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・同じことを無意味に繰り返すだけの「連鎖」を切る

   一つの原則を覚えておきなさい。
   それはあなたに起こることは何であれ、それを自分が理解していようといまいと、何らかの意味であなたに必要だということだ。

Q、 私は初めて自分の両親に腹を立てています。
   彼らは素朴な人々ですが、彼らがあなたを理解できないのは、彼らのせいではないと自分に言い聞かせています。ですが私の怒りはあまりにも愛と矛盾するので、それが自分を傷つけます。どうか助けてください。


   かわいそうな両親が知らずに無意識のうちに、子どもたちにしていることを理解したなら、どんな子どもでも腹を立てるだろう。彼らの努力はすべて、子どもに良かれと思ってしてきたことだ。そうした彼らの意図は良いが、その意識は無に等しい。そしてほとんどの場合、無意識でいる人々の中にある善意は危険なものだ。彼らは自分が意図した結果をもたらすことができないばかりか、まさにその反対を生み出すこともある。

   あらゆる親は、この世に素晴らしい子どもをもたらそうと試みる。
   だが世間を見回す限り、この世はまさに孤児院のようであり、親というものは存在してこなかったと言える。そして実際に孤児院であったならば、その方が遥かにましだっただろう。なぜなら少なくとも、人は自分自身でいることができ、自分に干渉して介入する両親はいなかったはずだから。

   だからあなたの怒りは自然なものだ。
   だがその怒りは役には立たないので、それが両親を助けることはないが、それは自分を傷つける。ゴータマ・ブッダは不思議な言葉を言ったと伝えられている。それは人は腹を立てることで、誰か他人の失敗の故に自分を罰しているのだという。つまり腹を立てることで、他の誰かの過ちのために自分を罰するという言葉は、初めて聴く時には実に不思議な言葉に思える。

知らずに同じことを無意味に繰り返すだけの「連鎖」

   あなたの両親の行為は、すでに20年、30年前に遡るが、あなたが腹を立てているのは「今」だ。そしてあなたの怒りは自らに傷を作るだけで、誰も助けることにならない。何であれ、起こったことは起こったのだということを、あなたはもっと理解しなければならない。あなたの両親は、そのまた両親によって条件付けられていることから、誰にその責任があるのかは見つけることはできない。それが世代から世代へと受け継がれてきたものだ。

   あなたの両親は、自分がされたことと同じことをする人々で、彼らは犠牲者だと言える。それに気づくなら、あなたは彼らに同情を感じ、自分が同じことを自分の人生で繰り返さないことを喜びに思うだろう。あなたが子どもを持とうと決心したなら、それに喜びを感じるだろう。なぜならあなたがその悪循環を断つつもりであることと、あなたにまで続いて来たこの「連鎖」のくびきから、今飛び出そうとしているからだ。自分のところでその「連鎖」を止めること。だからあなたは自分の子どもにも、他の誰の子どもにもそれをすることはないだろう。

   あなたの両親は、自分たち親子の間に何が起きているかを、説明してくれる師を持てるほどに幸運ではなかった。だからあなたは、彼らが与えてくれた優しい気持ちや慈悲、愛に満ちた気持ちを感じてみるべきだ。何であれ、彼らが無意識の内に知らずに良かれと思ってしたことであり、彼らにはそれ以外に方法はなかった。自分が知っている限りにおいて、すべてのことをあなたに試みただけであり、彼らは惨めだった。だからこの世界に、自分と同じ惨めな人間を生み出すことになった。

   だが、なぜ自分が惨めなのかについての洞察がなかった。
   だがあなたには、なぜ人間は惨めになるのかを理解する明晰さがある。そしてひとたび、不幸というものがどのように生み出されるのかを理解すれば、あなたは他の誰かに同じことを引き起こさずにすむ。

   あなたの両親には同情しなさい。
   彼らは自分にできることはすべてやり、一生懸命やったのだ。だが、人の心の働き方について何も知らなかった。どうすれば母親になれるのか、どうすれば父親になれるのかを教えられる代わりに、彼らはキリスト教徒になる方法や、マルクス主義者になる方法、経営者や配管工、哲学者になる方法を教わった。そういうものはすべて良いもので必要なものだが、そこには基本的なことが欠けている。

   子どもを産むつもりなら、その人たちにとって最も重要な教えは、母親になる父親になる方法であるべきだ。子どもを産めば、父親、母親としての在り方は当然知っているものとされてきた。 

   あなたは幸運なことに、自分の両親が置かれていた状況を理解できる。
   彼らはあなたに特別に何かをしたわけではなく、自分のところに生まれて来た子どもなら、誰であれ同じことをしたに違いない。なぜなら彼らはそのようにプログラムされており、彼らは無力だった。そして無力な人々に腹を立てるのは正しくないし、不当であるばかりか、それはよりあなたにとって害になる。

   あなたの両親が私を理解できないことを心配する必要はない。
   全世界が私を理解することはできないし、あなたの両親は正常な人々だ。だが、彼らはただ集合意識に従って生きているに過ぎず、その方が安全だからだ。だがあなたはその群集の外に飛び出した。あなたは冒険家で、危険な道を選んだ。

   だがあなたは、彼らの助けになることができる。
   あなたはもっと意識的で、もっと油断なく目覚め、もっと愛に満ちた個人になることによって、そういうあなたを見せることによって、あなたは彼らを変えられる。それは議論によってではないし、議論は決して誰も変えはしない。だからあなたは腹を立てて、もはや存在しない過去との闘いに時間とエネルギーを浪費するよりも、自分本来の個性において魅力的になるように全エネルギーを注ぎなさい。

   こういうものしか真の議論とはなり得ない。
   だから一言も言う必要はない。あなたのすべてと応答が人々に変化をもたらす。本当の個性の小さな漣(さざなみ)を創り出しなさい。そうすればその小さな波は、たくさんの人に到達するだろう。彼らは自分の目を信じないかもしれない。何しろ彼らが宗教について知っているもののすべてとは、何一つ起こることのない日曜日の教会しかないのだから。一生の間、毎日曜日に教会に出かけては、まさに何も変わらず同じままで家に帰って来る。

   彼らが宗教において知っているのは、バイブルやコーランや(バガバド)ギータでしかない。 彼らはそれを読み続けるが、何一つ起こらない。それは彼らが一つのこと、つまり自分は生きた存在であるのに、本は死んだものであることを知らないからだ。

   そして説教をしている人間は単なる専門家であり、彼はその説教を死んだ本によって準備し、同じ説教を繰り返し続ける。だが誰も聴いてはいないから、誰も受け止めてはいない。そしてみなは、その説教が自分を変えることはないのを知っている。何しろその説教は、説教者自身すら変えてはいないからだ。彼はみんなと同じで、もしかしたらそれ以上に月並みだ。


         book『 神秘家の道 』  OSHO   市民出版社

                           抜粋
           
      

 

・本来の力と権威を取り戻し、自分の足で立つ

Q、  先日、あなたがジャーナリストたちに断固として話すのを聞きながら、自分がいかに臆病で、人々を怖れているのかを感じました。それを自分はどうすればいいのでしょうか?

   私にとって話すというのは自然発生的なことなので、みんながそれを受け入れようとしている中で、何も断固として話す必要などない。みんな受容的であればあるほど、より私は断言的である必要がなくなる。だがジャーナリストに向かって話すとき、私は自然に極めて断定的になる。なぜならそうしないと彼らには聞こえないからだ。そうしないと彼らには聞こえない。

   私に次のように表明したジャーナリストはたくさんいる。
   「不思議なんですが、我々は政治家や他の人々を相手にインタヴューしている時、コントロールというか支配権は完全にこっちにあるのを感じるものですが、あなたが相手だと落ち着かなくなってくる。こんなことは他の人とでは起こったことがありません。どうしてあなたが相手だと落ち着かなくなるんでしょう?」

   私は言った。 「唯一の理由は、私が自分のイメージなど気にしていないからだ。つまり、私はあなたがどんな記事を書くかなどまったく気にしていない。その瞬間、私がただ気にかけていることは、何であれ自分が言っていることがあなたに届くかどうかだけだ。それ以外には私には何の関心もない。私はもうこの7年間というもの、どんな本も読んでいないし、どんな雑誌、新聞も読まず、ラジオも聞かず、テレビも見ていない。そういうものはすべて、ガラクタだからだ」

   政治家というものは、世論に依存している。
   彼らには尊厳などない。こちらが断固とするだけで、彼らはたちまち聴く用意がある。だがこちらが断固としていなければ、今度は向こうが断固とすることになる。政治家たちは常に、自分のイメージをどのように作るかと考えて話す。そしてごく謙虚でもの柔らかく、ジャーナリストが聞きたいと思うことなら何でも言う。

   ジャーナリストたちは、そういう人間たちを相手にする社会に慣れている。
   だが彼らが私に質問するとき、他の政治家の言葉を聴くのと同じでいるべきではない。そして、そのことが間違いなく私を断定的にするのだ!

   なぜなら彼らには、穏やかで謙虚であっては、こちらの声を届かせることはできないからだ。それは彼らには弱さと映る。それこそが、彼らが政治家たちを相手にする世界に慣れているからだ。だが私にはどんなイメージもない。だから私がジャーナリストを相手に話す時は、私の努力は、話したことが大衆に届くためではなく、話している相手に届くことだ。だから大衆に届くかどうかは二の次なのだ。もし届けばそれでいいし、そうならなくても心配する必要はない。

本来の力と権威を取り戻し、自分の足で立つ

   ところであなたはなぜ、人々が怖いのか?
   私はどこにいても、これまで一度も自分がよそ者のような気がしたことはない。その理由は単純で、どこにいようとも、本来人間はよそ者なのだ。だから今更、そんなことを感じる必要はないし、どこにいようとも、人はそうでしかあり得ない。私たちは本来、誰もが異邦人だ。一度このことを受け入れたならば、自分はこの場所で、あるいは他の場所で異邦人というよそ者であるのか、という問題はもうない。それがある場所ではよりはっきりし、あるいは少々あいまいであるだけのことで、我々のすべてが異邦人であることに変わりはない。

   だがどうして、あなたはそれを怖がるのか?
   その恐怖は、あなたが自分のことを人に良く思われたいと思っているためだ。その思いが、誰をも臆病にする。それがみんなを奴隷にする。それが、人に自分のことをよく思われたいという恐怖を生み出すのだ。つまり、知らない場所で知らない人が相手では、自分がどんなことをしても良く思ってはくれないかもしれない、という思いだ。

   あなたが、いつも人に認められる必要を感じているのは、自らが自分自身を受け入れていないからだ。だからその代用品として、人に認めてもらおうとするのだ。だがいったん、自分自身を受け入れたならば、人が自分のことを良く思おうが悪く思おうが問題ではなくなる。人がこちらをどう思うか、それは彼らの問題であってこちらの問題ではない。

   自分が自分のやり方で自らの人生を生きているならば、それを他人がどう考えるかは彼らの問題であって、彼らが考えることだ。だがほとんどの人々は、自分を受け入れていないために、しかも子どもの時から、自分はそのままではいけないのだという考えを絶えず吹き込まれ、言い聞かせられ、頭に叩き込まれてきた。こう振る舞うべきで、そのときはああ振る舞うべきで、そうして初めて自分は受け入れられるのだと。

   そしてその結果、人々が自分を受け入れてくれて評価してくれ、尊敬してくれたら、それが自分にとって、自分が良い人間なのだということを意味する。そしてこのことこそが、世界中の誰にとっても問題を作り出すことになっている。なぜならその価値基準で生きるようになると、誰もが他人の意見に依存するようになり、また誰もが、他人の判断に支配されるようになるからだ。

   こういう単純な事実を見て、私は他人の意見を気にするという考えを捨てた。
   するとそれは、まったく言い表せないような大きな自由を私に与えてくれた。ただ自分自身でいられるというこの大きな開放は、余計な心配をする必要がない。しかも世界には余りにも多くの人々がいる。もし私がそのあらゆる人たちについて、彼らが自分のことをどう思っているかを考えなければならないとしたら、私は生涯を、ただ自分についての他人の意見を集め続けては気にし、常にそのファイルを持ち運び、それとともに生きることになる。

   もしあなたが人々の中に出て行き、人と会うことを怖ろしく感じているならば、それはあなたが自分自身を酷く空虚なものに感じているということだ。あなたはそうあるべきではない。人は他のものではなく、自分自身で満ち溢れているべきだからだ。誰か他人の意見や評価ではなく、自分自身の活気と、心からの存在の喜びで溢れているべきだ。

   そしてそれこそが、私が意図しているものだ。
   瞑想は、人に本来の権威と力を取り戻させる。それは他人を支配したりするものではなく、誰であってもその人から奪うことのできない本質的な力、権威という「質」だ。それこそが、人間に本来備わる力なのだ。

   社会や世論などいつ変化するかわからない。
   今日それに自分の意見が一致しても、明日はそうではない。つまり今日、人々がみんなしてあなたを立派だ、聖者のような人だと持ち上げて褒め称えたとしても、明日になればみんながあなたを大罪人だと非難する。

   だから自分自身の足で立った方がいい。
   聖者であれ、大罪人であれ、自分が何であれ、誰1人あなたを持ち去ることができないように、ただ自分自身を拠り所にしていなさい。大衆の中の聖者であるよりは、自分自身の足で立つ罪人の方がましだ。そんな聖者は単なる借り物であり、自分自身はただの空虚な入れ物に過ぎない。


        book『 神秘家の道 』  OSHO    市民出版社

                           抜粋

・他人を見ることよりも、自分の内面を深く覗き込みなさい

Q、 私はどうしてこれほど、他の人と直接アイコンタクトすることが難しいのでしょうか?

   
そこにはさまざまな理由があるだろう。
   一つ考えられるのは、あなたの過去世が、目と目を直接合わせず、視線を落としていることが、女性にとって優美であると考えられている東半球にあったということだ。そこでは直接目を合わせるのは無作法で、若干威圧的なことと考えられている。だから東洋では女性は誰も、直接目と目を合わせることをしなかった。

   あなたが自分の過去世から、それを持って来ているということはあり得る。
   そして私には、それが事実に違いないことがわかる。なぜならあなたには、自分がつまらない人間だという感覚もあるからだ。これもまた、東洋が女性に与えた教えだ。つまり女性は無価値であり、女性であることから光明を得ることなどあり得ないという教えだ。だから女性はまず男性として生まれなければならず、そうして初めて光明に向かえると教えた。

   あなたは過去世で東洋にいただけではない。
   あなたは尼僧だっただろう。それも仏教の尼僧か、ジャイナ教の尼僧だ。こういう人たちは、自分の4フィート(約1メートル20センチ)先より前を見ることを許されていない。この人たちはこちらの言うことに耳を傾け、応答はするが、こちらを見ることはない。その理由は、尼僧は誰とも親しい関係を持ってはいけないということのようだ。

   心理学者の発見では、誰かの目をほんの2、3秒見るだけならそれは許されるし、互いにそれを偶然と考える。だがもし、それ以上長く見たとすれば、それは偶然ではなく、相手に介入しようとしていることになる。その相手がたまたま女性であったなら、それは絶対に不道徳なことだ、というのが東洋のやり方であり、あまり長く他人の目を覗き込むべきではないというのだ。

   「ならず者」を意味するヒンドゥスタン語が、「ルッチャ」であることを知ったら人は驚くだろう。そしてこれが、今私たちが話している問題への洞察を与えるだろう。ルッチャは「ロチャン」という言葉から来ており、それは「目」を意味するが、ルッチャとは、人を見つめて偶然の限界を通り越す者(ならず者)のことだ。だからその人は文明人ではなく、その振る舞いは無作法とされている。

   批評家を表わすヒンドゥ語、ヒンドゥスタン語は「アロチャック」だ。
   これもまたロチャンから来ている。そして批評家であるためには、何気なくではなく、できるだけ物事を深く覗き込まなければならない。そうして初めて、何が間違いで、何が正しいかを見つけることができる。だから批評とは、十分に深く長く見て初めて可能なことだ。アロチャックとルッチャは言語的には同じことを意味しており、ともに見つめるということから来ているが、その使い方が違うだけだ。

   さて、あなたにとって厄介なのは、あなたが東洋的思考を持ちながら、西洋に生まれたことだ。そして西洋の新しいやり方は、目と目を見つめ合うということだ。そこではそれが正直であり誠実なことだと考えられており、そこには真実がある。もし互いに話している相手が、そっぽを向いて決してこちらをまともに見ようとしないとすれば、その態度から間違いなく、相手が何かを隠しているということだ。それを追求されることを怖れて、絶対に相手の目を見つめたくない。なぜなら目とは、実にあからさまに全存在を明らかにするからだ。(略)

他人を見ることよりも、自分の内面をこそ深く覗き込みなさい

   純真な人間、真実な人間、誠実な人間には別な質というものがある。
   その目には、ある柔らかさと深さがある。だが表面的な人間には深さがなく、その目からはずる賢さが覗いている。だからもしあなたが、人々の目を直接見ることができなくても、その必要はない。あなたに必要なのは、自分自身の内側を覗くことであって、他人の目の中ではない。

   あなたは何世紀にもわたる過去世において、女性が優美であるように育てられた東洋にその過去世を持っている。東洋の女性には、慎ましく、攻撃的ではないあるやり方がある。人の目を覗き込むのは攻撃的なことで、優美ではないと考えられているからだ。私自身の経験では、東洋が女性の中に育ててきたこの優美さは、女性をより美しくしてきた。

   時々、私は不思議に思うことがある。
   それはミス・ユニバースのような、国を代表する美女とされる女性たちの写真を見たりする時、私には何かが根本的に間違っているという気がするからだ。東洋なら、ああいう女性がミス・ユニバースとして受け入れられることはない。彼女たちの振る舞いはすべて醜い。その顔は優美さを表わしてはいない。しかも彼女たちはほとんど裸体であり、何千人という人々の前で舞台の上を歩く。

   つまりそういった女性たちは、自分を単なる性的倒錯の対象に貶(おと)めているのだ。
   このような競争はすべて、ポルノグラフィーを求める男性によって発明されたものなのだ。東洋ではあのようなことはあり得ない。

   しかも、もっと過去に遡れば遡るほど、もっともっと、より優美であったことがわかるだろう。しかし今日の東洋の西洋化した現代都市では、そのような優美さはもはやどこにも見当たらない。それは彼らが西洋を模倣しようとし、しかもほとんど西洋化してしまったことにある。そうした東洋の本当の美しさは、まだ西洋がそれほど影響力を持っていないこうした国々の内陸地域にまだ残っている。彼らのしぐさや身のこなし、そうした様子のあらゆるものに、人間を超えたある種の「質」がある。

   だから、あなたは人の目を見ることについて心配する必要はない。
   人と比べて問題を作り出さないことだ。むしろそれを利用しなさい。他人の目の中を覗き込むことよりは、むしろあなたは自分自身の内面を覗き込みなさい。その場所こそが真の洞察の必要なところであり、それも深い洞察が必要なところだからだ。


               book 『 神秘家の道 』  OSHO   市民出版社

                         抜粋
   

・どこかで失くしてしまった魂の自由と剛毅さ

   私には苦しみは何もなかった。
   私は苦しむということの味を知らない。私は人々が苦しむのを見てきたし、その人々の中で起きているに違いないことを想像することはできる。だがこの生涯では、私は一瞬たりとも苦しんだことはなかった。だからあなたの言う通りで、私はほとんど光明を得て生まれて来た。

   私の過去世では、ほんの少し未完成なままに残されていた仕事があった。
   そのゆえに最初の20年間はその境界線の上にいた。つまり闇と無意識の苦しみの世界と、一方が至福と光と祝福の世界の境目だ。だがそれほど光明に近いというだけでも、苦しむということはあり得なくなる。苦悶を通り抜けることも、悪夢を見ることもあり得ない。するとその人の人生は、普通の子どもに備わることのないような、さまざまな資質を持つことになる。

   すなわち勇気と高潔さ、絶対に妥協しない態度、全身で打ち込むこと、つまり結果がどのようになろうとも決して引き返すことはなく、あたかも結果など問題ではないかのように、喜んでしていることを受け入れる、というような資質だ。

   肝心なことは、自分がどのようにその状況と向かい合ったかということだ。
   自分は全身全霊で、全面的にそれと関わり、自分には何の疑いもなかったという態度だ。そしてその信頼は究極のものであり、しかし相対的ではなく、どのような条件にも依存せず、無条件のものだったと言えること。それが肝心であり、結果ではない。結果は重要ではない。

   その行為自体が、それ自身の報酬だ。
   それこそが、私が生きてきたやり方だった。そしてもし私がもう一度チャンスを与えられるなら、私は何度でも何度でも、何一つ変えることなく同じやり方を通したい。その理由は単純で、この短い生涯のあいだであっても、実にたくさんのことが起き、私はそうした出来事を何でも喜んで経験してきたからだ。

どこかで失くしてしまった魂の自由と剛毅さ

   私の両親だけでなく、近所の者や教師たちでさえが、私をどう扱い、どのように分類するべきかにみなが当惑していた。彼らはあらゆる種類の人間を知っていたが、それでも私を見極めかねていた。

   私の高校の校長は実に厳格な人で、非常な筋金入りのスパルタ教育者だった。
   私が中学から高校に移ると、まさに初日から彼との闘いが始まった。その学校では毎朝、授業の初めに全員一斉の祈祷の時間があった。だが私は黙ったままで、そのヒンズー教の神を褒め称える祈りには加わらなかった。その神は人間の体を持ち、象の頭を持つあの象神のガネーシャだ。

   彼は私を呼び、「そういう態度は許さない」と言った。
   私は言った。「何も許す必要なんかありません。あなたはできることを何でもしたらいい。でも僕も、自分が正しいと思うことは何でもするので、そのことは覚えておいてください。僕にとって祈りはナンセンスだ。それも特にあんな神ではね。僕は黙っていることはできるけれど、祈るなんてことはできません」と言った。

   「私は非常に厳しい人間なんだ」と校長は言った。
   「別にかまいませんね。僕を殺してもいいですよ、あなたにできるのはせいぜいそのくらいのことだ。しかし殺されようが殺されまいが、僕はあんな祈りには加わりません。僕はどんな神も信じていないし、特にあんなばかげた神や像には祈れない。それに僕はヒンズー教徒じゃない。あなたは僕と一緒に法廷に出なければならなくなりますよ」と私は言った。

   「それはまた何のためだ?」と彼は言い、私は言った。
   「それは僕が属してもいない宗教に、僕を強制したことです。これは法律に反しています。ですから僕と一緒に裁判所まで来てください」。私は友人の父親で、よい弁護士を1人知っていた。それで、「僕には知り合いの弁護士がいます。それで必要な時にはいつでも頼むからと言ってあるので、僕は直接裁判所へ行きますからあなたも来てください」と言った。

   「君は非常に変わった人間らしいね。この私を裁判所に連れ出そうと云うのかね?」と校長は言った。「当然です。あなたのしていることは罪ですからね。僕はヒンズー教徒ではないのに、どうしてヒンズー教の祈りに参加しなければいけないのですか? この学校はヒンズー教の学校ではないし、これは国立の学校で、政府は非宗教のはずですよ。さあ、僕と一緒に裁判所に来てください。そうすれば弁護士に事情を説明して、あなたを行政長官の前へ連れて行くようにしますから」、と私は言った。

   「なんてことだ! 君がそんな極端に物事を誇張するとは思ってもみなかった」
   私は言った、「誇張しているのは僕じゃない。あなたが僕に誇張させているんですよ。ですが一緒に来ないのであれば、あなたのその厳しさはすべて忘れることですね。それにお互いに紹介し合うのに、今日は初日だしちょうどいい。僕にはあなたがわかったし、あなたも僕のことを知った。これからはいつどんなことが起こるにしても、あなたが相手にしている僕は、(その辺にいる)トムやジョンやハリーじゃないってことを覚えておくことですよ」

   私は彼に言った、「これはあなたの初めての失敗だから、今日のところはあなたを許してもいいですよ。でもこの次に同じ状況になれば、あなたは僕と一緒に裁判所へ行かねばなりませんからね」 そして私は彼の部屋を出たが、彼は黙ったままだった。

   その日の夜、校長は私の父に会いに来た。
   そして「いったい、あの子はどういう子なんですか?」と聞いた。父は、「私たちにはあの子をどうにもできません。ですがあなたは良く知られた厳格な規律主義者だから、まだひよっこのあの子を何とかできるでしょう」 「彼はひよっこなんかじゃない。彼は私を裁判所に呼び出すと云って脅かしたんです。しかも彼にはもう弁護士がついていて、その弁護士は私も知っている。あの子がその弁護士と話しているのを何度も見たことがある。何しろ彼らはひどく歳も違うのに、2人は実に仲の良い友達で、まるで同世代の人間みたいに話すんです。ところで私はどうしたもんでしょうね?」

   父は答えて言った、「それは誰にもわからないし、あなたはあなたのやり方を見つけるしかありませんね。私たちも自分たちなりのやり方を見つけましたから。つまり、誰もあの子の邪魔はしないことにしたのです。なんでも本人がやりたいようにさせておきます。それにあの子は誰にも悪さをしたり害を与えたりしないので、それが一番簡単なんです。ただ本人の邪魔をしなければいいんです。そうでなかったならば、事があまりにも大きくなり過ぎて、手のつけられないことになります」

   翌日、高校での祈祷の時間、私はまた黙って立っていた。
   校長はひどく腹を立てており、彼の腹の中が煮えくり返っているのが私にはわかった。ひどく恥をかかされたように感じていたのだ。彼は私を呼び出さなかったが、私は彼の部屋に出向いた。「別に君を呼ばなかったが」と彼は言った。「ですがあなたには呼び出す勇気がなかっただけで、本当は呼びつけたかったはずです」(略)

   校長は言った。「ねえ君、我々は妥協しなければだめだよ。こんなことばかりしていたんじゃ、君の学校での評判やイメージが台無しになるよ」 「ですが僕はどんな妥協も信じる気はありません。僕はあなたのイメージを壊すつもりはない。ただ僕に構わないでください。僕は決して破壊的な人間ではないし、ただほっといてほしいんです。もし先生が僕にそのことを約束してくれれば、先生が僕との揉め事に巻き込まれることはありません」 そして彼は約束しなければならなかった。「私は君に干渉しない。何でも好きなようにしたらいい」

   だが彼はまた、私の受けていた授業で化学を教えていた。
   私はいつでも、自分がそうしたい時には、彼に訊かずに教室から出て行ったし、自分でそうしたくなれば彼の許可を求めることなく、いつでも教室に入って行った。そして校長は「ああいうことは良くない」と私に言った。

   「僕のことはほっといてくれと、先生にはすでに言ったはずですが。それが僕たちの了解事項じゃなかったんですか? 僕が外に出たい時、もし先生に許可を求めて先生が駄目だと行ったら、僕はそれを聞かずに出て行くことになるでしょう。だから僕は先生に恥をかかさないために、許可を求めたりせずに黙って出て行っているんです。それも先生のイメージを保つためなんですよ」と私は言った。彼は途方に暮れていた。


           『神秘家の道』  OSHO  市民出版社

                          抜粋
   

・アーシング(Earthing)

   私たちが立っている足元の大地は、食物や水など、必要なすべての糧を与えてくれています。それだけでなく地球の表面である大地は、私たちが歩いたり、座ったり、走ったり、泳いだり、遊んだりする場を与えてくれます。そして実はここにはあなたが考えてもいなかった、さらに不思議な何か素晴らしいものがあり、それが提供されているのです。ずばり、それは、ヒーリングパワー、癒しのパワーなのです。それも実に素晴らしいパワーなのです。

   この本からあなたは、永続する癒しの力について学ぶでしょう。
   そしてこれは、好奇心旺盛な何人かの人々による、たゆまぬ努力の末に導かれた驚くべき大発見の結果なのです。この信じがたいパワー源に接続することにより、驚くべき結果を手にした世界中の人々の例を、あなたは知ることになります。

   そうした人々とは、自己免疫疾患が劇的に回復した元弁護士や、糖尿病を患い、麻痺していた足の感覚を取り戻したオーストラリアの医者、事故による後遺症から25年間歩けなかったのが、足が動くようになったアラスカ在住の人など、母なる大地につながることによって、さまざまな疾患の苦しみから解放された大勢の人々です。

   できるならば、草地や砂利など、土や砂の上、あるいはコンクリートでもかまわないので裸足で大地に立ちながら、この本を読んでください。このようにして改めて地球に、大地につながることを、私たちは”アーシング(earthing)”あるいは”グラウンディング(graunding)”と呼ぶことにします。

古来、人間は大地とつながることで電気エネルギーを充填してきた

   遠い昔から、人間は土の上を歩き、立ったり、座ったり、そこで眠ったりして大地に直接接することで、自然のエネルギーである電気的エネルギーを身体に充電してきました。それは簡単に言えば、地球の自然な表面電荷に接続する生活を意味しています。それはすなわち、大地に素足で立つことであり、グラウンディングすることによって体のあらゆる炎症を自然に消し、防止する方法なのです。

   それは私たちの健康維持に大きな意味があります。
   つまり慢性疾患を含む、成人病や老化現象などの予防に、このエネルギーの影響が大きく働き、私たちの健康を維持してくれるからです。「だけど、誰もが地球上に住んでいるんじゃないの?」とあなたは考えるでしょう。その通りで、私たちはみな地球上に暮らしています。しかし私たちのほとんどは、もはや土という大地に直接触れることのない生活をするようになりました。

   古来、私たち人間は地球の大地に直接触れながら生活して来ました。
   つまり、私たちの肉体の皮膚は、直接大地と触れ合っていたのです。裸足で歩き、じかに地面の上に寝ていました。こうして常に私たちは、地球の自然エネルギーである癒しのエネルギーと、絶えず接続された状態で生きていました。

   ところが今日の私たちは、ほとんどが地球の大地とは切り離された状態の中で生活し、仕事をしています。非伝導性の靴底の、合成加工の靴を履き、カーペットが敷かれた床を歩き、さらに床から離れたベッドで眠ります。土の上で生活することはなく、野外でもめったに裸足になることはありません。

   こうして私たちは地球から切り離された結果、人間には地球のエネルギーが欠乏することになりました。その結果が、私たちの身体の慢性的な炎症であり、免疫不全やさまざまな健康障害が大人や子どもたちの間で激増することになりました。さまざまな炎症から身を守ってくれる、地球の大地の電気的な関わりを、私たちは失ってしまったのです。

   アーシングは、地球と切り離された私たちにシンプルな癒しを提供してくれます。家や会社にいるときでも裸足で外を歩いたり、外で寝たり、あるいは室内専用に設計された伝導性装置をつけて、家の中でリラックスしたり仕事をするという簡単な方法もあります。外であっても家の中であっても、地球の自然な表面の電荷に再びつながることにより、身体に自然な電気状態を回復させることができます。

   本書にはどのように身体を地球に接続させ、継続的にその状態を保つかについてと、それによって起きる一般的な効果について記録しています。たとえば次のような効果です。

◎ さまざまな炎症の急速な軽減
◎ 慢性的な痛みの急速な軽減、または除去
◎ 細胞と組織に不可欠な、酸素と栄養を促す血流の劇的な改善
◎ ストレスの軽減
◎ エネルギーの増大
◎ 睡眠の改善
◎ 怪我や手術の治癒の加速化

   アーシングは、あなたの健康を改善するための最も自然で安全な方法です。
   それはきわめてシンプルでありながら、驚くほどの効果が期待できます。これは治療方法というよりは、私たち人間が遥かな遠い昔に失ってしまった、本来の自然の豊かさを取り戻すことなのです。アーシングは、健康に関するさまざまな問題を解決してくれる、私たちに必要な地球とのつながりなのです。

大地とのつながりであるエネルギーが断たれるとき、不都合が起きてくる

   私たちは誰もが、地球という電気的な惑星に生きており、電気的な機能を備えています。それは肉体の何兆億個もの細胞が、生化学的に反応するプログラムによって、絶えずエネルギーを送受信しているダイナミックな電気回路の集合体であることです。それにより、あなたの心臓や脳、神経系統、筋肉や免疫システムなどが、体内の電気的働きによって活動しています。そして実際に、あなたのいかなる動きや態度、思考であれ、あらゆる行動が体内の電気によって引き起こされており、活気づけられているのです。

   ですが今日のように、科学が発達した時代であるのに、私たち現代人のほとんどの人が、自らの生体電気についてまったく知らず、気づいていません。特に肉体と地球との間に起きている、電気的エネルギー的な関係においてそうなのです。そういうことは学校でも教えられることはないので、私たちは地球からほとんど切り離されてしまったことに気づくことはありません。私たちの社会において、人々は本来の電気的ツールを失っていると云えます。

   素足で、末端神経が集中している足裏を大地に着けることはめったにありません。合成の底でできた靴を履き、断熱材でできたベッドに寝ています。近代生活をしている私たちのほとんどが、地球の表面から切り離されています。ですが、切り離されたことによって、ひょっとするとあなたは必要のない痛みに悩まされているかもしれません。それは必要のない苦しみであるかもしれないのです。

   それはちゃんと接続できていない電球にたとえられます。
   点滅していたり、弱く光っていて、あるいはまったく点かなくなった電球と同じです。そして多くの人々が、そのような状態の中で生活し続けています。

   本書は、母なる地球の自然の周波数と、その源に継続的に繋がることで、いかに私たちの健康が維持され、癒されるかについて、初めて書かれた本だと私たちは信じています。

   地球と切り離されているほど身体は攻撃を受けやすく、順調に機能せず、炎症に関する疾病に冒されやすくなります。また老化のプロセスが早くなります。私たちが語る地球の自然の周波数とは、”自由電子”と呼ばれている素粒子の動きによって生じるエネルギー波のことです。ですが電子は目で確認されたことはないのですが、蜂の巣を想像してください。蜂の巣の周辺でブンブン飛び交う蜂は、ちょうどエネルギーに満ちた原子雲の周りを飛び交う電子にたとえられます。

   最近では、太陽の周りの軌道を回っている諸惑星も電子にたとえられることがあります。原子核はプラス電荷の陽子と、電荷がない中性子からなり、電子は負電荷を帯びていますが、地球表面に自然な負電荷を与えるのがこれらの電子です。降雨や毎分数千回にも及ぶ落雷の自然現象によって、地球の表面は無限かつ永続的に負電荷が供給されていると、科学は事実を伝えています。

   地球の地面とのつながりを保持することによって、身体は自然にそのような負電荷を帯びた電子でチャージされます。よってこうしたアーシングをすることによって自動的に電子を吸収し、身体の電気的バランスを取り戻すことができます。すなわち慢性の炎症や、多くの病気の原因となっている酸化したフリーラジカル(不対電子を持つ原子)を中和し、身体を自然な電気状態に保つことができます。これがアーシングを裏付ける理論です。

「裸足革命」

   みなさんはアーシングによって、「健康と活力が以前とはまったく変わってしまった」という素晴らしい実例に出会うことでしょう。たとえば、重度の多発性硬化症(MS)に冒されていた36歳の女性は、アーシングを実践したことで健康を改善しました。彼女は嬉しさのあまり外へ出て、近所の人々に聞こえるような大声で叫んだのです。「みんなグラウンディングしましょう!」 彼女は”裸足革命”を提唱しています。

   もう1人の女性は、ひどい交通事故に遭い、その後負傷の痛みと炎症、疲労感と不眠症に5年間を過ごしてきました。その間、さまざまな医療や専門家を訪ね、治療方法を試しましたがまったく改善しませんでした。あるとき彼女は、ふと思いつき、「草の上に寝転んだり、砂浜を裸足で歩きたい」と思いついたのです。そして地面で寝ることを試み初めて数ヶ月後、それまで消えることのなかった痛みや疲労感、そして不眠症が消えてしまったのです。


           不調を癒す<<地球大地の未解明>>パワー
     book『アーシング』 
                クリントン・オーバー(創始者)
                スティーブン・T・シナトラ
                マーティン・ズッカー
                                 ヒカルランド

                           抜粋
   
   

   
   

・悟り(本質的自己)を求めるという「欲望」

   私がよく理解しなさいと云うとき、私はあなたではなく、あなたのマインド(表面意識)について云っている。あなたは理解する必要はない。あなたの本質はすでに理解しているからだ。あなたの本質はまさに、叡智そのものなのだ。だからあなたは私からも他人からも、助けてもらう必要がない。

   変わらなければいけないのは、あなたの表面意識だ。
   そして表面意識(マインド)に理解が生まれたら、表面意識は死んでその理解も共に消える。するとあなたは、自らの本質的純粋さの中にいる。あなたの(ありのままの)実存に鏡のような純粋さが現れる。だが、その内なる実存は理解を必要としない。それはすでに、まさしく理解の中核なのだ。

   私が、よく理解しなさいと言うとき、私はあなたの表面意識(マインド)に話しかけている。他に方法はない。本質的あなたは内側のとても深くに隠れていて、表面意識だけが入り口の扉のところにある。つまり、あなたには迎え入れる用意がないから、私はあなたの表面意識に近づくしかないのだ。だから私はあなたの表面意識を説得して立ち退かせ、扉を開けてもらわなければならない。こうしてあなたに迎え入れる用意が整う。

   表面意識のあらゆる努力は、自分の靴紐を上に引っ張り上げて、自分を持ち上げようとしているようなものだ。あなたのしていることはどれも馬鹿げている。それは地獄や苦悩以外のどこへもあなたを導かない。それは常にあなたを苦悩へ導いてきた。だがそれでもあなたは気づかない。こうした私の語りかけはすべて、あなたの表面意識に注意を促すものに他ならない。

   ひとたび努力全体が馬鹿げていると感じるようになれば、努力は消える。
   つまり靴紐にかけた努力を手放すのに、苦行のような努力をする必要はない。あなたはただ事実に気づき、それを手放す。靴紐を手放し、ただ立ってそれを笑うなら、あなたは光明を得ている。それが事の次第だ。

   こうした理解を通して、表面意識は落ちる。
   そして突然、あなたは気づく。自分の苦悩は他の誰の責任でもないと。それをつくっていたのは自分なのだと。絶え間なく、あらゆる瞬間に、自分が作り出していた苦悩をどうやって乗り越えればいいか、どうしたら苦しまずに済むか、どうすれば悟りを得られるかと尋ねている。

   さて、あなたは今、悟りを欲望の対象として、新たな苦悩をつくり出していることに気づかねばならない。欲望は決して満たされない。このことに気づいたとき、欲望は落ち、あなたは気づきを得る。無欲において気づきを得る。欲望は常にあなたを苦悩の輪の中へ追いやる。あなたにはさまざまな動機があり、ヨーガの名のもとに、再び新たな苦悩を作り出す。

   私は毎日、人々に会い、彼らはやって来て云う。
   「私は30年ヨーガの修行をしていますが、何も起こりません」。だが誰があなたに、何かが起こると言ったのか? その人は何かが起こるのを待ち望んでいる。だから何も起こらないのだ。そしてヨーガは言う、未来を待ち望んではいけないと。

   あなたは瞑想するが、瞑想を通してどこかに、つまりゴールという目的地にたどり着こうという動機を持って瞑想する。だがあなたは、要点を逃している。瞑想し、それを楽しみなさい! ゴールはない、未来はない、遥かなるものはない、先には何もないのだ。瞑想し、何の動機も持たず、それを楽しみなさい。

   すると突然、そこにゴールがある。
   突然、雲は消え去る。あなたの期待はあなたの欲望によってつくり出されたものだった。あなたの動機は雲を生み出す煙のようなものだ・・・だが雲は消えてしまった。だから瞑想で遊んでごらん。楽しんでみなさい。それを手段にしてはいけない。それが目的だ。これが、理解すべき要点のすべてだ。

   新たな欲望を生み出してはいけない。
   欲望のまさに本質を理解しなさい。それが苦悩なのだ。欲望の本質を理解しようとすれば、それが苦悩であることがわかる。では何をすべきだろうか? 何もする必要はない! 欲望こそが苦悩であることに注意を払うようになれば、欲望は落ちる。

   そして今、あなたはヨーガの修練に、あなたは道に入った。

   それはあなたの熱意の程度による。
   欲望は苦悩であるという理解がとても深く、それが全一なものであれば、あなたはヨーガに入るだけでなく、達人(シッダ)になる。あなたはゴールにたどり着いた。それはあなたの熱意の程度による。熱意が全一であれば、あなたはゴールに至る。熱意がさほど全一でないなら、あなたは道に入る。

   今日はこのくらいでいいかな?


    The Path of YOGA パタンジャリのヨーガ・スートラ
              book『魂のヨーガ』  OSHO   市民出版社


                           抜粋
   
   

・決して崩壊しない真の基盤

   考えることは常に破壊的だ。
   どんな社会も、それを構成する人々が考えることを望まないものだ。なぜなら考えることは危険だからだ。社会は、ただ言われることなら何でもする、ノーと言えないロボットが欲しい。だがノーと言うことは彼らには不可能だ。彼らは機械だからだ。

   すべての工業化した社会が、人を機械と入れ替えているのは偶然ではない。
   機械は従順で、決して破壊的ではない。これまでに機械が革命家や反逆者だったことなど聞いたことがない。機械を磔(はりつけ)にしなければならなかったことなど、これまでに一度もない。

   機械とは非常に立派な人々のことだ。
   だが私は機械ではない。そして「破壊的でない考え方」というものはない。考えるということは”疑う”ことだ。考えるとは、人から言われることを(盲目的に)受け入れられないという意味だ。あなたは自分で決めたいからだ。考えるとは、合理的で論理的であるという意味だ。しかしこれまでの人類は、ただ迷信深かった。

   ガリレオが地球が自転していることを知ったとき、それを知ったローマ法王は宮殿に彼を呼んだ。そしてその考えがキリスト教に反するので、彼が書いた本の中のその箇所を変更するようにと彼に要求した。なぜなら聖書には、太陽が地球を回ると書かれているからだ。それはまた、みなの経験でもある。朝に太陽が昇り、空を巡って夜にはその反対側へ沈むように見える。

   私たちは地球が太陽を回るのを感じない。
   だから聖書に述べられていることは単なる社会的な常識であって、科学的なものではない。ローマ法王は「聖書は神によって書かれた聖なる本なので、それとは異なるあなたの表現は変える必要がある。神が間違いを犯すはずがない」と言った。

   ガリレオは、私が愛している人々のうちの1人だ。
   彼の天才を、考えを、私は愛している。そして彼のユーモアのセンスを愛している。彼は言った。「かまいません。私はその箇所を変えましょう。ですが閣下、私がその文を変えたとしても、事実は変わらないということを覚えていてください。それでも地球は回るでしょう。あなたは私を殺すことができるし、私の本を燃やすこともできます。ですが何者も地球のコースを変えることはできません。地球はそれでも太陽の周りを回り続けるでしょう。」

   ガリレオの考えは実際に破壊的だ。
   彼は権力者の言うことを聞かないし、聖書にも従っていない。彼は合理的で科学的なものに耳を傾ける。そして破壊的な人々だけが、世界のすべての進歩を推し進める。あなたが持っているすべて、つまりすべての文明やすべての科学的な発達、すべての技術は、破壊的な考えを抱いた人々の貢献なのだ。それは迷信的な人々の貢献ではない。

   それで、「私は破壊的だ、まったく破壊的だ」と、断言することができて満足だ。
   そのカテゴリーに属することはすばらしい名誉だ。イエス・キリストがそれに属し、ソクラテスがそこに属し、ガリレオが属し、ゴータマ・ブッダがそれに属する。彼らは本当の人間だ。そして他の人たちは群集の一部であり、単なる車輪の歯車に過ぎない。

   社会は都合よく正しいことについて決めるが、決してそれを疑ったりしない。
   つまり社会は、間違ったことが決められていても、人々は決してそれを疑ったりしないのだ。動物と人間の違いは何だろう。我々人間は、真に人間でありたければ、破壊的でなければならない。それはアリストテレスによって与えられた定義だ。人間は考える動物であり、考えることは(新しいものを生み出す)破壊と等価値だ。

   世界の多くの国々が、私に4週間の観光ビザさえ与えないと決めたのは事実だ。
   だが私はそのことを本当に楽しんだ。なぜなら全歴史の中で、それほど多くの国々が1人の人間を恐れ、4週間の観光ビザさえ出せないほど怖れたことは、かつてなかったことだからだ。

   ソクラテスは長生きし、そして彼は毒殺された。
   イエスは絶え間なく説教し、そして磔(はりつけ)にされた。私が逮捕されたとき、私はたった2週間ギリシャにいただけだった。その時にすら脅かし、私がすぐにその家を出なかったら家を燃やすとか、ダイナマイトで爆破するという。こうしたことをするのは、2千年前にソクラテスを毒殺し、イエスを磔にしたのと同じ人々なのだ。

   だが、わずか2週間で私に何ができるというのか?
   私は外出しなかったし、家の外にさえ出てはいなかった。しかしカトリック教会の大司教は、ギリシャの大統領のもとへ繰り返し電報を送り、また首相に電話し、それに関してニュースメディアのインタヴューに応じた。そして言ったのは、「その人がここに滞在したら、我々の道徳や宗教、教会など、これまでの我々の伝統は破壊されるでしょう」と。しかし私にはほんの4週間のビザがあっただけであり、残りの2週間を私はまだそこに滞在できたのだ。

   私は大司教のインタビューを聞いたとき、「宗教や教会、道徳、伝統など、これまでの2千年間でつくり上げられたものが、ほんの2週間で1人の人間によって破壊されるというのなら、それは破壊する価値があるし、疑う余地はない」と言った。

   そして、こうした(宗教的)病的な疑り深さはヨーロッパ中に広がった。
   現在、ヨーロッパの国々の議会には、私をどの国の空港にも着陸させないようにという申し合わせがある。おそらく私が空港へ着陸するだけでも、彼らの道徳や宗教、彼らの伝統を破壊するというのだろう。だがそれはたった一つのことを示している。それは彼らが、非常に脆(もろ)い基盤の上に立っていることを示している。それはほんのひと押しで、つまり2週間の観光だけですらできることだ。そして、全伽藍(がらん)は粉砕される。

   イエスを磔にすることは解決策だっただろうか?
   確かにそれを利用してキリスト教がつくられた。ソクラテスの毒殺は解決策だっただろうか? ギリシャの全歴史において、ソクラテスほど尊敬された人はいない。だが人々は、彼を毒殺すると決めた人々の名前を完全に忘れてしまった。しかし彼の洞察は2000年経った今も新しい。彼はギリシャ精神全体の天才だったが、彼らは彼を滅ぼした。

   何世紀にもわたり、平凡な人々による天才たちへの陰謀が続いている。
   そしてもちろん、平凡な人々とは大多数の人たちである。彼らには政府があり軍隊があり、警察があり、核兵器がある。天才たちにあるのは知性だけである。そして知性というのは、基本的に革命であり、そうでないはずがない。その本質とは反逆であり、つまり無知への反逆、虚偽への反逆、奴隷制度への反逆であり、人が等身大の成長した自己になるのを妨げる、すべてに対する反逆だ。

   だがこうした国々のおかげで明らかになったのは、一個人が、核兵器を持っている国々よりも実は強力だということだ。もしそうでなかったならば、それほど怖れる必要はないだろう。

   イギリスでは、彼らは私が空港ラウンジに一晩だけでも留まることを許可しなかった。ラウンジというのはそのためにあるのにだ。私の友人の1人は偶然、飛行場の係員のファイルを覗き込む機会があった。係員はファイルを机に広げたまま洗面所へ行っていた。友人はちょっとファイルを調べた。そこには、私が空港に着く前にすでに、すべてはイギリス政府によって詳細な命令が下されていたのだ。それは私が来たならば、一晩であってもラウンジに留まることを許可してはいけない。そして、私が危険人物なのですぐに刑務所へ送れと記されてあったのだ。

   私は、戻って来たその人に言った。
   「私がどれほど危険だと言うのか? 今はすでに夜の11時で、私はラウンジで眠るだけだ。それにこのラウンジからイギリス国内へ入る手段はないだろう。」だが彼は繰り返して言った。「私たちは命じられているので、何もできないし、あなたを自由にすることはできません。もしあなたが一晩であっても滞在するならば、あなたを刑務所へ送るしかありません」

   スウェーデンでも同じことが起きた。
   そしてドイツは自国の大使館すべてに、私にビザを出さないよう命令した。
   実に奇妙なことだ。

   このような状況がある今の世界だが、私たちはこれを「文明」と呼んでいる。
   これは文明ですらなく、文明は未だ起こってはいない。これらはまったくの偽物だ。私は危険だった。今、雲がチェルノブイリから放射線を各地へ運んでいる。その雲を刑務所に入れたらどうなのか? それは危険ではないのかね! 

   今や彼らはみな無力感を抱いている。
   彼らには何もできない。だが私は破壊的だ。私はこれまでずっと、「万が一何か起こっても自分たちにコントロールできないのであれば、核エネルギーをもて遊んではいけない」と言って来た。いま、何かが支障を来たし、彼らは皆無力感を抱いている。そしてこの(1986年に起きたチェルノブイリの原子力発電所爆発の)影響は、今後何十年も続くことになる。

   放射線濃度は、人間にとって許容できる量の100倍、200倍にまで上がった。
   その空気を吸い、そのミルクを飲み水を飲むこと、野菜を食べ果物を食べること、そのすべてが危険だ。現在、ヨーロッパのすべての議会は沈黙を守っている。だが私は危険で、核兵器は危険ではないということだ! まさにこれは狂気の世界だ。


         book『神秘家の道』  OSHO  市民出版社

                           抜粋 
   
   
   
   

・自分自身が自分の運命をつくり、支配している

   あなたの本質は、自由な魂であり、精神であり、意識です。
   あなたは今のこの瞬間、自分の好きな真実と現実、あるいは幻想を自由に創造し、体験することができます。そしていつの瞬間にでも、自分が望むなら、あなたはこの夢を改めて創造し直すこともできます。あなたには本来、それをする限りない力が備わっているからです。

   カルマは存在しません。
   ですが欲求は存在します。そして欲求はとても気まぐれです。つまり、いつの瞬間にも望むことを何でもすることができるし、何にでもなることができます。それはまさに何かになっている真っ最中にでも、心変わりをすることだってあり得るのです。

   殺人や事故、強盗に遭うことは別に懲罰でも何でもありません。
   それは以前のあなたの行為の「償い」でもなければ、罰でもありません。それはあなたが思いをめぐらし、思考した結果、あなた自身が創造したものであり、あなたの意識が作り出した体験なのです。それはより大きな叡智の中では残酷なことではなく、振り返って見る時、それがすばらしい経験と学びの師であったことがわかります。

   あなたは1万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかも知れません。
   「何て酷い惨状だ。この残虐行為を前にして、なぜ天使たちは涙を流さず、神の栄光を歌い続けることができるのか?」と。それは天使たちが、生命はいつか終わるものだと信じて、自分を限定することがないからです。殺された者たちは、さらなる学びと体験のために、つまり私が冒険と呼ぶもののために、彼らは速やかに「天国」と呼ばれるある場所へ行きます。

   そしてあなた方はその1万人もの虐殺された死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。新しい明日がいつも必ずやって来るのは、このおかげなのです。

自分自身が、自分の運命をつくり、支配している

   いったい誰が、あなたの運命をつくり出していると思うでしょうか?
   ほとんどの人々は、力ある至高の存在が運命を操り、すべてのことを起こしていると信じています。なぜならそう信じていることで、自分自身の人生の責任は自分にはないと考えることで、肩の荷を降ろすことができるからです。

   しかし実際には、あなたが自分の運命を支配しています。
   あなたが瞬間瞬間に考え、感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。あなたが学ぶべきことは、ただ一つです。それがこの今という瞬間、瞬間が永遠のものであり、それは途切れなく続いているのだということです。

   しかも、今というこの瞬間の継続性において、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。それはあなたがどうであれ、昨日に囚われてはいません。あなたが明日のことを夢見て、あるいは無意識においてであろうと、あなたが作り出した現実化を、今、あなたは手にしているのです。(無意識は無意識なりに何かを生み出している)

   つまり今というこの瞬間こそが、あなたの明日をつくり出しており、あなたは自分のために何でも好きな現実をつくり出せる自由があります。これこそが、あなたの親である創造主があなたに与えている愛であり、それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由なのです。

   誰も過去に支配されている人はいません。
   それは一瞬前であれ、千年前であれ、あなたの行為の償いをしなければならないということはありません。そこにあるのは、あなたのその行為による一つの理解であり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たということです。過去とは、そのときに体験された「今」と言う瞬間に過ぎず、それはもうここにはありません。それを現在との関連から言えば、あなたはそこから学べるすべてを学んだということだけなのです。

   その過去はもう終わっているのです。
   それはもうここにはなく、過去は智慧として、この瞬間の今のあなたの内面に生きています。それをあなたは、過去のおかげで得ることができました。ですから、この今という瞬間のあなたは、これまでの限りない人生において最も偉大であり、過去のどんな時よりも、「本来の知っている状態」にさらに深く突き進んでいるのです。

失敗や間違いなど存在しない

   実際に存在しているのは「今」だけなのだと気づくと、あなたはあらゆる瞬間に、自分の魂が求める力強いフィーリングを求めて冒険を始め、偉大なる智慧に向かって自分を広げていくようになります。そしてこれまではしなかったような体験を、進んでしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。

   あなたが再びこの地上に戻って来たのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決」するためでもなければ、何かよくわからない「自分がすべきこと」をするためでもありません。あなたがここに戻って来たのは、自分でそれを選んだからであり、自分が選択した肉体を通してやって来たのです。それは過去にしたことの帳尻を合わせるためではなく、肉体という固体を通して進化するためであり、この次元でしか得られない体験を通して「感情において」自分を完成させるためなのです。

   あなたがここにいるのは、そこがどこであろうと、自分がそこにいたいからいるのだということを学ぶためです。あなたが繰り返し、何度もここに転生して来ているのは、この幻の世界を生き、魂が叡智という生命を満たすのに必要な体験を積むためです。そしてこの次元での体験から豊かな感情を得ることができた時、あなたはもはや、ここに戻る必要も望むこともなくなります。

   あなたは自分が、本質的に神であることを思い出すためにここにいます。
   それを思い出し気づいていくためには、あなたの中に埋め込まれたすべての法律やすべての宗教的教義、そしてすべての儀式的な慣行を取り除き、思考を解き放ち、限りなく自由なものにしなければなりません。それは無限の自己表現の自由と、決して死ぬことのない身体、存在することの喜びと心の平和であり、あなたの生命は無限のものであることを知るでしょう。

   あなたがそれを知ったとき、生命は無限のものになるのです。
   なぜなら自分が真実だと知ったこと、望むことは、すべてその通りになるからです。これだけが、あなたが自分の世界で受け入れる必要のある「法則」です。

   自分は永遠の存在であること。これまでにも失敗は何一つ存在しないこと。ただこれまでにあなたが犯した「たった一つ」の間違いは、自分が何か間違いをしてしまったと「信じた」ことなのだと知りなさい。

   自分を愛しなさい。
   自分が内側で語ることに耳を傾け、それから何を感じる必要があるかに心を傾けることです。心をこめてそれを追い求め、それがつまらなくなるまで続けなさい。興味を失い、つまらなくなるのは、その体験から学ぶべきことは終わったという、魂からのサインであり、もう別の冒険に進む時期に来ているということです。

内なるフィーリングに聴く

   自分の内なるフィーリングにだけ耳を傾けることができるならば、この瞬間にも、あなたは自分がなりたいものになれる自由があります。そこにはどのような法もどのような教えにも、誰に対しても申し開きする必要のないことを知ってください。今という瞬間、そこから得られる内なるフィーリングこそが、ただそれだけが、今もこれからも唯一大切なものなのです。

   無法になりなさい。
   ですがそれは、無軌道になるということではありません。あなたの首の周りに縄を回してコントロールしていた人間がその縄を外し、あなたがやっと大きく息をして呼吸できるようになるということです。法律や宗教的教義、限定された社会的信念などから自分を切り離すならば、本質的に神であるあなたが持つ自由と無限性を取り戻すことが可能です。

   あなたは自分本来の姿であるエネルギーそのものになり、自分自身を、そして生命を再創造し始めます。そしてあなたがここにいる理由は、誰かに何かに取り繕(つくろ)うためではなく、「ただ、生きたいから」になり、新たな冒険が一瞬ごとに展開していきます。幸せに生きなさい。あなたの親である創造主が唯一、あなたに求めているのはそのことなのです。


   book『ラムサ―真・聖なる預言』 ラムサ  角川春樹事務所

                          抜粋
   
   

・「知られざるもの」の探求

   健全に存在してきた宗教は非常に稀(まれ)だ。
   だが自己の存在を通じて宗教を悟った人には、まったく違う理解がある。人の物真似(ものまね)をしてきた人の理解は、実は理解でも何でもない。真実は真似(まね)られるものではない。誰かとそっくりになっても本物にはなれない。真実はオリジナルだ。だからあなたもオリジナルでなければならない。

   真実は、誰かの後をついて行くことで達成されるものではない。
   真実は、自分の生を理解することで達成されるものだ。どんな信条の中にも、どんな議論の中にも真実はない。真実は心の奥深いところに、愛として隠されたものだ。真実は理屈ではない。三段論法ではない。それは愛の爆発なのだ。

   内側で真実が爆発した人は必ず、まったく違う生において神の、宗教のヴィジョンを得る。その人の目には、違う質と違う透明感、明瞭さがある。人から借りてきた思考でマインド(表面意識)が曇っている場合、その人が宗教だと言うものはすべてが宗教ではない。それはただの幻想に過ぎない。

   この根本的な違いが、真似る人を病的にしてしまう。
   キリスト教徒は病的で、ヒンズー教徒も病的だ。だがクリシュナは健全で、イエスも健全だ。彼らは誰かの言うことを繰り返して言ったのではない。彼らはオウムではない。それは彼らが悟ったことなのだ。それは全然違うものだ。

   キリスト信者になった人は、キリストの言葉を真似て言う。
   やがて彼らは自分自身を見失い、キリスト教徒はむしろ他人の影のようになる。こうして自分の存在を失う。あなたはすでに、本物の自分、真の自分ではない。キリスト教徒はすでに死んでいる。そして宗教には再生と関係がある。だが新しいものが生まれるためには、古いものは死ななくてはならない。

   だが人は、すでに廃(すた)れた信条や教義であろうと、教会に従順であることを求め、古いものを決して死なせない。つまり、新しいものの誕生を決して許さない。決してリスクを負わず、危険を感じさせる危ういものには近づかない。だが、自分の存在と向き合いながら進むイエスは、常に危険を伴いながら進んでいた。彼は大きなリスクを背負い、知られざる未知に入って行こうとした。

「知られざるもの」の探求

   つい昨晩、私は1人の若者に、「知られざるものを探求するように」と言った。
   するとその若者は言った、「どうすれば知られざるものを探求できるのですか? 自分が知らないものを、どうすれば探求できるのですか?」と。私たちはすでに知っている既知のものしか探求しない。しかし既知のものしか探求しない人は、決して真の神を知ることはない。そういう人は機械的に生きるようになり、ぐるぐると円を描き、型にはまった生き方をするようになる。

   知られざるものを求めなさい。
   なぜなら知られざるものを探求することで、人はマンネリという惰性から、反復的で機械的な生き方から自由になるからだ。だが、その若者の言うことももっともだ。「どうやって知られざるものを探求するのか?」

   既知のものを落とし、すでに知っているものに固執せず、知られざるものの到来を待ちなさい。そういう人のところに知られざる、新しいものはやって来る。それはすでにドアの向こうで待っている。だがあなたが既知のことでいっぱいなので、知られざるものの入る余地がない。

   確かに、この若者の疑問はもっともだ。
   ならどうやって、知られざるものを探求するのか? 人が探し求めるものはどれも既知なるものだ。マインド(表面意識)は、知られざるものを遮る障壁であり、マインド(表面意識)は何度も何度も、既知のものを探すことしかできず、同じことを何度も繰り返す。

   マインド(表面意識)を落とす方法、それが瞑想というものだ。
   少なくとも数分間は表面意識は落ちる。だから知られざるものを見ることができる。あなたはどこへ行くのか知らずに、どこへ進んでいるのかもわからず、自分が誰かもわからない。方向も、目的地もわからず、その時、すべての知識という既知は存在しない。それはもっともすばらしい瞬間だ。

   知識がない時には、愛がある。
   知識は愛とぶつかるので、博識な人々は愛することができない。知識はあなたをずる賢く、利口に立ち回ることを教えても、愛情あふれる人には決してしない。知られざるものに入っていくには勇気が必要であり、それも途方もない勇気が必要だ。既知のものにしがみつくのに勇気を出す必要はなく、どんな臆病者にもできる。

   キリスト教徒になるあなたは臆病者だ。
   イスラム教徒になるあなたは臆病者だ。ヒンズー教徒になるあなたは臆病者だ。人々は怖れている。だからこうした代用品にしがみつく。それは簡単に手に入るものであり、あなたは何もする必要がない。たとえばあなたは、ある家庭に生まれてキリスト教信者になる。別の家庭ならヒンズー教徒になる。あなたは何も求めず、探求しては来なかった。

   宗教は単なるブランドでしかない。
   だがこうしたブランドは、あなたを病的なものにする。なぜならあなたの内面的な現実は何も変わってはおらず、キリスト教徒、ジャイナ教徒、仏教徒であれ、異なるのはラベルだけであり、本質的には何も違わない同じ人間だからだ。そしてこうしたラベルが人々の間に問題を作り出す。

   あなたの聖書は言い続けている。「汝の敵を愛しなさい」と。だがあなたは自分の友人どころか、自分自身さえ愛せない。自分を嫌い、自分を愛せないあなたが、どうしたら隣人を愛することができるのか? イエスは汝の敵を愛せよと言っているのに、あなたはまだ友人や恋人をどのように愛したらいいのかもわからない。

   つまりあなたは、愛することがどういうことか知らない。
   そうするとどうなるだろうか? あなたは自分を取り繕い、偽善者となり、偽りの存在となる。これが宗教の病理であり、あなたは二重人格者となる。内なるあなたは別人であり、表面では違う人間のふりを続ける。内には涙と嫌悪があっても、顔には笑みを浮かべる。これが、あなたを分裂させるのだ。これが統合失調症であり、多重人格というものだ。そしてこれこそが、あらゆる神経症の根本的原因である。

   ゆえに宗教は病的なものとなった。
   誰かの真似を求める宗教は病理を作り出し、神経症的な世界を作り出す。自分で理解した内なる宗教は大いなる健全さとともにあり、それは生きることを祝福し、喜びと幸せを与える。こうした2つの宗教を十分理解しなければならない。

   あなたの宗教が他からの借り物であれば、それは人生に問題を作り出す。
   なぜならそれが、あなたの生というものに反するからだ。そうした宗教は、生に対して否定的になる。それは人をマゾヒストにし、あなたは自分自身を責めるようになる。なぜなら自分が常に、宗教と対立して存在していることに気づくようになるからだ。人は罪の意識を感じるようになり、生の一瞬一瞬が罪悪感となる。そして何をしていても、罪の意識を感じさせる宗教が存在する。

   宗教は最低限の生しか許さない。
   つまり、最小限で生きる(清貧)ということだ。それが宗教のいう放棄の意味だ。基本的な必要を満たすことは教えるが、宗教というものは豊かさというものを教えない。つまりどうすれば溢れる豊かさを生きられるかは教えない。あなたの宗教が人から与えられた単なる条件付けであれば、あなたは生に対して否定的になる。人は生きることを怖れるようになり、罪悪感を持つようになる。何をしたらいいか、何をしてはいけないか、何が正しくて、何が間違っているかと混乱し、うろたえるようになる。

   宗教はこれまで何世紀にもわたり、生を放棄するものとして存在してきた。
   この世の生は悪いものなので、生から逃避しろ、僧侶になれ、苦行者になれ、脱俗しろと言い続けてきた。それはまるで生きていることが罪であり、生まれてきたのは罰だと言わんばかりだ。

   宗教的と言われる人々は、常にこのように考えてきた。
   つまり、過去世で罪を犯したからこの世に送られてきたのだと。あるいは罰を受けるためにこの世界に放り込まれたと。これがヒンズー教の教えだ。キリスト教の教えは、さらに人間を大罪人にする。アダムは神の言いつけに背いた結果、人間たちは生まれた時から罪人であり、人は罪を背負って生まれて来るのだと。

   仏教徒たちは、生は束縛だと言い続けてきた。
   だから生から逃げ出せと。それは早ければ早いほどいいと言う。そして何世紀にもわたって、彼らは地上の至るところで一つのことだけを祈り続けてきた。それは、「二度とこの世に送り込まないでください」というものだった。

   だが、カビールは放棄に反対だという。
   もし神がこの世をつくったのであれば、この世は美しい。もしそれが神から生まれたものなら、それは美しい。この世が罰であるはずがない。神はあなたを暗く陰気な独房に閉じ込めてなどいない。この世は祝祭だ。神は人間たちが遊べるように、踊れるようにと、この世を準備したのだ。だからこの世は、祝祭なのだと。

   ”カビール: 1440~1518頃 北インドの宗教家。「神は天や寺院にではなく、神は心の中に住まう。必要なのは絶えず心に念ずることであり、沐浴も巡礼も聖典も無用である」として、生涯を機織(はたおり)工として生きた。”


          神秘家・カビールを語る
                         book 『愛の道』 OSHO  市民出版社


                            抜粋
   

 

・自分を翻弄する古い「強迫観念」を解き放つ

   たとえば、インドにも競争心を抱かない社会がある。
   インドにも土着の部族がいるが、彼らには競争は存在しない。当然、私たちの尺度からすれば、彼らはあまり進歩的とは言えない。私たちの進歩は、競争によって成り立つものだからだ。だが彼らは競わない。競わないから怒らないし、妬(ねた)まない。憎しみに満ちることもなく、暴力的でもない。彼らは多くを期待せず、生というものが自分たちにもたらすものを何でも喜び、感謝する。

   生があなたにもたらすもの・・・だがあなたは何に対しても感謝を感じない。
   あなたがいつも欲求不満なのは、常により多くを求めるからだ。期待や欲望には際限がない。だから苦悩を感じるなら、苦悩を見つめ、分析してごらん。苦悩を生み出す元となる、条件付けの要因は何だろう? それを理解するのはさほど難しくない。苦悩を生み出せるのなら、苦悩を生み出すのが得意であるなら、それを理解するのも難しいことではない。生み出すことができるのであれば、理解もできるだろう。

   パタンジャリの立場はこうだ――人間の苦悩を見つめると、責任は自分自身にあることがわかる。人は何かをした結果、それを生み出しているからだ。しかもその行為は習慣化していて繰り返され、それはまるで機械的でロボットのようだ。だが注意深くなることで、あなたはそこから抜け出すことができる。「私はその動きに協力しない」とあっさりと言えばよい。そうすればあなたの内のメカニズムは、そのように機能し始めるだろう。

   誰かがあなたを中傷する。
   あなたはただ静止して、沈黙を守る――だが、あなたの内なるいつものメカニズムは動き始め、それはいつもの過去のパターンを呼び戻す。怒りが湧き、火が点いて煙が立ち昇りはじめ、あなたは気も狂わんばかりの心境になる。でも、あなたは静止する。協力してはいけない。そのメカニズムがしていることを、ただ見つめてごらん。あなたは自分の内側に複雑な状況を感じるだろう。でもあなたが協力しないから、今のところそれは不能になっている。

   あるいはそのような不動の境地には留まれないと思うなら、部屋に入って扉を閉め、枕を前に置きなさい。そして枕を叩き、枕に怒りをぶつける。叩いて、殴って枕に怒り狂っている時、自分を見つめ続けてごらん。自分が何をしているか、何が起こっているのか、いつもの怒りのパターンがどのように繰り返されているかを見てごらん。

   自分を静止させることができるなら、それが最良だ。
   だが引きずられてそれは難しいと思うなら、部屋へ入って枕に怒りをぶつけなさい。枕によって、あなたの狂気がすべてあらわになり、表現される。そして枕は何も表現しない。除々に怒りが湧き起こり、怒りが衰えていくのをよく見つめてごらん。

   その両方のリズムを見るとよい。
   そして怒りが吐き出されたら、あなたはもうこれ以上枕を叩こうとは思わない。バカバカしいと思うか、あるいは笑い出すだろう。そうしたら目を閉じ、床に座り、起きたことを瞑想しなさい。まだ自分を中傷した人に怒りを感じるだろうか? それとも怒りは枕に叩きつけられて出て行っただろうか? 

   あなたはある種の静けさの訪れを感じるだろう。
   そしてもはや相手に怒りを感じないだろう。むしろその人に、慈しみすら感じるかもしれない。

自分を翻弄する古い「強迫観念」を解き放つ

   2年前のことだが、1人のアメリカ人の若者がここにいた。
   彼は一つの強迫観念のせいで、アメリカからここへ逃げて来た。彼は常に父親を殺すことを考えていたのだ。その父親は彼にとって危険な人物だったに違いない。おそらくこの若者を、余りにも抑圧していたに違いない。若者は夢の中でも殺害を思い、昼間も白昼夢の中で父親を殺すことだけを考えていた。

   そして父親のいない場所へ行きたいという目的のためだけに、彼は家から逃げた。
   さもないと、もうすぐ何かが起こりそうだったからだ。狂気は常にそこにあり、それは今にも爆発しそうだったのだ。

   彼は私とともにいた。
   私は彼に「抑圧してはいけない」と言った。私は彼に枕を渡し、「これがあなたの父親だ。さあ、何でもしたいようにしなさい」と言った。最初、彼は笑い出し、それも狂ったように笑い、「そんなの馬鹿げてますよ」と言った。私は言った。「馬鹿げていてもいい。あなたのマインド(表面意識)にあるものをそこへ吐き出しなさい」

   彼はそれから15日間、枕を叩き、殴り続け、引き裂き続けた。
   そして16日目に彼はナイフを手にしてやって来た。私は彼に指示していなかったので、なぜナイフを持ち出したのかを尋ねた。彼は言った。「もう止めないでください。殺させてください。もはや枕は枕ではない。枕は本当に僕の父になったんです」。その日、彼は父親を、つまり枕を殺した。そして彼は泣き出した。

   彼は落ち着きを取り戻し、リラックスして私に言った。
   「父に対して、大きな愛と、大きな慈しみを感じます。いま、戻ることをお許し下さい」 今、彼は戻っている。彼と父親との関係性は完全に変化してしまった。いったい何が起きたのだろう? それはただ、彼の内で機械的に作動し続けてきた強迫観念が解き放たれたのだ。

エネルギーをどのように動かし、変化させるのか

   至福や幸福、喜び、それを何と呼んでもいいが、それらはすでにあなたの中を流れている。ただそこにいくつかの岩があるが、その岩はあなたの生きる社会の条件付けだ。それらの条件付けを解きなさい。執着が自分の岩だと思うなら、無執着のための努力をしなさい。怒りが岩なら、怒りを打ち消す努力をしなさい。強欲があなたの岩なら、強欲を打ち消す努力をしなさい。

   そのためには、ちょうど正反対のことをすることだ。
   強欲を抑圧してはいけない。正反対のことをしなさい。強欲の打ち消しになることをしてごらん。(人にあげることかもしれない) 怒りを抑圧するばかりではいけない。怒りの打ち消しになることをしなさい。

   日本には、腹を立てた時の伝統的な教えがある。
   腹を立てたら、すぐに怒りを打ち消すことをするのだ。すると、怒りへ向けられていたのと同じエネルギーが、今度は怒りの打ち消しへと向かう。エネルギーというのは常にニュートラルであり、中立だ。誰かに腹を立て、顔を引っぱたいてやりたいと思ったら、その人に花をあげて、何が起こるか見てごらん。あなたは彼の顔に平手打ちを食わせてやりたかったし、何かをせずにはいられなかった、それが怒りだ。

   あなたは怒りの打ち消しになるようなことをした。
   そして自分の内面に何が起きるか、見つめてごらん。彼を引っぱたこうとしていたのと同じエネルギーが、今、彼に花をあげようとしている。そこにあるのはエネルギーの質の変化だ。しかし何もしないなら、あなたは自分を抑圧することになる。そして抑圧は毒となる。何かしなさい。ただし正反対のことをだ。

   これは新たな条件付けではなく、あなたの内にこれまであった古い条件付けの解除なのだ。古いものが消え去れば、結び目は解消する。何かしなくてはと心配する必要はない。その時、あなたは自発的に流れていくことができるからだ。


        The Path of YOGA
        パタンジャリのヨーガ・スートラ
          book『魂のヨーガ』 OSHO  市民出版社


                            抜粋
   
   
   

・テレビを通して眠った意識状態にされている人々

   この情報の時代において、自分で知識を収集するという自然なやり方から、あなた方は遠ざけられてきました。そして、テレビこそ素晴らしい情報源だと信じこまされてきました。このいわゆる情報提供の道具は、今世紀最大の発明の一つとして宣伝され、浸透させられてきました。しかし、あなた方のすべてのテレビ局は、あなたを楽しませて、意識を眠った状態にしておくことを意図している存在たちによって所有され、支配されているのです。

   彼らのやり方、目的は、一つの現実の決まった視点だけを押し付けるということです。
   テレビはあなたの進化を遅らせ、あなたを制限します。特に、幼い子供の場合、その影響は甚大です。子供のときのさまざまな印象や想像力が、人生の展開においてとても重要な役割を果たします。テレビはあなた方を、非常に偏った、狭い感情表現の領域に制限します。その感情とは基本的に、混乱と恐怖です。

   今日、かつてなかったほどの勢いで、テレビをよしとするキャンペーンが展開されています。テレビで放送されていることが、あたかも今この瞬間に最も重要なことであるかのように、スキャンダルや暴力事件の最新のニュースに釘づけにしようと誘惑します。

デジタル放送により、世界中に恐怖の周波数がばらまかれている

   テレビを見ている時、あなたがどのように感じるか、今ちょっと感じてみてください。
   それは周波数コントロールなのです。このコントロールは途方もなく加速されており、テレビを通して世界中に恐怖の周波数がばらまかれています。デジタル放送になることで、この周波数コントロールはきわめて悪質なものに切り替えられました。

   地球上の人々の大半は、いまこの瞬間にも、テレビによって催眠術がかけられています。あなた方は、他人によって与えられたイメージや人の考えを通してだけではなく、人生を「直接的に」体験することこそ重要なことであることに気付かねばなりません。

   テレビに時間を明け渡してしまうと、あなたの意識は損なわれ、意識が持っている潜在的な能力が損なわれてしまいます。想像力が抑制され、あなたに与えられたこの「想像力」という最大の贈り物は投げ捨てられ、使わなくなってしまうでしょう。

   何世紀か後の人類は今を振り返り、21世紀前半にはテレビによって人々は半分眠った状態にされ、コントロールされ、病気になっていたことが理解されるでしょう。どんな番組であれ、テレビを見るのは時間の無駄です。テレビはあなた方を、人生の実体験から切り離し、テレビがあなたの代わりに体験してくれることでしょう。あなたが行動して体験することこそが、学ぶための最善の方法なのです。

   「私は教育番組しか見ません。」 中にはこのように言う人がいるかもしれません。
   しかし、私たちとしてはこう聞きたいと思います。「いい番組と同時に、どんなものが放送されていると思いますか?」 

   あなたの家にどうしてもテレビを置いておきたいなら、コンセントを外してください。
   なぜなら、テレビをつけていない時でも、テレビを通して「ある周波数」が送り込まれているからです。私たちの言おうとしていることが理解できるでしょうか?

   自然界から聞こえて来る放送に、耳を傾ける選択をしてください。
   地球の声に耳を傾け、それを聴いてください。


      book「プレアデス+地球をひらく鍵」 
                バーバラ・マーシニアック著 
太陽出版 

                          抜粋

 

・私よりも他の人を愛してはいけない!

   子どもが生まれて、育てられ始めるそのまさに最初から、子どものマインド(表面意識)には間違ったメカニズムが吹き込まれ、間違った態度が吹き込まれる。誰もが子どもに良かれと思ってしているが、周りには間違った人々がいる。だから子どもたちはそうあるしかなく、彼らは無力だ。

   子どもは何のパターンも持たずに生まれて来る。
   そして子どもたちも幸福を求める。だが私たちは、子どもに幸福になる道を教えることができない。なぜなら私たちが教えることはすべて、苦悩へと向かう道になってしまうからだ。

   たとえば私たちは、子どもに善良になりなさいと教える。
   「それが自然なことか、不自然なことか」と考えることもなく、してはいけないこと、するべきことを教える。「これをしなさい。あれをしてはだめ」と私たちは言う。私たちの考える「善良」は不自然なものかもしれない。だから善良であるように教えていることが不自然なことであれば、私たちは苦悩のパターンをつくっているのだ。

   たとえば、子どもが怒っているとき私たちは言う。
   「そんなに怒らないで。怒っちゃだめだよ」と。だが怒りは自然なものだ。そして「怒ってはだめ」と言うことによって、私たちは怒りをなくするのではなく、怒りの抑圧を教えている。抑圧は苦悩になる、なぜなら抑圧されたものはすべて、内側で毒になるからだ。それは身体の化学物質へと変化し、毒となる。だから私たちは「怒ってはいけない」と常に諭(さと)しはするが、同時に自分自身の肉体組織に害を及ぼすことを教えている。

   結局、私たちが教えているのは、怒らなくてもすむ方法を教えるのではなく、ただ怒りを抑圧することを教えているだけなのだ。「怒ってはだめ」と言われ、強制されると、子どもはその内側で怒りの炎が燃えていても、それを抑えて笑みをつくろうとする。こうして私たちは1人の偽善者をつくる。子どもは自分の笑みが偽りであることを知っており、分裂する。怒りは本物だが、本物は抑圧され、偽物が強制される。

   心から怒れないならば、何事も心から行なうことはできない。
   なぜなら真実は非難されるからだ。愛も、歓喜も表現できず、子どもは真実を怖れるようになる。真実の一部を非難するならば、真実全体が非難されることになる。真実とは分割できないものであり、子どもは分割という行為ができないからだ。

   一つ確かなことは、子どもは自分が受け入れられていないことを理解するようになる。なぜならありのままでは、受け入れてはもらえないからだ。どういうわけか、真実はいけないものなので、そのためには偽りを装う必要があると学ぶ。つくり顔や仮面を用いる必要があると学ぶ。一度これを学ぶと、人生は偽りの次元に入ってしまう。そして偽りは苦悩をもたらすだけなので、幸福をもたらすことはできない。真実だけが、正真正銘のものだけが、歓喜へと、生のもっとも高い体験へと導いてくれる。それを愛、喜び、瞑想、どのようにでも名づけることができる。

   誰もがこのパターンの中で育てられてきた。
   だからあなたは幸福を切望するが、何をしても苦悩を作り出すことになる。幸福へ向かうために必要なことは、自分自身を受け入れることだ。しかし私たちの社会は、自分自身を受け入れよとは決して教えない。社会が教えるのは、自分自身を批判し、罪悪感を持って分裂せよという。そしてあなたは不自由になり、不自由な人はゴールにはたどり着けない。だから私たちはみな不自由だ。

私よりも他の人を愛してはいけない!

   執着は苦悩だ。
   それなのにまさにその最初から、子どもたちは執着を教えられる。母親は「私を大切にして愛しなさい」と子どもに言う。父親は「私はお前の父親だ。私を愛しなさい」と子どもに言う。それはまるで父親や母親でありさえすれば、自動的に愛される人であるかのようだ。ただ母親や父親であるだけではたいしたことはない。父親になるとは、厳しい修練をくぐり抜けることだ。つまり自身が愛される人間になる必要がある。母親になるとは、単に子どもを産むことではない。母親になるとは、厳しい訓練と内なる修練を意味している。つまり自身が愛される人になる必要があるのだ。

   母親が愛される人間であれば、子どもは執着せずに愛するだろう。
   そして愛すべき人を見つけたなら、子どもはきっとその人を愛するだろう。しかし愛したいと思えないような母親や父親たちは、愛とは質であるという観点から考えたことがない。そうした認識を芽生えさせ、それになりなさい。成長が必要だ。そのとき初めて、あなたは他人の中に愛を芽生えさせることができる。それは要求できないことだ。もし要求するなら、それは愛ではなく執着を求めている。

   子どもは、自分の母親だから母親を愛し、父親を愛すべきというのは、関係性であって、愛ではない。この関係性を子どもに要求することで、子どもは家族に執着するようになり、家族というものは破壊的な力を持つようになる。なぜならあなたの家族は近所の家族とは区別されるからだ。あなたは他の家族には属していないから、あなたにとって他の家族は愛するに値しないものになる。するとあなたの近所の家族や、地域社会やあなたの国だけでなく、近隣の国々は敵となってしまう。

   あなたが全人類を愛せないのは、あなたの家族が根本的な原因なのだ。
   家族はあなたを、愛される人になるように、愛情深い人であるように育ててはこなかった。家族が要求する関係性とは執着という関係である。そして愛は、マインド(表面意識)の一つの状態だ。あなたの父親はあなたに、「愛のある人でいなさい」とは言わない。なぜならあなたが愛情深い人であるならば、他の誰に対しても愛情を注ぐからだ。

   時にはむしろ、近所の人たちのほうが、あなたの父親よりもずっと愛すべき人であるかもしれない。でも父親は、誰か近所の人が自分よりもあなたから愛される人であることを容認できない。なぜなら自分こそがあなたの父親だからだ。こうした隠れた理由から私たちは愛ではなく、関係性を教え込まれる必要があるのだ。

   これが私の国だから、この国を愛さなければならない。
   だがもしこれを、愛するということを自然に教えられたとしたら、私はどんな国でも愛することができる。しかし政治家たちは異を唱えるだろう。なぜなら私が他のどんな国でも愛するなら、そして私がこの地球を愛するならば、私を戦争へ駆り出すことができないからだ。

   だから政治家は説く。「この国を愛しなさい。これがあなたの国であなたはここに生まれた。あなたはこの国の一員だから、あなたの生死はこの国に属している」と。(このように愛国主義を焚き付けることで)、政府はあなたを国のために駆り出し、犠牲を強いることができる。
こうして社会全体が、愛ではなく、関係性や執着をあなたに教えている。

   愛は危険だ。なぜなら愛は境界を知らないからだ。愛は自由に動くことができる。だからあなたの妻はあなたに教え込む。「私はあなたの妻よ。だから私を愛するのは当然よ」。夫は妻に教え込む。「私を愛しなさい。私はお前の夫なんだから」と。このように、どこにも愛を教えている人はいない。

   もし愛を自然に教えることができるならば、妻は言うだろう。
   「でも、他の人ももっと愛するべきよ」と。もし世界が愛することに真に自由であれば、単に夫であることには何の意味もないし、単に妻であることは何も意味しないだろう。その時、愛は自由に流れる。

   だが、それは危険だ! この社会はそれを容認できない。家族はそれを認めるわけにはいかない。宗教はそれを容認することはできない。だから彼らは、愛の名のもとに、執着を教えるのだ。そして誰もが苦悩の中を生きることになる。

   愛は決して、あなたに苦悩を与えない。
   あなたが誰かを愛したら、あなたは彼の幸せを愛する。あなたが彼に執着するなら、あなたは彼の幸せを愛さない。あなたは自分の要求ばかりを愛する。なぜならあなたには、自分自身のわがままな要求だけにしか関心がないからだ。


         パタンジャリのヨーガ・スートラ
           book 『魂のヨーガ』 OSHO 市民出版社


                        
   抜粋
   
   

 

・自分の資質と釣り合う人々を親に選んで転生する

Q、 あなたはご自分の前世は700年前だったということですが、その長い歳月の間、どこにおられたのですか?

   ここだよ、このウルグアイだよ! 肉体の中にいなければ、人はただ、どんな仕切りもない存在全体の一部として在るだけだ。全存在が手に入るのだ。私が700年間留まっていなければならなかった理由は・・・。数は少ないが、すぐには転生して次の生涯に入っていかない人々がいる。あまりに邪悪で、あまりに動物的で、あまりに殺人狂的な、たとえばヒトラーのような場合がある。

   彼はまだ転生していない。なぜなら何千年も手に入らないかもしれないような、ある種の「子宮」が彼には必要だからだ。彼は待たなければならない。それと同じく、ある種の進化を遂げた魂の場合にも同じ問題がある。そういう存在も、ある特定の子宮を必要とする。そしてそれが手に入らない限り、その魂は転生することができず、次の生涯をつかめない。

   だが通常、そうしたことはほんの数十秒で起きる。
   意識が目覚めていない眠っている魂なら、自分にふさわしい同じような種類の子宮は簡単に手に入るからだ。しかも世界中には、一日中何百万という人間たちが愛を交わして、転生を望む人々に妊娠を通して子宮に入るための機会を提供している。だから大衆にとっては何の問題もなく、彼らは待つ必要もなく、それはほとんど瞬間的に起こる。つまり一つの肉体の死でそこを離れると、彼らはすぐに、どこかに用意されている最も身近な子宮に入っていく。

   ついでに言えば、たとえばドイツに生まれていれば、その人は何回もの転生をドイツに生まれて来る可能性がある。それはその人の意識が、大衆の一部として留まる限り、何も遠い中国や日本まで行って転生する必要はないという単純な理由による。しかも自分の身近に、自分を受け入れてくれる子宮がいくらでも存在する。

   私が自分の実験で見てきたところでは、何かがその魂の中で成長し始め、それにふさわしい適当な子宮を身近で見つけられなくなったのでない限り、一般的に人々は同じ環境の中にい続ける。だがそのための子宮を見つけられない時、そうした人々は場所を変える。その時は、その人々は別な国や別な人種、別の民族へと移動する。

自分の資質と釣り合う人々を親に選んで転生する

   だがそうではない両極端な場合、たとえばあまりにも呪われているか、あまりにも祝福されている場合、その人は待たなければならない。なぜならそういう人を受け入れられる子宮は、滅多に用意されてはいないからだ。その父親はある遺伝子のもとに特定の資質を備えていなければならず、その母親はある特定の資質を備えていることが必要だ。つまり、親になる人たちの資質が、本人の資質と釣り合いが取れているときにしか、ある種の魂はそこに入っては行けない。

   だから人間は、自分の両親の血と骨と細胞を持ち運んでいるというだけではなく、そこにはより深い何かがある。あなたにはまさに、自分の両親のものである特定の資質があるが、だがあなたはそれを両親から学んだわけではない。つまりあなたはすでにそれを持っていた。だからこそ、そういう両親を選んだのだ。

   肉体がなければ、人はただの存在の一部であるだけだ。
   つまり肉体を離れれば、魂はこの地上の時間と空間を共に越えて行く。だからどこに留まっているかを言い表す方法はない。魂は至福に満ちてその状態にとどまる、あるいは惨めさと苦悶の中にあり、自分がしてきたあらゆる邪悪に行き詰っているならば、魂は非常に惨めな状態の中にある。

   私自身の理解では、こういう状況から天国と地獄という観念が起こった。
   実際には地獄も天国もないが、自分の行き詰まりから子宮を見つけられない魂がいる。そうした魂たちが苦悶と惨めさという闇の中にいるとすれば、それは彼らがこれまで他人にしてきたあらゆる拷問が自分自身に戻って来ているからだ。こうした人々は、徹底的な自己の断罪と自らを罰する自己拷問の中で生きることになる。そしてこれこそが、地獄という観念が生まれた理由だ。それ以外に地獄などはない。だが地獄という言葉にも、象徴的な意味はある。

   その700年間は、私にとって全くの至福だった。
   そして当然、あのような時空を超えた至福の経験をした者は誰でも、自分は天国に住んでいると思うだろうと言うことができる。だが、天国などはない。常に自分の存在がすべてなのだ。人は肉体の中にいるとき、その時、その人は進化するためのチャンスを手にしている。肉体がなければ、人は進化できない。肉体とは一種の学校であり、それは人に進化のためのあらゆる状況を与えてくれる。

   その700年間は至福に満ちたものであったが、自分が前進できなかったことを私は知っている。それは凍結した至福だった。そういう状態では成長の可能性はなく、魂は転生するまで同じ地点に留まることになる。転生することではじめて、新たな成長へ向かうことができる。だから成長するために、肉体が必要なのだ。

   だがその人が成長のあらゆる可能性、全範囲に到達したならば、もうどのような進化も必要なく、最終点に達した。そうなればもう肉体に戻る必要はなく、学校に戻る必要はない。その人はすべてを学んだので永遠の至福とともに、永久に存在の一部としてとどまることができる。

肉体を苦しめ、自分を苦しめると、その反動を引き起こす

   肉体とは大切にされ、慈しまれねばならない。
   なぜなら肉体とは人の成長のための乗り物であり、前進するための足であり、それがなければ動くことができない。宗教が、肉体を何か宗教に反するものとする観念を創作したことに、私が絶えず驚いているのはそのためだ。肉体は、人がそれに望んでいる状態に忠実だ。つまり霊性に反するものにもなれば、霊性を支えるものにもなる。

   あらゆる宗教が肉体を非難してきたという事実は、人類の意識に浸透して人間性を損なってきた。なぜなら無知から肉体を非難してきた人々は、自分をより高い状態へ押し上げてくれる、肉体の持つ可能性を投げ捨ててしまったからだ。それどころか逆に、彼らは肉体と対立し、害を与えるようになった。彼らは肉体に対して破壊的であり、自分自身を運んでくれる自身の乗り物を破壊しているのだ。

   だが光明を達成した魂たちが、再び肉体に転生しないという事実が、無知な聖職者や学者たちに誤った考えを植え付けることになった。それが、肉体が霊的なものでない、霊性に反するものだからという考えである。人間が肉体にいるのは、その人間が光明を得ていないためでそのために肉体と闘い、肉体を苦しめ、肉体から自分を自由にしなければならないという考えである。

他人を苦しめることに喜びを見出す狂った人々

   だがこうした考えによる方法が、彼らを肉体から解放することはない。
   むしろより一層、より以上に肉体に巻き込まれることになる。光明を得た魂が、決して肉体に転生しないのは確かである。だが、肉体に転生しなければ、肉体を滅ぼせば光明を得るという考えは真実ではない。その「破壊する」「苦しめる」という考えそのものが霊性にまったく反するものだ。そしてそのように自分自身を苦しめ、破壊できる人間は、同時に容易に他者を破壊する可能性がある。自分を苦しめる者は、容易に他者を苦しめるのは当然だからだ。

   だからあるいはヒトラーのような人たちは、過去においていわゆる(苦行の)聖者だったのかもしれない。こういう人たちは自分の肉体を余りにも苦しめるために、今度は反動を引き起こすのだ。つまり振り子が、もう一方へ大きく戻る。そして今度は他の人々を苦しめる。そうでもなければ、他人を苦しめる理由など何もないからだ。

   他人を苦しめることで、いったいどんな楽しみが得られるというのか? 
   その背後には何か理由があるに違いない。そういう人たちは、余りにも自分を苦しめて来たので、それが今度は悪循環し始める。自分を苦しめて次に転生すると、今度は他人を苦しめる。そして他人を苦しめたがゆえに、また転生して自分自身を苦しめるのだ。

   「世界」を表わすヒンドゥスタン語は「サンサーラ」だ。
   インドは言語に関しては極めて注意深かった。一つ一つの単語にそれ自身の哲学的背景がある。そしてサンサーラとは、動き続ける車輪を意味する。その車輪から飛び出して抜ける唯一の方法が、”見ていること”だ。だがもしその人が、怒りや嫉妬、愛や憎しみなどのあらゆる状態を自分自身だと思うならば、その人は回り続ける車輪に捕まっている。

   車輪は、一つの極端からもう一方の極端へと動き続ける。
   下にあったものは上になり、上は下になる。その輪廻はただ外に飛び出して抜けない限り、そこに終わりはない。そこから飛び出す唯一の方法が、自分自身に気づくことであり、自分を翻弄する怒りや悲しみ、憎しみや愛、惨めさや喜びに気づくようになることだ。それが、自分を”見ている”ことであり、その時あなたはすでに車輪の外にいる。


          book『神秘家の道』 OSHO著  市民出版社

                         抜粋

・本当に「神があわせたものを人が離してはならない」のか?

   嘆かわしいことだが、執着があるせいで、相手の自由意志を尊重することができずに、関係の継続を強要する。その結果、相手に肉体的かつ精神的な苦痛を与えることがあるが、そのことからも、相手をほとんど愛してはいなかったことは明らかだ。

   あなた方の世界では、感情における自由があまり尊重されていないので、多くの関係が愛に基づくものではなく、刑吏と犠牲者が一緒に暮らすような支配ー従属関係となってしまう。そういう状態の、抑圧されている被害者がパートナーに感じる気持ちは、愛ではなく怖れである。しかも加害者は多くの場合、相手に心理操作(優しくしたり)してまだ愛されていると信じ込ませてしまうので、女性の中には別れることに罪悪感を感じる者もいる。

   暴力や乱暴は以前から、今と同じかそれ以上に行なわれていたが、夫が妻を支配することが法律や社会的規範で擁護されていたことから、女性は従属の足かせを壊す勇気がなかった。現在、世界で性暴力のケースが目につくのは、特に女性を保護する法律が存在している国々において、搾取や虐待は許されないという社会意識が高まったことから、加害者から逃れる勇敢な女性たちが増えたからだ。虐待する側は、それをさせまいとして、より過激な行為に走り、殺害に至ることもある。

   そうした関係の継続の中に生きることは、生きていながら死んでいることだ。
   なぜならそのように暮らすことは、その人にとっては死よりも酷いことだからだ。だが逃れようとする試みの中で命を失ったとしても、虐待する者の横暴に屈して一生を棒に振るよりは、幸せと自由を求めて闘ったほうがよい。誰にも自由で幸せになる権利がある。自分自身の人生と感情に対して、自分以上の決定権を持つ者は存在しないのである。

Q、  このような虐待の状況から、霊的に何を学ぶのでしょうか?

   こうした試練は非常に苛酷ではあるが、自分の感情の自由のために闘おうとする魂が、勇気と一貫性を獲得するために役に立つ。そして感情における自由の権利を剥奪することは、人に最大の苦痛と不幸をもたらす原因となるので、誰からも奪ってはならないことだと気づかせてくれるのだ。

   しばしば2人の関係を終わらせる原因として、肉体的精神的な暴力がある。
   あるいは相手の薬物やアルコール、ギャンブル、浮気など、そうした中毒症により共同生活が台無しにされるなどの、正当な不快な原因があるべきだと思われている。だが、虐待されていなければ、関係を切る理由にはならないという考えを持つ人々は、ほとんどの場合、宗教的な因習、伝統的考えを強く持っている。そういう教育では、離婚は相手の暴力だけが唯一の理由と考えることから、双方に愛情があるかないかに関わらず、婚姻というものは一生涯続けるべきものという考えがある。

   だがそうではない。
   別れるには、双方が愛し合っていないだけで十分なのである。

Q、 ですが、結婚の破棄は聖なる法律を破ることだと考えている人々がいるので、特に一神教の宗教においては離婚は禁じられていますね。

   多くの宗教は離婚に反対だが、当人の意志に反して関係の継続を強いることは、宇宙の「魂の法則」、つまり「自由意志の法則」に違反することになると言っておこう。愛はなく空虚なのに、恐れからか、今のままが楽だからか、あるいは離婚すれば宗教的規則に違反して神に背いてしまうと信じることから、愛情のない夫婦関係を続ける人々が大勢いるのを見ると大変悲しく思う。

   なぜなら彼らは、(キリスト教の神が合わせたものを人は離してはならないとする)、結婚を一生続けるようにと人間に要請するのは神であると信じたからである。そのために愛のない関係から生まれる苦悩と引き換えに、(戒律に忠実であることで)「天国へのキップ」を手にできると信じている人々もいる。

   だが、それは違う。
   自分の感情に従って生きることを放棄した人には、何の成長も霊的進化も起こらない。すべての婚姻が神が義務付けたものではなく、そのように人に強要するのは本人あるいは社会的常識、あるいは受けた宗教的教育の結果である。婚姻を解消してはならないとする要求は、神から来たものでもなければ、高次の霊性でもなく、人の本質である感情までも売買の対象とするエゴに浸かりきった人間の手が、作り出した法律であることをはっきりさせておかねばならない。

Q、 そうであれば、婚姻非解消(離婚してはならない)という概念はどこから生まれたものですか?

   人間の利己的で物質主義に染まったメンタリティーは、あらゆるものに所有権を決め、すべてが売り買いできるものとしている。もし不可能でさえなければ、空気や太陽光線までも独占するだろうし、「これは自分のものだ!」とする野心から、他へ高額で売りつけようとすることだろう。それと同様に、あなた方は人やその意志や感情までも、お金で買えると思っている。

   それが、結婚と呼ばれる契約書にサインすることであり、ごく普通の商取引をしていることなのだ。ある者はそれにより、相手の意志(義務)と感情(愛情)を自分のために買い取ったと考えており、一方は契約によって自分の意志や決定権、自由と感情を相手に与えることを義務付けられたと信じ込むことになる。

   こうした利己的な混乱を生み出している原因の「極めつけ」は、儀式を通して神が契約の証人にされていることにある。そのために、自分自身や相手の幸せが踏みにじられようがどうなろうが、重要なのは契約だけになってしまい、何が何でも契約を貫くべきだと思い込むに至った。そうでないと契約不履行のために、死後にすべてを剥奪されることになるからなのだ。

   言っておくが、これらはすべて、人間のエゴがつくり上げた大嘘なのである。
   神から生まれた人間には、1人1人に感情や思考における完全な自由が与えられている。人が、感じることや考えることの自由のために闘うことは、いかなる宇宙の法則にも背くことはない。それはいかなる状況であれ、自由でいる権利や自分自身の人生、そして自分の感情に正直に生きる権利を、あなた方から奪える者など誰もいないということだ。ましてや、それを相手に強いるために、神の名を利用することなど誰にもできはしない。

Q  ですがこれを、離婚を促進させる話と受け取る人もいるでしょうね。

   認めるのは困難かもしれないが、お互いの愛情に基づかない婚姻関係というのは、実際には夫婦としては存在していない。一生にわたり、世間的には仲の良い夫婦を演じていたとしても、それは表面的な結束に過ぎない。実情は自分だけにしかわからず、それを隠そうとすることから、虚しさや哀しみは大きいものになるだろう。

   人には誰にも幸せになる権利があり、幸福になるのを妨げる法律など本来存在しないことを知るべきである。その点で地上に作られている宗教的法律は、幸福への行く手を阻む巨大な岩のようである。しかもあなた方はその岩が、神によって置かれたものと信じきっていることにある。

   宇宙は生きているすべての人々が幸せになるようにと願い、そうした道の発見に向けて可能な限り手助けしている。そしてもうこれ以上長く、こうした状態を容認しておくことはできない。

Q、  カップルの関係を合法化する結婚制度は良くないのでしょうか?

   霊的な視点からは、2人の間の相互的な愛だけが真の結びつきだとされており、署名済みの公的結婚証明書の有無にはまったく関係がない。あなた方の物質的世界では、配偶者や一族の子孫を保護するために契約書の必要性がある。それが遺族年金であったり、家財産を確保したりなどのことであるが、それは物質的に有効であるに過ぎず、それ以上の価値を見出そうとするべきではない。

   つまり、婚姻の繋がりを相手の自由を束縛する口実に利用すべきではないし、相手が別れる決意をしたならば拘束したり恐喝すべきではない。なぜなら霊的な観点からは、「自由意志の法則」に反する行為となるからだ。もし物質的安定という理由から夫婦関係を維持するのであれば、物質的には何の不自由もないとしても愛のない暮らしとなるので、感情面では乏しく、愛の感情を育てることがない物質主義の人であるだろう。だが感情的自由を回復し、真に幸せになることを望む人であれば、物質的にはゼロからのスタートであろうと、怖れに打ち克ち、喜んでそうするだろう。

Q、  ですが中には、子どもの幸せを考えて子どもが成人するまでは離婚せず、それが正しい行動だと考えている人々もいます。これは正しい判断でしょうか?

   「子どものために我慢する」という言い訳は、「個人的な幸せよりも家族の結束が優先されるべき」という伝統的、因習的な宗教教育を受けた人々の間によく見られるものだ。だがそうした関係は、親の考えとは逆に、むしろ子どもを苦しめることになる。愛していない2人が無理をして一緒に住むことで、周りが影響を受けて不幸せになるので、子どもの情緒にとっては否定的な状況となる。

   多くの場合、子どもたちは親の喧嘩や口論を通して、親の不快感や苦悩を感じ取る。
   それが、子どもたちに感情的トラウマをもたらすのだ。子どもは親から「あなたがいなければ離婚していた」と言われることもあり、親が不幸なのは自分のせいだと感じながら成長する子どもたちもいる。こういうケースでは、親は自分たちの意気地なさを子どものせいにしている。

   子どもが幼い場合は、まだ十分な知識や教育的な枠付けに縛られていないことから、両親の離婚が感情的トラウマとはならない。しかし幼い子どもを最も苦しめるのは、自分を武器にされて、離婚原因の夫婦喧嘩の渦中に投げ込まれることであり、親の罵(ののし)り合いや脅しを見なければならないことだ。だから離婚する場合であっても、それらを回避できるのであれば、子どものトラウマを避けてあげるのが良い。

   多くの場合、離婚とは何年も我慢した挙句に起きるものである。
   両親は意識的にそうしたわけではなかったとしても、その間、子どもたちに伝えられてきたメッセージは、「個人よりも」家族の結束の方が大事ということだ。ゆえに子どもたちはその視点から、起きている物事を解釈するようになり、両親の破綻も信じてきたこととは反対に見えるので否定的に受け止める。

   だが子どもたちが現実をしっかり受け止めるようになれるためには、今まで与えてきたメッセージを打壊し、今度は、感情の自由と個人の幸せが最も大切であり、誰であれそれを絶対に放棄すべきではない、と理解させてあげる必要がある。

   そうした親を理解できるかどうかは、子どもがどれほど成熟しているかによる。
   中には他の子どもよりも理解力のある魂の子どももいる。両親よりも現実を自覚しており、新たな一歩を踏み出すように親に助言し、後押ししてくれる子どももいる。成熟した子どもほど理解を示してくれて、受け入れることができる。彼らは受けた教育ではなく、その状況を理解できる進化レベルにいる魂だからだ。

   しかしそうではなく、親が反対の見本、つまり自分の気持ちに反する共同生活の継続をすることで、子どももその例を踏襲し、親と同じ不幸な人生を繰り返すことになる。


     魂の法則Ⅱ
    book『愛の法則』 ビンセント・ギリェム著 ナチュラルスピリット


                          抜粋
  
   

・同性愛

Q、 霊的な観点から見て、どういう理由で同性愛になるのですか?

   すべてのケースに当てはまる一般的な回答をするのは難しく、それぞれのケースで異なっている。しかし同性愛者として生まれる人が同性愛であるのは、その魂の前世での体験に関係している。

   前世での生涯を終え、この次元を離れた状態の魂には本来、性の区別というものは存在せず、性別が決まるのは次に転生する時である。転生の時にはどちらかの性を優先したがることがあるが、魂の進化の必要性から判断して、ある人生では男性で、次の人生では女性であったりする。

   だが時々、前世での性別とは反対の性を選んで生まれようとする魂が、前世での性別や個性を完全に捨て切ることができなかった結果、そのために現世での自分の性を受け入れることに困難を感じることがある。つまり、前世での性別をどれほど自分と同一視してしまうかによって、現世で以下のようなさまざまな状況を生きることになる。

  トランスセクシュアル(性転換症)は、今回の自分の性別とは反対の性を完全に自認する人であり、自分の自己認識と一致した身体を欲しがる。

  ホモセクシュアル(同性愛者)は、今回の性と反対の性を自認することはないが、現在の性とは逆の性に生きていた前世と、同じ性的指向を持つ。

  またバイセクシュアル(両性愛者)には、現在だけでなく過去世での性別の双方の性的指向が現れる。

Q、  どういう理由で、前世の人格が影響し、剥(は)がれ落ちないのでしょうか?

   人格が一掃されず、剥がれ落ちない理由は多種多様だが、一般的には、自分の性別をエゴのために利用したり悪用したことで、他人の感情や自由意志を侵害してしまったことなどが原因であり、魂が持つ利己的な姿勢にある。

   それがたとえば、過去世において男性として生きていた時、その魂が極端な男尊女卑思考を持つ者であり、そのゆえに女性たちを虐待したケースである。自分の欲求だけで嫌がる女性を強制的に妻にしたり、力づくで性関係を強要したり、あるいは生涯にわたって女性をひどい扱い方をして辱めたりし、あらゆる女性すべてにそうした蔑視の態度を取っていた場合などである。

   その結果、次の人生では当然、その魂自身が蔑視していた性別、この場合は女性として生まれて来ることになるが、その人の内に持つ傾向は前世と似た個性をそのまま保っている。なぜなら克服できず、一掃できなかったそうした気質は、強く魂に浸透しているからだ。

   あるいは前世で女性として生きていた時、魂はその肉体的な魅力を利用して、男性たちを誘惑し、利用したとする。すると今回の人生では、かつて自分が利用し搾取した者たちと同じ性を受けて転生するが、前世の人格は克服されておらず、根強く残っていて同じ性格のままであり、性的指向も全部、あるいは一部を以前のものとして引きずることになる。

Q、 そうした状況から、何を学ばなければなりませんか?

   魂は、男性であれ、女性であれ、その性別を尊重することを学ばなければならない。
   だから自分がかつて蔑視し、傷めつけた性別を選んで転生しようとする。つまり、女性を蔑視し、虐待した男性であれば、女性に転生することで女性を尊重することを学ぼうとする。あるいは男性を搾取した女性であれば、今度は自分が男性に転生することで、男性を尊敬することを学ぶ。

   現世における性同一性障害や同性愛は、このような状況において当人が招いた状態である。つまりその人には、克服されていない前世での人格が根強く残っていることから、性的指向も全部、あるいは一部が内に残って維持されているのだ。

Q、 キリスト教を含むほとんどの宗教では、同性愛は悪いもの、普通ではない性的指向として断罪し、異性愛の関係だけを奨励していますが、それについてはどうですか

   同性愛者が、ただ世間的な外見だけのために、異性愛者でもないのにそうしようとするのは意味のないことだ。自分が同性愛であることを認めようとせず、それを抑圧しても何もいいことはない。そうすればするほど、本人は不幸になり、世間体だけのために選ばれた相手の異性にとっても不幸でしかない。何であれ自然でないことを無理強いはできないのだ。

   同性愛者は、誰もがそうであるように、ありのままの自分を受け入れて自分自身でいる必要があるし、そのままの自分で幸福を探し求めなければならない。同性愛者であるという状況は悪いことではなく、実際にはその魂にとって、自らの自由意志と感情という自由の大切さを認識し、学ぶための進化の機会となるものだ。

   人は本来の自分とは違う人になることや、嫌いな生活を強いられると苦しむものだ。
   だがそれが、その人の試練であり、学びとなるものだ。自分の生きる社会の無理解と拒絶にもかかわらず、自分自身になるために闘うことなのだ。

   本来の自分自身になるという困難を通して、自らの持つ自由意志の大切さに気づき、それを尊重するようになる。そして他者からの強要が苦痛であることを知り、それを通して、誰に対しても力づくの強制や強要は決してするべきではないと気づき始める。

   同性愛と性同一性障害は、虚栄心との関係が深いと付け加えておこう。
   虚栄心を克服しない限り、このような状況はなくならないだろう。


      魂の法則Ⅱ
    book『愛の法則』 ヴィンセント・ギリェム著ナチュラルスピリット


                           抜粋

・テレビやネット、電子機器を通して行なわれている心理操作と感情的破壊

   世界中でさまざまな異変が相次ぎ、先の見えない不安が渦巻いています。
   しかしこのような時代だからこそ私たちは意識的に、そうした負の感情、否定的な感情に飲み込まれないように、自分の想いに注意していなければなりません。そうしたマイナスの感情こそが、今私たちに一番必要とされている宇宙との心のつながりを危うくさせるものだからです。私たちは無意識のうちに知らないあいだに、恐怖心や破壊的イメージを大きくしたりしてはいないでしょうか。精霊や内なる高次の魂とのつながりを失って、無力感に襲われたりしてはいないでしょうか。

   私たちは自分が見たり聞いたりするものから大きな影響を受けるので、自分がどんなものを見聞きするかについては注意しなければなりません。とりわけメディアは破壊や混乱のイメージを意図的に多く用いることで、テレビやパソコンの画面に人々の意識を釘づけにします。その目的は、宇宙との心のつながりを遮り、恐怖で人々の心をからめ取ろうとすることです。

   私たちは悲惨な場面を目にすれば、絶望や恐怖心を感じるのは当然のことです。
   しかし大切なことはそれらを目にしたとしても、その恐怖心や絶望感に自分の感情を明け渡さないことです。それこそがまさしく、今の私たちに求められていることなのです。つまり、否定的な負の感情に自分のエネルギーを使わないように自覚し、そうした感情を文字通り「チャンネルを切り替える」ようにリセットすることなのです。

   しかし注意していないと、私たちは簡単に未来への不安や悲観的な思い、理不尽な出来事に対して怒りの思いに囚われてしまいます。メキシコ湾の重油流出事故や、福島第一原発の放射能漏れの事故などは、世界中を震撼させました。そうした悲劇を目にしながら、悲しみや恐怖や不安を感じない人はいないでしょう。他者の苦しみに深い悲しみや同情を覚えるのは、人間としてごく自然な反応です。しかし哀れみを感じ、心を揺さぶられながらも、そうした負の感情に飲み込まれずにいることは可能なのです。

自分の内に「平和で穏やかな世界」を築き、そこで生きる

   なぜならたとえこの世界でどれほどの不幸や混乱が渦巻いていようとも、自分が何を感じるかは自分次第であり、自分の内なる世界をつくるのは自分自身だからです。つまり、自分の奥深くの自己が発する高次元の波動に感情のチャンネルを合わせていれば、あなたを取り巻く世界を変えることも可能なのです。

   あなたは天国で暮らしたいですか? それとも地獄で暮らしたいですか? 
   それを選択するのはあなたであり、一瞬一瞬を天国にするか、地獄にするかはすべてあなた自身なのです。それは外側の世界に何を見ようと、何が起きていようと関係ありません。自分の内面の世界をどのように保つかという選択権は、常に自分の手中にあります。しかもその選択は自分個人の世界を変えることだけに留まらず、外の現実世界さえも変えてしまうのです。

   私はこの「チャンネルを切り替える」という話を世界各地でしてきました。
   すると、「ニュースや世界の現実に目を向けないほうがいいのですか?」と聞かれることがあります。しかしそれは私がお伝えしたい真意ではありません。大事なことは、世界で何が起きているかを常に認識すると同時に、自分の心の求めに従い、積極的に変化をもたらそうと努力を続けることです。その際に、絶えず周りから差し出される否定的で恐怖に満ちたものを受け入れたり、吸収したりするべきではないということです。

   「チャンネルを切り替える」とは、自分の気分を落ち込ませたり、気力を奪ってしまうもの、不安や恐怖、混乱、無力感などをもたらすものをあえて自分から求めない、あるいはそういうものに執着しないという意味です。それよりも美しくて、肯定的で、感動や希望を与えてくれるものに意識を集中させるならば、自分のエネルギーを低下させずに済むでしょう。つまり、否定的なものに焦点を合わせれば合わせるほど、自分の心に否定的なものを生み出し、その結果、気力や感情の大部分をそうしたものに明け渡すことになるのです。

   つまりあなた自身がそうして落ち込んだり、恐怖心に囚われたり、あるいは目にした悲惨な情景を何度も頭の中で再現したりしていたのでは、そうした問題の危機の解決に力を貸すことなどどうしてできるでしょうか。私たちはよりよい変化をもたらすためには、この世界をともに創り出す神々しい存在として、エネルギーに満ちて溌剌(はつらつ)としていなければならないのです。そのために自らの内なる高次の自己としっかりつながり、自分自身でいなければなりません。

テレビやネット、電子機器を通して行なわれている心理操作と感情的破壊

   テレビとインターネットは、ある巨大な勢力によって支配されており、そうしたものから絶えず垂れ流されるゴミのような情報を、無防備に私たち現代人は大量に取り込んでいます。その結果、私たちは自分自身に対しても、自分の住む世界に対しても、よい感情を抱くことができなくなっています。それは心を離れて、思考に偏りすぎた低次元の波動を大量に吸収してしまったことが原因であり、自然との触れ合いから得られるものとは真反対のこと、つまり人間が本来持つエネルギー・フィールドの消耗・崩壊が起きているのです。

   頭の世界から抜け出せず、注意力は散漫で、意味のない軽薄なものごとに次々と翻弄される、といった状態に私たちは陥っています。コンピューターやハイテク機器への依存は進むばかりです。しかしそういった、意味のないおしゃべりの垂れ流しにできるだけ晒されないように意識するならば、快方へ向かうことができるでしょう。

   たとえばニュースで何か気分が重くなるようなことを耳にしたら、「さあ、心のチャンネルを切り替えよう」と意識することです。それは実際にテレビのチャンネルを替えて、その事実から目をそむけよということではありません。私たちは外から差し出されるさまざまなものに反応して、怯えて暮らす必要はないということです。つまり、誰かの現実を見て自分が感情的に翻弄され、自分もそうなったら、あるいはそうならなかったらどうしようなどと、振り回される必要はないと気づくことです。

   自分の周りや、世界のどこで何が起きていようと、否定的な負の感情に自分のエネルギーを費やすことはやめにしましょう。「自分の意識」というもっとも強力な創造の源は、自分で守らなければなりません。それは命や希望を与え、魂を揺さぶる感動や癒しなどのすべてを包み込む方向へ、あなたの意識のチャンネルを合わせることなのです。

      それは日常生活でも同じことです。
   あなたの身近にいる誰かが悪口を言うのをを聞いたり、皮肉や否定的な発言をまき散らしていたら、勇気を持って意識のチャンネルを切り替えるように頼むか、あるいはそういうネガティブな話には興味がないことをはっきり伝えましょう。あるいはその話に耳を傾けるのをやめ、会話をポジティブな方向へ持っていくこともできます。

   そして一方で愚かな消費主義に煽られることも、やはり負の連鎖に加担していることなのです。私たちは、本当は必要ないものなのに、必要であるかのように影響され吹き込まれているのです。私たちは本来、自分や他人のために幸せで美しい世界を創り出すことができるほどの創造力を持っていながら、それを使うことを知らず、すべてはお金で買えると思い込まされ、それがなければ生きていけないと信じ込まされているのです。こうして本来自分に備わっている創造力をみすみす無駄にしているのです。

   もし自分がそうした思考パターンに陥っており、あれもこれも必要だから買わなければ、という心理状態であることに気づくことができたなら、チャンネルの切り替えは可能です。つまりものを買うことで簡単に得られる心理的な高揚感に浸るのではなく、本物の活力を与えてくれる何かに取り組むことです。それは最近流行りの新製品を買わずに、自分で何かをつくってみたり、絵を描いたり、詩をつくったり、子どもやペットと遊んだり、自然の野山を歩いてみたりすることかもしれません。

   ものを消費することや、ものにエネルギーを消耗していると、自分が本来どれほど霊的で自由な存在であったかを忘れてしまいます。私たちは本来、幻のような金銭的な幸せではなく、それよりも遥かに大きな価値と創造力を持ち合わせているものです。ものそれ自体が悪いのではありません。ただ私たちはものに囚われるほど、自分自身に対する価値を見失い、本来持っている能力や活力を消耗させていくことになるのです。

恐怖心や絶望、否定的なものから自分の心を守る

   毎朝、毎晩、空を見上げて、心から自分を肯定しましょう。
   「何もかもが望ましくて美しい。私は創造する者であり、神として女神として、自分の世界を変えることができる」と。そうすれば、あなたの波動は一気に高まるでしょう。

   そしてそれとは対照的に、ネガティブなニュース満載の新聞やテレビで何かを読んだり見た後、恐怖のようなあるいは無味乾燥な負の感情から抜け出せずにいるときは、あなたのエネルギーレベルは急降下します。ですから自分の意識をそうしたものに無防備に晒さず、外の世界に振り回されずに、しっかりコントロールできるかどうかが重要で、それをするのはあなたなのです。

   私のインターネットの動画が世界中で反響を呼び、多くの視聴者がとても温かい支援の態度を示してくれました。しかし有名になれば、バラ色の毎日が待っているかといえばそんなことはありません。つまりたくさんの光と善意のあるところには、必ず闇もあるのです。

   知名度が高まるにつれてネット上で私を攻撃したり、根も葉もない嘘をまき散らす人が出て来たときには愕然としたものです。最初のうちこそ、そういう人たちにも善意や真実を知ってもらおうと努力しましたが、私はすぐに気づきました。世の中には、こちらがどうであれ、何を言い、どうしたところで、他人をあざ笑い、石を投げることしかできない人々がいるということでした。

   しかし思い悩むのはエネルギーの無駄です。
   たとえ何が起きても、自分の負の感情を克服するには、愛と思いやりの波動を持ち続けるしかありません。反論したり、怒りをぶつければ、火に油を注ぐだけであり向こうの思う壷です。こうして私は、意識のチャンネルをうまく切り替える術を学ぶことになりました。

   そのためには自分の持つ偽りのない真実を貫き、自分の魂の目的と信じるもののために尽くすと決め、否定的なものに意識を向けるのをやめ、肯定的なものだけを味方にする、こうして私は意識の切り替え方を学んできました。

   私たちは、人間として善良で愛情深く、正しい行いをしていれば、批判や敵意にさらされることはないだろうと思いがちですが、現実はそうではありません。なぜならこの世界は光と闇が同時に存在する二元性の世界なので、何の理由もなくそうした負の感情にさらされることがあるのです。

意識を切り替える術(すべ)を学ぶ

   でもだからといって、他者がぶつけてくるそうした負のエネルギーを、まともに受け止める必要はまったくありません。場合によっては一番身近な人でさえが、優越感に浸りたいエゴのために、こちらを貶めたりけなしたりすることがあります。しかしそうした行為は常に、けなす側の人間が抱える問題なのです。そんなときもやはり、自分の意識のチャンネルを切り替える必要があります。

   相手が言うことや否定的な意見、決め付けなどを受け取る必要はありません。
   それによって自分を卑下する必要もまったくありません。私たちは自分の送り出したエネルギーがどんなものであれ、それはすべて自分に戻って来ることを知っておくべきです。自分が愛の輝きであり、そのままで完璧であることを思い出してください。誰にも他人をけなしたり、エネルギーを取り上げたりする権利や能力はありません。

   むしろこちらが差し出すからこそエネルギーを奪われるのです。
   そうではなく心を揺さぶるものや、自分の本来の能力や姿を思い出させて勇気づけてくれるものにこそ、エネルギーを差し出しましょう。いつも簡単にはいかなくても、こうした意識の切り替えは、特に破壊的な恐怖心に直面している人の覚醒を促す手段の1つになります。常に自らの内面に意識を向け、大いなる愛とつながっていましょう。


 book『<レインボー・トライブ/虹の民>に生まれ変わるあなたに』
                    キーシャ・クローサー著  ヒカルランド


                          抜粋   
   

・個人になる

   理解すべき最初のことは、あなたは本来、人物(パーソン)ではなく、つまり人格(パーソナリティ)ではないということだ。「人物」(パーソン)という言葉はギリシャ劇から来ている。ギリシャ劇では俳優たちは仮面(ペルソナ)つけていた。だから人は俳優の実際の顔は見ることができず、彼の声だけを聴くことができた。ペルソナ(仮面)のソナは音を意味する。だからペルソナとは、声だけは聞こえるが、誰が話しているのかわからないことを意味する。

   誰もが仮面をつけている。
   あなたはその声は聴くことができるが、顔を見ることはできない。つまり、あなたは個人を見ることができない。あなたが単なる人格(パーソナリティ)だけなら、あなたはすでに死んでおり、真に生きてはいない。あなたがあらゆる伝統や自らの宗教において自己主張するとき、あなたは本来のあなたではないものになっていく。

   また思い出した。
   私がかつて知っていた外科医がいたが、おそらくインドで最も有名な外科医だった。彼の同僚たちは、彼の引退の送別会を開き、私もそこにいたが、彼はとても悲しそうだった。それで私は尋ねた。「なぜ悲しいのですか? あなたは全国でも最高の外科医だから幸せだと思うが」

   彼は言った。「あなたにはわからないでしょう。私はそもそも決して外科医なんかになりたくはなかった。最高の外科医であることが何だというのですか? 私はそれを聞くのが嫌いです。私はそのはじめから音楽家になりたかったのに、親から外科医になるようにと強制されたのです。だから私は自分の意思に反して外科医になりました。そして偶然、私は最高の外科医になりはしましたが、おそらく私は、最高の音楽家にはなれなかったでしょう。私は裕福ですべてを持ち、社会的地位もあります。ですがだからといって、幸せになれるわけではありません。」

   「私が乞食のままであったとしても、私は私自身でいられたので、音楽家としてとても幸せだったでしょう。私の演じてきた外科医は、まるでどこかの他人のようです。それは演じられた役であって、私ではありません。人々は私のために祝ってくれていますが、それなのに私は心の中では泣き叫んでいるのです。自分の一生はこれでおしまいだと」

   だから第一に、あなたは「人物」(パーソン)でも「人格」(パーソナリティ)でもない。
   あなたは「個人」(インディビジュアル)だ。そして個人であるときにだけ、自分の本当の自己を知ることができる。人格、人物は自己を持たず、それと同じくらい偽りの自我だけを持つ。個人であるあなたは魂を持ち、自己を持つ。個人とは生命の本質だ。

   もしあなたが生命を知っているなら、この種の質問は決してしないだろうし、生命を確実に知っているということは、生命が不滅だと知っていることでもある。不滅への理解とは本質的なものであり、それは外部からの情報に基づくものではない。あなたが本来の自分という存在をトータルに生きていれば、ゆっくりと、自らの内なる生命の不滅の流れに気づくだろう。あなたは肉体が死ぬことを知っているが、この魂である自らの生命の本質が死ぬことはないと知る。それは何かを信じることで得る情報ではない。

   ソクラテスは何も信じなかった。
   彼が毒を盛られた日は、人類史上、最も重要な日の一つだ。弟子たちが横たわる彼の周りに座っているとき、彼は弟子たちに言った。「私に何が起きているかをお前たちに伝えよう。できる限り、お前たちに知らせ続けよう」

   それから彼は「私の足はもう膝まで死んでいる。私に足の感覚があるかどうか、誰か私の足をつねってみてくれ」と言った。誰かが彼の足をつねった。彼は言った。「もう感じない。足は死んでいる。だが一つ覚えておきなさい。私はこれまでと同じくらい生きている。足は死んだが、私の生命のどこも損なってはいない。私の生命はこれまでと同じくらい全体的だ」

   その後、彼の足のすべてと、身体の半分が死んだ。
   だが彼は「私の身体の半分は死んだが、私はかつて全体であったように今も全体だ」と言った。次に彼の手が死んだ。彼は言った。「私はまだここにいる。そしてまだ全体だ。おそらく今、私の心臓が止まるだろう。しかしたとえ、お前たちにもう知らせることができなくても、私は残る。もしこれらの部分がなくなっても、私が全体ならそれは重要ではない。心臓もまた一部分に過ぎない」

   そして彼が死んだ時、彼の顔はとても嬉しそうで、とても楽しそうだったので、弟子のプラトンは回顧して言った。「私たちは、彼の顔があれほど光にあふれて、あんなに輝いているのをこれまで見たことがなかった。おそらく彼が肉体を離れる最後の瞬間は、ちょうど太陽が沈み、空全体が非常に美しく輝く、夕焼けのようなものなのだろう」と。

   それは信念の問題ではない。
   私は何の信奉者でもない。だから魂が不滅であることを信じるようにと言いはしない。だが私は自分の過去世を思い出すことができるので、それが不滅であることを知っており、それは私の経験だ。それはまた来世があるという確かな証拠でもある。私はあなたに、過去世を思い出すテクニックを教えることができる。それはあなたに、来世があるという確かな証明を与えるだろうし、あなたは過去の永遠と未来の永遠があることを知るだろう。あなたは常にこの地上にいた。そしてあなたはいつもここにいるだろう。

   しかしまず最初に、あなたの偽りの人格(パーソナリティ)を落としなさい。
   あなた本来の、本物の個人になりなさい。あなたの存在があなたに望むように生きなさい。あなたの人生は非常に情熱的で、とても全体的(トータル)であるべきだ。そのゆえにあなたは、自らの生命の松明(たいまつ)を両端から燃やしていくだろう。その強烈さにおいて、あなたは永遠の何かに自分が触れたことを知るだろう。この地上での生でそれを知ったならば、死においてはより深い確証を見出すだろう。

   「人格」「人物」という仮面(ペルソナ)に生きる人々は、常に無意識の昏睡状態で死ぬ。
   なぜなら彼らは決して本質を生きなかったので、意識が何であるかの理解がなく、わからず、肉体の死の前に意識を失う。そのために私たちは、(たった今終わったばかりの人生という)過去世を記憶することができず、覚えていない。なぜならあなたは無意識で生きていたからだ。そして死は、あなたの無意識の中で起こったのだ。

   しかし個人として意識的に生きるならば、肉体において意識的に死ぬだろう。
   それはソクラテスの死がそうであったように、最後の呼吸までも意識しながら。そしてこの記憶は次の生でもあなたと共にあるだろう。

   私はそれを信じるようにと言うつもりはない。
   私は実験するようにと言うだけだ。私はあらゆる信念に反対だ。なぜなら(盲目的な信念が)あなたを滅ぼし、あなたの考えを破壊するからだ。探求とは、そのためにあらゆる危険を冒すということだ。


         book 『神秘家の道』 OSHO著 市民出版社

                           抜粋

・裁くことを手放すと、他人のエネルギーに影響されなくなる

   自分を中心にすえて、本当の自分を知り、自分の人生を第一に考えることが重要です。
   それと同時に、自分が他人にどのような影響を与えているかについて知っていることも重要です。なぜなら、自分の行動が他人にどんな影響を及ぼすのかを理解したうえで、自分が望む行動をとる時は、あなたはもっと力強くなれるからです。

   ですが自分が望むように行動をとると、利己的になってしまうのではないかと心配する人もいます。しかし、自分の高い志(こころざし)の道と、自分自身を尊重するときはいつでも、そのときにはそうは見えなくても、結局は他人の高い道と彼ら自身をも尊重することになるのです。逆に、自己主張するべきでない時、つまり、エゴの欲するままに動かずに、流れに逆らわずに進む時を知ることも大切です。

   それについて私が示すことができる最良の基準は、レストランでどのテーブルにすわるかとか、どの映画を見に行くかとか、そういった重要でないことを決める時には自己主張しないことです。そういうささいなことは放っておきましょう。しかし、自分の高いヴィジョンに従ったり、人類全体に貢献するようなことをする時には、自己主張をするべきです。

   しかし、あなたの感じている罪悪感や抑圧から、あるいは「そうしなければいけない」という観念から、自分が必要としていることを抑えるなら、それは適切な態度とは言えません。たいていの人々が、自分の人生に夢中になっています。あなたは「もし自分のやっていることを打ち明けたらあの人はどう思うだろう?」などと考えて、自分が他人に与える印象をあまりにも心配するので、限られた視点でしか自分を見ないことが多いのです。ですが自分を新しい光の中で見るためには、自分の限界を超えて視点を変える必要があり、そのための方法がたくさんあります。

自分を舞台に立たせて観察し、見て評価しているのは他人ではなく、自分

   一つは他人の立場になってみることです。
   彼らを、あなたの判断や感じ方に従って見るのではなく、彼らの感じ方や見方に立って見ようとすることです。多くの人々が自分は舞台の俳優で、「みんなが自分を見て、評価している」といつも感じています。しかし実際には、あなたを舞台に立たせて、見て、観察して、評価しているのは他人ではなく、あなただけなのです。

   しかしこういうとき、あなたは他人についても責任を感じようとします。
   つまり他人が気分を害したのは、もしかして自分がした行動や言ったことのせいではないか?、それは自分のせいではないか? と思うのです。

   他人の幸せに責任を感じる必要はありません。
   それを選べるのはその人だけであり、あなたが選んであげることはできないからです。自分の人生の中心舞台に余りにも存在し過ぎること、つまり、自分をあまりにも意識し過ぎると、他人を助けるためにできることよりも、他人が自分のことをどう思うかを気にしているために、他人の現実を感じることができなくなります。

   宇宙は、あなたが扱える以上のエネルギーを経験させることはしません。
   つまり、自分が感じたエネルギーを、自分と他人を癒すように扱えるようになればなるほど、ますます自分の周りに存在するエネルギーを感じ、理解することができるようになります。

裁くことを手放すと、他人のエネルギーに影響されなくなる

   「どうすれば、他人からもっと好かれて愛され、認められるようになり、自分の望むものを手に入れられるだろう?」、などと悩んでいるうちは、明らかなエネルギーを感じることはできません。ですが反対に、周りに与えているならば、他人と他人の抱える現実を理解する能力を開花させることができます。そして何よりも確実なことは、自分自身に対して、愛に満ちた高い視点から自分を評価することができるようになることです。

   愛することや援助すること、感謝や癒し、良い評価など、自分がして欲しいことを、人々にもしてあげてください。そうすれば、あなたもそれを受け取るようになります。他人を許し、助け、認め、そして誉めてあげるとき、自動的に自分にも同じことをし始めます。他人を許すことは、世界に対してすばらしい贈り物をしているだけではなく、自分自身に対しても贈り物をしているのです。

   他人を裁くと、自分自身の影の部分のエネルギーを感じ取り、その裁いた否定的エネルギーを自分自身に取り込んでしまいます。つまり、エネルギーをはっきりと感じることとは、善悪の判断を手放すということなのです。思い切って、他人や自分を批判する善悪の思考の枠組みを手放してください。

   それはたとえば、好きになれない他人の性質や行動や特徴を観察するとき、それがいかにその人の人生にとって、その人にふさわしいものであるかがわかるようになります。その特徴がどのようにその人に役に立っているのか、またその性質がその人のためにどんなことをしているのかを観察してください。

   裁くことを手放せば、他人のエネルギーに影響されなくなります。


    book 光の存在オリンの「パーソナル・パワー」サネヤ・ロウマン著
                    マホロバ アート   

                           抜粋

・人類は長い時間をかけて「断罪」という価値感を教えられてきた

   至高なる創造主が持っているたった一つの目的ともいうべきものは、あらゆるものの源である神を表現できるように、”ただ在る”ということです。もし何か計画があったとしたら、それはあなたの内面に在る神を表現する自由を奪ってしまうでしょう。そうするとあなたの独自性や、進化できる能力、そして神という生命の本質を拡大する能力まで奪ってしまうことになります。

   それはあなたが神なるものの真の姿を知り、なぜ神はあなたを愛するのかを理解できるようにするためであり、あなたがどのようであろうとも、なぜ神はあなたを愛するのかがわかるようにするためです。また、あらゆるすべての生命が互いに共存し、組み合わさって一つになることを、もっとはっきり見えるようにして、あらゆるものがただ”在る”理由が、単にそれぞれが自己を表現するためであることを理解できるようにするのです。

   生きる目的というのは、一瞬一瞬、自分の内面で花開くように展開していく人生において、自分が望むものになるということで、それ以外にあなたの運命はありません。その目的を満たしていく中で、自分の望むとおりのものになり、望むことをし、望むとおりのものでいられる限りない自由があなたにはあります。

「法」とは人間がつくったものであり、神がつくったものではない

Q、 ですが、何でもできるとなれば、聖書にある神の法に反するものも出てくるのではありませんか?

ラムサ  あなたを愛する至高の神は、法など何もつくってはいません。
      ただ一つを除いては。そのただ一つの法とは、あなたの崇高な意志にしたがって自分の生を表現するべし、というものです。つまり自分の意志を行使するという行為を通してだけ、あなたは創造主そのものであるすべての生命の意識を拡張し、拡大できるからです。もし神が法をつくる存在であるならば、あらゆる生命の進化と表現の自由を、あなたは(つまり神自身が)有するのを阻害してしまったことでしょう。その結果、神は限定された「源」となり、ひとつの終焉を迎えていたはずです!

   あなたがよく知る聖書に書かれ、あなたが「神の法」と呼んでいるものは、実は多くの法律です。それは預言者たちによって書き加えられ、あれはいけない、こうしなければならないという制限を与える、強力な言葉となってきました。こうした「神の法」と人々が呼ぶもののおかげで、人々は神に身をゆだね、神をより恐れるようになっていきました。子どもたちは親を怖れるのではなく、親のようになることを教えられました。

   至高なる神に法はありません。
   いつでも法をつくるのは人間であって、神ではありません。神は人間に自由意志を与え、自分の世界に自らの法を与える存在としました。つまりすべての生命についての理解が進む中で、自分にふさわしい信念や真実、あるいは価値観を、自分の思考から何でもつくり出せる自由を与えたのです。

   そして人間はこの自由を用いて、社会に生きていくために必要と考えられる法律をつくり出しました。しかし残念ながらいつの時もほとんどの法律は、一部の人間が多くの人々を恫喝し、隷属させる目的のために、情け容赦なくつくり出されたものだったのです。それは自由を高めるためではなく、制限するためにつくられたのです。人間が無法状態に自らを置くことを許さないのは、自分という存在を怖れているからであり、自分自身を治める法律が必要だと考えているからです。それは自分自身という本来の無限性と神性を理解していないからなのです。

Q、  ですがもし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現してしまうのをどう防ぐのでしょうか?

ラムサ  よく聞きなさい。
      すべてを包含しているこの宇宙から見ると、悪というものはありません。人間は生まれた時から魂が邪悪であると、あなた方は教えられてきてそう記されてもいますが、そうではありません。人間は神から生まれたものであり、その魂は本来神そのもので、人間の存在そのものが神なのです。もしそうではないというのなら、人間はいったいどこから生まれ、どこからやって来たというのでしょうか?

すべては体験して「知る」ためにある

   あらゆる存在自体が、創造主の管轄外に存在するものはありません。
   それはただの一つもなく、悪であるとか、間違っていると誰かが判断した想念や行為であっても、それが意識において生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。なぜならすべては神の一部であり、もしそうではなく何かが一つ悪であるというならば、それは神もまた悪であると言っているのです。

   神は悪ではありません!
   ですが、神は善でもないのです。なぜなら善というものの境界を決めるために、悪、あるいは邪悪という考えが必要であり、それに対比することで判断しなくてはならないからです。神は善でも悪でもありません。神は悪でないのと同じく、善でもないのです。そして神は完璧ですらなく、創造主は”ただ在る”のです。

   「ただ在るということ」では、すべての存在はその運命をいかに満たしたかどうかだけで見られます。つまり、その魂が叡智において自らを満たしていくために必要な、感情面における体験だけについて見るのです。ですからあなたがこれまでにしてきたことのすべては、たとえそれがいかに美しく、あるいはいかに卑しいかとあなたが判断してきたとしても、それはただ「知る」ということのためだけに体験してきたことなのです。

   あなたは何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしてきたことなのです。
   それを実際にしてみることによって、あなたははじめてそれをすることの価値に気づき、価値を確かめ、そこから何かを得られたのです。それらのすべては悪でもなければ、邪(よこし)まなことでもありません。それが本来の神になるために必要なことなのです。

人間は長い時間をかけて、断罪するという価値感を教え込まれてきた

   神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。
   人間は本来持つ創造性を駆使することで、審判に必要な善悪のバランスを編み出し、一部の人間たちが自分たちの同胞へそれを行使することで、人々の表現の自由を奪っていきました。それらの多くは宗教的な教義として用いられ、政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰の恐怖を人々に与え、そうした恐怖がこれまでの長い間、国家を支配し、統率するための剣として使われてきました。

   もしあなた方の言葉で「邪悪」と呼ぶものがあるとすれば、それは存在の内にある神を表現する自由を人間から奪ってしまうことです。なぜなら自分の同胞たちに対してそうした審判(断罪)をするたびに、実は自分にも同じことをしているからです。それだけでなくさらに深い影響をこうむる形で、自分に同じことが起きてきます。なぜなら他の人間に対して下す審判や批判、断罪、制限は、同時に自分の意識における内面でも強力な法となり、あなた自身が自分に対して限界を設け、批判し断罪し、自分に審判を下すことになるからです。

   人間は魂が邪悪なのではありません。
   悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みの中では悪というものはありません。人間は、自分の望むものを思考から創造するという選択を可能にしている、「生きる場」というものがあるだけです。それだけが、存在する現実なのです。そうした現実に、人間は宗教的信念や限定された狭い考え方を通して、悪という幻想的存在をつくり出しているのです。

   そうした悪を長い間観察し、判断し、期待し続けることによって、悪は人間の現実の中に存在するようになりましたが、だとしてもそれは、その人の現実だけのことに過ぎません。なぜならその人が信じるように、自分の世界もそうなるからです。もし善悪があると信じることを選ぶなら、それがあなたの現実であり、それで間違ってはいません。ですが一つ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であって、私や他の誰のものでもないということです。

   そのすべてはあなたにだけ属しており、その考え、意見を持っている限り、それは確実に現実に起こり、現実のものであり続けます。それを信じるのをやめれば、現実ではなくなります。ただ単にそういうことなのです。

あらゆることが、殺人でさえが神の叡智を得る一つの体験

ラムサ  さて、あなたが悪と思っているものは何なのか教えてください。

Q、  普通はやはり、他人に危害を加えることだと思います。

ラムサ  そうですか? それがなぜ悪なのでしょうか?

Q、  たとえば誰かが私の子どもに危害を加えるなら、それは悪です。そして子どもが死んだりしたら。

ラムサ  それは悪についてのあなたの判断ですね。ですが、死ぬということがなぜ悪なのですか?

Q、  ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うのですね!

ラムサ  その通りです。
      それは一つものが終わるという考えですが、私は自分に限界をつくることはしないからです。なぜなら何一つ、消滅するものはないからです。それはただの一つもありません! もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか? 至高なる創造主が創造したものには、何一つ消滅するものはないのです。それはすべてが永遠に生き続けます。ですからあなたの子どもも、消滅するのではありません。この世界に神の命を消滅させられるものは何もないからです。

Q、  あなたは本当に、殺人でさえも間違ったことではないというのですか?

ラムサ   生命というものは途切れなく続くものです。
      それはずっとずっと永遠に続いていくものです。もしある瞬間に、一人の存在が他の命を奪うことを選んだならば、その人はその行為が必ず自分のところに跳ね返って来ることを学ぶことになります。そして強烈な罪悪感と自分に対する審判という恐怖の中に生きることになります。

   命を奪われた者は、何度も何度も戻って来るのです。
   なぜなら生とは永遠であり、それは永遠に継続するものだからです。もし私がこの行ないを憎悪し、そうした者に審判を下すならば、それは自分に審判を下していることになります。ぜひわかってほしいことは、殺される側は犠牲者ではないということです。彼はそうした殺意ある相手を、自分のところまで引き寄せる何らかの原因を持っていたのです。こうして暴行を働く必要があった者と、(それを引き寄せた理由の理解のために)暴行される必要のあった者が、その体験をするために同じところに引き寄せられて来たのです。

   神の叡智において、悪であるものは何もありません。
   あらゆるものが、智慧を与える一つの体験なのです。これが、あなたへの私の答えです。人間たちがもはや他の誰からも非難されたり断罪されることがなくなり、自分の存在を悪ではなく、神そのものなのだと気づく時、そして自分の存在のすべてが愛されて支えられているとわかったとき、自分の価値や自分の尊厳を理解するために、あえてわざわざ戦争や強姦、殺人、あるいはそうした類(たぐい)の体験をする必要はなくなるのです。

   人間が、法律だ規則だといったものであふれた、限定された意識から自分を解き放つとき、存在の持つ喜びと穏やかさを見出し、自分と他人を愛することを可能にし、自分自身の流れを自由に作り出すようになります。そのようにして、人は神と同じ愛を現すようになります。これが人間だけでなく、すべての生命を育み、支えていく基盤となるものなのです。


    book『ラムサ―真・聖なる預言』 ラムサ著 角川春樹事務所

                          抜粋

 

・宇宙から絶えず降り注いでいる、高い波動の想念や思考

   本来、脳というものは、宇宙にあるすべての波動としての思考を、その「知っている状態」で受け取るようにつくられており、受け取ることを自分に許した波動だけを受け取って活動するようになっている。だがほとんどの人々は、嵐のように押し寄せてくるすばらしい波動という想念の中でも、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分に受け入れているに過ぎない。それがあなた方が繰り返し体験している、極めて限られた狭い思考という意識である。

   そのようにして社会意識だけに従って生きることで、限定された思考の波動だけで物事を考えていると、あなたの脳の活動は、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。今やあなた方の脳のほとんどは休眠状態にあり、つまり何もしていないのだ!

   それは自分の家族や仲間など、あるいは社会や宗教的教えなどの限られた思考に「そぐわない考え」を、あなた自身がそれを理屈で説き伏せてしまい、それを取り除いてしまうからである。つまり言い換えるならば、他の周囲の人間が受け入れてくれる共通の考えだけに思いをめぐらして、それだけを用いて物事を考えるのだ。


地上世界に縛られた「閉ざされた心」

   あなた方の言葉の中には、「閉ざされた心」という言葉がある。
   それは実に、文字通りそのままの描写である。それは社会意識の境界線を越えた思考へと足を踏み入れるのを拒む時、あなた方の脳のある部分が、高い波動の思考に対して文字通り閉ざされてしまうのである。これは脳下垂体がその口部分を、ほんの少ししか開放しないように設定されているからだ。つまりその意味は、あなた方の脳は、社会意識という低い波動を受け入れる部分だけを活動させているのである。

   誰かある天才が、あなたの知らないことを知っているとき、そのただ一つの理由は、彼が心を開き、「もしこうなればどうなるか」というようなとんでもない考えを思い巡らし、人間の限られた思考を飛び越える輝く想念に思いをめぐらしたからである。つまり彼は、そういう思いを抱き、それについて考えることを自分に許したのである。

   だがあなたは、そういうものを否定し拒絶した。
   よって、あなたがそうした高い知識を受け取ることができないのは、そういう思考を通して考えることを可能にする脳の部分を、まだ起動させていないからなのだ。では、絶えずあなたのオーラにぶつかるように宇宙から押し寄せている、無限の叡智や偉大な想念はどうなってしまったのだろうか? それらはあなたの受信装置が跳ね返し、思考の川へと絶えず戻されている。

   閉ざされた心でいるというのは、肉体的五感で体験できる世界観以外に、何か他にも存在しているという可能性に対して自分を閉ざすことである。だが宇宙という創造の領域では何も不可能なことはなく、どんなものであろうと、その概念を持ち、考えることができるならばそれは存在の領域内にある。すべての創造物は、実はそのようにして存在するようになったのだ。

   あなたが誰かに対し、何かを「ただの想像に過ぎない」と言うとき、あなたはその人を愚かさと限界ある創造性の中へとプログラミングしている。そしてまさにこのことが、この地上世界にいるすべての子どもたちに起きていることであり、つまりあなたがたのほとんどは想像性を否定することで、本来自からが持つ創造力を投げ捨てているのだ!

   はっきり言うが、どのようなことであれ、考える対象となることを許されたものは、すべてが存在する。つまり、自分に考えることを許したものを、あなたは必ず体験することになる。あなたの電磁場がそれをあなたの方へと引き付けてくるからだ。

   「閉ざされた心」でいることの最も残酷なところは、それが喜びを知るのを妨げてしまうということだ。それはあなたを、人間の幻影の奴隷のままに留めておく。狭められた心で社会意識に従って生き続け考えている限り、変化を怖れる恐怖のために、未知の次元へ足を踏み出して、さらに偉大な現実の可能性を思い巡らすことは決してないだろう。なぜなら、自分に与えられてきた思考だけで満足している限り、それ以外のものを受け取って体験することはあり得ないからだ。

自分を超える想念・思考を受け入れることで、眠った脳が開花し始める

   これまでに教えられ、自分の基準としてきたものよりも、偉大な想念を一つ受け入れるたびに、それはあなたの脳の中の新しい別の部分を目覚めさせ、明確な目的を持って起動させ始める。超意識や無限に広がる思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。それが開けば開くほど、ホルモンの流れが増え、眠ったままの脳の部分がもっと起動し始め、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになる。

   天才になるというのは、とても単純なことなのだ。
   ただ自分で考えるようになればいいだけなのだ。

   脳とは、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘である。
   それを取り出して調べてみても、水である液体以外何も見つけることができない。もし脳が、その能力いっぱいまで使われるなら、肉体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその肉体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか? もしも失われている手足があれば、あなたの脳はそれを再生する力を持ち、肉体を一瞬のうちに癒すことができて、あるいは自分の望むいかなる形態にでも物理的に姿を変えることができるのだ。

   これほどに脳全体が持つ能力は膨大なものなのだ。
   しかしあなたは自分の限られた思考のせいで、そのわずか3分の1しか使ってはいない。残りはいったい何のためにあるのだろうか? 

   肉体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。
   なぜならあなたが自分の脳に入ることを許すすべての思考想念は、肉体の全細胞に電気を送り、それを養っているからだ。だがあなた方は物心がつく子どものころから、さらに社会意識で思考するようになると、大人にならなければ、老衰していかなければ、そして死なねばならないというプログラミングを自分に容認してきてしまった。つまりその想念という、あなたが生きる社会が与える情報を認めて受け入れたために、あなたの体内に備わる生命力に指示が与えられ、劣化が始まったのだ。

   その結果、「歳をとっていく」という想念は、遅い波動と低い波動からなる電気信号を、身体全体のすべての細胞組織へ送る。波動の速度が落ちるほど、身体の敏捷さは失われ、身体の再生や、自己を修復する力も弱くなる。こうして老衰するというプロセスが社会全体の常識として許容され、最終的に肉体的死が起きる。

   だがもし自分に、高い波動の想念を受け入れ続けることを許すならば、あなたはもっと速い回転と強力な電流を全身の細胞に送るので、肉体は常にその瞬間に留まることになり、その結果、あなたは老衰したり死ぬこともなくなるのだ。しかしここにいる誰もが、肉体は歳を取って老衰し、死んでいくと”知っており(信じている)”。ゆえに(信じたとおりに)、肉体を流れる電流は、歳を取りながらゆっくりと、その量が減り続けていくことになる。

   現在のところ、まだ活動していない脳の3分の2の部分は、単に「知る」ということを通じて、肉体のどんな部分であれ、損傷した部分を再生する力を持っている。自分の体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念という思考は中枢神経系を通じてもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに自己の複製をつくることで細胞を完璧に再生させるのだ。それも、”完璧に”、だ! これを奇跡だと思うだろうか? これこそがまさに、あなたの肉体のあるべき姿であり、本来あるべき実際の姿なのだ!

   肉体の治癒は、医者やその薬によってだけとあなた方は信じている。
   それが効くと誰もが信じているから、ある程度は効く。またあなた方は、自分の身体は自分では治すことができず、他人によってでしか治せないと教えられ、それを信じてきたので、あなたは自分を癒すことはできない。なぜなら自分が、「それを(事実だと)知っている状態」にまで信じこんだからだ。

宇宙から絶えず降り注いでいる高い波動の想念・思考

   あなたが存在するいまというあらゆる瞬間、そして眠っていても目覚めていても、意識があるないにかかわらず、あなたは常に絶え間なく、宇宙を包む神の心から想念を受け取り続けている。あなたを一つの存在とし、あなた自身が許すそうした波動こそが、人生における最高の贈り物であり、唯一の現実ともいうべき”感情を得られる体験”となる。

   もし自分は不幸だ、退屈だ、あるいは常に不機嫌で何かを恐れ、自分の内にあらゆる反感や怒り、嫉妬や焦り、憎しみを感じ、落ち込み、愛されていない、誰からも求められていない、と感じている人がいるならば、そういう人に私は聞きたい。あなたはいったい、自分にどのような波動の思考と同調することを許しているのか? それはあなたが属する社会がもたらす社会意識なのだ。どこに喜びが? どこに愛や永遠や神があるというのか? とあなたは訊ねるかもしれない。だがそうしたすべては、ただ自らの内なる想念を変えることができるならば、すぐそこにあるのだ。

   大いなる宇宙から、絶えず一瞬一瞬、あなたに向けて降り注ぎ、あなたの精神を通過しているこうしたすばらしい想念を、なぜあなたは受け取らず、知らずにいるのだろうか? それはあなたが求めず、知りたいとも思わなかったからだ。あなたは社会意識をすべてとし、その庇護のもとに生きることを選んだ。つまり周りに合わせて人と同じように生きることを選び、あらゆる行動も、まとう衣服も、考えることすべてを大衆と同じにすることを選択した。周りに合わせることで受け入れられ、生き延びられることを選んだのだ。

   そしてあなたが「知りたい」と思わなかった理由は、自分が創造主から生まれた子どもであり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるという思考を持つことが、自分の家族や友人、自分の属する宗教や国家の意に反することを知っており、それを怖れたからだ。それであなたは、自分の本来持つ力を手放してしまった。自分の存在という尊厳をあきらめてしまった。そして本来、自分は誰であり、何であるかも忘れ去ってしまい、脳の本来の働きを止めてしまった。それを再び開け放つことが、私がここにいる理由である。

   あなた方の生きている時代とは、社会意識と本来の「知っている状態」との対立であり、戦争である。それは外側に起きる戦闘ではなく、内なる戦いなのだ。本来の神なる者になるというのは、この「知っている状態」の存在になることだ。だが社会意識に生きる人間のままでいるというのは、それ以上の偉大な知識へ自分を開こうとしない「閉じられた心」の状態に留まることだ。つまり理屈は受け入れるが、生きるということを実践しない者、自らの師であるよりは他人から教わり救ってもらおうとする者、冒険を求める探求者であるよりは常に庇護を求める者であることだ。



     book『ラムサ―真・聖なる預言』 ラムサ著 角川春樹事務所

                           抜粋



   

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