殺念慮、幻聴、幻視、記憶力低下、性格変化など、さまざまな変化が起きてくる。そして途中で投薬が変更されたときに急速に悪化し、病名が重いもの、たとえば統合失調症や躁うつ病などに変わることも珍しくない。

   これらはそもそも病気が悪くなったわけではなく、薬による医原病
なのである。
   このことを精神科医はもちろんのこと、ほとんどの患者は理解していないので注意する必要がある。なぜならすぐに、患者は医者に説得されてしまうからである。なぜ私が病気の再発ではなく薬の禁断症状と断言できるかというと、悪化した症状が減薬した後に、最初の症状とは「かけ離れて悪い症状」として出現するすることからである。

   最初に強い幻覚や混迷があるのなら病気の再発ということもあり得るが、実は最初からそのような症状を示す例は少ないのである。つまり、必ずそのような強い症状を示す前にすでに精神科を受診しており、精神科を受診してから悪くなるというのが一般的なパターンなのである。その中には、家族がそのことを理解できず仕方なく入院させたケースも12例あり、また患者が断薬することにひどくこだわり、単剤精神薬の投与はやむを得ずとされて落ち着いたケースが20例ある。結論としてはこのような結果を生み出す精神医学が、まともであるとはとても言い難いということに尽きる。


心理療法の害

   
心理療法については一般的にほとんどの人々が「良いもの」という認識を持っているようである。確かに薬物療法よりは良いかもしれないが、実は心理療法は精神医学同様に、非常に危険が多い。精神分析療法や認知療法、催眠療法などや、現在もっとも主流になっている来談者面談療法までさまざまあるが、それぞれに歴史があるのでその移り変わりをすべて述べることはできないが、もともと心理学も精神医学同様に、優生学的な側面を持っており、それを用いることで人々の思想に洗脳や差別を加えることに一役買ってきた。

   政治犯や思想犯というものはもともと心理学が生み出したものであり、社会にそぐわなければ、どんなに正常であろうとも異常者として扱われてきた。心というものはそれぞれが異なって当然であり、それが個性や思想であるはずなのに、脳科学的な面を無視して心を規定するので差別的になるのは当然である。そこまで言わなくても、実際に心理カウンセリングを受けてむしろ悪くなったというケースは非常に多い。近年はスピリチュアルカウンセラーなどの存在も増加しており、詐欺まがいの高額な料金をだまし取っているものも少なくない。心理学だから、カウンセリングだから良いと考えてはいけないのだ。

   戦後の日本の入院精神医療についても、ほめられるような流れは皆無に等しい。
   日本の精神科病院は先進国の中でももっとも多く存在し、全国の入院患者数は31万人を超える。これは非常に恥ずべきことであるが、まったく改善の兆しが見られない。また、何十年も精神病院に閉じ込められている患者も数万人おり、これについては世界中の人権団体から非難を受けている。しかもその患者のほとんどは主だった精神症状もなく、おとなしいだけだったり、人付き合いが苦手なだけの人なのである。

   精神病院では人権を無視される扱いが普通に行なわれており、家族との面会も許されず、薬は大量に飲まされ、スタッフに少しでも反抗すれば監獄、いわゆる保護室に入れられる。薬を飲むことを拒絶することはできない。もし拒絶しようものなら、男性スタッフが患者をはがい絞めにして無理やり薬を飲ませることが常態化している。一日中ベッドに拘束され、患者が懇願しても拘束が解かれることはない。


     book 「精神科は今日も、やりたい放題」 内海 聡(うつみ さとる)著 三五館

                          抜粋
                         
   

医者に依存するほど自分本来の治癒力は阻害される

   繰り返しますが、あなた方の想念という思考は現実そのものです。
   それらはあなたの身体に直接作用を及ぼします。あなた方にとって病人を入院させて治療するというシステムは、高度に文明化されたものと見えていることでしょう。そのようにしてあなた方の社会は、ネガティブな病気の観念でいっぱいの人々を隔離します。しかしそこで実は何が起きているかというと、そのようにして隔離された人々の間で観念の感染が広がるのです。患者は病気だから病院にいるのが当然とされ、病人も医者もその原理に基づいて行動します。

   現在のあなた方の社会は出産する女性であっても、彼女たちは病人としての扱いを受けるようにそういった環境に置かれます。あなた方はそれをとても人道的なことと考えているかもしれませんが、そのシステムでは、出産は健康の結果ではなく病気の結果であるかのように「あえて」システム全体が構成されているのです。そのシステムでは、健康に結びつくような刺激は「巧みに」遮断されています。病人は一箇所に集められ、通常の自然な環境をことごとく奪われます。時間をかければ、それだけで健康を回復し得るはずの、自然な動機づけの機会さえも与えられません。

   このような隔離システムは、どれだけ病人への援助が意図されていたとしても十分に不幸なものであり、そのうえきちんと理解されないままに薬剤が使われます。また身内の人々が病人を見舞うことができるのは一定の時間内に限られ、もっとも身近な愛する人々が病気の回復を願って自然に前向きな行為をしようとすると、効率的に阻まれるのです。

   病気の治療とはいえ、病人は監禁されます。
   つまり彼らは自分の容態にひたすら注目するように強いられるのです。こういったことのすべては、たとえば超満員電車のように人間性を奪うだけでなく、人間のプライバシーを否定し、尊厳を踏みにじるのです。病人は無力感を抱かせられ、医者や看護士の為すがままです。医者や看護士たちには、ていねいに接したり、患者に理解できる言葉で病状を説明したりする時間もエネルギーも十分にはありません。そのために患者は自分自身の力の感覚を失い、自分自身を他人に丸投げして依存せざるを得なくなり、より一層惨めさを深くします。これにより、本来その病気を引き起こすことになった無力感が、さらに強められることになります。

   しかもそれだけでなく、太陽の光や自然の空気、土といった自然界の要素からも遠ざけられることになり、その慣れ親しんだ安定感を取り上げられてしまうのです。しかしあなた方の一連の観念によると、深刻な病状では多かれ少なかれ病院に行かなければならないでしょう。私は医者や看護士たちが治療に最善を尽くしていないと言っているわけではなく、きっと治るでしょう。しかしそれは、その医療システムによって治るのではなくて、その医療システムにも「かかわらず」、治るのです。

   多くの場合、患者に対する医者の観念がその患者を元気づけ、それが患者自身の観念を呼び起こします。そして医者に対する患者の信頼が医療の効果を高め、「そのゆえに」
患者は自分の回復を心から信じられるようになるのです。しかしその一方で、あなた方人類も動物たちと同じように本来備わっている、自然治癒のプロセスというものがあるのです。

   病気というものは、普通あなた方が直面していない問題を表しています。
   それはあなたを、さらに大きな到達や実現へと至るための学びが、病気という形をとって現れたものなのです。本来、身体と心はともに働くことで、非常に効果的にお互いを癒しており、ほとんどの場合うまくいっています。つまり身体組織それ自体が健康の観念を持っており、それがあなた方が無意識と呼ぶ部分なのです。

   あなたは、あなたの環境の一部であり、あなたが環境を形成しています。
   そしてあなたと、あなたの環境をつくっているエネルギーは、あなたを取り巻く物質世界と結びつくことから生き生きと湧き出しているのです。太陽の明るさがあなたにほほ笑みを呼び起こし、ほほ笑みは楽しい気分と記憶を呼び覚まし、神経系を活気づけ、ホルモンの働きを促します。それが、生命の性質をあなたに思い出させるのです。

   古代から伝えられる方法によって、昔の治療医は自然環境の中においてその素晴らしい癒しの力を用い、実際的でありながら自然の力を創造的に使いこなすことができたのです。しかし現代のあなた方の病院では、患者は自然な環境から遠ざけられ、生命の持つ心地よさというものを感じさせられることがなく、感情的な交流もあまり見られません。しばしば老人病棟の閉塞空間から逃げ出そうとする高齢者は、彼らを幽閉した身内や社会よりも卓越した精神的健全さを持っており、そのゆえにそれを自身のやり方で表明しているのです。

   彼らは自由の必要性を直感的に悟っており、地球という自然との親しい交わりを奪われていることを知っているのです。寝たきりの人でなければ、みんなが自由に身体を動かせて散歩ができるように、広々とした土地にある小さな病院の方がどんなにかよいでしょう。しかし今のあなた方の医療システムでは、よほど裕福な人でなければそのような環境を手に入れるのは難しそうです。

   多くの動物たちは、病気になると休息のために群れを離れます。
   そして自分の健康に必要な自然を訪ね歩き、薬草を探したり、しばしば川べりの汚泥や粘土に横たわったりします。同じ種である仲間たちに助けられることもよくありますが、それでも自由でいられるのです。もし仲間から攻撃されて死ぬようなことがあったとしても、それは彼らにとって残酷な行為ではなく、もはや身体を動かすことができなくなったときの彼らの了解事項であり、激しい苦しみなしに身体を離れることができます。それはまったくの安楽死とも呼べるもので、彼ら「患者」は黙って従うのです。

   しかし現在のあなた方の社会では、こうした自然な死に方は一番難しく、受け入れられないものであるはずです。なぜならあなた方の世界を支配する権力構造にとって、その死に方はまったく奨励されないものであるからです。しかし実際には本人が死を決めているならば、どんな医療の専門家であっても救うことはできません。その人のより深いレベルでの正常な生存欲求が、肉体を離れることを促すからです。その時が来ると、本人はそれを悟り、大いなる生命力に目覚めた魂は、傷んだ身体に収容されていることをもはや望まないのです。

   しかしここで、魂と肉体が自然に分かれようとするとき、あなた方の医者たちはあらゆる技術を駆使して手を尽くし、力ずくでその人を肉体の中に押し留めようとします。魂には自らの死の準備のための自然なメカニズムの動きが備わっており、身体的にもそれを容易にさせるように化学物質が分泌されて作用します。つまりわかりやすく言うと、魂は急な加速の衝撃を起こして、自らを速やかに身体の外へと弾き出そうとするのです。しかしながらその時用いられる薬剤の使用は、一方的にその動きを阻止してしまうのです。ある種の薬物の使用は助けになることがありますが、多くの場合、病院で投与される薬剤は単に意識を麻痺させるだけであり、むしろ身体自身が備える移行のプロセスを阻害してしまうのです。

   あなた方は「無力感」が強くなればなるほど、自らを癒す自己治癒の能力が使えなくなっていきます。そうなるとあなた方はそれを外に求め、医者や治療者など外部の力に投影するようになります。しかしたとえそこで、あなたの医者に対する信頼の観念が効いて症状が治って身体が楽になったとしても、あなたの自分自身に対する無力と不信感の観念はさらに深く侵害される可能性があります。

   つまり病の原因になっている自分の問題に対処して、有効な努力をすることがなければ、症状はまた別の形で現れることになり、こうして同じプロセスが繰り返されることになるのです。そして相変わらず内ではなく外へ向かい、医療全般への信頼感を持ち続け、あちこちの医者を次々と渡り歩くということになるでしょう。

   身体には身体としての統合性があり、たいていの病気は単にバランスが崩れたことを知らせる合図にすぎません。つまりあなたが自分自身に耳を傾け、それに従って内側を調整すべきだという身体からのメッセージなのです。しかしこうした調整が常に外部から、たとえば薬剤投与という形でなされてしまうと、身体に本来備わっている統合性が崩れることになり、身体と心との深い結びつきが乱されることになります。しかもその上、身体が本来持つ自然治癒力が鈍くなります。

   そうなると、本来なら身体内部の刺激によってはじめて引き起こされるはずの治療への誘引が、「外的な」手段によって活性化されてしまうことになります。そして、あなたの信頼はますます外部の何かに転移され、投影されるのです。これは一般的に、自己探求に必要な「内なる対話」ができなくなることを意味しており、本来なら自然に生じる自からの治癒の力が、外部の人々への依存という観念によってもたらされることになります。しかしそれも、そんなに長くは続きません。

   今話しているのは、主に西洋文明の西洋医学に関してです。
   しかしそうではない他のいくつかの文明では、特にあなた方にとっての過去の文明では、治療医はすべての人々の受け入れている自然という背景の中で癒しを行いました。自分ではすぐに治療「できない」と思う患者に「代わって」治療医が自然の力を導き入れ、病む人をその人自身の本来の源へと引き戻し、人間が本来持つ埋もれている力の感覚を呼び起こしたのです。力と行動の感覚、これこそが身体的な生命の根源なのです。無力だと感じる時、あなたが自分をそう見なす時、あなたの中の何かが死ぬのです。


         セス・ブック
      book 「個人的現実の本質」 ジェーン・ロバーツ著 ロバート・F・バッツ記録
                      ナチュラルスピリット

                          抜粋

バイブレーション(波動)が変わるとき

   この世の中があなたの目にどう映るかで、あなたのバイブレーション(波動)レベルがどれ位かがはっきりわかります。もし、この世界が美しく安全な場所に見えるとすれば、あなたのバイブレーションはとても細かいのです。もし、世界が陰気で退屈で恐ろしいところのように思えるならば、あなたのバイブレーションは粗いのです。ですからあなたはバイブレーションの粗い自分を、もっと愛してあげる必要があるというわけです。自分の内側や外側にあなたが見ているものを変える必要はまったくありません。ただ、あなたの「ものの見方」を変えれば良いのです。

   困難に直面した時、自分の意識を縮こませてそこから逃げようとしても無駄なことです。
   なぜならいつかは再び、今あなたが逃げて転がり落ちたその山へまた登らなければならないからです。遅かれ、早かれ、現生でか、それとも他の転生においてかはわかりませんが、必ずもう一度そこに戻らざるを得ないのです。つまり私たちの魂という本質は時間というものを超越して存在しているのです。

   不愉快だから、苦しいから、醜いことだからと言って、そこから衝動的に目をそらさないことです。それよりも、そのように嫌悪感をもって物事を見ている自分を認めている
、そうした自分を愛しているとはっきり決心することが大切です。口に出して言ってみるのも効果があります。それが美しく見えるようになるまで、じっと見守っているのがよいのです。せめてそのことに無関心でいられるようになるまでは、あなたの意識をそこから逸(そ)らさないでいることです。

   しかしながら自分をテストするために、そのような出来事を探したり、世界中の悲惨な出来事を数え上げる必要はありません。ただあなたの目の前に悪いことが生じた時は、それから目を逸らさずに、出来る限りそのことをよく見つめてください。つまり、その出来事と共にいることが大切なのです。

   何か嫌なことがあると、自分の部屋に閉じこもったり、その町を逃げ出したりするものですが、嫌なことから急に逃げようとすると、あなたは低いバイブレーションに捕まってしまいます。そして何かひとつ、嫌なことからあわてて逃げ出すと、次々に同じような目に遭ったりするのです。そして嫌なことは次々と起こり、あなたを悩ませ続けることになります。そしてあなたがそれに耐え、さらにはそれらを愛することができるようになると、あなたのバイブレーション(波動)が上がり、嫌なことは起こらなくなります。

   嫌なことでも、目を開いて見据えてください。
   そしてそれを愛し、それから抜け出せばよいのです。一方であなたの意識をもっと楽しいことに向けてもかまいません。自由とはそのような時のためのものなのです。誰にも自由意志というものがある限り、あなたがどんな高いレベルにいたとしても、あなたの嫌いなバイブレーションを発している人はいるものです。大切なことは、後味の悪い思いをしないように、その人から遠ざかるということです。

   不愉快なことを愛するという体験を二、三回してしまうと、誰かがあなたを酷い目に合わせたり、不愉快な気分にさせたりするまえに、つまりコーヒーカップが下に落っこちる前に素早くそれを察知して受け止めるように、あまり巻き込まれないうちに的確な行動が取れるようになります。もしあなたがそれに気がつかないとしたら、あなたの注意が足りないのです。ただ心をオープンにして感覚を研ぎ澄まし、どんな可能性にも逆らわないことです。そうすればすべての情報を受け取れるようになるので、あなたの人生にもう悪いことが起こらなくなってきます。

   常に注意を怠らず、時には「ノー」といってもよいのです。
   他の人があなたに何をしようと、あなたに起きることはあなたの責任です。ですから外部のいかなる出来事も、あなたの感情や体験を左右することは絶対にあり得ないことなのです。なぜならあなたの人生の体験は、あなたのバイブレーション(波動)に100%支配されているからです。あなたのバイブレーションがキャッチした情報と、その情報にあなたがどのように対応するかによって、あなたの人生は決まります。

   あなたのバイブレーションが低ければ低いほど、あなたの人生は不愉快なものになります。しょっちゅう人と対立し、常にイライラし、苦痛に満ちた人生になってしまうでしょう。そしてすべての物事は、突然何の前触れもなく起こってくるように見えて、あなたにはどうにも手の施しようがなく感じられるのです。しかもどこにも出口が見つからないので、時間は耐え難いほどに長く感じられるでしょう。

   しかし、もしあなたが「ものの見方」を変えることができ、自分のバイブレーションを高めることができるならば、いつでもどのような問題でも上手く避けられるようになり、文字通りあなたの世界は変わり、良い方向へと変わっていくのです。どの場合においても愛はもっとも強力な魔法となって、地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはすでに天国に住んでいるのです。

   自分は汚れていると信じて、自分を一生懸命浄化しよう努力したりすると、かえってあなたの霊的な成長は阻害されてしまいます。そうではなくむしろ、自分の汚れている部分を受け入れ、愛することをまず学ばなければなりません。もし人と人との間には、霊的な地位や悟りの高低などがあると思っていれば、あなたは人に対して、愛のない高慢な態度を示す可能性があります。つまり宇宙正義というものは正確に実行されているので、あなたに愛が欠けていると、それはすぐ目に見える現象として表れてくるからです。

   そこであなたは不思議に思い始めてこう言います。
   
   「私はこんなに一生懸命自分を浄化し、高めようと努力しているのに、どうしてこんなことばかり起こるのだろう? どうして私はみんなから好かれないのだろう?」

   つまりは多少汚くても、腐っていようと、愛ほど清いものはないからです。


           book 「なまけ者のさとり方」 タデウス・ゴラス著 地湧社

                           抜粋

覚醒とは自分を愛することから始まる

   この宇宙はそれが何であるかはともかく、ただ一種類のものからできています。
   それが何であるかは、実は定義できないし、それは今詮索する必要はありません。一つひとつの生きものの基本的な営みは、拡張することと収縮することです。つまり広がることと、縮むことと言ってもよいでしょう。拡張した生きものは「スペース」となって四方へ浸透してゆき、一方収縮したものはより濃縮し、「かたまり」になります。

   私たちは個人としてもグループとしても、「スペース」「エネルギー」「かたまり」のうちのどれかになって見えます。そしてそれは、私たちが自分で選んだ拡張と収縮の割合によって決まってきます。つまりその時に、どんなバイブレーション(波動)を私たちが出しているかによって決まるのです。それぞれの存在は、自らのバイブレーションを自分でコントロールしているのです。

   完全に拡張した存在は「スペース」、つまり空間状態となります。
   拡張しているとどこにもでも浸透できるので、私たちは他の拡張している存在と同じスペースにいることができます。実際、宇宙にあるすべてのものが一つのスペースになることも可能なのです。この広がりを、私たちは意識の広がり、理解の深まり、あるいは魂の広がりとして体験します。その体験をどう呼ぶかは各人の自由です。完全に広がりきったとき、私たちは完全な意識の拡大、つまりすべてのものと一体となった感覚を体験します。

   そのレベルに達すると、他のどんなバイブレーションにも、他の存在のどのような行動に対してもまったく抵抗しなくなります。つまり時間を越えた至福感や意識の知覚、感覚の無限の広がりを味わうのです。この状態を「スペース」と表現していますが、このスペース状態は私たちの誰もが達することのできる体験です。ただこの地上においては、その状態を正確に説明することは難しく、なぜならこの感覚は無限であるからです。つまり「スペース」と定義した瞬間に、それは限界のあるものになってしまうからです。

   どんな言葉を使うかは問題ではありません。
   私たちは存在し、宇宙も存在しているからです。そしてこの拡大と収縮の理論を、私たち人間の現実の世界にあてはめてその真偽をテストしてみることもできるのです。そしてこの理論は、原子や素粒子の学問分野ではすべてあてはまることがわかっています。

   人は収縮しきっていると、塊り(かたまり)となり、完全に内にこもってしまいます。
   収縮すればするほど、彼は他の人と同じスペースを共有することができなくなります。そして恐れと無感動、憎しみ、悪意、自信喪失、その他ありとあらゆる否定的な感情を経験するのです。極端な場合には、自分が気が狂ったように感じ、あらゆる人やあらゆるものに抵抗し、自分の意識をまったくコントロールできないように感じます。

   もちろんこうした感情は、かたまりのレベルのバイブレーション特有のものなので、彼がそこから広がり、自分の考えや、見たり感じたりしていることに逆らうのをやめさえすれば、いつでもその状態から抜け出すことができます。

   人が拡張と収縮を繰り返しているなかにいるとき、彼はエネルギー状態にあります。
   私の考えでは、中間の地点、つまり50%拡張し、50%収縮している状態にいると、人は論理的で自己中心的でない、いわゆるエゴのない状態にあり、予測可能な行動の仕方をします。これは物理学で言うエネルギーのゼロ・ポイントであり、私たちが広がってより高い意識レベルに至る時に通過する、エゴがなくなる点でもあります。この場合の「エネルギー」とは、客観的に測定できる量的なものではなく、スペースやかたまりというのと同じく、存在のある一つの状態を表しています。

   エネルギー状態にいる人は周囲の人々に対して、ドミノゲームのようにある一定の反応の仕方を示します。そのエネルギー状態の人がスペース状態の人に会うと、エネルギー状態にある人は高揚感を感じ、バイブレーションが細やかになり、自分が自由になったように感じます。一方、かたまり状態の人に会うと、彼はエネルギーがなくなったように感じ、バイブレーションが粗くなり、圧迫感や混乱を感じ始めるようになります。

   この宇宙は、拡張と収縮の数限りない組み合わせと、あらゆる振動数で振動している無数の存在からなる、壮大な調和そのものなのです。それぞれの振動数と拡張と収縮の組み合わせには、それに固有な思想や感情が存在しています。つまりそれぞれのレベルによって、人間同士の関わり合いについても違って見えてくるということです。

   この宇宙全体が私たちと同じものからできています。
   原子をつくっている粒子はそれぞれみな生きています。ですから分子や細胞は、そうした生きているものの集合体なのです。エネルギーとは、いっせいに振動しているそれらの集合体である私たち全体のことです。そしてスペースとは、そうした完全な幸福感に浸りきっている、私たちをなしている仲間の集まりなのです。

   ですから生命あるものといわゆる物質と言われるものとの間にも、まったく何の違いもありません。なぜならどちらも、すべてが同じ生命を持った原子からなる粒子の寄せ集めからなっているからです。どちらも「かたまり」から「エネルギー」に変わることができるし、「エネルギー」は「スペース」に変わることができます。その逆も可能です。

   つまり自分たちの仲間がかたまりとしての物質に見えたり、エネルギーに見えたり、スペースに見えたりするのは、自分がどれだけ意識を縮ませて「かたまり」の状態にいるかによって決まってくるのです。私たちは常に、必ず自分のバイブレーションのレベルに応じたものの見方と体験をしているのです。このことは私たちのすべてのことにあてはまります。この真実は誰かが考えたことではなく、あなたの内に初めから備わっているものです。

   つまり、「私たちはすべて同等であり、誰でもがすべてのことを体験し、行なう可能性を持っている」という真理から導かれる真実なのです。すべての人や物は平等だ、という原則に基づいた法則にしたがっているなら、私たちは自分の好きなように、何をしてもかまわないのです。多分、多くの人々が、今の自分の状態を不満に感じているのではないかと思います。しかし私たちがそのような状態にいるのも、自分で決めて、愛を広げたり、愛を引っ込めたりした結果なのです。

   どんな頭脳と肉体を持ち、どんな社会にどの家族の一員として、どの国のいつの時代に生まれるかさえ、あなたはすべてを自分で決めてきています。そこにはあなた以外の誰一人もそれに介入してはいないのです。それだけでなく、あなたは他人から何かを強制されたことだって一度もないのです。毎日の一瞬一瞬の体験に、完璧な宇宙の正義が実現しています。ですから私たちはもっとのんびりしてもいいのです。この宇宙には秘密など何一つないし、誰かのことだけ忘れられてしまったり、見捨てられてしまったりすることは一切ないからです。

   私たちはすべて、同じ種類の存在であり、愛や意識を広げることもできれば、縮んで頑なになることもできます。そして私たちが為すべきことはただ一つ、愛や意識を広げるということだけなのです。あなたの心や身体だけでなく、まわりにあるものや人々のすべてに、豊かに愛を込めてあなたの意識を広げてあげることなのです。そしてそのすべてを認め、あるがままを受け入れてあげてください。

   愛を広げるということは、この宇宙に存在するすべての人々が今すぐにもできることです。意識を広げ、愛を広げるなら私たちは自由になります。それ以外のことはなにも必要ではないのです。善行を積んだり、逆に悪事を働いたりするのは、実は私たちにとってそれはほんの二次的なことに過ぎないのです。あなたが今どんなことをしていようとも、そうしている自分をそのまま丸ごと愛してください。どんなことを考えていようと、そんな自分を愛してください。愛ということについて、自分の態度や行動を変えてゆけばそれですべてよいのです。愛するということがよくわからなければ、それがよくわからない自分を愛すればよいのです。

   私たちが互いに差し出す愛よりも大切なものは、この世界にはありません。
   しかもそれが、目に見えるような形で表現されているかどうかは問題ではないのです。精神的に、霊的に、自分が良い状態にいるかどうかなどと心配するのは無益なことです。もちろん心配してもかまいません。でも、今のあなたの状態を愛せるようにならないと、あなたは今よりも高い状態へ至ることはできないのです。


           book 「なまけ者のさとり方」 タデウス・ゴラス著 地湧社

                          抜粋

すべての感情は思考の現れ

   その時々にどんな感情を抱くかは、それぞれの個人が持つ観念の性質によってかなり違ってきます。あなた方は自分の思考という観念を知らなければ、自分の感情を理解することはできません。なぜなら思考という思いが感情を生じさせるので、まず自分の意識にある思いという観念に気がつくようにならないならば、なぜわけもなく攻撃的になったり、動揺したり、落ち込んだりと感情に突き動かされるかを理解することはできないからです。

   たとえば一般的に、落ち込むときのもっとも大きな原因の一つは、外から強いられる環境に対してであっても、自分の内側から湧き上がる強い感情に対してでも、自分は無力で何もできないという意識的な思い込みの観念にあります。そしてあなた方の心理学や宗教や科学などそれらのすべてが、何らかの方法で意識が本来持つ「指揮者」としての特質を剥ぎ取るように働き、あなた方が自分の意識を「よそ者」扱いすることで、内的な混乱を一層大きくしてきました。

   また一方で「ポジティブ思考」派は、「ネガティブ」から眼を逸らさせることで状態を前に進ませようとしますが、何しろ今の混乱状態にあるあなた方にとって、受け入れたくても受け入れられないようなポジティブな観念を無理やり押し付けられる場合、多くの場合益よりも害のほうが大きいのです。そのような人生哲学の多くが、「ネガティブ」な考えや感情を抱くことに対してあなた方に恐れの気持ちを与えるはずです。

   どのような場合であっても、自分が感じる経験や行動のきっかけになるものは、常にあなたの思考という観念の中にあります。ですから自分の感情や行動を知ることで、自分がどのような思い込みと思考をしているかを意識的に知ることができます。もし自分は欠点ばかりのダメな人間で、罪悪感がいっぱいの状態であるなら、そのような観念を自分が受け入れるに至った出来事やさまざまないきさつがあるはずで、それらの幾つかの思い込みのパターンにはまって反応している可能性があります。

   自分がやり返したくても、相手が自分よりも強いように思えたり、やっつけてやりたいという攻撃的な感情があることを恐ろしく感じるでしょう。そういう感情をすべて悪いものだと思い込むので、あなたはそれを押し隠し、ますます罪悪感が強くなります。そしてそれは自分自身に対する攻撃性を生み出し、自らの無価値感をさらに深めることになります。

   さて、この状況で、「もっと良いことを考えるように、イラ立ちを感じたらその考えをすぐ愛と光に向けるように」と指示するような本を読むと困ったことになります。そういった練習をするほど、あなたは自分の中に自然に湧きあがってくる感情をいけないことだと考え、もっと怖れるようになるからです。またそうすることで、なぜ自分がそのような感情を抱いているかについてますますわからなくなり、それらをより巧妙に自分に隠すようになるのです。そうした状況はまだ病気として現れてはいなくても、やがて何らかの不具合をあなたに引き起こすことになります。

   そういうとき、あなたが「良く」あろうと懸命になればなるほど、どこかで否定されている感情のゆえに、ますます自分はだめな人間だと思えてくるのです。ですから自分の中に起きてくる感情や思いを一つ残らず見逃さず、客観的に見ることが大切です。不愉快な感情が湧くのを感じたら、少し時間をとってその原因を見極めることです。そうすれば思っていたよりずっと容易に原因がわかるはずです。その感情をそのときの自分のものと認めてください。それを心の奥に押し込んだり、見ないように無視したり、あるいは「良い考え」だと思うものと入れ替えようとしてはいけません。

   まずは現実にそこにある自分の感情に気づくことです。
   時間をかけて自分の感情を生み出した観念に気づくようになっていくほど、そうした考えがどのように自動的に一定の感情を自分にもたらしているかがわかってきます。自分に自信のある人は軽く扱われてもいちいち腹を立てたりしないし、恨んだりしません。しかし自分の価値を確信できない人はそのつど不愉快になり、激怒します。あなたが感情の自由な流れを妨げなければ、感情は常にそれを生み出している思考という観念へとあなたを連れていくのです。

   感情は常に、体内の化学的バランスとホルモンの量を変化させています。
   それが危険な状態になるのは、あなたが自分の感情を生み出す思考という意識の中身を直視しようとしないときなのです。自分を知ろうとつとめ、自分が経験している本質を直視しようと意志するときでさえ、感情はあなたがその行動を始めるためのエネルギーとなってあなたの役に立つのです。

   これを、あなたの代わりにできる人はいません。
   あなたはこれまで、健康な心とは、いつも陽気で意志が強く親切で、決して泣いたり落ち込んだりしないことだと思い、そのように聞いたことがあるかもしれません。しかしながらもしそのように信じているとすれば、人間としての本来の自然な生き方である経験を否定することになり、本来、心や身体を浄化してくれるはずの感情の流れを妨げることになります。

   もしあなたが感情は危険なものだと信じ込んでいるならば、その考え方はあらゆる感情に対する恐れを生み出すことになり、たとえば自分が「分別ある」平静な態度を保てなかった場合には、ほとんどパニックのようになってしまうでしょう。するとあなたにとって感情とは、まったく思いがけず襲ってくる途方もなく強い力であるので、何が何でも押さえ込まなくてはならないものと感じるのです。自然な感情を押さえつけて絞め殺そうとすれば、その結果は必ず甚大な被害をあなたにもたらすでしょう。

   しかしながらその原因は、あなたの持つ考え方という観念そのものにあるのであって、感情にあるのではありません。

   あなたの意識はあなたに本来備わっているすべての能力を、現実の本質についてあなたが抱いている観念に一致させる役割を担っており、その力量は計り知れないものがあります。そこにはあなたが持つ創造性のもっとも奥深い局面と、あなたが未だおぼろげにしか気づいていない意識の持つ遥かな底力(そこじから)とも言うべきパワーがあるのです。


正常な攻撃性

   自分には幸せになる権利はないとか、それに値しないなどと信じていながら、意志の力だけで自分を幸せにすることはできません。同じく、攻撃的な考えや感情を表現するのは悪いことだと思っているなら、あなたはそれを解放することはできません。ですからどんな場合であっても、自分の考えという観念をしっかりと捉え、意識する必要があるのです。

   あなたの観念は、さまざまな種類の感情をどう「解釈すべきか」さえもあなたに命令します。たとえば多くの人々が、怒りは常にネガティブなものだと信じて疑いません。しかし怒りの感情は一定の条件下においては、もっとも自覚を呼び起こす治療効果の高い感情でもあるのです。自分が何年も、正反対の考えの間で板ばさみになって立ち往生していたことに気づき、それに対する怒りで奮起してまったく新しい自由な人生を歩み出すこともあります。

   正常な攻撃性は、基本的に自然なコミュニケーションの一つであり、特に社会においてはそうです。つまり怒りとは、あなた方の言葉で言うと相手の非や逸脱を伝える方法であり、よってそれは暴力を引き起こすのではなく、防ぐための手段なのです。

   動物の場合、自然な攻撃性は儀式化されていながらも、完全に自然のままです。
   彼らは互いの合図を理解し、それを姿勢やしぐさで示し、そのようにコミュニケーションをとることで相手との関係を知るのです。最終的な戦いになるまでに、動物たちはそういった非常に込み入った象徴的な行為を長々と交わすのですが、実はその攻撃的行動によって戦いが回避されることのほうがずっと多いのです。

   しかしあなた方人間は、攻撃性に関するまったく矛盾した多くの考え方を強く教え込まれているために、それにまつわる観念が、社会的にも個人的にも数多くの問題を引き起こしています。あなた方の社会では、自然な攻撃性によるコミュニケーションは崩壊してしまいました。なぜなら攻撃性と暴力とを取り違えており、攻撃性の創造的な働きや、暴力を防ぐコミュニケーションとしての目的が理解されていないからです。

   それどころか、攻撃性に含まれる多くのポジティブな価値は無視され、しかもわざわざ非常な努力をはらって攻撃的な要素が伝わらないように抑え込んでいるのです。その結果、その自然な力は堰き止められ、ついに暴力となって爆発するのです。つまり、暴力とは歪められた攻撃性なのです。


         セス・ブック
      book 「個人的現実の本質」 ジェーン・ロバーツ著 ロバート・F・バッツ記録
                      ナチュラルスピリット

                           抜粋

思考という観念が病気という不協和音をつくりだすとき

   健康であるためにはあなたは健康を信じていなければなりません。
   そしてあなた方にとって良い医者であるとは、あなたの観念を変えることができる人のことです。つまり医者は、あなたが病気に対して抱いている観念を、健康の概念と取り替えてくれる人でなければなりません。なぜなら病気を生み出した観念というものが変わらなければ、どのような治療法や薬を用いても大した効果は期待できないでしょう。

   しかしながら残念なことに、あなた方人類は病いと思えるすべてのものに病名というレッテルを貼るようになって以来、途方もなく複雑な病気の地図とも言えるものを造り上げてしまいました。それはかつてないほどの、極めて効率的で細かく分類されたものでした。死んだ組織を調べ、それを死滅させた原因を調べ、その病気の性質を見つけようとしました。医者はすべての人間を病原菌を媒介するもの、もしくは病気を生み出すものと見なしました。つまり彼ら医者たちは症状を分類して病名をつけることで、ある意味彼ら自身の手によって病気を作り出してしまったのです。

   古来から人々の癒しに関わってきた人々がいました。
   彼らのやり方は患者とじかに接することで、その人の抱く信念や思い込みなどを探り、どのようなことがそうした症状を生み出したかを探ることに時間をかけ、そうしたことに効果的な暗示を与える方法などによく精通していました。その手法のなかには心理的なショックを与えることで自覚をもたらしたり、患者が自分の中に巣食っていると信じ込んでいる病いから抜け出せるように、ある意味「洗脳」の効果によって、実に効果的に患者を癒したのです。

   しかし現代の西洋医学ともいうべき医療は、残念ながらその医療体系自体が持つ観念によって妨げられていると言えます。それらの観念はしばしば医療体制を堅固にすることで、病気であることや不健康であることを当たり前とする考え方を人々に与えるだけでなく、それらの不健康を作り出している背後の観念をよりいっそう強化するのです。そしてここでもまた互いの暗黙のルールの取り決めであるかのように、医者と患者とのあいだで「気づかないふり」をしながら「かくれんぼ」協定が結ばれているのです。

   つまり当然、医者も患者もお互いを必要だと信じています。
   そしてこの背後にはある観念の精神的なパターンというものが存在します。患者はしばしば自分が抱く観念によって、自分には欠けていると思い込んでいる「内なる知識や知恵の力」を無視し、自分自身を医者に丸投げしてしまいます。また、「そうではない」と気づいてはいても、患者は医者を全能だと思い込みたいのです。

   そして医者の側は、その病気に対する無力感を患者に伝えます。
   つまり、あまりにも多くの場合において医者たちは、不健康や病気に対する患者が持つ「断固とした観念」を共有してしまっているのです。それだけでなく医者が病気や不健康の数あるパターンを見せ、患者の側はそれのどれが当てはまるかどうかだけを、逐一試しているような状態にあります。私は医療が役に立たないとか、効果がないと言っているのではありません。そうではなく、医療というものが本来持つべき、ポジティブな影響力の多くが無視されていることを言いたいのです。

   あなた方の社会では医者は非常に尊敬される立場にあるので、彼らの与える暗示はとりわけ重んじられます。ですからそのような状況と精神状態にある患者というものは、医者から言われたことを通常よりも抵抗なく受け入れやすいのです。そのゆえに
病名をつけたり、病気のレッテルを貼ったりすることは、有害な慣行です。そうすることで、精神とともにある肉体に本来備わる身体的流動性や、絶えず変化する肉体的資質の動きのほとんどを阻止し、否定してしまうのです。あなたは「こういった病気」に罹患していると告げられます。「それ」は突然、思いもかけずあなたのもっとも大切な器官を襲ったというわけです。そのときあなたのなかに何が起こるのでしょうか。

   一般的にあなた方が教えられているのは、あなた自身の感情や観念、価値感といったものは、あなたの肉体に突然降りかかった、そうした不運な状況とは「何の関係もない」とされていることです。そのために多くの場合、あなた方患者は自分を無力と感じ、たまたま迷い込んだウイルスに対してなす術がないと感じています。しかし実を言うと、あなた方は自分の観念という思い込みの性質に応じて、自ら罹(かか)る病気の種類でさえも選択しているのです。

   健康を害することはないと信じていれば、病気に罹ることはありません。
   これはまったくの真実で、現実的なことです。あなたには本来備わったエネルギーと生命力に満ちた身体全体が持つ意識があり、その「意識」は肉体のいかなるアンバランスをも自動修正する能力を持っています。しかしながら同時に、あなたの意識も肉体に影響を与えています。たとえばあなたの筋肉は、あなたが筋肉に告げることをそのまま信じるのです。それは筋肉だけではなく、あなたの肉体のすべての部位においてそうなのです。

   自分を治してくれるのは医者だけだと信じているあいだは、医者に診てもらった方がいいでしょう。なぜならあなたのその観念にとっては、医者だけがあなたを助けられる唯一の存在だからです。しかしその観念はあなたを制限してしまうので、その観念が変わらない限りは、一つの病気を治してもらったとしても、それがまた別の病気に変わるだけのことでしょう。

   そのことは、スピリチュアルなヒーリングと呼ばれるものにも同じことが言えます。
   つまりヒーラーが集中的にエネルギーを用いて病んだ部分を治してくれたとしても、あなたの元の観念が変わらない限り、いずれ再びほかの部分に症状が現れるからです。しかし時にはヒーラーや医者が身体的症状を効果的に癒しながら、あなたの観念に影響を与えるようなヒントを示してくれることがあるでしょう。それは自分を癒すエネルギーは本来自分が持っているとするヒントであり、その結果、その「啓示」は、あなたの健康に関する概念をまったく変えてしまうかもしれないのです。

   そしてあなたはこれまでの不健康が、自分の観念によって引き起こされていたことに気づくでしょう。もし今、あなたが何らかの問題を身体に抱えているならば、身体の健康な部分やまだきちんと機能しているところに注意を集中してみてください。そこでもあなたの観念による指示に従って、一つひとつの細胞があなたのために働いているのです。

   内なる「音」は非常に重要なものです。
   あなた方にはその物理的な「音」は聴くことができませんが、あなたの身体を構成している細胞の原子や分子はそれぞれが音を持っています。そして身体の各器官もそれ独自の音を持っており、そのゆえに身体のどこかが具合悪い場合には「内なる音」は不協和音を奏でています。

   その不調和な音の始まりはあなた自身の思考という観念であり、それが創り出した「内なる音」はあなたの全体に鳴り響き、ある部分を具合悪くさせることであなたに警鐘を鳴らしているのです。ですからそれに気づいた時点で、そうしたネガティブな観念による暗示を自分自身に繰り返すことで、その内なる音を強化しないことが重要です。「内なる音」はある種の光と同じように、常にあなたの肉体を流れているのです。


         セス・ブック
      book 「個人的現実の本質」 ジェーン・ロバーツ著 ロバート・F・バッツ記録
                      ナチュラルスピリット

                          抜粋      
   

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