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・内なる世界に豊かな「王国」を築く

   あなたは奴隷状態にいる。不自由でいる。
   「あの人は嫌い、この人はこうだ、日本の政治はこうで、世界はこんなふうにひどいことになっていて、これまでの歴史はこうだった」と、あなたが意識においてやっていることはすべてそのまま、あなたの内なる王国を創っていることなのです。それがこの世界に反映されているのです。つまりあなたのイメージが、あなたの捉えている世界観があなたに反映されて、世界に反映されて、互いに共有し合っており、その世界が現実になっているわけです。

   この建物を創った人も、こういう発想をしたからこんな風に創ったわけで、今自分の着ている服だって、このテーブルも、マイクも、全部が誰かが発想して創ったものなのです。そこには、創った人とそれに関わった人の波動なんかも全部入っていてそのように見えてくるわけです。

   この部屋でこのワークを受けて、皆さんが帰った後、それぞれが「あのワークこんなで、木盛さんてこんな人だったよね」「こんなこと言ってたよ」「エーッ、そうだった?」「そんなこといってたー?」、とそれぞれが違う捉え方をしている。だから全く違うんです。そして違うということが素晴らしいのです。違う者同士が出会うから、新しいものが生まれる。それぞれが違う楽器同士が集まって演奏するから、素晴らしいハーモニーが生まれ、シンフォニーが起こるのです。

   お互いをリスペクト(尊重)し合うというのはそういうことです。
   自分がそうであるように、目の前にいる相手も完璧にユニークな宇宙なんです。お互いにそのように見ることができるから、初めて尊重ということが起きる。ですから翻(ひるがえ)って、自分のことをそのように見ることができない自分は、、また人のこともそのように見ることができない。

   よく聞くような話ですが、誰かが自分にひどいことをした。
   だからあの人はこういう人なんだと思う。それは家族間でも夫婦の間でも、仕事関係においてでも起こることで、「あいつはこういうヤツだ」と思ってしまう。ですがあなたが「あいつはこういうやつだ」と思っている限り、その人がそのようにあり続けることにあなたは投資しているのです。つまりあなたの中では、その人はそのように生きているから。でもそれは、あなたの中の住人でしかない。別の人にとっては全然違う人なのです。

   たとえばあなたが、人からそのイメージを持たれ続けているとき、いかに理不尽でしょうか。あの瞬間、たまたまそうだっただけなのに。相手は自分の状況や背景を何も知らないのに、なぜ自分のことをそうだと決め付けて、思い続けているのか。夫婦で、親子で、「あの人はこういう人だからしょうがない。もう諦めている。あの人は一生変わらない」と思っていようものなら、その人はその牢獄に閉じ込められるのです。

   つまり、被害者がずっと被害者でいる間、加害者は変わることが出来ないのです。
   加害者だって、そんなことをしたくてしたのかどうかわからないし、うまく出来なかった。あるいはその時、そういう気持ちになってしてしまった。でも誰だって、一生そうしていたいとは思っているわけではない。みんな成長したいし、みんな良くなりたい。最初に言ったように、個人のカルマなんてないんですよ。

   誰もがこの地球の歴史を、太陽系の、銀河系の歴史を担っていて、自分が超えるためにそれを体験した。その配役としてそういうことが起こっただけなのに、あなたが被害者として居続けるから、相手は変われないまま、世界を固定して、そのような世界が展開され続けているわけで、この貧しい、惨めな、楽しくない世界がずっと進行し続けているのです。

   だから出来ることは、あなたはそういう人のために、「この人は今はこうだけど、どうしてそんなになっちゃったんだろう? どんな家庭環境で、どんなところで傷ついて、どんな歪み方をして、こんなふうに捉えて、考えてしまうんだろう?」と観ていくことなのです。

   そしてこの人が、「自分のところだけじゃなく、何か素晴らしい縁に出会ってそれをきっかけに気づいて、目覚めて、新しくなって、自分自身をより良く活かして、周りと仲良く出来て、よりいい方法を選んで幸せになってもらえたらな。神様、どうぞよろしくお願いします」、というところまで面倒を見ることなのです。

   なぜなら、あなたが関わった人はすべて、あなたの中の住人だからです。
   そうなると、あなたのやり方ひとつに希望があります。そういう構造になっているのです。あなたの中の住人全員に対して、それをやるべき人があなたなのです。出会ってしまったら、あなたが味わって、現実を認識してしまったなら、それらの人々は今やあなたの内なる王国の住人です。それが事実であり、そこまで面倒を見るべきなのです。そうやって、あなたは物語を創るのです。

   (自分の内なる王国の、住人になってしまった人々の)面倒を見るのです。
   出来るか、出来ないかではない。「あの人は人のいうことを聞かないし、しょうがないから放っておけばいい」という話ではない。そうすると、あなたの中にはそういう人だらけだから、あなたもいつもそんなことばかり思っている。

   だから、がっかりしたり、嫌な思いをしてばかりいる自分の妄想だけど、自分がそれを生きなければいけないわけで、自分の創った内なる物語がまた一つの世界として展開されていってしまう。そういうふうにあなたが責任をとっているというのは、実は現実なのです。

   昔からの教えはどんなものも、「人を憎んではいけない」、「人を嫌ってはいけない」というのはそういうことなのです。ただ嫌いなだけでは、何も変わらないのです。人というのは、あなたも知っているように、知れば知るほど愛するようになるのです。本当に知って、相手のことをわかっていくほど愛してしまうのです。

   家を引っ越した時もそうじゃないですか。
   最初は違和感があって落ち着かないけれども、1年経ち、2年経つと居心地が良くなり好きになる。「住めば都」というのはそういう意味です。知るから愛しくなるのです。そのくらいこの機能は素晴らしいのです。知ったものは愛しい。だから一方的な思い込みで誰かを断罪したり、批判して固定したりしているうちは、自分自身が辛いのです。なぜなら自分の世界にそういう人がどんどん増えていって、決め付けて固定し、抜けられないし変われないようにと投資しているから、当然そういう配当が来るのです。

   本音(ほんね)は話せない。
   でも誰かを生け贄にしておけば、安心していられる。私たち友達だよねと言い合っている。会社でも学校でもそうだけど、何人かのグループがあって、その中の誰かが、いない人の悪口を言い始めると、「そうそう、ほんと嫌だよね」「よかった。同じ考えで」と言って安心する。これが地獄です。

   あなたがそのグループにいない時、自分も同じように言われていることを知っている。だから二度と本音など言えないし、誰とも心を分かち合えない。本当はみんな、そんなことを超えたいのに、みんな成長したいのに。だけどみんなでグルになって誰かを貶めて檻に閉じ込めてしまうから、誰もがそこから出られない。まんまと地獄にはまっている。そういうダサイ安心は本当にやめたほうがいい。

   みんな同じ。誰もが成長する途中だし、みんな今の自分を越えたいんだよね。
   「あの人、何であんなこと言うんだろうね。何か辛いことでもあるんじゃないの」そういう話になるように成長する必要があるのです。なぜならそれは取りも直さず、その嫌な人も「あなたの世界」の住人だからです。

   逆バージョンだけど、仲のいい友達のグループの誰かが、何だか問題を抱えているようだ。ある日その人がきて、「今までああでこうで、こんなことがあったけど、でも解決したの」と言った瞬間に、自分の中がふっと楽になる。実はそういうふうにできていて、すべて繋がっている。全員、自分の中に住んでいるのです。心というのは、意識というのは、そういう仕組みになっている。

   だから自分の中にいるみんなの面倒を見てやるのです。
   全員をより良い眼差しで見てやり、慈愛の目で見てやる。みんなが幸せになるように自分の世界でその人を理解したり、その人にとっていいことになるように願ってやり、現実を動かせるようにストーリーを創れるようになるということが、自分のハートを育てるということ、自分の慈愛を育むということです。

   それは表面的なところで何かを上げたり、手助けするということだけではなく、自分の意識の中にいるその人への思いのほうが重要なわけで、心においてそれを願っていれば、勝手に動いていくのです。

   すべての存在を源に還す王が即位するというのが本当に起こっているので、皆さんもその源に還るのです。源というのは、あなたの内なる王国の中心の座であり、王座、玉座なのです。あなたには、自分自身の内なる王国を素晴らしいものにしていく責任があるのです。そうする中で、あなたの心が豊かに膨らんでいきます。


              トータル・ヒューマン・チューニング
        book『 王の帰還 』 木盛龍彦著  ヒカルランド


                          抜粋
   

・原爆が落とされて腑抜けになった日本人

   その後10月くらいに、あるクライアントさんで神道のことをやっておられる方ですが、滋賀に実家があるので時々そちらに行き、「原水爆損傷解放ワーク」をお母さんと一緒に読み合わせしながらやっていた。そして3回目の時、70代のお母さんが、「ああよかった。やっと帰ってこられた。プラスチックを火にあぶるとフニャフニャってなるでしょう。実は、原爆が落ちた時に、日本人が全員、ああなっちゃったのよ。でもやっと戻ってこられた。私、ずっとそうだったの」と言ったそうです。

   現場を体験して、ぐじゃぐじゃになっちゃったという、70代のお母さんのレポートのおかげで、原爆が落とされたことで何が起きていたかがよくわかった。それで日本人全員の力強い生きる力、エネルギーがフニャフニャになったのです。

   2008年8月より以前の我々日本人は全員が、しょっちゅうどん底まで落ち込んでは、何とか立ち上がって隊列に戻るんだけど、再び落ち込んでしまう。それは小さい子どもから老人まで、本当にそうだったのです。ところが磁場的な修復が起きてきたことにより、初めて自分が自分自身の中心にいられるようになった。

   つまりブレないでいられる時間が持てるようになった。
   自分自身を見ていられるようになったから、どんどんまとまるようになった。ああ、自分はこう思っているんだな。ここが自分の中心なんだな。こういうふうにすればいいのか。人といることが不安じゃなくいられるようになってきた。それはとてつもなく素晴らしいことだったんですね。

   その時、つまり2008年8月から、戦後初めて、日本人の成長が始まったのです。
   それまではそんなことをしてる場合じゃなかった。それは誰のせいでもない。もちろん、それを企んだ者たちがいて原爆を落とし、地球上のボルテックス(エネルギーの渦)をぐじゃぐじゃにした。当然、乱されたのは日本だけじゃなく世界中だった。

   そしてその後の11月に、次はこれだぞと降りたのが『王の帰還』なのです。
   ぐじゃぐじゃになっていて、自分の中に全然芯(しん)がない。だから人とまともにいられないし、しょっちゅう落ち込む。自分はだめだと落ち込んでは分裂してしまう。そんな中でつくってしまった親子関係の認識、自分の愛する者と愛し合えない、理解されないし、分かり合えない。自分はダメだ、弱いと思う。でもそういう認識は、本来すべて妄想でしかないから、内に埋め込まれたそうしたプログラムを解除しなさい、ということが来たのです。そこで編み出されたのが、『王の帰還』です。

   ですから、今までの認識はもう使えません。
   なぜなら、みんながだんだん自分を取り戻してきたからです。だから今までとは全然違うし、当然自分も違えば、世界も、地球も違うんです。それは、今までの認識はもう必要のない、まったく別のプログラムであり、物の見方です。

奴隷としての教育が始まるとき

   7歳になったら、我々にはどういうことが起きるか。
   皆さんは今日から学校というところに来ます。いいですね。今までは幼稚園で自由に、気ままにできたけど、これからはそうはいきませんよ。お兄さんやお姉さんと同じように、今日からこの学校というところに来てください。四角い建物の中の四角い教室の箱に来るんですよ。朝ちゃんと8時には来てくださいね。お父さん、お母さんにもしっかり言いつけてありますからね。

   先生という人が来て、黒板に誰かが書いた本を写しますから、皆さんは机と椅子の間に挟まれて、しっかり自分を止めて、ほかのことは一切あきらめて、誰かが書いた本をまっさらのノートに書き写して覚える、これが皆さんのこれから一番大切なことですよ。これができない子はだめな子です。

   皆さんが35万年ぶりくらいに会った友達だらけで、ウキウキわくわくしているからといって、勝手に話をしたり、遊んだり、そういうことは絶対にいけませんよ。ここはそんな場所じゃないんです。行儀よく、黙って、自分を止めて、誰かが書いた本をちゃんと覚えてください。これが、これから皆さんがやる一番大事なことです。

   時々テストが行なわれて、誰かが書いた本のカッコ抜きの問題が渡されて、それを全部埋められた人が一番素晴らしい人ですよ。先生もうれしいし、お父さん、お母さんにも褒められて、愛されるかもしれないし、何か買ってくれるかもしれないから頑張ってください。落ちこぼれというのは、これができない人のこと。そういう人が出ないように、みんな仲良くお互いに見張り合って。先生もそれが一番の望みですから、仲良くやってくださいね。

   これを毎日やるんですね。
   お父さんもお母さんも、そのようにやってきた。家に帰ると、お父さんもお母さんも「おまえ、誰かが書いた本をしっかり覚えられたのか?」「遊んでばかりいるんじゃないよ。誰かが書いた本をしっかり覚えなさい。ちゃんと計画表を作ってやるんだよ。そうしないといい学校に行けない」「いい学校に行けば、いい会社に入って、いいお給料をもらって、いい地位について、みんなにも褒められるような立派な人になるんだから頑張りなさい」

   このようにして18歳までの最低でも12年間、大事な成長期にある自分を完璧に止めて、外の決まりに従って、誰かが書いた本をしっかり覚えるということに集中することによって、完璧な奴隷が出来上がるんです。

   人間というのは、自分の衝動や欲求、感情、タイミング、直感によって動いて、世界とまみえ、体験して、選んで、失敗したり成功したりしながら、失敗したら振り返って原因は何かとシミュレーションして、ああ、このために失敗したんだなとその仕組みがわかり、それをファイルして、次の選択に活かして、また出会っていく。そういうことを重ねることからだけ、人間は成長するんですね。

   それを24時間のほとんどを自分を止めて、誰かが書いた本を暗記し、決まりや枠に従ってその中で生き、諦(あきら)めることを覚えさせることで、18歳までに完璧な奴隷が出来上がるのです。我々の社会はそんな社会なのです。それも親子の伝承を断ち切るために、こういう教育制度がつくられたのです。

   天才というのは親子間の伝承によってしか生じないのです。
   それは祖先から培われた親子の伝承です。物の見方や考え方、捉え方、世界観、人間とは何か、生きるとは何か、そういうことを伝えていくことによって、それが積み重なったあるときに天才ができるんですね。あるいは親子が愛の温かいつながりを持ち、尊重し合う中で立派な人格が出来上がります。そういった人や天才を騙すことはできないので、(そうした人間ができないように)それを切るような教育制度をつくるのです。

親のカルマは子どもに現れる

   親は自分の子どもを見ていて不憫(ふびん)になり、自分がちょっとイヤになるんです。子どもに自分のイヤなものが映り込んでいるから。だから子どもからちょっと離れるんですね。それで厳しくしたり、ちょっと突き放したりする。祖先から受け継いだ、自分の中にすでに限定されたプログラムがあってそれを生きているのに、そのパターンを自分の子がまた受け継いでいるのを見ると辛いのです。

   子どもはそんなことは知らなくても、親から受け継いだものを身に受けて、「あなたがそうしていると、私はこんなふうになっちゃうよ」と親に見せているんですね。ところが親が正直に真摯(しんし)にありのままに、「あんたにこんなもの受け継がせちゃって、ごめん。私が身をもって超えて見せるから」と言えばいいけれど、ほとんどの場合、「何であんたはこんな子なんだろうね」と言って逃げてしまう。子どものほうは自分がどんどん固まっていくばかりで、自分では変えられない。だから9歳以降に、反抗期という名前のタイミングが来るのです。

   ところが反抗期というものに関して、心理学者たちは本当に怠惰だから、ウソを教えます。ですが反抗期とは何かというと、子どもが小学校という社会の中で生きて、他人と自分を比べて、自分のことや自分の嫌なところに気づく。そしてそれが親からもらったものだということに気づくことなのです。

   その時に子どもが、「お父さん、お母さん、私は自分のこんなところが嫌いです。それもあなた方のこういうところから来たんですよ。お父さん、お母さん、あなたにとってもこれは本当に良くないので、どうぞこれを直してください。そこを超えてください」と言う。それに対して親が、「本当に申し訳なかったね。このまま逃げ切ろうとしたけど、あんたがそうやって指摘してくれたからわかった。お母さんは自分のこういうところを頑張って超えて見せるからね。あんただけに背負わせるわけにはいかないからね」と言い、それをやって見せて、超える。

   そしてお母さんが「ああよかった。人生の自分の課題を、子どものおかげで超えることができた。本当にありがたい」と子どもに感謝する。子どもは感謝を受け取る、自分が活かされた。その瞬間に、子どもに受け継がれてきたそのパターンが消えるのです。自分が頼んだことを親はやってくれて、自分の成長を選んでくれた。そのおかげで自分は救われている。そのことで子は親を尊敬するんです。これが反抗期の正しいあり方です。たったそれだけなのです。

自分自身の親になり、自分を育てる

   ところがそれが、なかなかできない。
   学者とかそういう人たちも、そういうことをやらない。ただ誰かが作り上げた説を覚えるという隷属状態だから、新しいことがわからない。皆さんもそうだけど、自分という人間をサンプルとして見る以外に、どうやって人間を知るのですか? あなたにとって一番身近で、全部を見られる人間は自分だけなんですよ。それを自分の第8チャクラから全部観ているということが、自分を統合するための鍵なんです。

   自分が自分の親にならなきゃいけない。
   なぜなら今言ったように、あなたの親だって逃げてしまうし、誰もあなたのことを全部観てはくれないのです。だから自分で観るのです。自分で観て全部自分でやる。つまり理想的な親は自分にしかできないし、自分が自分にやるしかないのです。

   この子をどう育ててやったら、どのようにわかってやったら、どう導いてやれば、本当に伸び伸びした素晴らしい人に育つのだろうかというのを、自分で自分にやってあげるのです。これが自立です。これがない人はまったく自立できていない「お子ちゃま」なんです。常に被害者の立場で、問題を抱えて、他人に社会に世界に文句ばかり言って、逃げて、言い訳ばかりしている。全然、本来の自分じゃない。それも当たり前で、自分を育てていないからです。だから自分のことを好きじゃないし、愛せないのです。

   愛するというのは、ここ(頭の上)でやるのです。
   ここには波動形態エネルギー研究所の足立育朗さんが『波動の法則―宇宙からのメッセージ』(ナチュラルスピリット)で言っているように、「エクサピーコ」と呼ばれる第8チャクラがあり、過去世のすべてのエッセンスの集合体としての自分がいる。そこから自分を観てやるんです。その時に、あなたは自分が本来の霊であり、自分を導き育てる親の役にちゃんとなる。なぜかというと、この子が理解されて育(はぐく)まれなければ、あなたという本来の霊はここに融合できないからです。つまり、本当に生きるということができないからなのです。    
   
   この世界が嫌いだ、辛い。
   だから帰りたいと言っているあなたは、こうした中間状態にいるだけで、思考とマインド(表面意識)だけの状態にいる。つまりこの体の中にしっかり定着していないし、この地球にもグラウンディングしていない。ただ片足だけ突っ込んでおいて、ここは嫌だから早く帰りたいと言っているだけ。だからどんなに素晴らしい景色の中にいても、状況にいても、それを全面的に味わって体験していない。どこか白けて中途半端な状態にいるのは、しっかり焦点を合わせず、そこから自分をずらしているのです。それは、ここにいるのは嫌だと言っているからです。

   生きていないのです。
   生きているというのは、全面的にこの肉体において地球に暮らすということです。死んだら本来の霊として、そこから抜け出なきゃいけないから。そこで、あなたには自分が本来霊であるという自覚があるかないか。おそらく、それすらないから体の中にもいない。どっちつかず、どこにもいないという状態で損をしている。それをこれから取り戻していきましょう。


           トータル・ヒューマン・チューニング
      book『王の帰還』ワーク  木盛龍彦著  ヒカルランド


                           抜粋
   

・「水」はよく燃える

   今の世の中、ちょとおかしいなと思うのは、ちゃんと真実が理解されていないのに、そのままで放置されているところがある。それは今の環境の問題もそうですが、現実という真実をしっかり理解して、その上でどうしたらいいかを考えていかなければならないと思います。

   そのことは「水」についても言えます。
   水は、実はよく燃えます。つまり水素と酸素に火をつけたらよく燃える。だから水は燃えるんです。ですが燃えるためには、熱を周りから奪っていって、水素と酸素を分裂する温度まで高くしなければならない。

   その温度は1200度です。
   水は1200度までは周りの熱を奪いますが、たとえば大火事になって、その中の温度が1200度以上になっているときに水をぶっかけたらどうなるか? つまり、一気に水素と酸素に分裂して、また結合することから大爆発が起きるのです。

   水は燃えますが、ただ燃え始めるときの温度が高い。
   だから火事になったとき、温度が高い状態のところに水を入れると、爆発して危ないのです。それが起こらないように消火器がつくられているのです。

一定の圧力をかけることで「水」が変化する

   スポーツで使う「酸素カプセル」がありますね。
   これは体に高圧をかけるというアイデアですが、多分に私の考えの影響が大きいと思います。これは潜水医学で考えられています。実は私が『太古の水』を研究し始める前に読んだ記事で、励みになった新聞記事がありました。それは私が25歳のころですが、ドイツで末期がんの患者さんたちに海中散歩させるという記事でした。

   深さは海底10メートルくらいのところですが、まず海中に入る前に普通の水を飲ませて、1時間くらい海中散歩させて戻って来るということを繰り返した。そうしたら、尿が沢山出るという現象もあった。そのときの海底10メートルという深さは、実は現在の気圧からプラス1気圧の状態です。つまり、昔の地球の表面の気圧と同じになるのです。ですから、そうするとその間だけは活性しているのかな、ということから考え始めたのです。

   あるとき潜水医学をやっている先生が、「例えば、病気を治したりするときに、体はどうすれば活性するのか」と言ったので、私は「加圧させればいいですよ」と話した。だけどあの時、私は何気圧とは言わなかったんです。その後、2気圧とか3気圧、5気圧まで最近売られるようになった。ですがそれはむちゃくちゃです。だから事故が起きたりするわけですが、本当は1気圧なのです。

   水の実験をしてみてわかったのですが、圧力を1気圧以上に高くしてしまうと、ちょうどいい反応が出ません。つまり金属と反応しやすい、あるいは不純物を追い出すという反応でなくなってくるので、そのためには1気圧がちょうどいいのです。ただ水というのは、圧力を抜いてしまうと、また元の不活性状態に戻ってしまう。それを戻らないようにするにはどうすればいいか、というのが私の研究テーマです。

   水を「1気圧、活性」で安定させるまでに、実は1年半かかります。
   この研究もなかなか大変でしたが、水を普通、何か機械や装置を通すだけでいい水になるといいますが、そんなに簡単なものではないのです。そこに必ず必要なものは、太陽の光です。ですが変化しないような状態に持っていく方法は、私の企業秘密ですが、おそらく、なかなかつくれないと思います。

   ですが同じような研究をしている、ハワイ大学の医学部の先生がいました。
   その先生がハーバードからハワイに帰って来てからずっと、私はハワイで彼を手伝っていたのですが、ある時、ブロッコリーのようなアブラナ科の野菜の芯などの固いところの細胞水をジューサーにかけて、がん患者に飲ませていたそうです。これは日本の青汁と同じようなものなのかなと思ったのですが、がんに変化があった。

   それで、その水をいろいろ調べてみたら、活性している水だった。
   だからそれと同じ水を探していたというんです。ですが活性している水も放置して圧力が抜けていくことで、一般的な普通の水に戻ってしまう。活性している水は、細胞膜の中に閉じ込められている状態だと言っていました。ですから本当は青汁の元のケールの汁を飲まなきゃいけないのです。汁を飲むことで活性水が入れ代わるということですね。

   で、その先生が調べていくうちに、私の水にぶち当たった。
   調べたら変化しない。なぜ活性したままの状態なのかと、非常に驚かれていました。たまたま私がハワイに行ったときに、その先生と会っていろいろ話したのですが、私の水に対してそのような理論が成り立っていたことに、こちらも非常に驚いた。つまり最先端では、すでにそういうことをやっていたのです。

   そういう意味でも、圧力を加えるというのは、ただ気圧をものすごく上げればいいというものではないし、上げすぎると体にはよくない。生命が誕生し、自然反応する微妙なラインというのは、プラス1気圧でもちょっと高いかなという感じなので、プラス1気圧弱くらいの圧力がちょうどいいです。

   私は今、海中にそういう保養所をつくりたいと思っています。
   病気になった人をそこへ入れておくのですが、その中はプラス1気圧で海の中なので精神的にもいい。もし末期の人がそこで生活するとどうなるか、細胞が再生したり、活性化するのかなと思います。

ピラミッドは王の墓ではなかった

   それにちょっと付け加えると、同じようなものにピラミッドがあります。
   ピラミッドには斜めに下りていく回廊がありますが、その中をずっと大きな石が落ちていって、途中で止まっていますね。そこから入り込んだ人間が泥棒していったのです。実は私が生死をさまよっているとき、体を離れて見て来たときに、あのピラミッド自体が気圧を高めている場所であったことを知ったのです。

   注射器をグーッと押して、ある一定の圧力になると止まるように、全部密閉してしまって斜めに落ちていった石の重みで止まるところが、プラス1気圧になるようになっているのです。「あの中にはプールとかいっぱいあるはずだ」と思っていたら、吉村作治さんによると、「発掘すればまだいっぱい出て来るし、お風呂みたいなものがある」と言っていました。

   昔の人々は、おそらくそのお風呂の中に浸かっていたんじゃないでしょうか。
   大洪水があった後に、自分たちのバランスを取り戻すために、そういうものを使っていたんじゃないか、という気がしてなりません。

   ともかく1気圧という気圧を固定して、変化しないように維持するのが難しいのです。私もかなり苦労したので、こういう水をつくるのは難しいです。ですが今は安定供給することができますし、やっとそこまで来ました。しかもそれが、いろいろなことに使えるということもわかってきました。

   たまたまハワイに末期のエイズ患者の人がいて、その人はもう流動食しか入らない。体に管が入っていて、メインの食事を摂る前に『太古の水』の1000倍希釈の白湯(さゆ)を管に入れ、その30分後に栄養素を入れるというのを三食繰り返していました。その結果、その人の場合、とりあえずエイズウイルスが見当たらなくなり、医者が調べたデータもあります。『太古の水』が効いたかどうかはわかりませんが、改善したことは事実です。それは本人も言っており、骨と皮だけだった人が正常になった。

   私は生物学者でもないし、ドクターでもありませんが、天文学をやっている以上、生命誕生の起源というものに興味があります。その起源の条件として、どういうメカニズムで生命が誕生したのか、というところまで知りたかったことから、『太古の水』に達したのです。

   これが、私にとっての研究です。
   ここから先は、この水を使って医療に役立つかどうか、あるいは生物学の研究に、その使用法をいろいろアレンジして使ってくださればいいと考えています。


      これがあの世飛行士の真骨頂!
 book『臨死体験3回で見た<<2つの未来>>』 木内鶴彦著 ヒカルランド


                           抜粋
   

 

・二酸化炭素を生む化石燃料ではなく、太陽光エネルギーの時代

   エネルギーという大きなテーマがあります。
   太陽エネルギーについてですが、今原発をやったり火力発電所をやったりしていますが、要するに何度も言うように、それらもただ単にお湯を沸かしてそのスチームタービンを回しては発電していることに変わりはありません。問題はこうした方法が果たしてすごく効率がいいのかということと、環境に対していいのか悪いのかという話です。

   前述したように、長い時間をかけて地球の地面の中にしまい込まれた、動植物の死骸などいろんなものによって、石油や石炭ができてきたわけです。それによって結果的に、地球の二酸化炭素がだいぶ減ることになり、そういう状態になったところで私たち人類は誕生しました。

   ですからその石油や石炭を再び掘り出して燃やしていくならば、当然、私たちが誕生する以前の大気に戻ってしまいます。ということは、そうした環境の中で私たちが苦しむのは当たり前のことなんです。この点について指摘する人はあまりいないようですが、実はこういうバランスの中に地球があるのです。

   そして当然のことながら、太古の地球で放射性物質がほぼなくなったところで、生物の世界ができ上がっており、それが今現在の私たちの生活につながっているわけです。ということは、そういうものがどんなに便利なように思えても、それを掘り出してエネルギーとして使ってはいけないのです。

   便利で安いし、掘ればあるからとか、そういう問題ではない。
   それは使ってはいけないのです。それによって私たちが誕生した以前の状態、環境に戻してしまうのです。私たちは知的な生き物でありながら、そこのところの知識は大きく欠如していますね。

   地球の「栄養の流れ」をすべて忘れてしまうと、海の海溝に放射性物質を捨てるようなことを考えます。ここが汚染されたらもうおしまいですよ。そういうことを今の科学者が知らないはずがないんです。つまり、地球の環境を破壊して、人類が存在することはあり得ない。

   それで私たちが考えているのは、今ある問題をどうするかということです。
   原子力発電所をやめさせることができるかという話ですが、どうやら日本はやめさせることはできにくい。しかも火力発電所を増やすことによって、もっと性能のいい原子力発電所をつくりましょう、というのが今の政府の意見ですね。

   そして、自然エネルギーの研究をしている人々の研究費を全部、2014年3月にそちらへ持っていってしまった。だから我々のような研究者には、研究費は回してもらえないことになった。

   ただ、福島第一原発で失敗したから、東電を潰すというのが果たしていいことかどうかなんです。どういうことかわかりますか? 東京電力を潰したとなったときに、そうすると国がすべて責任を負わなければいけないし、国がそれを代償しなければならない。そうなると、これは企業責任としてのモラルの問題で、それをせずに全部国に任せればいいということになってしまうわけです。

   そうではなくて、企業責任は企業としてちゃんと持たせるということが大切です。ですから国がサポートするという形の体系は崩さないほうがいい。つまり企業というのは、それだけ重いことをやっているわけで、責任を負うんですよ。そういうことを私たちは理解しなきゃいけない。何でもダメになれば国に押し付ければいい、ということではなく、押し付けられたなら結局、私たち国民の責任になるわけで、税金が使われるということです。

太陽光を利用し、発電する

   将来、私たちがいろいろと生じるであろう責任を取れる発電方法の一つが、太陽光発電です。それはタービンを回して発電するだけではなくて、太陽の光そのものを活用します。太陽光は光電子といわれる電子ですから、光を電子に変換させる技術さえ手に入れられれば、太陽光でけっこう発電できます。

   実際に、ソーラーパネルによる太陽光発電が行なわれています。
   ただその場合、ソーラーパネルをつくるのに使う電気エネルギー量を100としたら、ソーラーパネルが仮に10年か15年もつとして、その間に太陽の光を受けて発電し、回収できるであろう電気エネルギー量はほんの20%未満です。それにソーラーパネルがゴミになってそれを処理するときに、また100の電気エネルギー量を使うので、最終的には200 という電気を使って、20 しか回収されない。

   これはムダがあると思うのです。政府もそれに気がついたから、ソーラーパネルの処理は企業責任としました。そうしたらメーカーは、いっせいに作らなくなりました。ですから最近は、中国から買ったものしか使わないようになっています。

   繰り返しになりますが、私はソーラーパネルの実験をしていたのですが、あれは太陽に向かってはいません。つまり固定してあるから太陽のほうに向いていないのです。また太陽を追いかけた場合、太陽からは赤外線も来るので、赤外線が当たると、熱に変わってしまうために電気をつくれないのです。だから赤外線ではなくて、太陽の光が大気に乱反射している乱反射光、紫外線だけを受けるようになっています。ただし、紫外線も電気になるのは90度の角度で当たるものだけです。

   朝、太陽が上がってきて白々したときに実験してみましたが、虫メガネで焦点を結んでソーラーパネルの面積に当ててやると、斜めから光が来るので電機の量が落ちてしまいます。つまり、90度で光が当たらないと電気にならないのです。パネルの面積にちゃんと同じように光が来るようにレンズで光を集めてやると、全部斜めから来るから電気の量が落ちてしまいます。

   例えば、テーブルがソーラーパネルだとしたら、その面積の分の真っ直ぐ上から来る光しか電気にはなりませんが、明け方、太陽が上ってくるときには明るくなって、光の弱い紫外線が当たりますが、それでも電気は起きるわけです。それがどんどん太陽が上に上がっていって、太陽が真上を通るときに一番ピークになるのは当然です。ですが、斜めからくる光が電気になることはありません。それで斜めからくる光は、電気エネルギーになっていないということがよくわかりました。

   ソーラーパネルを屋根につけている場合の最大のエネルギー量は、計算上知ることができます。ところがあるとき、その数値を上回ることが起きたのです。雨が降った後、ソーラーパネルに水滴が残ります。つまり、雨が降った後にその水滴がレンズ状態になったんです。そうしたら、斜めから来る光も、水滴によって90度で当たるようになって、発電量がすごく増えたわけです。

凹面鏡やレンズを使った発電量が、1基の原子炉発電量を上回った!

   それを利用して、日本のNEDOとドイツの研究チームが、メガソーラーの上に、下が平らで上が丸いレンズをつけて発電してみたところ、約40%発電量が増えたのです。メガソーラーの面積で、普通の原子力発電所の炉心1個よりも発電量が多かったのです。

   福島第一原発の1基の原子炉の発電量を上回ったのです。
   つまり、世界一の発電量になった。これは世界一の発電装置であると新聞にも載りました。これは曇ったりすると厄介ですが、乾季の砂漠地帯で使えば発電量は大きいです。この場合、ただ固定しておいて、空に向けているだけで、まだ太陽を追いかけていない状態です。

   凹面鏡やレンズを使って太陽光を集めたり、焦点を結んだりしてエネルギー化するという方法は国際免許になっています。それを単体でやったり、いくつもの数のレンズを使って1ヶ所に集めるというのも特許になっています。そのエネルギーを使ってどういうことをするかという工夫も特許になっていますが、その特許は実は私が持っているのです。

   私の場合、太陽光に限定しています。
   日本の工業の知的所有権ということで、JETRO(日本貿易振興機構)がパンフレットをつくり、世界に向けて広告してくれています。ネット上で見ると、インターナショナル・パテント=国際特許になっています。それを使うと、太陽エネルギーを使っている限り、経費はけっこう安いです。発電量については、今度は太陽の動きを追いかけていくことができるので、違う話になってきます。(P.174に、木内式太陽光発電の仕組みを図で説明したものが記載) 

   マルチシステムで太陽光を追いかけて発電するというのがあります。
   それは太陽光を集光し、収れんするという特許で、それを集めてエネルギーとして活用できます。アイデアの中の1つには、ゴミを処理するというのもありますが、それも私の特許です。ネットで調べると、それらが国際特許になっていることがわかります。

   こういうものを提案していったら、すごい発電所ができると思います。
   実はこれは未来で見てきたもので、ある程度理解できています。つまり、これは未来では活用されているのです。それがわかっていなければ、私はこんなことはやりません。ですが今のところ、どうやって作ったのかがわからない。こういうものになるというのは見てきたのですが、その中間の過程がわからないので苦労しているわけで、今、一生懸命に開発途中の苦労を楽しんでいます。


       これがあの世飛行士の真骨頂!
book『臨死体験3回で見た<<2つの未来>>』 木内鶴彦著 ヒカルランド


                         抜粋

・人のためになると思うことを実行し、表現しよう

   1994年に、地球の環境を守るために、彗星が地球にぶつかる前に束ねて彗星にぶつけてしまおう、それで爆発させようという計画を立てたのです。最初、太陽に持っていって爆発させようという意見もありました。

   太陽というのはものすごい放射能を出しています。
   ですから地球上の核兵器を持っていって爆発さたところで何の影響もない。そんなものは太陽から出ている放射能の何億分の1なので、ほとんどまったく影響がないです。それで彗星の通り道に持っていって、地球にぶつからないように、わずかに軌道をそらそう、というのが始まりだったのです。

   地球と太陽くらい離れた彗星の通り道で、彗星が来たらそこで爆発させる。
   これは一か八かですが、失敗すればえらいことですが、私が見てきた未来では彗星は地球にぶつかっていなかったので、多分うまくいったと思うんです。でも、やらなきゃダメです。やらなかったら何にもならないので、だから多分やったのでしょう。

   それでどのくらい軌道がずれたかというと、分度器の1度という角度はわかりますね。
   あれの60分の1、つまり1度を60等分するわけで、その1を1分と言います。それの60分の1を1秒といいます。それが2秒ずれるだけなんです。人間のつくったエネルギーでやったところで、彗星の軌道はわずかにそれだけしか、ずらすことができないというのも情けないのですが、それだけずれるだけで、二度とどこの星にもぶつからないで、太陽系の周りを回るだろうという計算が成り立つのです。

   それが、私が見つけた彗星のことなのです。
   そういう天体が、まだまだこれからも見つかるかもしれませんが、いずれにしても、地球はある程度は守られていくはずです。ですがそれと同時に、地球環境をどうやって守るかについて、考えていかなければならないわけです。

   私たちは、地球で生きることを前提としていかねばならない。
   地球に彗星が降り注ぐのは当たり前のことだし、星が落ちるのも当たり前です。この私が見つけた彗星は、毎年8月になると流れ星を流します。それがペルセウス座流星群です。そしてあの母天体は私が発見した彗星です。大きさは直径20キロぐらいで、それが地球に近づいて来ると、かなり大きくなる。そのときには直径が約40万キロのガスの塊になるようです。

   ちょうど地球と月ぐらいの大きさのコマができる。
   それが地球の中心から7万キロぐらい離れたところを通過していくことになりますが、そのコマには細かい塵がいっぱいあって、その濃度の一番濃いところがちょうど地球を通過します。その塵が大気圏内に入ってくると、流れ星がいっぱい流れるどころの話ではなく、雲仙普賢岳の火砕流のように全部が熱に変わり、下手をすると、大気が1500度から2000度近くになる。それが2時間にわたって通過します。これはぶつかるかどうかではなく、そばを通っただけでそうなります。

   というわけで、1994年の京都で行なわれたフォーラムに世界中の有識者に集まってもらい、その彗星からどうやって地球を守ろうかという話し合いを持ちました。彗星が次にやって来るのは、2126年8月14日という計算です。この計算は、今回来たことで彗星がどれだけ消耗したかによって違ってきます。ちょっと時間がずれてくれると助かるのですが、ですが計算上は次に帰ってくるときに危ない。

映画『ディープ・インパクト』の主人公のモデルは木内さん

   私は、こういうことが起きるということをしきりに言いました。
   そのことを映画にして多くの人々に知ってもらったらどうかということになり、それで作られたのがスピルバーグさんが監督した『ディープ・インパクト』という映画です。私は今はおじさんですけど、あの映画に出てくる少年は、一応、私なんです。

   最初、彗星が来る前に地球の環境が破壊されて人類は滅亡する。だから彗星が来たとしても関係ないという話があり、それを聞いて私は頭にきたので、「地球の環境を守ることをしましょう」ということで環境問題になりました。京都でのそういう話し合いの場から始まり、次は翌年の1995年にブラジルで行なわれる会議に送られました。

   そのとき私はアメリカの代表に、「こういう大変なものは世界中の有識者と常に相談してやる必要がある。アメリカの軍事システムの中にはバッジ・システムがあるので、そのラインを一般に開放したらどうなのか」と言って、もの凄い喧嘩をしました。それが、今のインターネットの解放になりました。私が騒がなかったらこうはならなかったかどうかわかりませんが、そのように言ったことは事実です。

   解放されたての時期には、変なものがいろいろ出て来るだろうと思っていましたが、やはりそうでした。インターネットはちゃんと使わないと意味がありません。それも今みたいな遊び半分のおもちゃのような使い方ではなくて、もっと真剣に世の中の役に立てるように使っていかなければいけない。未来ではそのことに目覚める時期が来ます。今は子どもにおもちゃを与えているようなものですが、そのうちに飽きが来て変わることになっています。

   このブラジルでの地球環境についての話は、それから1年後の1997年にCOP3という形で京都に戻ってきて、今に続いています。そのとき私は、二酸化炭素の排出量を軽減できない企業にペナルティーを科し、改善するまで企業に努力してもらおう。科されたペナルティーは、たとえば植物を植えたりすることに使おうと提案しました。

   ところがそれが、緑に戻すということでカーボン・オフセットという形の投資グループになってしまった。投資にしてしまうと、CO₂を抑制できなくてもカネで解決できるので、企業が努力しなくなる。目的はそうではなかったのに、私の想定とは全く違う話になってしまった。その辺まで来ると私も参加できなくなりました。

   ですが、そういう場を与えてもらったことで、私が臨死体験をして地球の未来を見て来たことは必然だったと気づきました。私はそこで見て来たものを、提案して出さなければならないと思った。だから今でも提案しています。


      これがあの世飛行士の真骨頂!
book『臨死体験3回で見た<<2つの未来>>』 木内鶴彦著 ヒカルランド


                          抜粋
   
   

・私たちは「地球を選んで」生まれて来ている

   地球のいとこ星が見つかったことを知っていますか?
   地球にそっくりな星があるそうです。それは太陽系から500光年くらい離れた白鳥座の方向にあります。

   この「地球のいとこ星」ですが、「ケプラー186 f」といいます。
   それは最近発見されて、2014年4月に公表されました。大きさは地球の1・1倍くらいです。この星が周回している太陽は、私たちの太陽よりも小さくて、1年の長さが130日ほどしかないので、この惑星では、私たちは今よりも早く歳を取る計算になります。この惑星にはどうやら海があるようで、ほかにもいろいろなものが発見されており、生命のいる可能性があるということで、今、注目されています。

   実はそういう星はいくつかあります。
   もう亡くなられましたが、国立天文台野辺山の電波天文学が専門の森本雅樹先生は、SETI(地球外知的生命体探査)の研究を立ち上げていました。私たちの銀河系の星は何個あるか知っていますか? 本当のことを言えば、それは数え切れないほどあるのです。それはたとえば1立方メートルの升(ます)にいっぱい入れた砂の数の状態で、つまり数え切れないほど多いということです。

   ではそこに地球のような生命が存在できる星はどのくらいあるかというと、10センチ四方の升にいっぱい入れた砂粒の数くらいあると考えられています。それも私たちの銀河系の中だけでですよ。数えたら相当な数ですよ。数えてみてください。そうすれば地球のような星が、どのくらいあるかというのがよくわかると思います。

   私は望遠鏡を通して、星の世界をいろいろ見ています。
   私たちの太陽系にあるすべての始まりは何かというと、それは宇宙空間に散らばっている「星間ガス」です。一番簡単な構造の元素である水素が、空間でお互いに寄り添ってくる。それは回転していると物を引き付ける力があるので、非常に長い年月をかけてゆっくりと寄り集まってくる。その集まり方は洗濯の時の泡の塊のようで、あの泡が五角形のような感じでいっぱいくっついているのに似ています。その泡の交わっているところに集まるのです。

   そして、その集まってきたものが爆発し、核融合が起きてまた新しい素材ができる。
   またそれが凝縮して、それがまたあるとき爆発してというように、ガスが宇宙空間いっぱいに広がっていくのです。今の私たちの銀河系を見ても、天の川沿いにそういうガスがあります。それを写真に撮ると、赤い色があったりしてとてもきれいです。普通は白黒の状態で見るのですが、あるていど大きい望遠鏡、たとえば私が持っている15センチくらいの口径の双眼鏡で見ると色が見えます。(略)

   地球も太陽ができるときに生まれました。
   最近新聞にも載りましたが、水星よりも内側に、まだ惑星とは言えないけれど何か回転しているものが発見されています。ということはまだまだ収縮していく。ある程度まで収縮しきってしまうと、今度は逆に自重で爆発して広がっていく。これが太陽の終わりです。太陽の終わりは、そこに至るまでにおそらく50億年くらいかかるので、私たちが生きている間は関係ありません。(略)

   こうして見てくると、太陽の熱エネルギーが、太陽系のすべてのエネルギーになっていることがわかります。今、原子力などのいろいろな方法を模索していますが、すべてのエネルギーは太陽にあるということです。つまり太陽を越えるエネルギーは、太陽系の中にはありません。これは承知しておくべきことです。

私たちは「地球を選んで生まれて来ている」

   宇宙にはもの凄く多くの星が存在します。
   今、光っていて我々の目に見えている星は、自分で光っているということで、それは自分で核融合を起こしているわけですから、全部太陽です。そしてその周りには、私たちの地球と同じように、太陽の光を反射している惑星が山ほどあります。私たちの地球の大きさはどのくらいかを太陽と比較してみると、太陽の見かけの大きさは5円玉の穴に収まる程度です。

   それは太陽がかなり遠くにあるということなので、太陽を14センチのボールにたとえてみましょう。すると地球の直径は1・3ミリで、月は0・36ミリです。太陽と地球は15メートル離れている。この縮尺で隣の太陽までどのくらい離れているかというと、3400キロメートル離れています。

   今のような地球環境汚染が言われる大変な時代になると、「宇宙人が助けに来てくれる」という人がいますが、14センチの太陽の周りを回っている1・3ミリの地球の環境がどうのこうので、3400キロメートル彼方から誰かが助けに来てくれるでしょうか? そんなことはあり得ません。

   地球の環境を壊したのは私たち人間です。
   その私たちが反省することなく、「宇宙人が助けに来てくれる」などと人頼みのことを言う。結局、そこに問題があります。地球で生きる私たちがその環境をどうするのか、ということが肝心なのです。宇宙人は間違いなくいます。私たちだって宇宙人ですからね。

   地球環境がおかしくなっている中で、火星に移住するという人たちがいます。
   そういう人たちは行ったらいいし、そういう人たちがいなくなると何かせいせいします。NASAにいる人たちが「火星に行くんです」という。どうやって行き、どのくらい日にちがかかるかと聞くと、「半年くらいかかる」という。行くまでの半年間も、向こうに着いてからの環境も、地球と同じ環境を宇宙船の中につくって持っていかなければならないわけです。そのメカニズムや理屈がわかっているのなら、地球の環境を取り戻すほうが先じゃないかと思うのです。

   火星に移住したい人はすればいいし、向こうへ行けば引力が弱いので、1年ぐらいいると骨がだんだん細くなってきて、太い骨が親指くらいの骨になる。そして地球に帰ってきて、地球の引力圏内に降りた瞬間どうなるかというと、それで終わりです。だから行ったら帰って来ないほうがいいのです。

   なぜなら私たちの肉体はすべて、地球という環境のなかで誕生して出来上がっているものです。つまり宇宙に行けるからどうのこうのとか、いろんな装置を着けるからどうこうという問題ではありません。私たちは地球に来て誕生し、この環境で生きていくということを定義づけられているわけです。その中で、私たちはこの体に生きることを選択した。

   だが地球が大変なこの時代において、「宇宙人が助けに来てくれる」という人や、さらに地球から逃げ出すことを考えている人たちがいる。火星に行けるのは大金持ちや政治家や、特権階級とか、選ばれたすばらしい人たちだけだとも言われています。そういう人達は、火星に行った方がいいと思う。

   それに、宇宙船に地球と同じ環境は持ち込めないと言っていたので、火星に着くころには二酸化炭素が増えて、みんな呼吸困難になって亡くなっているかもしれない。地球の環境を壊してきたのは、おもにこうした「選ばれし者たち」なので、彼らがさっさと火星に行ってくれたら、地球はせいせいすると思います。地球を破壊するだけ破壊し尽した人々は、さっさと火星に行きなさいと言いたいです。


      これがあの世飛行士の真骨頂!
 book『臨死体験で見た<<2つの未来>>』 木内鶴彦著 ヒカルランド

                          抜粋

 

・オゾン層破壊の犯人とされたフロンガスは素晴らしいガスだった!

   実は物質の世界では、太陽エネルギーがいろいろなものに変化しています。
   それがさまざまなガスや酸素、二酸化炭素などで、要するに太陽系にあるすべての元素は太陽エネルギーからつくられているのです。つまりすべてが、太陽エネルギーの変化したものです。そのエネルギーの流れの中に、私たち人間をはじめすべてのものが存在しています。

   今、私たちの社会ではエネルギー問題が一番の課題とされています。
   産業構造における動力として、どのようなエネルギーを使うかという場合、まず石油を燃やしてお湯を沸かし、その水蒸気、スチームでタービンを回して発電する方法があります。それから水力発電、風力発電もあります。

   そして一番厄介なのが原子力発電です。
   原子力発電も結局は、お湯を沸かしてタービンを回して発電します。核分裂による熱エネルギーで炉内の水を沸騰させ、それで発生した高温のスチームでタービンを回して発電させています。つまりここでも、水を沸騰させるだけのために原子力を用いているわけです。

   ですが炉内の水は、放射能で汚染されていますから、外に流し出すわけにはいきません。それで水を循環させて使用させています。ですが熱い水蒸気のままの状態で循環させるわけにはいかないので、1回冷却して水に戻さなければならない。原子力発電所はそのために冷却装置を必要とし、それで海や川の近くに立地しているのです。

   この地球の生命は、地球表面から放射性物質がなくなっていったあたりから、いろいろな生命が誕生しています。それまで空気中にあった二酸化炭素も、多くの植物がそれを取り込んで幹をつくるようになり、その幹がやがて倒木して地面の中に埋まっていき、炭化し化石化することで、地中の中にしまわれました。

   それだけでなく、二酸化炭素は重いので、海辺や波打ち際の低いところを漂っているものが波の中に呑み込まれ、それが海の深いところに到達して結晶化されました。それがハイドレートと呼ばれているものです。二酸化炭素はこうしてハイドレートとして、海の深いところにもしまわれたのです。こうして除々に地表面にあった二酸化炭素は少なくなっていきました。

   それから古代には、昔はでかい恐竜がいました。
   彼らはいっぱい食べて自分の体をつくり、彼らが死ぬとその脂肪がいろんな微生物によって分解され、それが石油という形で地中にしまわれました。その分、炭素が地球の表面からなくなっていったわけです。そうした状態が続くなかで、やがて酸素を吸う私たち人間の世界になっていきます。つまり私たちは、二酸化炭素をしまい込む仕組みが地上に確立されてから誕生したわけです。

二酸化炭素で地球が温暖化するとされた「大嘘」

   今の地球上の大気で一番多いのは窒素です。
   窒素が78%、酸素が21%、二酸化炭素は1%未満です。二酸化炭素を増やしてはいけません。私たちは二酸化炭素が血液の中に入った瞬間、終わりです。一酸化炭素は臭いがするので中毒がわかりますが、二酸化炭素は無味無臭だからわからない。

   二酸化炭素は重いので、低いところに溜まります。
   風が吹かない凪(なぎ)のときは、二酸化炭素が川の流れに沿って海に流れます。東京湾のような湾は、風が吹いているときはいいのですが、凪のときは、二酸化炭素が溜まりやすくなります。

   たとえば見えなくて重い二酸化炭素が、高さ100メートルで直径3キロの塊になり、東京をゆっくりと動くと、超高層マンションで100メートルよりも高いところにいる人は生き残れても、それより低いところにいる人は寝たまま死んでしまいます。二酸化炭素が増えると、そういうことが懸念されます。二酸化炭素で死ぬのは苦しくないそうで、最近は、二酸化炭素を吸わせて死刑を執行するという話もあります。

   太古に炭素が地中に埋もれて、しまい込まれたことで、私たち人類が誕生しました。ですが、せっかく地中にしまい込まれた炭素が掘り出され、今それが火力発電所とか車などに使われることで、地表へ戻って来ています。あるいは放射性物質も放出されています。それが意味していることは、こうして私たちの環境が誕生する以前の環境に戻ることで、私たちは生存できなくなる危機が訪れていることです。

   そのことを、学者の皆さんはきちんと考えているのでしょうか? 
   私たちがこれから生きていく上では、生命現象が起きたときに地中にしまい込まれたものは、一切、表に出してはいけないということです。つまり、放射性物質を使ってはいけないし、石油や石炭を使ってはいけない。ハイドレートにも手を出してはいけない。石油や石炭、ハイドレートは、酸素と結合させると二酸化炭素になるので、燃やしてはいけないということです。

   二酸化炭素が増えて地球が温暖化すると、一時期盛んに言われましたが、本当にそうなのでしょうか? 空気は熱膨張すると、浮いて上空へ行き、そこで冷やされてまた降りて来る。これが大気の対流です。つまり大気が対流している限り、二酸化炭素による温暖化はあまり起きないのです。二酸化炭素は温まってくると膨らんで持ち上がっていきますが、持ち上がらない大気もあります。

オゾン層破壊の犯人とされたフロンは、人畜無害の素晴らしいガスだった

   もう1つ、フロンガスについてお話します。
   フロンガスは人工的につくられたガスで、人畜無害かつ利用度の高い素晴らしいガスです。ですが、オゾン層を破壊するから使ってはいけないとされました。オゾン層があるところは上空で、紫外線に当たりやすいのも上空です。私たちが教わったのは、フロンガスが上空まで上がっていき、紫外線に当たって分解されたときに、そこに含まれている塩素成分がオゾンと反応してオゾン層が破壊されるというのです。

   フロンガスは、かつてスプレーにも沢山使われており、シューッとやったらフロンガスが上空に上がるというのです。へー? 比重3・7なんですけど上がるんですか? 比重3・7はプロパンガスよりも重いんです。プロパンガスの比重は3・5と重いので、プロパンガスが漏れたら、ほうきで掃き出せと言われているくらいです。

   車のエアコンのガスのフロン12の交換は、ピットの中でしてはいけないと言われています。つまりフロンガスは重くて低いところに溜まるので窒息する可能性がある。なのにそれほど重いフロンが、上空へ上がってオゾン層まで達するというのだから、1回上がるところを見てみたいものだと思っていましたが、とうとう見ることができませんでした。

   オゾン層破壊で一番大きな問題は、飛行機の燃料を着色しているものに塩素が含まれていることです。それが燃焼して大気中へ出ていくと、上空にあるオゾン層と反応するという問題が、私が航空自衛隊にいたころからあって、当時、燃料を替えてほしいという運動をしていました。ですがそこでもフロンガスが犯人にされて、航空機の燃料はそのままにされた。私にはその悔しさがあります。

   フロンガスは、冷却媒体だけではなくて、基板の洗浄にも使われていました。
   人畜無害で安全なフロンガスなのに、それを使ってはいけないということになり、今は薬品を使って洗浄しています。しかもこの薬品には相当の毒が含まれているそうです。でも結果的に、それを求めて使うようにしたのはこの社会ですから。

   当時、私1人が反対運動をしていました。
   「フロンガスは犯人じゃない」と言い続けていたら、周りの人々から吊るし上げを食いました。それは本当にすごかったです。筑波大学で、フロンガスにあり得ないほどの紫外線をぶつけてみたら、壊れなかったそうです。それで筑波大学の研究者たちが、「風評被害でフロンガスが犯人にされている」ということをネットに書いたのですが、その掲示板は閉鎖されました。

   そういうふうに人間は、ビジネスつまり金が絡むとどこか勘違いしてしまうんです。
   その後、アメリカで作られた代替フロンが出てきましたが、結局、出来が悪くてすぐダメになりました。

      これがあの世飛行士の真骨頂!
book『臨死体験3回で見た<<2つの未来>>』 木内鶴彦著  ヒカルランド

                        抜粋

・まず身体を変えることから始まる

   パタンジャリは論理的であり、合理的、数学的で科学的だ。
   彼はただ、体験する勇気、進む勇気、未知なるものに飛び込む勇気だけを求める。彼は「信じなさい。そうすれば体験するだろう」とは言わない。彼は言う、「体験しなさい。そうすればあなたは信じるだろう」と。

   彼は身体から始める。
   それは、あなたが身体に根ざしているからだ。彼は呼吸への働きかけから始める。なぜなら、呼吸はあなたの生命だからだ。そして科学的なアプローチは、身体から始めなければならない。まず、あなたの身体が変わる必要がある。体が変わると呼吸が変わる。呼吸が変わると思考が変わる。そして思考が変わると、あなたが変わる。

   観察したことはないかもしれないが、あなたは多くの層が密接に重なり結びついた組織だ。走っている時、あなたの呼吸は変化するが、それはいつもより酸素がたくさん必要だからだ。走っていると呼吸は変わり、呼吸が変われば思考はすぐに変わる。

   チベットでは、怒っているなら少し走れと言われている。
   家の周りを2、3周して戻り、怒りがどこへ行ったかを見る。早く走ると、呼吸は変化する。呼吸が変わると思考パターンも同じままではいられず、変わらざるを得ない。

   だが何も走る必要はない。
   5、6回、深呼吸するだけでもいい。吸って、吐き、吸って、吐く。そして怒りがどこへ走って行ったかを見て見なさい。怒りを直接変えることは難しい。だから身体を変え、次に呼吸を変え、そして怒りを変えるほうが簡単だ。これは科学的なプロセスだ。だから私は、パタンジャリは科学的だと言う。これほど科学的な人間はいなかった。

   もし仏陀のもとへ行ったら、彼は「怒りを捨てなさい」と言うだろう。
   だがパタンジャリは決してそうは言わない。彼は言うだろう、「怒りがあるとしたら、それは怒りを助長する呼吸のパターンがあるということだ。その呼吸のパターンが変わらない限り、怒りは捨てられない」と。

   四苦八苦しながら怒りを捨ててもかまわない。
   だがそれは役に立たないか、あるいはとても時間がかかるだろう、しかも不必要なほどに。そこで彼は、あなたの呼吸のパターンや呼吸のリズムを見つめる。あなたが特定の呼吸のリズムをとっているとしたら、そのためにあなたは特定の姿勢をとっている。

   身体はもっとも粗大であり、マインド(表面意識)はもっとも微細なものだ。
   微細なものから始めてはいけない。それはもっとも困難なことになるし、それは曖昧で把握できない。だから身体から始めなさい。そしてパタンジャリは姿勢から始める。

   私たちはあまりにも注意を欠いた生活をしているので、観察したことはないかもしれないが、マインド(表面的心)にある種の気分を抱えている時、あなたは必ずそれに関連する特定の姿勢をとっている。たとえば怒っているとき、あなたは寛(くつろ)いでいられるだろうか? それは不可能だ。怒っていれば、あなたの姿勢は変わる。眠たければあなたの姿勢は変わる。

肉を食べるとき、その動物のすべてを内へ迎え入れている

   もし完全に沈黙していたら、あなたは覚者のように座り、覚者のように歩むだろう。
   覚者のように歩めば、次第にある種の沈黙が心の内側に広がっていく。それによってある種の架け橋が作り出される。木の下で、覚者のように座ってみなさい。ただ座る、それだけであなたは突然、自分の呼吸が変わっていることに気づくだろう。いつもよりくつろいで、調和がとれ、マインドの緊張がほとんどないことに気づくだろう。思考は少なく、内なる空はより大きく広く、あなたの内側と外側に静けさが流れているのを感じるだろう。

   だから私は、パタンジャリは科学的だという。
   姿勢を変えたければ、パタンジャリは食事の習慣を変えよと言う。なぜなら食習慣は、微妙な姿勢を生み出すからだ。あなたが肉を食べる人なら、覚者のように座ることはできない。肉食をする人の姿勢と、菜食の人の姿勢は異なる。つまり身体は何を食べるかによって築かれるからだ。それは偶然から生まれるものではない、何であれ、あなたが身体に取り込むものを、あなたの身体は反映する。

   だからパタンジャリにとって、菜食主義は道徳家が礼賛するものではなく、科学的な手法だ。肉を食べる時、あなたはただ肉を摂取しているだけではない。その肉の元である動物を、まさに自分の中へ招き入れている。肉は(ある動物の)特定の身体の一部であり、特定の衝動のパターンを持つ一部だった。それが(殺される)数時間前、その肉はある動物であり、動物が感じ取ることや、その動物が持つ習慣のすべてを含んでいた。だからあなたがその肉を食べるならば、あなたのさまざまな態度が影響を受けるのは必然だ。

   またあなたが繊細なら、特定のものを食べると、すみやかに特定の変化が起きることに気づく。酒を飲めば、あなたは同じままではいないし、すぐに別の人格が現れる。酒が人格を作り出すわけではないが、酒はあなたのパターンを変え、身体の化学反応は変化する。身体の化学作用が変わるとともに、マインド(表面意識)もそのパターンを変え、新しい人格がその下から現れる。

   何であれ、あなたが食べて飲むものは、あなたを変える。
   そしてあなたの90パーセントは、あなたの身体なのだ。パタンジャリは科学的だ。彼は、食事や姿勢、眠り方、朝の目覚め方、起床、就寝について、あらゆることに注意を払う。それはあなたの身体が、高次なるもののための場所となるようにするためだ。

まず身体を変化させることから始める

   彼は呼吸に注意を払う。
   悲しいとき、うれしいとき、あなたの呼吸のリズムは変わっている。呼吸とは思考だ。呼吸を止めれば、思考もすぐに止まる。すぐに思考のプロセスに隙間が生じ、プロセスは途切れる。思考とは目に見える呼吸の、目に見えない部分だ。これが、私がパタンジャリは科学的だと言う時の意味するところだ。

   彼は詩人ではない。
   彼が「肉を食べてはいけない」という場合、肉を食べるのが暴力的だからそう言っているのではない。そうではなく、肉を食べることが「自滅的」であるからそう言うのだ。非暴力は美しいと語る詩人はいるが、パタンジャリは非暴力とは健康であることであり、非暴力とは自分本位であることだと言う。つまり、他の誰かに愛を向けるのではなく、自分自身に愛を向けるのだ。

   彼はあなたの変容に関心がある。
   だが変化を思い描くだけでは物事は変えられない。そうした状況を作り出す必要がある。それが、全世界で愛が説かれてきたにもかかわらず、愛はどこにもないという状況なのだ。それは、そうした状況が存在しないからだ。

   あなたが肉を食べるとしたら、どうして愛する人になれるだろう?
   あなたが肉を食べるとしたら、そこには暴力がある。そんな根深い暴力を抱えながら、どうして愛することができるだろう? あなたの愛はただの偽りとなる。あるいはその愛は憎しみの一つの形に過ぎないのかもしれない。

   パタンジャリは、愛を示すのが良いことだとは言わない。
   彼はあなたを助け、愛が花開く状況をつくり出す。だから私は、パタンジャリは科学的だと言う。彼に従って1歩ずつ進めば、以前は思いも想像もしなかった、さまざまな開花を自分の内面に見ることだろう。

   食事を変え、姿勢を変え、眠りのパターンを変え、日常の習慣を変えると、自分の中に新しい人間が誕生し始めるのがわかる。すると数々の異なる変化に引き続き、さらに多くの可能性が開いていく。

   だから私は、彼のことを論理的だと言う。
   しかも彼は論理的な哲学者ではなく、論理的な実践者なのだ。


      パタンジャリのヨーガ・スートラ
         book『 魂のヨーガ 』  OSHO  市民出版社


                           抜粋
   
   

・思い込みと偏見が逃(のが)してきた多くの恩寵

   想像は、言葉や言葉の構成によって生まれる。
   あなたはある物事を作り出す。それはそこに存在せず、現実ではないが、あなたはそれを頭の中のイメージでつくり上げる。しかもそれによって自分が騙され、それが現実だと思い込むほどにだ。

   スウェーデンのもっとも有名な女優の1人、グレタ・ガルボは回想録に書いている。
   彼女は平凡な少女でさして魅力もなく、それこそどこにでもいる少女の1人だった。彼女はとても貧しく、床屋で働いていた。ほんの数ペニーを得るために、彼女は客の顔に石鹸を塗っており、すでに3年間その仕事を続けていた。

   ある日、とあるアメリカ人の映画監督がその床屋におり、彼女はいつものように彼の顔に石鹸を塗っていた。彼はアメリカ人らしく、何の意図もなく、鏡の中の少女を見て「とてもきれいだ!」と言った。まさにその瞬間、グレタ・ガルボは誕生した。

   突然、自分は変わったと、彼女は書いている。
   彼女は自分のことを美しいと思ったことがなかった。そんなことは思いもよらなかったし、誰にも人から美しいと言われたこともなかった。彼女は自分でも始めて鏡を見つめた。すると顔立ちが変わっていた。その男性の一言が彼女を美しくしたのだ。そして彼女の生涯は変わった。彼女はその男性に従い、もっとも有名な映画女優の1人となった。

   何が起こったのだろう?
   それは催眠だ。「きれいだ」という言葉による催眠が作用したに過ぎない。催眠が作用し、それは化学物質となった。誰もが自分自身について思い込みを抱いている。そしてその思い込みは現実になる。なぜならその思い込みが作用を及ぼすからだ。

   想像とは力だ。
   それは呼び起こされた力、空想された力だ。あなたはそれを使うことができるし、それに使われ動かされることもあり得る。それを使えるなら、それは役に立つ。だがそれに翻弄されるなら、それは致命的であり危険だ。想像はいつでも狂気になり得るし、一方、想像によってあなたが内なる成長のための状況をつくるなら、それも役に立つ。ただしそれは言葉によるものであり、呼び起されたものだ。

言葉に翻弄される現代社会

   人類にとって、言葉という言語構造は、もはやそれよりも重要なものは他にはないほどに重要なものとなっている。誰かが突然、「火事だ!」と叫べば、その火事という言葉はたちまちあなたを変えてしまう。実際には火事など起きてはいないかもしれないが、あなたはたちまち私の話に耳を傾けるのをやめ、反射的に動揺する。「火事」という言葉が、あなたの想像を捉えてしまうからだ。

   そのようにして、あなたは言葉の影響を受ける。
   そしてまさに広告業界、マスメディアの人々は、人々の想像を喚起するためにどんな言葉を使うと効果的かを心得ている。なかでも「新しい」ものはすぐに、心に訴えかける。誰もが新しいものが好きだし、新しいこと、新しいものを探している。みな、古いものには飽き飽きしている。だが実際には「新しい」ものは、古いものよりも良くないかもしれないし、もっと劣っているかもしれない。でも「新しい」という言葉だけで、マインド(表面意識)の展望が開かれる。

   こうした言葉とその影響を、深く理解しなければならない。
   真理を探究する者は、言葉の影響力に気づいている必要がある。そして政治家やマスメディアは、言葉を駆使し、言葉によって人々の中に想像を作り出す。あなたはそれに自分の人生を賭けてしまうこともあり得る。つまり、単なる言葉のために、自分の人生を投げ打ってしまうこともあり得るのだ。

   それはどんな言葉だろう?
   「国家」「国旗」、それも単なる言葉だ。「ヒンズー教」「イスラム教」、「イスラム教は危険だ」と言ってみなさい。すぐに大勢の人々が身構える。「我々の国家が侮辱された」、だが「我々の国家」とは何だろうか? ただの言葉だ。国旗にせよ、ただの旗一枚の布に過ぎない。だがその旗が貶められ、焼かれただけで、国家全体が旗一枚に殉じて動き出すこともあり得る。

   単なる言葉のせいで、この世界にはこれまでも、何という愚行が続けられて来たことだろう。言葉は危険だ。言葉はあなたの中に深い影響を及ぼし、それがあなたの中の何かの引き金となり、あなたはそれの虜(とりこ)にされる。

   パタンジャリは言う。
   想像を理解すること、と。なぜなら瞑想の道においては、他者からの影響を排除するために、言葉を排除する必要があるからだ。いいかな、言葉は他者から教えられたものだ。つまりあなたは言葉とともに生まれたわけではない。あなたは言葉を教わるが、それによって多くの偏見が生まれる。言葉によって宗教が生まれ、神話が生まれる。言葉は媒体であり、文化や社会や情報を表現する手段だ。

   動物の王国には戦争も国旗も、寺院もモスクも教会もない。
   もし動物たちが私たち人間を見物できるなら、人間は言葉の強迫観念を抱いていると思うに違いない。つまり、単なる言葉のために数々の戦争が起こり、大勢の人々が殺されているからだ。

   「ユダヤ人なら殺すべし」、というのもただの「ユダヤ人」という言葉であり、彼のその呼び名がキリスト教徒になれば殺されることはない。だが彼は呼び名を変えようとはせず、「殺されたほうがましだ。私はユダヤ人だから呼び名を変えることはできない」という。彼も堅物で頑固だが、他の人たちも同じだ。単なる言葉でしかないのに。

   あなたが神に会うとしたら、言葉なしで会わなければならない。
   あなたの持ち運ぶ言葉の概念は、おそらく彼にはそぐわない。たとえば神には数千の手があると考えているヒンズー教徒の場合、手が2本しかない神が現れたら拒絶するだろう。「あなたは絶対に神ではない。神には数千本の手があるはずだから、他の手を見せてくれ。それで初めて信じられる」と。

思い込みと偏見が逃してきた多くの恩寵

   こんなことがあった。
   今世紀のもっとも素晴らしい人物の1人は、シルディ・サイ・ババだ。サイ・ババはイスラム教徒で、モスクに住んでいた。ある男はヒンズー教徒だったが、彼はサイ・ババを敬愛し、信仰しており、サイババに会うために毎日やって来た。そして会えるまで決して帰ろうとしなかった。時には大勢の人々が来ていたので、1日中待たなければならないこともあった。それでも会えるまでは帰ろうとしなかった。それだけでなく、サイババに会えないうちは、食事さえ取ろうとしなかった。

   あるとき、もう日も暮れていたが、まだ大勢の人々がいて混雑しており、彼は中に入れなかった。そして夜遅くになり、彼はやっとサイ・ババの足に触れることができた。サイババは彼に言った、「なぜ必要以上に待つのかね? 別にここで会わなくてもいいし、私がそちらへ行ってもいい。だからこんなことはもうやめなさい。明日から私がそちらへ行こう。だからあなたは毎日、食事をする前に私に会えるよ」と。

   弟子はそれを聞いてとても嬉しかった。
   翌日、彼は待ちに待ち続けた。だが何も起こらず、実際にはいろいろなことが起きたが、彼の理解では何も起きなかった。彼はずっと食事をしておらず、つまりサイババは現れなかった。彼は腹を立てていた。そこで彼は再び出かけて行き、こう言った。「約束してくださったのに、どうして約束を破ったのですか?」

   サイ・ババは言った、「いや、私は1回どころか3 回も姿を見せたよ。最初に行った時、私は乞食だった。するとあなたは、「あっちへ行け、こっちに来るな」と言った。2度目に行った時、私の姿は老婆だった。するとあなたは私の方を見ようともせず、目を閉じてしまった」 その弟子は女性を見ないことを習慣にしていたので、目を閉じたのだった。

   「私は約束どおり、あなたを訪れた。でもあなたは何を望んでいるのか?
   私は、あなたの閉じた目の中に入らないといけないのかね? 私はそこに立っていたが、あなたは目を閉じた。そして3度目に、私は犬になってやって来た。あなたは私を中に入れようとしないばかりか、あなたは扉のところで、棒を手にして立っていたよ」

   こうしたことはすべての人々に起きてきたことだ。
   神聖なるものは、さまざまな形をとってあなたに訪れる。しかしあなたには偏見があり、既成概念(思い込み)がある。だからあなたは見ることができない。彼はあなたの求めに応じて必ず現れる。だが、あなたが求め、期待している通りには現れないし、これから先にも期待したようには現れないだろう。

   あなたには彼を支配できないし、何の条件もつけられないからだ。
   すべての想像が消え去るとき、そのときはじめて真実が現れる。そうでなければ想像は条件を付けるばかりで、真実は姿を現すことはできない。素(す)のマインド、何も纏わず、素のマインド(表面意識)の中でのみ、真実は現れる。なぜならあなたにはもう、それを歪めることができないからだ。


        パタンジャリのヨーガ・スートラ
             book『魂のヨーガ』  OSHO    市民出版社

                     
      抜粋

・哲学でもなく神学でもなく、宗教でもなく

Q、 あなたの哲学と、キリスト教の哲学との違いは何なのでしょうか?

   これは不思議な質問だ。
   不思議なというのは、キリスト教には哲学などないからだ。あるのは神学であり、そして哲学と神学には大変な違いがある。

   神学は信条に、つまり信仰に始まる。
   そして哲学は疑いに、つまり論理に、理性に始まる。哲学とは思考することだ。そして神学とは、思考することなく信じることだ。思考したら、人はキリスト教徒ではあり得ないし、どんな宗教の信者にも決してなることができない。なぜなら宗教は考えることを許さないからだ。だからいかなる宗教にも哲学はない。あらゆる宗教にあるのは独自の神学だ。

   先ず第一に、キリスト教には哲学などないということだ。
   それはただ、「信ぜよ」と言う。救世主を信ぜよ、イエス・キリストを信ぜよ、彼が神の独り子であることを信ぜよ、三位一体を信ぜよ、と。常にそれは「信じなさい」なのだ。だが信じることは、人を偽善者にする。なぜなら、そうした信条が真理になることなどあり得ないことを、心の奥深くでは人は知っているからだ。

   心の深いところでは、それが単なる信念に過ぎないことを知っている。
   自分でそれを体験したわけでもなく、それには根拠がない。そしてたった一つの疑いでも起きれば、大伽藍(がらん)はすべて、地面の上に砕け散ることになる。

   さて、キリスト教徒は、イエスが処女の母親から生まれたと信じている。
   そんなことが考えられるだろうか? 考えるならば、疑いが必要だ。なぜならそれは、信じることしかできない事柄だからだ。そして信じる中において、それが不自然なことであり、起こり得ないことであることを完全に知っている。

   キリスト教は、イエスは死んで後に復活したと言う。
   それについて何の証明も何の証拠もないから、人はそれをただ信じなければならない。イエス・キリストが生きていた同時代の文献には、イエスの名前さえ言及されていない。磔(はりつけ)にされ、復活したというような大事件が、まったく知られずにいたと思うだろうか? 死者を蘇えらせた人間が、どこにも報告されていないというようなことがあるだろうか? 水の上を歩いた人間が? 

   この人が磔にされただろうと、あなたは思うだろうか?
   そんな人間がいたら、ユダヤ人自身が歓呼して救世主として迎え入れたはずだ。というのも、それ以上の何を求められるだろう? イエス・キリストのような人物がいたという言及すらない。

   思考したら、こういうことは信じることはできない。
   神について考えたら、信じることはできない。だからキリスト教には哲学はない。そしていかなる宗教も哲学的であることなどできない。それはただ、神学的であることができるだけだ。

   私が不思議な質問だと言ったのは、私にも哲学などないからだが、別の理由によって、また私にはいかなる神学もない。私は、信じるということを信じていないし、私は疑うということも信じていない。私が信じているのは探求すること、探し求めることだ。

   私には生き方はあるが哲学はない。
   だから私には、「これが私の教理問答集の事柄だ」と言うことはできない。私の生き方はすべて単純なので、それにはたいそうな哲学など要らない。それは実に単純なことだ。静かになることを学び、自分の思考を見ていることを学ぶことだ。

   そして、自分の思考を見ているようになればなるほど、思考は消え始める。
   すると、無心の状態がやってくる。それは全面的に目覚めて気づいており、完全に意識しているのだが、意識している対象は何もない状態だ。それはただ気づいており、ただ意識しているだけだ。

   これこそ、生におけるもっとも価値ある瞬間だ。
   なぜなら存在というものは、そのあらゆるエネルギーは円を描いて動くからだ。意識が、意識すべき対象を見出せないならば――この「対象」(オブジェクト)という言葉の意味を覚えておきなさい。それは妨害物や反対するもの、妨げるものを意味する――だから意識がどこにも、何の妨げも持たずにどこまでも進むなら、そのときそれは自分自身に戻ってくる。

   なぜならものごとというものは、存在の中では輪のように円を描いて動くからだ。それがあらゆるエネルギーの動く形であり、やり方だ。そして意識がそれ自身を意識するようになるとき、それが私の呼ぶ光明だ。それは単純なことだ。

   哲学とはたいそうな言葉だ。
   私は大げさな言葉は好まないし、そういうものは常に偽物だ。私の生へのアプローチは、ごく単純で直接的だ。私はどんな哲学も持たないし、どんな神学も持たない。私にあるのは方法論だけであり、そしてその方法論の名前は「瞑想」だ。

   だから誰も私のところに来るために改宗する必要はない。
   私には宗教はないからだ。だからイスラム教徒も私のところに来ることができるし、ヒンズー教徒も、ユダヤ教徒もキリスト教徒も来てかまわない。そして実際、彼らは私のところにやって来ている。それは私がいかなる改宗も求めないからだ。

   私は彼らが、彼ら自身の生の源泉を知ることができるように、単純な方法を教える。
   それを知ることが、自らの神性を知ることだ。


             book『 神秘家の道 』  OSHO  市民出版社

                          抜粋
   
   

・進歩、向上はエゴのないところで起きる

Q、  愛するOSHO、私はとても多くのグループに参加し、成長に関わる多くの体験をしました。それにより、自分は変わった、素晴らしい洞察を得たと心から思える体験でした。しかし私は未だに、同じ間違いをします。あらゆることをしてきたにも関わらず、過去にしていたことを相変わらず繰り返しており、そこには選択の余地がないかのようです。どうしたらいいのでしょうか? 変化というものは続かないものなのでしょうか? 私たちが自分を成長させるためにしているワークはただの幻想であり、何の意味もないことなのでしょうか?

   最初に言っておきたいことは、自己改善を目的とした努力は、必ず失敗に終わるということだ。それはエゴに問題があるからだ。エゴは、絶えず何かを改善しようと努力する。もっと金を手に入れよう。もっと大きな家を手に入れたい。もっといい車が買いたい。きれいな女を恋人に、美形の男を夫にしたい、とあれもこれも手に入れようと努力している。これがエゴだが、それはあなたもよく知っている。

   だがその一方で、エゴは別のゲームも展開する。
   もっと穏やかに温和になろう。もっと愛情深くなり、悟りを達成しよう。ブッダのようにならなければ、とエゴは言う。だがこれもまた向きが変わっただけで、実は同じゲームに過ぎない。つまり、一方は外にあるもので自分を飾ろうとしていたエゴが、今度は内側のもので自分を飾りたいと考えているのだ。

   だから、あなたが自己改善を試みているのなら、失敗するのは確実だ。
   問題なのはエゴであり、向上したい、こうなりたい、ああなりたいと考えるのはエゴの欲だ。この「~になろう」という考えこそが、エゴの投影なのだ。だが一度このことを理解したら、革命は起こる。その革命は、「あなた」が為すべきことではない。その革命は、エゴの手口を理解することで起こるものだ。

   お金や権力、名声や政治などを追い求めていたエゴと同じエゴ、その同じエゴが今度は内側で瞑想のゲーム、悟りのゲームなどのあれこれのナンセンスをしているとわかったら、一度、それが同じエゴだとわかったならば、まさにその理解においてあなたの中に笑いが起こる。ゲームをすることのばかばかしさを、あなたは感じるようになる。

   向上はない。
   私は変化がないと言っているのではない。変化はある、それも完全な変化がある。だが向上はない。向上とは修正された形を意味する。だが変化は、あなたは同じままだが何かがそこに加わる。それがたとえば、もっといい車、家になり、女性が、男性が付け加えられる。だがあなたはいつもと同じだ。そして今度はそれが瞑想に向けられ、瞑想者になる。だがあなたは同じで、深いところでは以前と同じままだ。

   そして今度はあなたはさまざまなものを溜め込むようになる。
   つまり、性質や特徴、性格、倫理観、徳、知識などをあなたは溜め続ける。それらは車や恋人にとって代わっただけであり、いつものゲームをしているだけで、そこには何ら新しいものはない。こうしたことの中に、向上が起こることは決してない。

   向上は決して起こらない。
   このことがわかった時、つまりこうした欲望である、自分以外の誰かになりたい、もっと大物に、重要な人に、尊敬される人になりたいという切なる欲望を理解し、これらがみなエゴのゲームだと一度理解したならば、その瞬間、突然の変化という目覚しい飛躍、ジャンプが起こる。その時、あなたはもう以前のあなたではなく、新たなものがあなたの中にある。

   いいかな、新しいものは古いものと何のつながりもない。
   だから私は、それを向上とは言わない。新しいものは古いものとは何の関係もなく、そのくらい新しいものは絶対的に、完全に新しい。古い人は完全にそこにはいない。それは過去とのつながりのない、完全に新しい存在であり、この隔たりのゆえに、それを向上と言うことはできない。霊性(スピリチュアリティ)は達成するものではなく、それは野心で獲得できるものではないからだ。

   あなたは「たくさんのグループワークに参加し、成長に関わる多くの体験をした」と言うが、そうした体験は、成長とは無関係のものだった。それは単なるエゴのゲームだった。あなたはそこで満足感を覚え、エゴに褒められてあなたはとても気分が良かった。エゴはそうした体験を利用し、それは絶対的に危険なものとなった。エゴに利用されると、なんでもたちまち毒されてしまう。

   あなたのそうした体験への期待は、エスカレートしていったに違いない。
   あなたは高潔な人になり、敬虔な人になった。こうしたことはもっともっと沢山起こるだろう。「あれは良かった、素晴らしかった、もう一度体験したい」と言うなら、それは継続性のあるものを作ろうとしていることだ。

   新しいものは、「あなた」がいない時にしか起こらない。
   だがあなた(というエゴ)は片時も自分を離れず、ずっとそこに座り続けるだろう。たとえもう一度、同じワークを経験しても、それで心満たされることはないだろう。なぜならあなたは期待して待っているからだ。「さあ、これが起こるぞ」と待っている時には何も起こらない。なぜなら、その「待つこと」の中に、”あなた”(というエゴ)がいるからだ。


       神秘家・カビールを語る
           book『  愛の道  』   OSHO   市民出版社


                           抜粋
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・人類が成熟し始める時

Q、 人間が直面する最大のハードルの一つは独りでいること、つまり世間の意見に対して独り立つこと、世間の虚偽に対して独りで立つこと、物理的に独りでいられること、そして最後は、最後の頼みの綱であり連れである、自分のマインド(自我意識)すら捨てて独りになることです。私たちは自分が独りだということをよく知っています。自分が独りであることの中に死ぬのだと知っています。外界での自分の繋がりは、すべて一時的なものであると知っています。

   私が流してきた涙は、すべてこの痛みから来ています。
   失うことと、独りぼっちでみんなと離れていることの恐れから来ています。どのようにして、独りあることの恐怖を取り巻くこの暗黒を打ち破り、独りあることの至福を生きたらいいのでしょうか?


   ここには変えられない根本的なことがいくつかあるが、それを理解するのは誰にとっても必要なことだ。そしてその一つが、人は暗闇を直接相手にして闘うことはできないということだ。つまり孤独を、孤立を直接相手にして闘うことはできない。その理由は、本来こういうものはすべて存在しないからだ。それは闇というものが単なる光の不在であるように、何かの不在であるに過ぎない。

   たとえば暗い部屋がいやな時、その闇を相手に戦ったりはしないし、それを消え去るようにする何かの方法があるわけではない。そこにあるのは、ただ灯りを何とかしなくてはならないことだ。つまりそれは、単に何かの不在に過ぎない。それはただ光がなかっただけであり、闇は実在するものではないが、だが暗闇という闇が実在するという誤った感じを持つ。

   人はこの闇を相手に一生かけて闘ったりすることもあるが、当然成功しはしない。
   だが小さな蝋燭(ろうそく)1本あれば、その闇を払いのけるに足りる。それなら実際的で実体があり、光がやってくれば、光の不在(闇)はすべて自然に消え去る。

   孤独は闇に似ている。
   あなたは自分が独りであること(アローンネス)を知らない。自分が独りであること、その美しさ、その途方もない力と力強さを経験したことがない。孤独とは(何かの)不在だ。あなたが独りあることを知らないために、恐怖がある。だから孤独を感じ、何かに、誰かに、何らかの関係にすがりつこうとする。それもただ、自分が孤独ではないという幻想を持ちたいからだ。

   だが本当は、自分が孤独であることをあなたは知っている。
   だからこそ痛みがあり、あなたは本物ではないもの、ほんの一時的なものに過ぎない人との関係や友情などにすがろうとする。そして、そうした関わり合いの中にある間は、孤独を忘れるためのささやかな幻想に生きられる。

   だがこれこそが問題だ。
   なぜなら、そうした関係や友情が決して永続するものではないことに、あなたは遅かれ早かれ気づくことになるからだ。あなたはこの男性、この女性と長続きする関係を求め始め、今度こそは変化しない関係をと願う。だが、変化こそがまさに生命の性質そのものであるという教訓を、あなたは本当には学んでいない。それを理解し、それとともに進むことだ。幻想を創ってはいけない。それは役には立たない。ところが誰もが、そうした幻想に生きている。

   権力を追い求め、今、権力の座にある人々であっても同じだ。
   たくさんの人達が周りに集まり、多くの人々を支配している人たち、彼らは大物政治家であったり、宗教的指導者たちであるが、彼らは孤独ではないだろう。だが権力は移行する。そしてある日、幻想は消え去り、他の誰よりも孤独になる。孤独に慣れていない人の孤独は、より一層自分を傷つける。

   社会は孤独を忘れさせるために、いろいろな手段を講じてきた。
   親同士が決める結婚は、男にとり妻を自分と一緒にいさせるための、確実な努力に過ぎなかった。あらゆる宗教が離婚に反対するのは、離婚が許されると、結婚制度が破壊されてしまうからだ。そしてこの根本的な目的は、孤独にならなくても済むように、一生の伴侶を与えることだった。

   だが、生涯を妻や夫と一緒にいたとしても、愛が同じまま続くわけでもない。
   実際に起きてくる事実は、伴侶ではなく重荷なのだ。自分が孤独ですでに問題を抱えているのに、今や孤独な人間をもう1人抱えなければならない。こういう生涯に希望はない。愛が消えてしまえば2人とも孤独であり、互いに相手を我慢せざるを得ないからだ。もはや互いに魅惑される可能性はなく、せいぜい辛抱強く相手を我慢しなくてはならない。あなたの孤独は、社会が考え出した制度によっても変えることはできなかった。

   宗教は、あなた方がいつも群集の中にいられるように、あなたを宗教団体の一員にしようとしてきた。あなたは6億のカトリック信者がいることを知っている。つまり自分は1人ではないことを、6億もの人間が自分と一緒であることを知っている。イエスは自分たちの救い主だ、自分には神がついている。自分1人なら自分が間違っているかもしれないが、6億もの人間が信じているのだから、それが間違っていることなどあり得ないだろうと。それはささやかな安堵であるだろう。

   だが世界には、カトリック信者でない何十億もの人々がいる。
   それはカトリック信者よりもはるかに多く、他の考え方をする人々がいる。だが知的な人々は疑わずにはいられない。自分が信じる信仰体系に従う何億という仲間がおり、彼らが自分と一緒なら、自分は孤独ではないと確信できるわけではないと。

   (外に在る)神とは一つの方策であった。
   だがこうした計画はすべて失敗した。(外にある)神とは幼い精神の願望に過ぎない。人間は充分な発達段階に達し、神という仮説は人間たちの注意を引く力を失った。私が言いたいのは、孤独の回避に向けられて来たあらゆる努力は、失敗したということであり、それは必ず失敗するということだ。なぜならそれは生きることの基本に反するものだからだ。

闇とは光の不在であり、孤独とは「独りあること」の不在

   必要なものは、自分の孤独を忘れられるような何かではない。
   必要なことは、あなたが自分の「独りあること」に気づくことであり、それこそが現実なのだ。それは経験すべき、感じてみるべき、実に素晴らしいものだ。なぜならそれこそが、群集から他人からあなたが解放されることだからだ。それが孤独の恐れからの解放なのだ。

   「独りあること」(アローンネス)という言葉そのものには、孤独の持つ傷と同じような、埋められるべき隙間というような意味はない。独りあることとは、ただ完全性を意味するだけだ。あなたは完全であり、あなたを完全にするために他の誰も必要ではない。

   自分の最も深くにある中心を見つけることだ。
   そこではあなたはいつでも常に独りであり、これまでもいつも独りだった。それは生きていようと死んでいようと、どこにいようともあなたは独自のあなたであるだろう。だがそれは非常に充実した独りだ。それは空虚ではなく、豊かで、完全で、活気とあらゆる美しさと祝福に溢れており、ひとたびそうした独りを味わったならば、ハートの中の痛みは消え失せる。

   だから私は、自分の孤独をどうにかしなさいと、あなたに言うつもりはない。
   むしろ独りあることを求めなさい。孤独や闇のことは忘れ、痛みのことも忘れなさい。なぜならこれらは単に、独りの不在(独りを恐れていること)に過ぎないからだ。「独りあること」を経験すれば、そういうものはたちまち消えてしまう。

   そして、その方法は同じだ。
   ただ自分のマインド(表面意識)を見つめていることであり、気づいていることだ。それはもっともっと意識的になることであり、ついには自分自身だけを意識するほどになることだ。それこそが、あなたが「独りあること」に気づき始める地点なのだ。

   それぞれの宗教が『究極の認識の状態』に、それぞれ名前をつけていると知ったら、あなた方は驚くだろう。だがインド以外で生まれた3つの宗教には、それに対する名前すらない。なぜなら自分自身を探求するほど遠くまで、進んだことがないからだ。そうした宗教は未熟であり、幼い。神にすがり、祈りにすがり、救い主にすがっている。それは依存であり、他の誰かに救ってもらわなければならない。

   ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教はまったく完成されていない。
   おそらくそれこそが、こういう宗教が世界中のほとんどの人々に影響を及ぼしてきた理由だ。つまりこの地上のほとんどの人々が未成熟であり、それに応じたものであることだ。

   常に自分が直面している問題が、否定的なものか肯定的なものかを調べなさい。
   もしそれが否定的なものであれば、闘ってはいけない。そんなものを苦にしないことだ。それの肯定的なものを探しなさい。そうすれば正しい入り口にいることになる。世間のほとんどの人々が失敗し、落胆し、悲観的になり、ついには人生には意味がないなどと苦悩する間違いに陥るのは、誤った入り口から入ったことだ。つまり、否定的な扉と闘えば闘うほど苦しむことになる。

   だから問題に直面する前に気づくべきことは、その問題は単に、何かの不在ではないかと見ることだ。そしてあなた方の問題は間違いなく、すべてが何かの不在であることだ。そしてそこに何が存在しないのかがわかったら、実在するものを追及しなさい。そしてあなたが、実在するもの、光を見つけた瞬間に、闇は終わる。


       book『 神秘家の道 』  OSHO   市民出版社

                          抜粋 
   

・三位一体とは、「父と母と子」

   東洋と西洋は、今日まで対極として機能してきた。
   西洋は意志を通して、一方東洋は明け渡しを通して機能してきた。つまり西洋はエゴを通して、東洋は絶対的な無私を通して機能してきた。西洋の考え方は男性的であり、東洋の考え方は女性的だ。

   東洋は受動性に信頼を置く。
   完全に受動的、受容的なときに、神はあなたのところにやってくると考えた。あなたが無であり、ただ待つ時、祈りを込めて待っている時、あなたの側に努力がない時、神なるものはやって来ると。

   だが西洋のやり方は攻撃的であり、男性的だ。
   男は探し求めなくてはならない。男は出かけていかなくてはならないし、征服しに行かなければならない。神なるものですら獲得しなければならない。自然を征服し、真実を勝ち取らなくてはならないと。

   両者が失敗したのは、両者ともが部分的でしかないからだ。
   ゆえに必然的に、東洋と西洋は失敗しなくてはならなかった。西洋が大失敗であったように東洋も失敗した。なぜなら人間は男だけではないし、女だけでもないからだ。人間はその両方であり、しかもそれ以上のものだ。人間は陰と陽の両面であり、長年にわたる東洋と西洋の対立がなくなるように、それを超えたものが必要だ。

   神智学では中心に神がいる。
   笛を吹くクリシュナや、周りにいる女性たち、ゴピは踊っている。つまり周囲にいるのは人であり、中心にいるのが神だ。だがシュタイナーの人智学はそのすべてをひっくり返し、人をその中心に置き、人が中心的存在となった。だから西洋では人が中心的存在となってきた。だが東洋では、人は周辺的存在だ。

   そしてその両者の努力は失敗に終わっている。
   それは互いに部分的でしかなく、人間は男性と女性の両方で一つの存在であり、人間は本質的にそうでなければならない。あなたは母親と父親から生まれたのだから、あなたは男だけの、女だけの部分でいられるはずはない。だがあなたの魂の中では母親が、そして父親が生き続けている。だからあなたはその二者が織り成す、深みある調和とならなければならない。

   自分自身の中の思考の調和(ハーモニー)、つまり父親と母親の調和に至った人を、私は真に宗教的な人と呼ぶ。だがあなたの中では、その2人はまだ言い争っており、両者は喧嘩をして対立している。母親と父親が喧嘩していたのは、あなたが子どもだった時だけではなく、2人はまだ、あなたにおいて細胞の一つ一つの中で対立している。

   そこで2つの可能性がある。
   いまだに自らの中に対立があって、その自分の両極性を理解するに至ったら、人は選ばなくてはならない。男性という陽を選んでエゴイストになるか、あるいは女性という陰を選んで明け渡しの人になるかだ。だがいずれにせよ、あなたの中の選ばれなかった側は苦しむことになる。こうしてあなたは決して全体とはならない。全体、全一でない人は本来の神聖になりようがない。なぜなら無視され、拒絶された部分は復讐し、それが無意識(潜在意識)となる。無意識とは、あなたの存在の無視された部分に他ならない。

   将来、人類の意識に無意識というものが存在しなくなる可能性はある。
   つまり、私たちが拒絶することをやめれば、無意識というものは生まれない。人は完全に意識的になれる。これが私たちのいう覚者であり、それは目覚めたという意味だ。それはもう拒絶された部分がないと言う意味であり、自分の全体性を自分に受け入れ取り込んだということであり、自分のあらゆる面を受け入れて多次元的になったということなのだ。

三位一体とは、「父と母と子」

   あなたの内面においても、もはや2つの極性は対立していない。
   それは互いに補い合うものとなり、あなたの内なる女性と男性は互いに助け合う。内なる男女は互いに恋に落ち、内なる男女は一つになった。両者は結ばれており、これが内なる霊的な結婚のことだ。この霊的な結婚から初めてあなたが誕生する。この内なる矛盾の出会いから、初めて本来のあなたが誕生する。

   これが三位一体(トリニティ)というコンセプトの全哲学だ。
   三位一体のコンセプトは素晴らしいものだ。これにはたくさんの意味があるが、当然、父と子と聖霊の、聖霊というのは正しい名前ではない。この言葉を作った人は、おそらく男性優位主義者達だろう。本来のものは、それは聖霊ではなく母だ。つまり、父と母と子であり、事実に基づいてこれなら完全に正しい。

   父親と母親があなたの中にいる。
   だがあなたの父親と母親は、あなたの内面では未だ出会っていない。だがあなたの外側では2人は出会っており、こうしてあなたの肉体が作られる。あなたの内側で2人が出会うと魂がつくられ、子どもが生まれる。

   東洋は、女性的になったために苦しんできた。だから東洋は何度も征服され、意志力を失ってきた。生きることへの興味や熱意を失い、活力を失った。東洋は運命には従うしかないと思うようになり、その結果非常に穏やかな国になった。だから東洋の歴史は常に丸々、他国による支配の歴史だ。それは貧困の歴史であり、科学不在の歴史だ。それは美しい歴史ではない。

   西洋は男性志向に深く苦しんできた。
   対立と葛藤、暴力、争いがあり、常に気の休まるときがなく、意識には大変な緊張が強いられる。スピードを求める心があり、野心があり、競争と熾烈な争いがあり、常に誰もが誰かと戦っている。当然、西洋は狂った人々を生み出してきたし、多くの神経症患者を生み出してきたが、それでもその片隅には素晴らしい人々がわずかだがいた。だが、それでも成功を収めたとは言えず、哲学は失敗した。東洋と西洋はどちらも失敗したのだ。

強いエゴが、放棄する力、あるいは自らを守る力をつくる

   人は、意志と明け渡しの融合でなければならない。
   人はまず、意志の力、つまりエゴを育てなくてはならない。もし人の人生の平均が70年であれば、人生の最初の35年はエゴと意志力の強化に力を注ぎ、しっかり統合されなくてはならない。そして後の35年以降は力を抜き、エゴを捨て、もっともっと神に身を委ねられるよう、その術(すべ)を学ぶことだ。

   最初は、選択して生れて来たこの世界に入って行かなくてはならない。
   この世界で生きるためには意志が必要だ。人は世に出て行き、闘い、奮闘し、奮闘することで知性を磨かなければならない。この世のことを知り、世界中をさまよい歩き、征服し、支配者になりなさい。そうして外側の世界を知ったなら、今度はそれらを置いて自分の内なる世界へ進みなさい。今度は内なる内面的なものを知るように努めなさい。

   私は非論理的な人間だ。
   そして私の理解は、強いエゴにしか「明け渡し」はできず、弱いエゴは明け渡すことができないということだ。私は毎日、弱いエゴを目にする。弱いエゴは私の所にやって来ると、決まってとまどい、躊躇(ちゅうちょ)する。明け渡そうか、どうしようか、サニヤスを取ろうか、どうしようかと迷う。

   なぜ怖いのか? 
   弱いエゴは、自分のエゴがとても弱いことを知っており、だから怖いのだ。なぜなら明け渡したら、自分は消えてなくなってしまうことを知っているからだ。明け渡したら自分は消えてしまう、立てなくなってしまうと知っているから、だから怖いのだ。弱いエゴは、自分の内面的な弱さを怖れている。いかに外側を装っても、自分の内面的現実を知っているから、だから弱いエゴは防御的になり、自分を守ろうとする。

   エゴの強い人は、私の所に来ると必ずこのように言う。
   「わかりました、やってみましょう。それも試してみましょう」エゴの強い人は知っているのだ。それはたとえ知らない道に入り込んでも、自分を守れるだけの充分な自信があるし、戻ろうと思えば戻ることができる。それができるだけの充分な信頼と、充分な自信、意志力がある。

   いいかな、明け渡しというのは、意思による最後のもっとも偉大な行為だ。
   それは簡単なことではない。明け渡しとは、耐えられないからする、といったようなものではないし、もう疲れたから、もう自分の足では立てないから「わかった、明け渡す」というようなものではない。それは非常に大きな力から生じるものだ。


           book『 愛の道 』  OSHO  市民出版社

                          抜粋
   

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