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・無条件の愛は傷つかない

   サン・ジェルマンからのメッセージ

   執着は、しばしば献身や約束、忠実さ、誓約と誤解されます。
   たとえば、人がある状況や他人のことを心配するのは当然だと、多くの人が思っています。「愛している人のことを心配せずにいられるだろうか?」とあなた方は言うかも知れません。ですが私があなた方に言っておきたいことは、他人の心配をするということは、その人が自らを癒し、学び、成長する能力を失わせることなのです。

   心配するということは、起こっている出来事を扱う力がその人にはないと見做すことだからです。あなたの心配する態度は、彼らの問題にあなたの恐れを付け加えることになります。それはまさに傷ついている人に追い討ちをかけるようなものなのです。たとえば、この地球という惑星を「うまくいっていない」と心配することは、それがより一層退化してしまう可能性を増やしてしまうことになります。なぜならあなたの心配は、惑星の可能性の未来の創造に、失敗するかもしれない恐れを付け加えるからです。

   また、人間関係や人生の状況において、どのような結果になるかを心配して執着することは、それを失うことや、思うようにできないかもしれない恐れを常に持ち続けていることを意味します。それはあたかも、相手がまだあなたと一緒にいる時でさえ、あなたはすでに彼、彼女がいなくなった時の深い悲しみを先取りして感じていることです。つまり、痛みを持ちながら生きることはできないと思い込むことで、失うことへの恐れとそうした関係への執着をつくり出すのです。

   こうした執着はまさに、あなたが心配して怖れている状況そのものを作り出すか、あるいは平凡な関係のどちらかを生み出すでしょう。なぜならあなたは、信頼することやゆだねること、無条件の愛を学ぶほど十分くつろいだ穏やかさの中にいないからです。それはなぜでしょうか? あなたの考え方ややり方には失うことへの恐れがあり、その恐れが創造的な愛の部分を執着に置き換えてしまうからです。

   人々が次のように言うのを、どれほど耳にしたことがあるでしょうか。
   「もちろん、私は執着しています。だって愛しているからです」と。あるいは「もしこの仕事に就けなかったら、もう自分はどうしていいかわからない」「あの人、この人がいなくなったら生きていけない」「地球がまたアトランティスのように滅亡するなんて考えたくもない。地球のアセンションは絶対起こらなければならない」

   人間は深く気にかけているしるしとして、今挙げたようなものの言い方を正当化する傾向があります。ですがこのように結果に執着することは、目的に向かうためにもっとも大切で価値ある創造的な力を台無しにしてしまうのです。それを何と呼ぼうとも、それは強い恐れであり、恐怖です。

   ではどのようにすれば、深く気にかけながら物ごとに打ち込んだり、人間関係に関わったりすることができて、しかも執着しないということができるのでしょうか? それは本当に簡単です。つまり、自分の思い通りにすることよりも、人の自由意志を尊重することと、いつも自分の最高のものを差し出すようにもっと配慮すればいいのです。

   人との関係における執着について例をあげて説明します。
  (略) たとえば、あなたが今最も愛していて、最も離れたくない人をイメージしてください。その人に対する気持ちを深く感じてください。その人のことを思うとき、自分の気持ちがどのようになるかに注意します。(略)自分を観察することは、あなた自身の本質をさらに深く理解するための素晴らしい方法です。

   今度はその愛する人がたとえば、結婚せず独身を貫くことが自分の道であるから、あなたとの交際をやめる、と言ったとイメージしてください。そしてもう一度、あなたは自分を観察し、そう言われて自分がどのように感じているかに注意を向けます。あなたは何を感じているでしょうか? その相手にすがりついて「いやです!」と叫びたいでしょうか? 自分が感じているそうした感情だけでいっぱいでしょうか?

   それとも、その人が自分の道に従っていることを、素晴らしいと感じることができるでしょうか? その人が去ってしまうのを少し悲しく感じながら、でもそれがその人にとって最善の道であるのなら、と心から願いながら。なぜならあなたはその人を愛しているからです。もしあなたのその気持ちが真実であるならば、あなたはすでに人との健全な距離というものを置いているのかもしれません。

   健全な距離を置くとは、あなたが気にかけている人々の思い、動機、望みに、自分の最高のものを差し出すということを意味します。つまり、失うことへの恐れから愛や約束にしがみつくことはしません。人間関係における望みの実現とは、あるいは一生を一緒に過ごすことを意味しているかもしれないし、そうではないかもしれないということも理解しなければなりません。

   人間関係がもたらす恩恵とは、互いにそうしたものを受けることのできる、適切な時間を一緒にいることでもたらされるものです。あなたはその関係が一生続くことを望んでいるかもしれません。ですが、そうならないならば、いつでもその関係を愛の中で進んで手放すことが重要です。

無条件の愛は傷つかない

   愛することを学ぶとは、執着という恐れに時間とエネルギーを与えるのを止めることを学ぶということです。無条件の愛は、いかなる保証、約束も要求しません。それはただ流れるものです。愛は決して失うことを怖れません。愛は相手を変えようとはしません。愛はただ愛するだけです。相手が自分の思い通りに行動しないからといって、愛は傷つくことはありません。愛はいかなる確証や見返りも要求しません。なぜなら愛はただ愛するだけだからです。

   ですがあなた方は、私たちが人間的な思いに欠けているとして、こうした教えを誤解するかもしれません。親に無視されて育ったり、愛していた人に虐待されたりしたことがあると、あなたはその痛みを忘れるために、別のものに慰めを求めることは明らかです。そしてそれは一時的には役に立つように思えます。ですが実際には古い痛みを完全に解放し、痛みの原因になった自分の態度を手放さないかぎり、いつか必ずそれは再び表面化することになります。

   新しい愛があなたのハートの中に深く達するほど、古い傷と痛みを解放する可能性も高くなります。そしてこれを本当に理解したとき、あなたは抱えてきた痛みを新しい相手に投影するのをやめ、その人を愛することができるのです。つまり、相手を失うことの恐れやさまざまな心配の恐れなしに、相手の幸福を気遣うことができるのです。

   健全な距離を置くためには、約束や保証がなくても常に愛し、常に人を愛する決心をしていることが求められます。あなた方は誰もが創造のマスターです。ですがあなた方の創造性における執着が結果を曇らせて妨げてしまうために、まだそのことがわからないかもしれません。出来事の展開という創造のプロセスにおいて、愛のうちにゆだねることが大部分を占めるようになったとき、あなたは自分が創造していることに気づくでしょう。

   あらゆる出来事の創造と表現のプロセスにおいて、他の人の自由意志を制限することのないようにしてください。そして、あなたの望みに特定の人が誰も関わることのないようにし、自分が望むものを心に思い描くことです。そのようにしてあなたが求めて作り出すすべてのものは調和の法則とつながり、そこでは誰もが「すべてがうまくいく」体験となるように求めることです。

   それは言い換えるならば、あなたが勝つためには誰かが負ける必要はなく、誰の自由意志も、他のどのような方法であれ、制限されることがないということです。このようなやり方であなたが創造を行なうとき、あなたの喜びは大きくなるでしょう。なぜならそこには罪や罰、支配、収縮、執着という底流がまったくないからです。そして執着や恐怖、心配を手放すことで、自分を尊重し大切にする意識は弱まるどころか、ますます強くなっていくでしょう。

   他の人を愛するためには、執着してその人を失うことを怖れたり、心理的に彼らをコントロールせず、彼らや彼らのすることへの執着を手放さなければなりません。誰かや何かに執着しているかぎり、人との本来の健全な境界を維持することはできないのです。


     book『プレアデス 神聖なる流れに還る』 アモラ・クァン・イン著
                   ナチュラルスピリット


                           抜粋  
        
   
   

   
   
   

・イナンナバイブル  ②

   (略)生命の家の周囲には、目に見えないバリケードのドームの囲いが張り巡らされた。中に入れられている遺伝子操作されて生まれたルル・アメル(人間)たちには、ドームの端に近づくと怖ろしいことが起きるとだけ知らされており、その見えないバリケードの存在について彼らが気づくことはなかった。実際にはこのドームは彼ら人間を展示するためのものであり、要するに彼らは動物園の檻の中で暮らす観賞用の動物と同じだった。

  アヌンナキたちは娯楽がてら、エデンを訪れては、ルル・アメルたちの生態を鑑賞した。さらにはラームからイギギ(労働者のアヌンナキ)たちまでが遠路はるばる、つがい(オスとメス)のルル・アメルを一度は見物したいものと、エデンに押し寄せた。それは彼らの母星ニビルでもそうで、遺伝子操作によるルル・アメル1号のアダマと2号のティ・アマトの話題で持ちきりだったのだ。

   だが訪問者たちにはルル・アメルたちに高度な学習能力が備わっていることは伏せられていた。そのため、彼らに気づかれないようにモニターを通してのみ鑑賞することが許されていた。その見えないバリケードのテクノロジーは、単にバリケードの役割のためだけではなく、外敵から守る役目もあった。そのテクノロジー、つまり一定の周波数に設定されて制限された範囲は以後拡大され、今日に至るまで人類が暮らす地球世界を覆っている。

「運命の石板」というテクノロジー

   「運命の石板」と呼ばれる、さまざまな機能を持つ謎めいたテクノロジーがあった。
   このテクノロジーはプレアデス次元のテクノロジーであり、かつてプレアデスからニビル星へ強制移住を命じられたアンに、宇宙総司令官ソ・ラーラが特別に与えた宝物だった。それは宇宙創造主由来の物であり、まさに「神々の道具」だったのだ。

   それは天然石がはめ込まれた石の板であるにもかかわらず、雲のような軽さだった。運命の石板は、計算を具現化するためのシミュレーションを素早く緻密なレベルまで計算できたので、アヌンナキたちにとって不可欠なツールであり、それはまさにスーパーコンピューターの数千倍も優れた打ち出の小槌であり、(ニビルの)神々たちの宝物だった。

   エンリルはこの運命の石板を用いて、ニビル星と地球間の通行ルートと、移動に適したタイミングを計算し、ついに新しいルートを発見することに成功した。これによって大量の金(ゴールド)が以前よりもずっと楽に、地球からニビル星へ輸送できるようになった。運命の石板によって、宇宙のあらゆる星との距離を正確に測ることもできた。その上、一瞬にして目的地にも着くことができ、タイムジャンプには欠かせない方程式が託されていた。

   ニビル星人は、プレアデス文明から受け継いだ魔法ともいうべき叡智を持っていた。だから本来ならば彼らのDNAを受け継いでいる人間たちも、こうした魔法を自由自在に使えたはずだったが、遺伝子操作によりそうした能力は封じられていた。だがアヌンナキたちのすべてが魔法を使えるわけではなく、それはアヌ一族だけが持つ特権ともいえる資質だった。

エデンからの追放

   (略)その後再び、アダマとティ・アマトはエデンの展示用ドームに戻されたが、偶然その時エンリルが生命の家を訪れていた。そしてモニターを見ていると、モニター上のアダマとティ・アマトはまるで彼に見られていることを察したかのように、手をつなぐと、もう片方の手で陰部を隠しながら森の中へ逃げて行った。

   エンリルはいらいらして、ニンギシュジッダに大声で怒鳴った。「奴隷を創るという目的を忘れたのか? 君たちは何をしているのだ? 我々ニビル星人の大切な生命のエッセンスをどこまで無駄にするつもりだ! あの奇妙な獣たちをエデンから追放しろ! エデンの展示ドームはこれで廃止だ。さっさと奴らをアブズの現場に送るんだ!」地球総司令官エンリルは、厳しい口調で命令するとその場を立ち去った。

   原始労働者ルル・アメル1号のアダマと2号のティ・アマトはエデンを追放され、現在のアフリカに当たるアブズの金の発掘現場へと送られることになった。彼らはそこで従順にアヌンナキのために労働した。その間、ティ・アマトは多くの子どもを出産して家族を増やし、子どもたちは14人になり、同じようにアブズの発掘現場で働いたり、金属都市のバド・テビラへ送られる者もいた。

   ルル・アメルたちにとって、アヌンナキは神そのものであり、彼らへの絶対的な服従をよく理解していた。こうしてイギギ(アヌンナキの労働者)たちの苦役を和らげる目的のために、遺伝子操作の結果誕生した人間たちのおかげで、アヌンナキたちに平和な日々が訪れるようになり、あちこちで結婚や出産ラッシュが始まった。だがその結婚は異母兄妹同士の親族間の結婚であり、政略結婚が中心であった。

   かつてニンティがニビル星から地球に連れてきた看護師の女性たちには、人間の出産に関わった功績が讃えられて勲章が贈られた。その勲章には、「カドゥケウス(絡み合う2匹の蛇)」が描かれていた。

ノアの方舟

   その頃、ニビル星の接近による影響が各地に現われ始めており、それは地球だけでなく月や火星など、太陽系のほとんどの天体に降りかかった。エンリルは最悪のシナリオに対する解決策をあれこれ考えていた。ニビルの接近なら、アヌンナキだけならどうにか切り抜けられるだろう。だが地球で新たなミッションをスタートし直すためには、この惑星を全面的に変えなくてはならないと。またエンリルは、宇宙の創造主クリエイターの意によって起きることなので、ルル(人間たち)を決して救済してはならないと皆に念を押した。

   ニビルが太陽系にどんどん接近するにつれ、太陽の表面には巨大な黒点がいくつも現われた。その表面から巨大な炎が噴出するのを、地球からも観察できるようになった。そうした太陽の影響をまともに受けた太陽系内の星々は揺れ動き、軌道を外したりした。それは目に見えない何らかの引力の働きで、伸びたり縮んだりしていた。この異様な光景を、ニビル星にいる天文学者たちはテクノロジーの筒を通して眺めていたが、地球のある部分は白く凍りついており、そこの住民たちは次々と凍死していった。

   いよいよシェム(円盤やロケット)に乗り、地球の大洪水から避難すべきときがやってきた。位の高い者は各自専用のシェムで地上から脱出し、他の者たちはみな葉巻型の大型シェムに分かれて乗り込み、危険の及ばない場所で待機することになった。彼らは地球の遥か上空から、地球が大洪水に呑み込まれていく様子を眺めていた。

   ジウスドラとは「ノア」のことだが、古代シュメールではノアは「ジウスドラ」という名に訳される。つまり、エンキの息子と人間ルルとの間に生まれたジウスドラこそが、旧約聖書に登場する「ノアの方舟」のノアである。ノアことジウスドラは、エンキがル・マルクの妻バタナシュを誘惑した結果生まれたアヌンナキと人間のハーフだ。ジウスドラとは”輝く清らかさ”という意味があるが、彼は性格も天使のようであり、エンキがルルに産ませた子どもたちの中でも特別優秀な頭脳を持っていた。

   ジウスドラは、葦で組んだ舟の内部を防水タールで塞いで頑丈なものにし、妻のエムザラや子どもたちを乗せた後、家畜や近辺の動物を一つがいずつ中へ誘導した。動物たちはまるで、すべてを理解しているかのように勝手に集まると行儀よく舟の中へ入って行った。こうして出発の準備が整った頃、最後の乗客がやって来たが、それは航海士としてエンキから送られて来た彼の息子のニナガルだった。こうしてついに舟のハッチが閉ざされ、エリドゥの港からノアならぬジウスドラの方舟は出航した。港には、何も知らない大勢のルルたちが来ていて彼らを見送った。(略)

   大洪水が大地を襲うと、地球の揺れはますます激しくなり、真っ暗な雲が覆った。
   そんなある日、鉛のように暗い彼方から何かが、ヒューッと空を横切った。その物体こそ最接近したニビル星だった。ニビルは空を横切り、あっと言う間に消え去った。ニビル星はすべてを呑み込む勢いで赤い炎を引きながら、猛スピードで地平線の彼方へ消えて行った。ジウスドラはそれを、舟の中からテクノロジーの筒で観察していた。

   この時、地球がアヌンナキの植民地となってから、すでに120シャル(43万2千年)が過ぎようとしていた。その時、アブズの空の上空にライオンが現われ、ちょうど獅子座の時代が終わろうとしていた。その時、ジウスドラは10シャル(3万6千)歳だった。(アフリカの)アブズの北にあったアヌンナキたちの領土は、大洪水により水中に消え、エデンも呑み込んだ。方舟も大波にさらわれ、海底に沈んだ。だが方舟は内側に防水タールが塗られていたので、水中にあっても一滴の水も通さないほど頑丈にできていた。浮かんだり沈んだりしながら、ようやくある岸にたどり着いた。

   上空ではアヌンナキたちが、シェムの中からその様子をモニターで観察していた。
   地上はすべての生命が全滅したと思えるほどの無残な変わりようで、以前の地形は跡形もなく、一面水に覆われていた。それを見てアヌンナキの男たちは泣き崩れた。誰もが泣き叫んだ。「私が創造したすべてが怒り狂う海にさらわれてしまった!」と。

   40日間の大雨の後、ジウスドラの方舟は大きな岩のようなものにぶつかって停止していた。彼が恐る恐るハッチを開けてみると、空は青空に変わり、爽やかな風を感じることができた。舟は岩に乗り上げていたのだ。ニナガルも外に飛び出し、ジウスドラの肩を抱いて、興奮しながら大声で笑い続けた。ジウスドラは早速そばに祭壇を造り、船の中で生まれた子羊を一匹捧げ、命を救ってくれたエンキの神に感謝の祈りを捧げた。「主エンキを褒め称えよ! 主エンキに感謝せよ!」

   エンキとエンリルは着陸場所を探しながら地上を伺っていたが、ジウスドラの舟が岩に乗り上げているのを発見した。2人は驚きのあまり、悲鳴を上げて抱き合った。そこは洪水の前はアララト山の頂上だった。彼らはジウスドラと再会したが、エンリルは、「全滅したはずのルルがまだ生き残っていたとは!」との思いに怒りが爆発しそうだった。自分は地球総司令官であり、アヌンナキとイギギにあれほどルルを救助しないよう命令したのに、彼らはそれを無視したのだ。

   「地球人には一切関与してはならないと誓わせたのに、バカにされたもんだ。エンキ、よくも掟を破ったな!」エンリルはエンキを睨みつけた。エンキは言った、「何も違反などしておらん。あれは単なるルルではない。私の息子だ! エンリル、間違えるな。ジウスドラはアヌ様の孫なんだぞ」 エンキは自分の夢枕に現われたガルズのお告げの秘密を皆に明かし、「地球は地球人に任せて、ハーフのジウスドラにするべきことを伝えるように」と言われことを話した。

   エンリルは内心、大きなショックと混乱を感じていたが、話を聞き終わるころには落ち着きを取り戻していた。すると突然エンリルは、ジウスドラと彼の妻エムザラの手を取り祝福して言った。「人間たちを再び蘇えらせたジウスドラとエムザラに神の祝福あれ。末永く子孫を増やし、地球を自らの子孫で満たしたまえ!」 

   エンリルは後に、「ヤーゥエの神」として知られるようになる。



  book『人類創世記 イナンナバイブル』 愛知ソニア著 ともはつよし社

                          抜粋
   
   

・イナンナバイブル 

     私たちは、約50万年前の地球に来たニビル星人です。
   私たちの祖先はプレアデス星団に暮らしていました。しかしある時、私の一族はニビル星に移住することになりました。ニビル星は、あなた方地球人が「惑星X」と呼んでいる太陽系の最も外側に位置するプレアデス星の人工惑星です。

   その星への移住は私たちの意思ではなく、宇宙連合総司令官ソ・ラーラの命令に従ったものでした。それはまだ、惑星地球が存在すらしていない遠い過去のことです。その人工的に創られた星は「ニビル」と名付けられました。そしてその星を支配する王が、私の大祖父のアヌであり、私イナンナはアヌ一族の娘として生まれました。

   私たちアヌ(アヌンナキ)一族は、プレアデスからニビル星を経て地球にやって来ましたが、それが地球の時間軸で約50万年前のことです。私は自分自身と家族のことについての歴史をお話しますが、それは今の時代の地球に住むあなた方人類もまた知らなければならない真実です。ですがそれは長い間封印されてきた秘密です。アヌ一族の物語は、今まで隠されてきました。ですがあなた方人類に、この物語に秘められているシンボルを理解できるならば、自分自身をも理解できるに違いありません。それが今、この時代に最も必要とされていることなのです。

   闇に封じ込められてきた地球の秘密を明かすことによって、地球は新しく生まれ変わる可能性が出てきます。そのためにも今こそ過去の真実を洗いざらい暴露し、なぜこれまで常に、地球には同じパターンが存在してきたのかを知る時でもあります。なぜなら真実の歴史を知ることによって、あなた方人類の血に秘められた力を再び自分のものにすることができるからです。

   これは最初からプログラムされていたことであり、これによって地球人類のシフトが起きるのです。そして一度真実が暴露されたならば、それは一瞬にして広がります。あなた方の進化のプログラムは、いずれプレアデスの存在たちと同じく、”自分+(プラス)”という複数意識体に変身していくということです。集団としての意識にも大きなシフトが訪れるのです。

   つまり、あなた方人類の次なる進化のステージは、1人1人バラバラの個々ではないのです。地球人もまた、プレアデスの存在たちのように、グループ化した意識に変身していくでしょう。そうなればすべてが変わり、あらゆる問題が解決できます。

   現在のあなた方の祖先を創造したのは我々アヌ一族です。
   地球に来て、人間の原型ともいうべきホモ・エレクトスという存在を発見した私たちは、遺伝子操作を通して約23万年をかけ、今の人類の祖先ホモ・サピエンスを誕生させました。つまり、あなた方は私たちのラボ(研究所)から誕生したのです。そして私イナンナはその創造に携わり、自らの血を分け与えた者です。ですが私があなた方より優れているというわけではなく、むしろ恨まれる存在であるかもしれません。

   私たちはあなた方のDNAを操作し、完全に目覚めさせることはせず、原始的なままで残しておくほうが自分たちに都合が良いと考えました。なぜならあなた方は私たちの必要のために創造した存在だったからです。私たちのニビル星は大気の問題を抱えており、存続のためには、地球にある大量の金(ゴールド)を必要としていました。私たちの最初の目的はそのためであり、あなた方を金の採掘労働者として創造したのです。あなた方は「ルル」と呼ばれましたが、その頃はあなた方がどんどん進化していくとは知る由もなかったのです。

   あなた方人類がこれまで経験し、そして今も存在するあらゆる混乱は、そもそも私たちが遺伝子操作したことが原因と言えます。私イナンナはアヌンナキを代表して、そのことをぜひあなた方に知らせたいのです。そして私自身がルルたちのために、何度も深く心を傷めたことも事実です。未開の惑星であった地球を舞台に、アヌ一族が繰り広げたドラマは、一言で言えば破壊と戦争の繰り返しでした。そして私イナンナは後に、”戦争の女神”としても知られることになりました。

   今のあなた方は地球上で、自由に暮らしているように思っているかもしれませんが、実はこれまでもずっとあなた方の目には見えないシールドで囲い、私たちの望むように育ててきたのです。つまり、地球の3次元の周波数帯域の檻の中に入れられているあなた方を、絶え間なく外から監視し続けてきたのです。それは現在も変わりません。

   私たちはあなた方の祖先をルルと呼び、仕事をさせ、あるいは遊び相手にしてきただけのはずだったのに、いつしかあなた方に夢中になり、やがて肉体的にも結ばれて子孫を残すようになりました。さらに私たちは地球の領土とルルを巡って、互いに仲間同士で激しく戦うまでになってしまいました。ですがそれにしても、ルルたちは我々アヌ(アヌンナキ)を神々として崇めてくれました。私たちが地球へ、農業や医学などのニビルのテクノロジーを運んできたからです。そして私たちも、彼らのその気持ちに喜びを感じて応えたものでした。

   ですからどうか私たちを、手術台の上に無力な人間を縛りつけて操作する、あのグレイたちと同じだとは思わないでほしいのです。人間と関わるようになった私たちは、あげくの果てに私たち一族の戦争にあなた方を戦力として巻き込み、あなた方をまるでチェスの駒のように戦場へ送り込むまでになりました。

   しかし、あなた方には本来的に与えられている特殊な機能があり、それによってあなた方は自分自身を解放することができるようになったのです。私たちはいつでも、再びあなた方のような存在を宇宙のどこかで創造し、必要なくなれば望むように破壊できるものと信じていました。ですが宇宙の創造主の意志には逆らうことはできません。本来あなた方には、自分自身の力で、新たなるステージに立つ力と能力を持っています。その力に目覚め、一歩を踏み出してもらうことが、この物語を伝える真の目的です。


 book『人類創世記 イナンナバイブル』 愛知ソニア著 ともはつよし社

                          抜粋


   もう20年以上前のことですが、ホゼ・アグエイアスの人類を創造したのはニビル星の爬虫類人だと書かれた本を読んだ時、思わず本を床に叩きつけたことを思い出します。多くの人がそうした憤りを感じたことでしょう。

   この本ではイナンナは、人類の祖先を創造したのは自分たちだということを強調したいようです。ですが実際には、ニビルたちが50万年前に地球にやって来たとき、彼らが森の中で発見したとする、ホモ・エレクトスなる原人はすでに地上にいたのです。これが人類の祖先といわれる存在だと考えられます。その原人のすでに持っていたDNAを操作し、さまざまな可能性と能力のスイッチを切ったのが彼らアヌンナキです。そして彼ら自身のDNAを加え、そのようにして誕生させた人間を彼らは「人類を創造した」と言っているのです。

   他のプレアデス情報では、彼らニビル星人は地球で行なわれていた人類創造の実験をかなり以前から知っており、秘かに探っていたといいます。そして宇宙の高次の存在たちの目を盗んでは地球に立ち寄り、介入しないよう忠告されているにも関わらず、その時期を狙っていました。私はイナンナの話が嘘だというつもりはありませんが、イナンナの立場からの視点として尊重します。

   ではなぜ50万年前の時代、人類の祖先の原人がそうしたDNAを持っており、アヌンナキたちはなぜその遺伝子の操作をする必要があったのかということですが、別のプレアデス情報によると、人類の祖先に当る原人の存在そのものが、実は宇宙の高次の存在たちによる共同の実験により創造されたものだったということです。当然、そのDNAは高次の存在たちが与えたものであり、もしアヌンナキたちの遺伝子操作がなければ、順調にいけば違う結果が生まれていたはずです。つまり、高次の存在たちによる人間創造の共同実験はニビル星人に乗っ取られたのです。

   イナンナはその原人を、いかにも単なる猿人であるかのように描写していますが、そうでもなかったようです。そして実際にその原人はさまざまな能力を持っていてそれを使いこなすことができました。たとえば火を必要とすれば、彼らは一瞬にして目前に火を出現させ、意志するだけで遠くに立っている木を瞬時に焼き尽くすことさえできました。それを見たアヌンナキたちは驚愕したとあります。そしてアヌンナキたちは、このような高次の存在から与えられたDNAを持つ人類の祖先である原人たちを、支配する方法を考え出す必要がありました。

   つまりイナンナの立場から見た人類の祖先に当る存在と、実際に我々の祖先と考えられる存在との間には大きな食い違いがあるのです。イナンナの言う「人類を創造した」という表現が与えるものには、無から有、つまり生命そのものを創造したと言いたいように取れますが、実際には彼らが創造したものではありません。やはり生命の火花の源は、確かに宇宙の大いなる創造主、クリエイターから来ているのです。たとえアヌンナキたちが高度の遺伝子工学に長けていたとはいえ、私たちと同じく彼らもまたその源から生まれ、与えられた生命を生きている存在なのです。

   この本を読み進めるうちに、いわゆる宗教、中でも特にキリスト教や聖書といわれるものが何であるか、そこに出てくる神とは誰のことなのか、どのようにして原罪の概念が生み出されたのか、なぜ人間の寿命はたかだか100歳に設定されているのか、人間たちはなぜ、闘いと競争と弱肉強食の低いレベルから、いつまでも脱することができないのかなど、次第に明らかになってくるでしょう。

   ところで素朴な疑問ですが、なぜアヌ一族は、それまで住んでいたプレアデスから、強制的にニビルという人工惑星に移動を命じられたのでしょうか? ニビル星は男性主導の男性支配の惑星であり、しかも限られた王の一族であるアヌが支配する専制君主制です。つまり徹底した身分の階層が決められており、肉体労働者の家庭に生まれれば、未来永劫それが変わることはありません。

   プレアデス星の人々といえば、人類よりも進んだ高い精神性と霊性と愛を備えた人々という印象を私は抱いています。そうした人々のなかにあって、アヌ一族のような男尊女卑で男性支配で、性の平等という考えのない人々は、非常に異質で霊的に遅れた精神性を持った人々に映ります。推測するに、彼らはプレアデス星にふさわしく自分たちの考え方を変え、生き方を変える気がないならば、プレアデス星を離れて住むようにと勧められたのではないでしょうか? そしてそれに抵抗したために、宇宙連合総司令官ソ・ラーラから強制的に移住を命じられたのではないでしょうか?                               
                                         zeranium

・レムリア、アトランティスの崩壊は、今と同じく男性的エゴの支配が原因だった

   人間として生きるとき、私たちは何らかの行為を通して、「自分は良い人間で、大丈夫な人間だ」と外へ示さなければならないという、この惑星の思考体系に屈服してきました。それは神聖なる女性性と男性性の弾圧と抑圧のもう一つのしるしです。与えるという行為でさえ、たいていその背後には何らかの意志的な努力があります。私たちは良い人がすると思うことをして、同じように良い人になろうとします。だからといって、与える行為に他人への愛がないわけではありません。愛はあるのですが、少しよけいな意志的な努力があるのです。

   例外的な関係を除き、私たちは愛に満ちた美しい自己として、ただ存在するという体験に達することは極めてまれであり、ほとんどの時間において、私たちは意志的な余分な努力をしているものです。ただそのままでいることによって、他人と自分が完全にかつシンプルに愛を分かち合うことを、私たちはめったに許しません。

   意志的に行なう努力、やりとげる努力、与える努力、正しいことを言う努力、自分は大丈夫だと証明する努力、自分はわかっていると証明する努力、知的であると示す努力、こうしたことが、満足できるやり方で与えたり受け取る可能性を妨げてしまい、減らしてしまうのです。

   ほとんどの人は、何らかのそうしたものを持たずに深い安らぎをもたらす、シンプルな状態を経験することはほとんどありません。その安らぎは決して涸れることのない深い井戸に似ており、私たちの行ないが自分の存在から自然に飾ることなく流れ出してくるときにだけ、体験することができるものです。

レムリア、アトランティスの崩壊は男性的エゴの支配が原因だった

   数千年前、この地球上で起きたことは、神聖なる女性性の側面は、男性にとっても女性にとっても「もはや必要ではない」とされたことでした。こうして人間はしだいに、神聖なる自己の女性性や母なる神とのつながりを失っていくことになりました。男性も女性と同様に、自分自身の内に女性性の側面を必要とするものです。その意味は、単なる受容的で受け身であるということではありません。

   レムリアの時代は、人々がハートから離れて肉体的な五感の感覚に夢中になったことによって終わりを迎えました。本来レムリア人はとても愛に満ちており、官能的でセクシュアルで、霊的な次元と地球に強くつながって生きていました。しかし長い年月の間に、存在と神聖さに対する感覚を大切にしなくなり、エネルギーは汚染されたものとなりました。

   そして、その神聖なる流れの分裂に引きつけられて、支配的な存在が他から侵略して来たのです。これらの侵略者たちは、レムリア人は感覚的なだけで知的ではないから劣っていると彼らに信じ込ませたのです。その時点で、私たちの惑星の集合意識へ刷り込みが行なわれました。この刷り込みによって、レムリア人は私たちがもっとテクノロジーを学び、女性的な側面である感覚的な本質をコントロールしなければならないと思いこむようになりました。

   そのためにレムリアからアトランティスまでの過渡期は、マインド(表面意識)はハートよりも優れており、男性の極性が女性の極性よりも優れているという思い込みが影響を及ぼすことになりました。ですがどちらかがもう一方より優れていることはあり得ず、男性と女性の両方の側面が機能し、バランスをとって存在する必要があります。野原に座り、一輪の花を1時間見つめることができる人よりも、知性とテクノロジー的な理解を示す人の方が優れていると思い込むとき、私たちは重大な間違いをしているのです。

   結果として、レムリアの崩壊とアトランティスの始まりは、そのような男性優位で知性的なもののほうが優れているという、間違った基準から生じてしまったのです。そしてその後、レムリアと同じようにアトランティスも崩壊するのですが、そうした男性優位のエゴが、力とコントロールを極度に渇望したことから崩壊が起きてしまったのです。

   レムリアと同じく侵略された時点で、女性的な側面は依存的なものとされ、それまでのハートと霊のつながりはたちまち失われてしまいました。こうして精神的な本質と直観的な本質とのバランス、聖なる男性性と聖なる女性性とのバランスを学んだ男女のイニシエート(秘儀参入者)はほとんどいなくなってしまいました。実は何かに溺れるというパターンは、侵略の前から男性と女性双方の霊的な本質を破壊していたのです。

   今、私たちは、自分のレムリアやアトランティスでの過去世と惑星の遺産のバランスをとり、癒される必要がある時にいます。自分自身の中に、くつろげる場所を見つけ出したいという強い願いがあります。そこは今に存在する空(くう)であり、私たちの知性と能力が流れ出すインナー・サンクチュアリ(聖なる領域)です。それは男性支配のエゴではなく、内なる慈悲深い男性の神聖なる意志が働くことによってバランスがとれたとき、女性的な存在の本質が存在することができます。

   私たちはこの理解においてさえ、それを解釈する必要はありません。
   地球上の文明には、マインドという表面意識はハートや感情体よりも優れているという思い込みと関係した「刷り込み」があることを、ただ認めるだけでいいのです。ですがこの惑星の表面意識は、存在の本質であるハートや純粋さ、純真無垢さを未だに無視しようとしているのです。

   ですから私たちは、ただ自分の意図の背後に、自分も他をも傷つけずにすべての可能性を探求する子どものようになりたいという意欲と願いを持ちましょう。彼らはミツバチが花から花へと飛び交うのを何時間も見ているほど、今この瞬間に存在することができます。その純真無垢な態度から、「ああ、そうだったのか!」という感動が生まれます。そして彼らは知的な理解や知性と結びついたハートからのインスピレーションによって、精緻な物語や創造的な計画をつくり出すことができます。

   私たちは、自分自身のその子どものような部分を取り戻すよう、選択することができるでしょう。そして何も証明したり解決したりすることなく、純真無垢で人を気にせず、自然でいられる方法を思い出すことができるでしょう。


      book『プレアデス 神聖なる流れに還る』 アモラ・クァン・イン著
                     ナチュラルスピリット


                            抜粋

・報復という正義を乗り越える

   瞑想中だった私のところにクートフーミが現れて話してくれました。
   それは、悪いことをした人は罰せられたり苦しむのが当然だ、という考えを解放して手放すようにというものでした。クートフーミは、高次元の光から地球に与えられている恩寵の一定の配分が、実は流れが止まったような状態にあると言うのです。その原因は何といっても報復、つまり自分たちに害を与えたとわかっている相手に、「ほとんどの人間たちが未だに屈辱と罰を与えたいと望んでいる」ためです。

   それを望んでいるのは、特に政府です。
   それが現在、多くの役人が公的摘発や屈辱、拘置期間、さらに死刑宣告などの計画をつくり出して実行しているのです。つまりほとんどの人々が役人にそれをするよう強く望んでいることから、地球上では未だにこうした腐敗が行なわれており、他者への罰という意識を乗り越えようとしている、この惑星の次元上昇を引き上げる恩寵を拒否している、とクートフーミは言いました。

   カルマの法則のもとでは、たとえ誰であれ、ネガティブなカルマ的な振る舞いをしてしまったとしても、それを繰り返す可能性をもはや超えてしまうならば、すべては許され、苦しみに満ちた報いを受ける必要はまったくなくなります。ですからあなたができることは、自分自身の持つ思考と態度を見つめることです。つまり何らかのやり方で、自分に害を与えた人々は謝罪する必要があるという、ほんのわずかの思いですら、あなたが進んで自らの過去を完全に許して手放すのに先立って、今解放しなければなりません。そしてもちろん、最もひどい腐敗に対する態度さえも今、霊的な原理と繋げなければならないのです。

   自らのマスター性へと進むためには、許しを超えてその先へ向かわなければならないポイントがあります。あなたは自らの抱えるすべての非難を超越し、自分に危害を加えた人々のために祈るよう求められています。彼らができるだけ多くの恩寵と愛のなかで学び、成長し、他人に害を及ぼす可能性を超越するよう祈ってください。それによって、自分を害した者や虐待した者が突然神聖なるつながりに目覚め、あなたに与えた苦しみのカルマ的な報いを、受けなくてすむ場合があるのです。

   こうした報復や謝罪、また自分を苦しめた相手から謝罪の告白を受ける必要性を超越することは、個人として、そして集合的人類として重要なことです。ですが、こうした報復という古い概念や態度を、当然のものとして正当化するのは簡単です。

   こうした人間の思い込みと態度には、この惑星に与えられる一定の恩寵と癒しを妨げてきた点がもう一つあります。それはその機会が与えられているのに、「すべての真実」を知りたくないということです。ほとんどの人間は確実な高次元の援助と情報を必要としていますが、それが与えられるためには、それを進んで受け取ることが求められています。そして2000年前半には、地球の人口の50パーセントがようやく、機会が与えられたならば「すべての真実」を知りたいと望むようになりました。ですが実際に積極的に真実を探し求めている人間は、わずかな割合に過ぎません。

思い込みと執着と頑固さが”流れ”を妨げている

   真実には相対的な真実もありますが、それは私たちの人生や相互作用や出来事の詳細から成っており、時や情況に応じて常に変化するものです。ですが神聖な真実は不変です。神聖な真実は常に次のような理解を含んでいます。

   愛は永遠である。
   1人1人がそしてあらゆるものが、有益性やその働きにかかわらず神聖である。
   あらゆる考え、言葉、感情は、存在のすべてに影響する。

   私たち人間のほとんどの家族にとって、何らかの高次の理解が現状を崩壊させることがあり得ると考えるのは怖ろしいことです。つまり、神聖なる真実を知りたいと望むためには、私たちは偽りであり制限のある宗教的あるいは霊的な信念は、どのようなものであれ進んで手放さなくてはなりません。それは自分が信じる宗教がいかに長く続いてきているとしても、また大事にしているものであっても、あらゆるそうした信念を疑う準備ができていなくてはならないのです。

   自分自身を自らの現実の創造者と見て、その創造的な力の責任をとることを望んでいなければなりません。神聖な真実を知りたいと望むためには、あらゆる判断と非難、殉教者的行為、犠牲、悪用、正義の必要性、どちらが上か下かといった競争心、そしてあらゆる執着を手放す準備ができていなければなりません。それは多くの人にとって大変なリスクではありますが結局、最終的にそれこそが「自由の道」なのです。人々が無言のうちに、「私から真実を隠しておいてください。私は知りたくない」と言っている状態で、どのようにして公正な統治を望むことができるでしょうか?

   神聖な真実を怖れることは、神聖な愛を怖れることです。
   神聖なる真実を怖れることは、全てなる者/父母なる神、あるいは神聖なる源を怖れることです。それらのエネルギーのまさに源を怖れるなら、あなたはどうやって癒しや幸福や平和を望むというのでしょうか? 源からの愛と光は常に絶え間なく流れています。もし真実を怖れているならば、あなたはこの愛と光を体と意識の中へ受け入れることは決してできないでしょう。神聖なる真実を怖れることは、あなた自身の覚醒と変容を怖れることです。

   霊的な探求者として、次のレベルへの目覚めや変容の妨げとなり得る、どのような思考の頑固さも進んで手放し、そうする準備ができているように、あなたはいかなる時も常に求められています。セラピス・ベイは言っています。「愛する光の探求者よ、光は真実です。そして真実は光です。それは分けることのできないものです。光を手に入れるためには、真実を手に入れなければなりません。そして真実を手に入れるためには、すべての執着から自由にならねばならないのです」。

   自分自身が執着するどのようなものも、自らのマスター性と覚醒へのプロセスを妨げる可能性があります。それはもしあなたが、自分を引き止めるいかなる関係にも執着するならば、そして真実と手放すことを認めたくないなら、あなたは引き戻されることになるでしょう。

   健康で光を受け入れるために体が肉を必要とすることになっても、肉を食べるのは間違いだと信じて固執するならば、自分自身の目覚めを制限してしまうことになるでしょう。体の遺伝的問題の改善のためにしばらく生(なま)の食物を摂る必要が起きてきても、食べたいものは何でも食べるほうが病気を治せると信じるなら、改善しないでしょう。このようにほとんどすべてのことに、適切な時と場所があるのです。つまり霊的に正当とされるあなたの頑固さですら、やはり頑固さそのものなのです。

   だからといって、私はあなたが性急に過激に自分の思い込みに挑んだり、食事や関係性を変えることを提案しているわけではありません。そうではなく私たちはどんなときでも、それを進んで行なう準備ができているかどうかが、神聖な真実とつながることを決めてしまうということです。あなたの道の次なる一歩が聖なる結婚であるのに、独身でいるべきだと信じているとしたら、さらに成長できるあなたにとって正当な選択を放棄することになります。

   あなた方のなかには毎日、心を鎮めて瞑想の訓練をする必要のある人もいます。それは有益なことであり、次々と新しい集まりに参加したり、新しい本を読むことにエネルギーを浪費するのをやめさせます。また長年行なってきた決まりきったヨガや瞑想を超えて、視野を広げる必要がある人もいます。聖なるタントラ的な(異性の)関係を約束する必要がある人もいれば、独身のまま、色欲や誘惑という自分の古い性的パターンを浄化する必要のある人もいます。

   光と真実は常に流れのうちにあり、常に変化し広がっています。
   自分がいつ流れの中におり、いつ頑固で執着しているかに気づくことが大切です。安全だと感じ、予測できることのなかに安住するのをやめた時、真実への目覚めという高次の予測を受け入れることができます。


       AFFINITY  Reclaiming the Divine Flow of Creation
    book『プレアデス 神聖なる流れに還る』 アモラ・クァン・イン著
                   ナチュラルスピリット


                          抜粋
   

 

・毎日の生活こそが最終イニシエーション

  感覚が鋭い人は、”闇の存在”が侵入してきたり、ネガティブな現実を作り出そうとするのを感じたことがあるかもしれません。ですが、そのような存在たちが送ってくる波動に反応し、呼応するものがこちらの側になければ、彼らは私たちに接触することはできないという事実を認識する必要があります。つまりそれらは、私たちがつくりあげたものであり、エゴの歪んだ想像の産物でしかないからです。。闇の存在を怖れていると、エゴの迷妄とそれらがつくり出す体験に力を与えてしまうことになります。

   光は永遠であり、光は真実です。光より強いものはありません。
   光は闇よりも絶対的に強力なのです。闇とは幻想から生み出されたものであり、私たちはそうした幻想を超越する必要があります。闇を怖れることなく幻想をとりはらい、それにまつわる思い込みを全て一掃しましょう。内なる神と宇宙の法則を深く信頼すればするほど、あなたは損なわれることも傷つくこともなくなっていきます。

   闇のエネルギーは、あなたが信じることによって力を持つようになります。
   思い込みを超越し、あらゆる闇の向こうにある真実だけを見て信頼することを学ばなくてはなりません。以下は聖母マリアからのメッセージです。現実への新しい見方ができるように、そしてあなたにとって最高の自己となれるように手助けしてくれるでしょう。


   『私の息子として知られるイエスとともに、私がエジプトで死と復活のイニシエーションを体験した時の話をしましょう。私たちは最終イニシエーションに臨むためにエジプト神殿を訪れました。それは地下の小部屋にある封印された石棺の中で行なわれます。イニシエーションの前に、アモラの本『プレアデス 人類と惑星の物語』(太陽出版)にあるように、ワニの島を横断して死の部屋まで行かねばなりませんでした。

   そこは死と復活の間(ま)で、仏教では”バルド”あるいは7つの地獄”と言われるものの入り口を内包しており、エジプトでは「7つのエゴの死」と呼ばれていました。イニシエーションの志願者がその小部屋の石棺へ入ると、棺が封印されます。その時、私は即座に回転しながら地中深くへ、地獄の門が存在する”アメンティの空間”へと引き込まれていくのを感じました。

   あなた方もすでに知っていると思いますが、今日聖書で”地獄”と言われているものはまったく誤解されています。それはあたかも怖ろしい神か何かによって審きが行なわれ、罪を罰せられる場所であるかのように見なされていますが、それは正しくありません。なぜなら地獄やバルドや「7つのエゴの死」などと呼ばれる世界とは、どれも意識の領域に過ぎないからです。

   そこでは自分の霊的成長の度合いに応じて、忘却と目覚めのプロセスを通過しますが、その過程で罠(わな)にはまるのです。そうしたバルドの世界で出会うものはすべて幻影であり、それらはすべて、今の自分の人生や過去世における自分のエゴの思考によってつくりだされたものです。自らのマスター性への道を歩むとき、人は誰もが自分の陥りやすい誘惑のすべてに直面することになります。

   エゴの誘惑は、力への欲望であったり、責任を回避しようとする無力感からくるものであったりします。そこではレイプや近親相姦や、残虐な死の犠牲となった悲惨な自分であれ、レイプや殺人を犯した過去の怖ろしい自分であれ、魂の中に恐怖が残っているかぎり、自らが地獄をつくり出してしまうことになります。なぜならそうした恐怖を抱えていること自体が、自分が殺人者あるいはその犠牲者になるかもしれないわけで、その恐怖に力を与えてさらに生きながらえさせてしまうからです。

   ですが自分がもう二度と、ネガティブなエゴの衝動に屈しないこと、それが自分の真実ではないこと、自分に恥じるものはもう何も無いことを確信して恐怖に正面から向き合う時、人は負の感情から解放されて変容がもたらされます。つまり、もはや自分が害を及ぼす行為をする可能性や、そうしたことの犠牲者だと信じ込む可能性も乗り越えたことがわかり、真の本来の力が戻ってくるのです。当然、それらを通過できるほどに霊的に進化していないならば、このようなバルドの試練を体験し、自分の7つのエゴに直面することもないでしょう。

   しかし真に自らのマスター性の道を究めていくと、最終的には必ず、このイニシエーションに遭遇することになります。そして偽りの自己を超えて、罪悪感や恥、恐れ、耽溺(たんでき)や嗜癖(しへき)やその他の罠から解き放たれたとき、もはやそれは試練ではなくなります。

   イエスが18歳になった時、私たちは一緒に死と復活の間(ま)へ入って行きました。
   いくつもの部屋で次々と出会うエゴの誘惑、つまり決めつけや恐れ、恥、逃避などにほんのわずかでも屈服することは許されません。もしも苦しみや誘惑的な場面に少しでも反応したり後ずさりしたならば、肉体にはもう戻れず、私たちはイニシエーションが終了した時点で死体となって発見されていたでしょう。

   そこでは部屋そのものがポータルすなわち門であり、そこを通って私たちは地獄の世界に向かいます。そうしたバルドの世界から出てくるには、そこで体験することを信じたり反応することなく、その向こうへと通り抜けなければならないのです。あと戻りすることはできません。もし私たちが目前に見えるものに捉われて、それと同化してしまったならば、そこで罠に囚えられたまま、偽りのの自己やすべての感情的および精神的な反応から脱するまで、脱け出すことはできなかったでしょう。アモラ、あなたも何か話したいことがあるようですね』


   聖母マリアのすすめなので、少しチャネリングを中断して私がお話します。
   以前、『奇蹟の輝き』という映画(タイトルは What Dreams May Come 1998年公開のアメリカ映画。 リチャード・マシスンの小説が映画化されたもの)がありました。それを観た時、周囲の地獄のシーンに激しい嫌悪を催す人もいましたが、私は畏敬の念に打たれてスクリーンに見入ってしまいました。その映画は、どのようにしてバルドを通過するかを描くために製作されたとしか思えず、非常に驚かされました。地球が大災害に見舞われ、大変な恐怖とパニックに襲われて死者が溢れたとしても、そのアストラル界へ行かないですむ方法をその映画は示していました。

   その方法とは、ただ恐怖を信じないということだけだったのです。
   それが映画で演じられていたのですが、これは何と今の時代にふさわしいものでしょうか。どんなに最悪の情況であれ、ただ目前のものを見て、「これは本当ではない」と言うだけでいいのだと人々に知らせ、準備をさせてくれたのです。つまりどんなに怖ろしい情況にあっても、その恐怖を信じず、それに自分を同一化しないというシンプルな意志さえあれば、私たちはそれを乗り越え、通り抜けることができます。これは今の時代にとてもよい実例なので、聖母マリアは私に話すよう促したのです。 再び、聖母マリアが語ります。


毎日の生活こそがイニシエーション(学びと訓練)

   『あなた方にこれをお話するのは、あなたの毎日の生活こそが、この最終イニシエーションのための絶え間ない準備のプロセスだからです。それはたとえ「イニシエーション」や「バルドの試練」という言葉を知らない人でさえ、誰もがみなその準備段階にいるということです。苦しみのなかにいるとき、それはあなた自身がつくりあげた地獄に呑み込まれています。その地獄とは、あなたが反発したり怖れたりしている誰か他人の地獄であるかもしれません。ですが他の人々の地獄に反応することで同化し、あなたも一緒にその地獄に入り込んでしまうのです。

   つまり、地獄の世界は、完全にみんなの合意による共同創造であり、集合意識で成り立っているのです。テーブルの上の花を赤だと見るのもみんなの合意です。こうして色の見方で合意しているように、あなた方はこの世界を危険なところだと見なすことでも合意しています。

   しかしあなたは、見方を選ぶことができます。
   この世界を聖なる真実と相対的な真実、そして幻想とは何であるかを学ぶ場所だと見ることもできるのです。聖なる真実こそが究極のものであれば、最終的にはそれが至高の座につくでしょう。意識があらゆる可能性を探求し尽したとき、意識は内なる故郷へ還ります。執着のない愛を知り、過去の痛みの体験を違うあり方で新しく体験したとき、痛みがなくなっていることに気づくのです。そのとき、あなたは内なる故郷にいます。

   バルドの試練、つまり最終イニシエーションを通じて、あなたは自分自身を自らのマスターとして完全に信頼できるようになります。そのときあなたは、自分のあらゆる欲求を超越し、あなたと”すべてなるもの”との結びつきのほかに何一つ極める必要がなくなっているでしょう。

   ですからあなたの日々の生活を、常にこのような観点からとらえ、バルドの試練期間として過ごしてください。こうして毎日の生活のなかで準備をしながら、愛と受容という大いなる喜びの場へと戻って来るまで、あなたの意識がどれほど長い間痛みや耽溺という幻想の中に留まっていたかに思いをはせてください。しかもそれこそが、真の自由にいたるための素材であり、真の自己への信頼と自分への尊重を生み出すために必要なプロセスでもあったのです。たとえどこにいようともあなたの内なる世界のあるところ、そこがあなたの故郷です。ナマステ』



         Oneness
           book『ワンネスを生きる』 アモラ・クァン・イン著 太陽出版


                           抜粋
   

   
  

・7つの光線を統合する

   あなたは自分を愛していますか?
   ですが、これはなんと誤解されやすい質問でしょうか! ずい分前のことですが、私は次々とリーディング(チャネリングメッセージ)を受けており、そのたびに「もっと自分を愛しなさい」と言われ続けていました。いい加減その言葉にうんざりしていた頃、またしても同じことをセッションで言われて、思わず頭にきて「どうしてみんな自分を愛せとばかり言うの? どうやって愛せばいいかわからないのに、誰も教えてくれないじゃない?」と言い返したのでした。その時私はとても頭にきていたのです。

   そこで学んだのは、誰にも自分自身の愛し方は教えられないということでした。自分だけが、自分を愛するという決意によってその方法を学ぶことができるからです。私たちは誰もが、自分自身で自分を愛するということに取り組まなければなりません。

   ガイドたちはここ数年来、「自分のすべてを愛する必要がある」と言い続けています。それは自分の中の批判的でどんな否定的な声であれ、他人を苦しめ、殺人者であった過去世であれ、傷ついて赤ん坊のように泣き叫んでいる自分や、悲しんでひどく落ち込んでいる自分、うつの自分であれ、ありとあらゆる自分を愛することなのです。その部分を無条件に受け入れて愛せるようになるまで、あきらめずに続けてください。それは必ずできます。

   愛は現実に存在する、もっとも可能性に満ちた癒しのエネルギーです。
   たとえあなた自身がその部分を嫌っていても、愛はすべてを癒してくれます。ですからその嫌いな部分に闘いを挑んだり、変えようと頑張ったりする必要はありません。ただその部分を思いやりと愛のまなざしで見つめてください。そうすると少しずつ変化し始め、やがてあなた自身の一部として統合されていきます。あなたの好きになれない部分を、一つずつ愛するように練習をしてください。後から自己愛がやってきます。

   ”すべてなるもの”と一つになるという目的に達するためには、自分のすべて、自分の人生のすべてを愛することを学ばなくてはなりません。自己否定をきれいに取り払い、あなた自身ともっともっと”一つ”になってください。あなたのどのような部分も疎外することなく、あなた自身に統合してください。ほかのことはみな、後からついて来るでしょう。

7つの光線を統合する

   男性性と女性性という対等なバランスを生きる時、それを導いてくれる「七色光線の聖なるカップル」という特別なグループが存在します。つまり、七色の光線それぞれに男女の両側面があり、独特の美しい色のエネルギーによって、地球とそこに住む住人を支えてくれているのです。その七色とは、すみれ色、青、緑、ゴールデンイエロー、オレンジ色、赤、白です。どの光線もユニークなエネルギーで、私たちの霊的な進化と成長を促しています。私たちは誰もが生まれつき、特定の光線を保持していますが、ワンネス(すべてなるもの)に還る道において、これらの光線のすべてを自分に統合する必要があります。

   それぞれの光線の性質を簡単に見て見ましょう。
   すみれ色の第7光線は、自由と自立の光です。それは「世界」と「個人」というエゴの幻想から、私たちの真の自己を解放してくれます。

   青い色の第1光線は、力と意志の光です。
   力と意志は内なる存在からやってくるものです。

   緑の第5光線は、真実の光です。
   それは永遠に変わることのない聖なる真実を復活させます。ここはエゴの幻想が終わった時最初にゴールするところですが、そのためには真実と幻想の違いを深く知っていなければなりません。

   ゴールデンイエローの第3光線は、叡智とバランスの光です。
   学びと成長は叡智につながり、それは静寂とバランスにおいて実現します。

   オレンジ色の第6光線は、無私の創造の光です。
   この光線のテーマは、私たちが思い描くことや、自分とこの世界に誕生させるものについてです。

   赤の第3光線は、私心なく与える光です。
   他のために生きる姿勢や、進んで貢献する行為も含まれます。

   白の第4光線は、純粋さと高次の法則です。
   宇宙の法則は究極のゴールです。

   これらの7つの光線は、内なる統合であるマスター性の7つの要素を表わしています。私たちは自らの主になること、すなわちマスター性を体現するために地球に生まれてきました。それは地球を救済する集合意識のようなものでもあります。すでにこうした意識に達している存在は大勢おり、聖ジャーメインやジュワル・クール、セラピス・ベイ、マグダラのマリア、聖母マリア、イエス、エル・モリヤなどもそうです。

   彼らはみな、地上で肉体に生きている間にその意識に至りました。
   あなたも今地上にいながら、その意識を体現するとき、彼らの一員となり、ワンネスを生きることになるでしょう。生まれたときに持っている光線は、一生を通じてあなたの中心的表現ですが、内なるマスター性という意識にゴールするためには、7つのすべての光線のエネルギーを自分に統合している必要があります。

   たとえば第1光線の青の力と意志のエネルギーを持つためには、それと同時に自由と自立、真実、叡智とバランス、無私の創造性、私心のない貢献、純粋さと高次の法則という光の資質のすべてを身につけていなければなりません。たとえ部分的にでもその資質がないならば、青い光線の聖なる力と意志を得ることは困難でしょう。7色光線のエネルギーは、すべての相乗作用によってその効果が最大限に発揮されるのです。

観音(かんのん)と弥勒(みろく)のすみれ色の光線

   観音(かんのん)と弥勒(みろく)は、すみれ色の光線を司っています。
   彼らはともにこの光線の、女性エネルギーと男性エネルギーの両側面の守護者として働いています。彼らからのメッセージです。
   「私たちは対等で、しかもそれぞれが独自の存在です。私たちの自由は無条件であり、その自由にはほんのわずかの犠牲も妥協もありません。そして本当の自由とは、あなた自身が真実で正しいと知っていること以外の何ものにも縛られないということです」

イエス・キリストとマグダラのマリアの青い光線

   イエス・キリストとマグダラのマリアは青い光線をつかさどっています。
   彼らからのメッセージです。
   「力と意志を育てていく過程で、あなた方は常に本当の力と意志とは何なのかを見直すことになるでしょう。私たちが保持している力と意志はゆだねるエネルギーであり、力と意志を他の人々に対して行使することはありません。他者による不適切な力と意志の行使に対しては、洞察力を用いることが大切です。

   力を持つことは深く自己を知ることでもあります。どのような状況においても、常に自分が正しい選択をすると信頼できるようになるまで、真の聖なる力を身につけることはできません。そうした力により、あなたは他者の人生を侵すことなく自分の人生の手綱をとり、人生のすべてを自ら選べるようになります。他者の自由意志を尊重することは、聖なる力への第1歩です。こうして自分の意志を常に無私のやり方で、行動したり創造するために使うようになるでしょう」

ターラとチェン・レイシの緑の光線

   ターラとチェン・レイシは緑の光線をつかさどっています。
   「何が真実で何が幻想なのか、あなた自身の内なる知を信頼できるよう助言しましょう。内なる知とは、かぎりなく静かな自己の中心からやってきます。自分の考えていることが真実か幻想かを知りたいとき、あなたの内なる中心の深みへと入ってください。どう感じるでしょうか? もし収縮感や引き戻される感じがあれば、それは幻想です。ですが広がっていく感覚や呼吸の深まりを感じたなら、それは真実です。絶対的な真実は永遠に変わりません。つまり、変化する現実は絶対的な現実ではなく、一時的なものにすぎないということです。

   他人にも自分にも、つねに真実を語るための探求をお手伝いしましょう。
   多くの人々が、周りに受け入れられるために自分の真実を引っ込めてしまいます。つまり他の人の反応を気にして、自分の真実を語ることを怖れているからです。しかし真に霊的な人はいつでも真実を話し、他者の反応を気にしません。人々に通じるかどうかに関係なく自分の真実を語ることは、人々への素晴らしい贈り物です。理解できない人には思いやりを持ち、やがてその人も真実を理解して進化していくようになることを信頼してください。なぜならすべての人が、やがてそうなるからです」

ホワイトバッファロー・カーフ・ウーマンとハイアワサの赤の光線

   ホワイトバッファロー・カーフ・ウーマンは赤の女性性の役割から次のように語ります。
   「私たちは互いに”すべてなるもの”の美しさを讃えあうことを学ばなければなりません。この地球も、物質的な財産もすべて、人間よりも長く生きることを思い出してください。そうであるのに、どうしてそれらを人間が占有できるでしょうか。食料も住まいも、衣服も暖房器具もすべて、みな地球から贈り物としていっとき借り受けているだけなのです。

   謙虚であるには、自分がそれらを創造したのではないと深く知って生きることが求められます。それらは地球からの贈り物なのです。その恩恵にあずかるときはいつでも、あなたに必要なものを授けてくれた地球と”すべてなるもの”の神と女神に感謝してください」 

   赤い光線の男性性エネルギーのハイアワサが語ります。
   「人類が地球の所有者であるかのように見なすことは、とんでもないエゴの幻想です。私たちは地球をいつくしむ世話人なのです。地球にはすべての人々の必要を満たすだけの充分な豊かさがあります。ですがその住人たちは欲と所有欲から社会を動かしています。究極的にそこが変わらなければ、再び人類が地球と調和することはできません。

   母なる地球を汚すような製品は使用を中止すべきです。あらゆるプラスチック製品、化石燃料、香料や合成洗剤などの使用はどれもみな、地球を損なう原因になっています。地球にこれ以上そうしたごみを投棄したり、それらの大量の廃水を流してはいけません。地球とともに自然な生き方をし、あらゆる方法で地球を愛し守ってください」

シャクティとオシリスの白い光線

   シャクティは白い光線を司る聖なる女性性です。
   「あなた方は3次元に生きることで記憶を失い、再び思い出すことを選択しました。そうしてさまざまな体験をしてそこから学び成長することを選んだのです。あなた方の中には、そうした体験から自分の純粋さを失ってしまったと思い込んでいる人がいます。ですがそれは違います。暴力的な虐待や性的虐待を受けたことで、自分の純粋さが損なわれたと感じているかもしれませんが、それは真実ではありません。

   あなたはその傷を癒すことでそこから学ぶ力を持っています。たとえ過去世で人を殺したり、黒魔術に関わったことがあるとしても、その体験が次にそれを乗り越える力を与え、二度とそうしたことを繰り返させない人生を歩ませることになったのです。その理由は、あなたの魂と存在の核はずっと純粋だからです」 

   オシリスは白い光線の男性性として、彼の物語を聞かせてくれます。
   「地上には、私の身体が切り刻まれて世界中にばら撒かれたという神話があります。それを知った私の妻はその断片を探し集め、元通りにしようとしましたが、一つの断片だけは見つからず、その最後の部分だけは私自身が見つけなければなりませんでした。それができるのは自分だけだったのです。この神話はとても象徴的です。それは私たちが地上にやって来たときにエゴが生まれ、真の自己を切り刻んでしまったことを意味しています。

   細分化された断片とは、真の自己が解体されたということです。
   ですから再び真の自己を見出すためには、数多くの人生体験をくぐり抜け、知識と理解を得て養わなくてはなりません。ですが人はただ人生を送るだけでは飽き足らなくなり、絶対的な真実を求めて霊的な歩みへ入っていくのです。探求の道は、肉体である自分と高次の自己を、再び一つに出会わせるようあなたを導きます。その最終段階において、完璧で純粋さを失うことのない真の自己というマスターの領域に達します。こうして私たちは自分のすべての部分を一つに統合し、ワンネスに還っていくのです」

   これらの資質はどれも、本来私たちに備わっているものです。
   この7つの光線のすべての資質を取り戻したとき、私たちは”すべてなるもの”とのつながりを回復します。ですが本当はつながりを失ったことなど一度もなかったのです。それはただ一時的に、自分で見えなくしていたにすぎません。


         Oneness
         book『ワンネスを生きる』 アモラ・クァン・イン著 太陽出版


                           抜粋

 

・内なる迷宮  ③

   4日目の午後、細いモデルのような体型の女性が前に出た。
   だが、そのしゃべっている言葉はすべて彼女の頭から出ていた。頭からの言葉は頭にしか伝わらない。ハートから出てくる言葉や、その人の存在そのものから出る言葉は、聞く側のハートや存在に呼応する。私にもそれがわかり、感じられるようになっていた。そして、私にそう感じられるということは、全員がそう感じているということだ。グループになって行なうセラピーの意味はここにある。参加者全員が鏡になって互いを反映し合い、強烈なミラーリング(相手の映し出し)が起こるのだ。

   モデルは、OSHOのムンバイ時代に入門した古い弟子だった。
   そのことに優越感を持っているらしい。その優越感のほうが、彼女がしきりに訴えている内面的問題よりも明瞭に伝わってくる。ダセンはとうに寝っころがり、あの優しいデヴァダシですら膝小僧を抱えて頭を乗せてしまった。プリヤは我慢できなくなったのか、モデルの近くで彼女の真似をしている。誰もがげんなりしていた。ティアサはといえば、さっきからモデルの話にも他の者の反応にも関心を見せず、じっと輪のなかの1人に注目していた。それはブルーだった。

   ブルーは、明日の夜行なわれるこのグループのためのダルシャンで、OSHOの門下に入ることになっている。これまで時折、こわごわ発言していたが、私が受けたようなそれほど厳しい扱いは受けていない。ブルーは何とかグループに入り込もうと努力しているが、怖がっているのが分かる。そのブルーが凶暴な感じの目をして落ち着かない。だが、輪の真ん中に出て行く勇気もチャンスも掴めないようだ。ブルーも誰かがすでに輪の真ん中にいたら、あえてそれをさえぎってまで出ていくことはできず、彼も自らの礼節に邪魔されているようだった。

   突如、ティアサがブルーに言った。「動け!」
   その瞬間、ブルーがつんのめるようにして前に進み、輪のなかにいるモデルの前に立ち、「おまえの嫌らしいスピーチなんか聞きたくない!」と金切り声を上げた。次にダセンの前に行き、「大嫌いだ!、おまえなんか大嫌いだ!」と喚いた。ダセンは素早く起き上がったが、ブルーはすでにボーディを指さして叫んだ。「気に入らない! おまえはほんとに気に入らない! もったいぶって何でもわかったような顔しやがって!」 ボーディは目を丸くした。ブルーの次の攻撃はダニーだった。「おまえみたいなバカなニヤけたイタ公は、OSHOの弟子になる資格はない!」ダニーも明日入門する予定だった。

   ティアサから「キラーがいる」と言われたキラーは、「おまえは残酷だ、臆病な癖して残酷なゲス野郎だ!」とブルーから言われ、顔色を変えて立ち上がった。ティアサの「座っていろ!」という声がかからなかったら、キラーはブルーに飛びかかっていただろう。ブルーはティアサの声を聞くと、自分に言われたと勘違いしたのか座り込み、肩で大きく息をしていたが崩れるように泣き出した。私たち全員はあっけにとられていた。

   ブルーのこの突然の爆発の真意を読めたのは、ティアサだけだった。
   ティアサはしばらくブルーの泣くままにさせておいたが、ティッシュで鼻をかみ始めたブルーに鋭く言った。「自分をごまかしても何の得にもならない。きみは何を怖れている?」 体を硬くして顔を上げたブルーに、ティアサが言った。「誰なんだ? このなかできみが一番怖れているのは? きみが罵声を上げて自分をごまかそうとしたほど避けたいのは誰なんだ? 誰がきみの最大の恐怖の元を思い起こさせるのか?」

   ティアサはアニケッタのほうを向き、「ちょっと前に出てくれないか」と言った。
   それを聞いたブルーは「おぉ、ノー」と小声で言って下を向いてしまった。アニケッタはブルーが攻撃しなかった唯一の男性だ。ティアサは彼をブルーの前に座らせた。ブルーは途方にくれた半泣き顔になり、アニケッタもどうしていいのか判らない。しばらく何も起こらず、居心地の悪い時間が過ぎた。

   不意にアニケッタがブルーに訊いた。「私と闘いたいか?」
   アニケッタは立って綿バットを2本取って来て、1本をブルーに渡そうとした時、ブルーが猛烈な勢いでアニケッタに飛びかかった。倒れたアニケッタにブルーはなおも殴りかかる。アニケッタが怯(ひる)んだのは一瞬で、すぐにブルーの手首を掴むと、その脚をはらった。組み合った2人にティアサはストップをかけ、改めて綿バットを持たせた。闘いは明らかに20歳近く年上のアニケッタが余裕だ。ブルーがうつぶせに倒れこみ、闘いはあっけなく終わった。

   アニケッタに助けられて起き上がったブルーに、ティアサはそっけない口調で言った、「きみはまだ逃げているし、避けている。何が怖い?」ブルーは意外に落ち着いた声で、「父親です。自分の中の父親です。父は外では臆病なのに、家では母をバカにして殴り、ぼくには怒鳴り声で威張りちらしていた。殺したいくらいだった。自分の中にまだアイツがいるんです」「きみのその闘いは長く続くよ」とティアサはブルーに言い、みんなを見回して言った。

   「このグループルームで何かに気づき、それを表現したからといって、それで自分が簡単に変容できると思ったら間違いだ。グループはきっかけに過ぎない。大事なことはOSHOの言う”常に気づいている”ことだ。変容をもたらし、成長をもたらすのはそれ以外にはない」

   アニケッタは「ところでぼくは君のお父さんにそんなに似ているの?」とブルーを見た。
   ブルーは依然目を合わせず、困ったように言った、「雰囲気は違うけど、まゆ毛と髪型が似てるって最初から思っていた」 アニケッタは少し躊躇したが、両腕を伸ばしてブルーを抱き締めた。ブルーが身を硬くしたのがわかったが、ぎこちなくアニケッタの背に手をやって眼を閉じた。何となく1人2人と全員が黙って2人を囲んで触れあい、抱き合っていた。

   2人の周りに集まった私たちはまたゆっくり、元の席に戻り始めた。
   私も壁寄りのいつもの席に向かっていたが、先に戻っていたダセンが相変わらずの姿勢で両足を伸ばしていた。その脚をまたごうとした時、私は不意にわざと彼の脚を踏みつけた。なぜそんなことをしたのかわからないが、意志より先に体が勝手に動いた感じだった。私の中のもう1人の自分がダセンを挑発したかったのか。だとすればバカなことをしたものだ。彼が人1倍短気なのはもうグループの誰もが知っている。

   案の定ダセンは「何をする!」といきり立って声を上げ、私の足首をぐいと掴んだ。
   すると私は自分でも驚いたことに、謝る代わりに掴まれた足首を強く払いのけた。と、その拍子に彼を蹴飛ばしてしまった。ダセンは怒声をあげて飛び起きた。私は腰を落とし、膝を曲げ、彼の顔から眼を離さずに後ずさりし、腕を脇から離すと典型的なけんかの格好をしていた。「あんたと闘いたい」 私はダセンの釣り上がった眼を見ながら挑戦した。

   誰かが後ろから、おなじみの綿バットを私の足元に投げてよこした。
   ダセンは躊躇していたが、ボーディが「蹴っ飛ばされて何もしないのかよ」と挑発し、私は綿バットの1本を彼の足先にほおった。ダセンがそれを拾おうとかがんだ時、私はその背中に綿バットを一発思い切り打ち下ろした。「卑怯だ!」という声や拍手や、「いいぞ、いいぞ、その調子だ!」というかけ声がかかったりして、みんなも突然の闘争劇に乗ってきた。私は油断なくダセンの動きを見ながら、彼の綿バットをかわす体勢をとる。嬉しくて楽しくて興奮していた。こんなこと、1度でいいからやりたかった。

   私は不恰好に何回か打ち込んで外し、ダセンは打ち込む回数は少ないが確実に私の体に当てている。こっちはこんなこと初めてなんだ、あっちほど慣れてないんだ、それにこっちはずっと体だって小さいんだから対等にやればかなわない。そう思ったとき、私はバットを放り出すと両腕でダセンの脚をすくった。ダセンは音を立てて仰向けに倒れた。が、すぐ起き上がり、「おまえ、やるな」と半分笑ったような罵声を吐き、自分もバットを捨てた。ダセンは私の肩を掴んで倒し、半ば馬乗り状態で私をぐいぐい押さえ込む。私は両手でダセンを叩いたり引っ掻こうとするが効果はない。

   そのとき何かの弾みで私の手がダセンの頭に触れた。
   私は即、彼の髪の毛を掴んで強く引っ張った。「このメス犬っ!」ダセンは私に髪を引っ張られて上向いた姿勢のままで、左手を振り上げると私の顔を力いっぱい殴りつけた。その瞬間、ティアサの鋭い「ストップ」がかかった。「ダセン、きみは自分を失った。プレイであることを忘れた」 ダセンはうつむいて、私から離れた。殴られた一瞬、私は顔の右半分に火を浴びせられたような熱い激痛を感じた。だがダセンへは何の怒りも恨みも感じなかった。むしろ、兄弟げんかに勝ったのにかえって叱られた弟に対し、悪かったね、でも面白かったよという暗黙の共感だった。だがダセンはしばらくブスッとしていた。

   私はゆっくり起き上がり、疼いている頬を押さえ、這いながら席へ戻った。
   その時、這っている姿勢の私に背後からティアサの厳しい言葉が浴びせられた。「イメージを演じるな! きみはまだまだ闘えるくせに、殴られて痛めつけられた役を演じている。何のためにそんな条件づけに縛られているのかよく考えてみろ!」

私の興奮はあっというまに消えた。席に戻った私はティアサのほうを向き、「そうです。私にはまだ充分にエネルギーがあります。這う必要はなかった。なぜ無意識にそんな格好をとったのか考えたいです。あなたが言った"演じる”ということを」

   それは殴られた右頬の痛みより痛かった。
   だが今度は、私はその痛みを直視することができた。ティアサのこの時の言葉は、私の眼の前の窓を大きく開けてくれた。それにより、OSHOや賢者たちが繰り返し言い続けた”気づき”ということが、実感をもって解った気がした。確かに日本という男性社会の「こうあらねばならない、こうあってはならない」の洪水のなかで生まれて生き延びるためには、人間的な怒りは抑圧して、状況に合った役割を演じるのが自己防衛だった。私はそれを明確に認識してはいなかったが、自然なままの自分でいると受ける攻撃から逃れるため、その状況に相応しい自分を演じているうちに、グルジェフの言う機械人間そのままにロボットのように無意識に演じている。

   そして、這って戻ろうとしたのは、そのつくられたイメージのロボット的表現だった。
   ダセンに殴られ、実際は殴り返すくらいの強さがあったのに、私は自分の持つイメージを表現する弱い女を演じた。そのイメージは日本社会では通用するかたちであっても、その瞬間の私の真実ではなかった。こうした役割やイメージを無意識に演じることは、誰にも起きていることで、それは繰り返すことで身につけていく防具であり、人工皮膚のようなものであるが、同時に自己幻想でもある。

   それは日常の世界では意識されにくいことから、私たちは自らつくり上げたイメージや幻想を自分自身と間違えてしまう。結果、自分はこういう人間だとイメージしてしまい、そのシナリオ通りに演じようとする愚かさが、周囲に合わせて自分を創作し、本来の自分を抑圧してしまうことになる。

   本来の自分と向き合うことから始めないで、何かを真に知ることはできるはずがない。
   どんなにくだらない、あるいは素晴らしい自分であっても、ロボットや夢遊病者ではなく、演じるだけの役者にならずに”気づいて”自分を見ていることなのだ。

   その日の夕方、ティアサが私を指さしておかしそうに笑った。
   「見てよみんな。この間まで木のお面のようだった顔が、ダセンのおかげであんなに活き活き輝いている」 夜、部屋で鏡を見ると、右眼の周りが青黒くなっていた。

   ここまでのことは、グループの中で起きたほんの一部に過ぎない。
   実際にはもっと多様で多くの情況が生まれ、進展し、新しい自分や他者と出会っていった。6日目には、半日がかりだったが、キラー攻撃と防御のパターンが崩れた。父親に殴られ蹴られて育った幼児期の計り知れないほど深い傷を、彼は大声で泣きながら私たちにさらしてくれた。そしてグループは彼をそのまま受け入れ、抱擁した。

   ダセンは最後の2日は一度もカッとしなかった。ブルーが昼休み、1人で楽しそうに歌いながら踊っていた。ボーディが大の字になり、このグループはいいけど滅茶くたびれるとぼやいていた。デヴァダシの斜視は、なぜか私と向かい合う時だけは正常に戻った。

   最終日の夕方、ティアサはダセンに頼んでバケツ一杯の水を持って来させ、部屋の真ん中に置かせた。「このグループの間、感じた恨みや怒り、苛立ち、その他どんな否定的な思いでも、たとえわずかでも残っていたらこの水のなかに捨てていきなさい」 ティアサは言い、みんな順ぐりに立ってバケツにぶちまけた。ぶつぶつ小声で捨てる人もいれば、絶叫型もいた。私は、「アニケッタとブルーそしてモデルと美女は東洋人に固定観念を持っていて、私そのものでなく、日本女を見ているのが煩わしい」と言った。(アニケッタは後で謝りに来た)

   みんなの恨みが出尽くしたところで、ティアサは再びダセンに命じて水をトイレに捨てて来るよう言った。慎重にバケツを運ぶダセンにみんなから、「一滴でもかかると、みんなの毒を全部もらっちゃうぞ!」などと声が次々かかった。ダセンとバケツはゆっくりドアの向こうに消えた。初めてのグループはこうして終わった。


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     book『インナーラビリンス』 ナルタン(日家ふじ子) メルクマール


                     抜粋 

・内なる迷宮  ②

   ティアサに「頭でっかちの自惚れ屋」と言われたときのあの痛み。
   きっとそれが真実だったからあれほど痛かったのに違いない。口惜しいがその通りだ。真実は苦いどころじゃない、とんでもなく痛そうだ。OSHOがいつか講話で言っていた「わたしのここでの仕事は、まず第一におまえたちに麻酔なしの外科手術を施すことだ」という言葉の意味が、やっと実感を持って理解できた気がした。自分の中の余計なものを剥ぎ取らないかぎり、何も始まらないということなのだ。エンカウンター(出会いの意)とは、人との出会いだけでなく、自分との出会いも意味していたのだ。

   ドイツ人美女とアニケッタが、同時に皆の輪の真ん中に出ようとした。
   そこに出るということは、グループとティアサに助けられながら自分と出会いたい、その勇気があると意思表示することだ。2日目にしてようやく私にもそれが分かってきた。しかし私にはまだそんな勇気はなかった。

   アニケッタは美女に、お先にどうぞという仕草を手で示して引っ込んだ。
   すかさず、「イギリス紳士の拭いがたい条件づけ!」とボーディが揶揄(やゆ)を飛ばし、なごやかな笑いが起こった。ティアサの「何をしたい?」との問いに美女は、「ここの1人1人に自分の感じることを伝えたい」と言った。するとダセンが、「したければ始めればいいじゃん。先生さまの許可なんか取らずによ」と言い放ち、美女が「そうだね。でも私はいつも誰かからいいと承諾されないと不安になる。自分を信用していないのかも」と認めた。「かも?」とティアサ。「あ、私は自分を信用していません」と彼女はすぐに自分の曖昧さを訂正した。

   美女はまずダセンの前に行った。
   ダセンは投げ出していた脚を引っ込めようともしない。他者の言動に左右されない彼の在りさまに感心し、同時に反発した。そうして始まったやりとりだったが、内容は覚えていない。だがここでも、プリヤのときとは違ったかたちでホンモノしか通じなかった。それは気味悪いほどで、独りよがりの言葉や決まり文句だけでなく、真実味のない言葉や、普段の生活では流されてしまう些細なごまかしや曖昧さも、この空間の中では不思議なほどはっきり見えてしまう。私はますます怖くなった。

   美女が私の前に来た。
   私は何を言われるかと体を硬くしたが、すでにバカげた自己幻想はさすがになく、何を言われても耳を傾けるつもりだった。ところが信じられないことに、美女はちらと見ただけで、私を完全に無視して隣のダニーの前に行ってしまったのだ。初日のティアサの言葉による屈辱感や痛みは、それが自分の虚飾の一部だったと自ら認めたから何とか受け入れることができた。

   しかしこの侮辱はひど過ぎる。
   私のどこが気に入らないんだと、怒気とともに口まで出かかった言葉を、私はぐっと抑えた。つまらない礼節が邪魔をしたために、相手はもうダニーと話している。今こんなことを言ったら失礼だというわけだ。私は機を逃してしまった。今にも爆発しそうな怒りと屈辱感を抱え、私はじっと下を向いていた。もう何も聞こえなかった。体が熱く、怒りで小刻みに震えていた。

   美女が終わったらしい。
   私は意を決して顔を上げ、彼女を睨みつけると押し殺した声を出した。「なぜ私には何も言わなかったの?」 部屋中が私に注目した。グループが始まってから初めて口をきいたのだ。美女は不機嫌な表情で応えた。「あんたには何のエネルギーも感じないからよ」 それを聞いて私は思わず両手を握りしめた。が、口から出てきたのは「そう、なら仕方がない」だけで、口調すら変わっていなかった。

   その時ティアサが言った。「きみは怒りでたぎっているのに、クールな振りをしている」。それが合図だったかのように、からかいの洪水が襲いかかった。「何でここにいるの?」「その変なスカーフ、何のつもり?」「逃げ出せ、逃げ出せ!」「自分だけ精神的に高いと思ってるんだろ?」「感じたりしないの?」「もう無の境地にいるんだって」「感情が乏しいんだよ」「その顔はつくられたお面だよ」「抑圧のかたまりだ」「グループに何しに来たんだ?」等等々。

   言葉が私の頭上を飛び交っており、その間私はまばたきもせず体を硬くしたまま、仮死状態のようになってただ下を見ていた。後になってみれば、みんなはこうして注目し刺激することで、私が動き出すための後押しをしてくれていたのだ。しかしこの時の私は、長年慣れきった「緊急時感覚断絶」という防御パターンから脱出することはできなかった。私は頑なにこう言った。「誰も私を挑発することなんかできない」 すると輪のあちこちからブーイングが起こった。「こいつは絶望的なケースだ」ダセンが言っていた。

   3日目、少し遅れてグループルームに降りて行きながら、私はドロップアウト(抜ける)ことを考えていた。前の晩はほとんど寝ていない。なんでこんな目に遭わなきゃならないんだと、エゴが悲鳴を上げている。逃げ出そうか、仰るとおり東洋人にはグループは合いませんでしたとOSHOに言って、日々の安穏な生活に戻ろうか・・・。しかし何であれ、問題は東洋人云々(うんぬん)ではなく、私自身の問題だった。やはり自分からは逃げられないと自嘲し、私はあきらめて部屋へ入って行った。私が最後だったが、もう何かが始まっていた。

   ボーディが真ん中でうずくまって泣いている。
   そばにティアサがいる。私がそっとドア近くに座った時、ティアサはジロリと私を見て、低いが鋭い声で言った。「自分が何もできないのは構わないが、人の邪魔までするな! こんど遅れたら部屋に入ってこなくていい」 恥ずかしさで全身から血の気が失せ、私は凍りついた。真正面から竹刀で力いっぱい打ち据えられたような気がした。ひどいじゃないか! これまで他の人が遅れて入ってきても、何も言わなかったじゃないか! 怒りに恨みが混ざり、部屋の中は静かだったが、私の内側の嵐は昨日以上に荒れ狂っていた。

   ティアサはかなり長い間ボーディに付き添い、小声で呼吸や体の向きを指示したりしていた。誰も一言も発せず、じっと目前の2人を見つめて身動きもしない。部屋中に手に触れられそうな強いエネルギーが充満している。私も次第にそこへ引き込まれていった。だが自分の怒りに揺さぶられながらの中途半端な参加だった。ティアサが立ち上がり、ボーディを壁際へ誘導すると振り向いて言った。「女性の助けが欲しい。最愛の人に触れるつもりで彼に触れてあげなさい」 すぐデヴァダシと美女が立ち、ヴィーラ、プリヤ、モデルと続いた。

   私も体が半分立ちかけたが、それ以上は動かなかった。
   正直、人のヘルプどころではなかったのだ。私以外の女性は横たわったボーディをを囲み、優しく触れてなでている。男たちと私はそれを黙って見ていた。ダニーがかた言の日本語でポツリと言った。「ワタシモホシイ」 それを合図にたちまちブーイングが起こり、ダセンが私に挑発的に言った。「あんた、女じゃなかったの?」私はにらみ返しただけで何も言えなかった。その時ティアサがダセンを見ながら言った。「彼女は要らない」

   とうとう私のなかの何かが炸裂した。
   私は立ち上がると、男たちの見守る中、部屋の真ん中に出るとティアサの前に座った。だがティアサはニコリともせず、私のほうすら見向きもしない。「私の中には怒りがあります」私は思い切って言った。「何とかしなければならないと思う」 誰かがクスクス笑っている中、アニケッタが、「何をしたいの?」と聞いた。「この怒りを何とかコントロールしたい」と私は応えた。「ウエーッ」とあきれて転がったのはダセンのようだ。

   ティアサは唐突に立ち上がると、部屋の隅からテニスラケットとくたびれた枕を持って来て私の前に放り投げ、「コントロールだか何だか知らないが、何かしたいんだろう? これで枕を思い切り打ちのめしてみたらどうだ」 そう言うと私の手にラケットを押しこんだ。私はラケットを両手で握り、枕を打った。何回目かの時、ティアサがうんざりした声で言うのが聞こえた。「この御婦人は、枕の叩き方も知らないらしい」 だが誰も笑わなかった。ティアサはみんなに向かって言った。「少し早いがランチにしよう。午後は定時に始める」

   そして私を見て、「ほんとにグループで何かを得たいんなら、昼休みのあいだずっと枕を叩き続けるがいい」、そう冷たく言い放つと部屋を出て行った。私は顔を上げられず、泣きたくても涙も出ず、枕を見つめていた。ティアサに続いてみんな出て行ったが、互いに小声で話しても、誰も私に声をかけなかった。

   私はしばらく枕を見ていたが、今度は必死に大声を上げ、ラケットを後ろまで振りかぶると猛烈な勢いで枕を打ち始めた。コノヤロオー!、あのクソ親父ー!、あのバカオンナどもー!、バカバカバカバカー!・・・ 腕が痛くなりラケットを放した。部屋はひっそりとしていて、空調の音しか聞こえない。突然涙が溢れてきて、私はそれまで叩いていた枕にしがみつき、声を出して泣いた。だが泣くのには慣れていない。だから声を出してといってもシクシク泣く程度のことで、みじめな自分を思い、また起き上がってラケットを握った。あのやろうー! チクショー! コンチクショー!

   泣いたり打ったり、ボンヤリしたり、また打って泣いたりと、どのくらい時間が経っただろう。ラケットを持ってボンヤリしていた時だった。背後のドアが開いて誰かが入って来た。その瞬間私の内部で、あ、いけない、言われたことをしてないのを見つかっちゃう、という罪悪感が走り、私はあわててラケットを握りなおした。その時声がして、見るとダセンだった。

   「そんなことをして何になると思ってんの?」「だってやれって言われたから」「偉い人に言われたからやるのか? で、あんたはどうなのよ?」「どうって?」「あんたは枕打ちを、本当にやりたいのかどうかって聞いてんだよ」「やりたくない。こんなこと」「じゃ、やめろよ」「でも言われたんだもの、ティアサに」「いい加減にしろ!、このアホ女!」

   ダセンが大声で言ったその時、私は不意に、自分の中の深い条件漬けに気がついた。上の人に言われたことだから、やりたくないけど仕方ない・・・。言われたのにやってないところを人に見られた・・・、どう思われるだろう?・・・、見つかった罪悪感・・・。私は突然げらげら笑い出した。そうか、そうだったのか! いくら海外生活が長いと言ったって、若い頃にすでに染み込んでしまったものがたくさんあるんだ。

   ラケットを放り出し、私はくたくたの枕の上に乗っかると、「コノヤロ、コノヤロ、このやろめー♪、ばかばかしくてやってられねえよーっ ♪」と即席コノヤロ節を口づさみ、枕の上でぴょんぴょん跳ね、ダセンに言った。「わかったよ! ニホンジンだったんだ、わたし!」ダセンは「怒りはどうなっちゃったんだよ、コントロールしたい怒りは!」「どっか行っちゃったんじゃないの?」「勝手にしろ! ところでどうでもいいけど、その変なスカーフ何とか何ねえの?」「大きなお世話だろ! あんたのティアサトリップはもうたくさんだよ!」 私はそう言うなり、頭のスカーフをむしり取ると、ダセンに力いっぱい投げつけた。

   後ろの方でパチパチと何人かの手を叩く音がした。
   はっとして振り向くと、半数以上の者が戻って来ており、隠れて私たちのやり取りを見ていたようだ。驚いたことにティアサもおり、笑顔で壁にもたれていた。私はびっくりしてあんぐり口を開け、みなを見回した。その間抜けた顔つきがおかしかったのか、笑い声が起きた。こうしてまったく予期しないかたちで、私はグループのなかに入っていった。

   「今、どんな感じ?」とティアサがにこやかに訊いた。
   「あなたをひどく恨んで怒っていたのに、ずっとあった重苦しさがウソのようにありません。今は、自分が初めてここにいる感じです」 ティアサは、「日本人
は未経験だった。途中きみに逃げられるかなと思ったが、きみは言葉にも不自由していないし、かなり外国が長そうだから大丈夫だろうと思った」と言い、それを聞いた私は初めて、名うてのセラピストの冷徹なすごさを感じた。

   ティアサは長い間、東洋人に特に強い条件づけは、「面子(めんつ)と恥」、それに「上下関係」ではないかと思っていたという。だから今回、彼はあらゆる機会を捉えて私の面子(めんつ)を傷つけ毀すことをした。そうとは知らないはずなのに、周りのみんなも実にうまく手伝っていた。だが私は、感情を表現しないことで自分を守ろうとしていた。だが、この感情を表さないというのは、別に東洋人だけに限られた条件づけではなく、あらゆる文化に見られる抑圧だ。

   ティアサに次々と顔を潰され、私は怒りと恨みで爆発寸前だった。
   その結果、とうとう面子(めんつ)を捨てて前に出て来た私に、ティアサは最後のとどめを刺し、枕叩きを命じた。そうすることで私がどこまで、もう一つの条件づけを破れるかを試したのだった。

   だが、私のグループは今始まったばかりだ。
   ホンモノの自分に気づいていくために、まだ痛い皮を何枚も剥がされなくてはならないのだ。


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     book『インナーラビリンス』 ナルタン(日家ふじ子)  メルクマール


                           抜粋
   
   

・内なる迷宮  ①

   この物語は、私がOSHOという稀代(きだい)の導師の門下に入ってからの十数年間に、主にアシュラムと呼ばれる彼のインドの修行場で体験したエピソードのいくつかを回想したものです。おそらく私は、日本人としては最も近くで学び、直接指導を受けた弟子でしょう。この師は弟子に何かを強制することはまったくありませんでしたが、真摯に、無条件に求める者には必ず応えてくれました。また師として、弟子の入っている内面空間とその情況を、途轍(とてつ)もない透視力で常に洞察していました。(略)

   当時の私は、自分で無援トンネルと名づけた精神的暗闇のなかで、自分て何だ、生きるって何だと悶々とし、文字通り暗中模索していました。日常感じる怒りは出口が見つからず抑えこみ、傷つくことを怖れて生来の奔放な性向や自分らしさにはブレーキをかけ、一見穏やかだが内側は反抗期の火山のように熱く不安定、それがわたしの無援トンネルでした。(略)

   そんな時期、何気なくもらったレクチャーとやらのコピーと紙切れ・・・。
   タイトルは「生と死の神秘」とありました。その夜、私は奇妙な感動でしばらく身動きができなかったのを憶えています。この人がもしかしたら人生の突破口になるかもしれない
。それがコピーの紙きれをくれた、あのカップルが下げていたペンダントの写真の主で、名前はバグワン・シュリ・ラジニーシ・OSHOでした。この時から、わたしの旅は始まったのです。

   『(略)四月の終わり、真夏の息の詰るような暑さのなか、三ヶ月近く暮らしたグルモアを出た。シュラーダという中年のインド女性の家に下宿するためだ。密度の濃い日々を過ごしたグルモアのあの部屋を去るとき、もう二度と戻ることはあるまいと名残惜しい気持ちもあった。

   シュラーダは、カーストはクシャトリア階級のOSHOの弟子で、零落したとはいえ屋敷は広大だった。大理石をふんだんに使った邸宅の1階は人に貸し、常時OSHOの弟子数人を下宿人としておいている。使用人も4、5人おり、アシュラムまでは歩いて15分ほどで、グルモアよりずっと近い。しかも家庭料理の三食付きで、レストランの食事にうんざりしていた身にはありがたい。プライバシーはホテルのようにはいかないが、何よりホテルより安上がりだった。

   私は後遺症をゴタゴタ引きずりながらアシュラムに通い、瞑想に耽っていた。
   (略)そんな五月の初め、私はダルシャンを受けた。私はウワサに聞く「グループ」なるものをやらせてもらおうとOSHOに頼んでみるつもりだった。「グループ」というのはグループセラピーのことで、経験豊かな欧米の有名なセラピストたちで、OSHOの弟子になった人たちがアシュラムで行なっているもので、ゲシュタルトやプライマルセラピー、エンカウンター、サイコドラマなどに加えて、アシュラム独特の手法も多くあった。

   セラピストたちは全員が、一つひとつのセラピーに関してOSHOの指導を受けていた。またここを訪れる人のなかには、OSHOに入門しに来たというよりも、これらのサイコセラピーに魅かれてやって来る人も大勢いた。正直なところ、私にはこれらの基本的な知識すらなかったが、瞑想の合間に耳にする話を聞いて、なんだか面白そうだという単純で幼稚な発想から興味を持ったのだった。そういえば、それを話している彼らの全員が欧米人だった。

   (略)私はOSHOに「グループをやってみたいのですが」と言った。
   するとOSHOは両眉をつり上げ、「グループセラピーのような手法は東洋人には合わない。東洋には意識を高める手法として瞑想がある。グループセラピーは西洋的なマインドの成長のためのものだ」と言った。「欧米での生活は、特にアメリカでの生活は長いのですが」と私は食い下がった。OSHOはぎょろめで睨(にら)み、「よろしい。それならエンカウンターをやってみなさい。言っておくが難しいぞ」(略)

   後で聞いたところによるとOSHOは、日本人という西洋化された東洋人の成長に、はたしてどのくらいグループセラピーが有効かを知るために私を許可したらしい。ある意味では実験第一号だが、それまでの入門者の日本人たちが関心を示さなかったグループセラピーに、私自らが志願したのだから、OSHOから強要された実験ではなかった。

   「グループ」の1日目がやってきた。
   その部屋は60平方メートルほどの広さで、冷房が入っているがそれでもまだかなり暑い。床一面マットレスが敷き詰めてあり、片隅に奇妙なものが雑然と置かれてあった。それは使い古されたテニスラケット1本、綿を詰めて作られている直径7、8センチほどの野球のバット状の棒数本、くたびれた大型の枕が10個ほどだ。

   人が集まって来た。
   いかにも場慣れしている振る舞いの人が多く、知り合いはいなかったが、1人だけ眼鏡をかけた小柄な東洋顔の若い女性がいた。だが低い声のアメリカ英語で、隣の大柄な髭面男と話している。やはり生(なま)の東洋人は私だけのようで、インド人も中東系もいない。

   ティアサが入ってきた。
   ティアサはエンカウンターグループを仕切るイギリス人のセラピストで、本名をポール・ロウ。当時すでにラクシュミと並んでOSHOの一番弟子とも言われ、以前はロンドンで、同じセラピストの夫人とともに、グループセラピーに新風を吹き込む運動を起こして有名になった人だという。

   部屋の空気が一変し、ティアサは床にあぐらをかいて座った。
   彼はゆったりと周りを見回して、わたしたち全員に車座に座るよう促した。彼は中年の穏やかな、整った顔立ちの人で、声は知的で静かだがよく通り、肩まで伸ばしたダークブロンドの髪は後ろで束ねてあった。これが大勢の人からあれほど怖がられているセラピストかと、私は好奇心とともに戦々恐々と彼を見、輪になっているメンバーを見まわした。いったい何が起きるのだろう。皆目見当がつかなかったが、何か訊かれたらこう応えようと、頭のなかで用意はしていた。それがどんなにバカげたことかも知らずに・・・。

   参加者は私を入れて13人で、男のほうが1人多い。
   「このグループは珍しいほどラヴィング(愛情ゆたか)なグループだ。こうしてきみたちがここに集まってきたのはけっして偶然などではない。このグループがどう動いていくかはすべて、きみたち次第だ。わたしは手伝うに過ぎない」。輪を見回しながらティアサが言った。

   しばらく沈黙が続いた。
   と、突然ティアサが、輪のなかの1人に向かって言い始めた。「きみのなかには怒りに燃えているキラー(人殺し)がいる」 言われたのはブロンドの四角い顔の男だったが、彼の口元の薄笑いは消えなかった。次にティアサは別の顔に向かい、「きみは自分の暖かさを怖れて隠す必要はない」中年のアーチスト風の男だ。ティアサは相手の反応を待たずに、感情は一切こめない淡々とした調子で1人ひとり続けた。「きみは美貌を鼻にかけている」「きみはここにいない」「きみはあまりにバラバラだ」「きみは誰かをひどく恨んでいる。両親だろう」

   私は、自分はきっと素晴らしいことを言われるんじゃないか、何か神秘的な体験をしたからそんなに瞑想的なんだ、とでも言われるに違いないと思っていた。私の番になった。私はもったいぶった微笑みをティアサのほうに向けた。「きみは頭でっかちの自惚(うぬぼ)れ屋だ」 ティアサはこう言って、すぐ次の人のほうを向いた。

   頭にかっと血が昇り、逆にからだは凍りついたように硬くなって、私は下を向いた。自分で顔色が変わったのがわかった。これは侮辱だ。まさかこのように侮辱されようとは思ってもいず、あまりの恥ずかしさにしばらく顔を上げることができず、みんなに笑われているような気がした。だがそんな私の過剰な自意識にはおかまいなく、部屋のなかの情況はどんどん進んでいた。

   ティアサのコメントに刺激された1人が、同じように座っている輪のなかの1人を指しながら何か言い始めた。あとで気がついたが、ティアサの刺激的なコメントは、まさにこのような何かを引き出すためのきっかけを作るためのものだった。

   私がようやく屈辱感を脇へ置いて顔を上げたとき、さきほど日系の女性と話していた髭もじゃのボーディと呼ばれていた大男が、ドイツなまりの英語で、「きみは怖がってるんじゃないか」と、若い小柄なイギリス人男性ダセンに言っていた。ダセンは顔も上げず皮肉な調子で、「おまえが何を言おうが関係ねえ」と言い、重ねて「おまえの気取ったうつ病面は見たくもねえ」と吐き出すように言った。それはふた言めには汚い罵り言葉の入ったひどい言葉遣いだった。

   すかさず日系の女の子ヴィーラが、「プロジェクション!」((投影してる!)と叫び、それと同時に誰かが、「嫌いなのは奴が親父に似てるからだろ!」と大声を上げた。ダセンはイライラと、「決まりきった文句はいらねえ!! ティアサがいるんだからトウシロのセラピストはいらねえ!」と早口で言ってそっぽを向いた。その時ティアサが、「ダセン、恋人とケンカしたのか?」と穏やかに訊いた。「先週別れました」とダセン。それを聞いてみんながドッと笑い出した。屈辱に傷ついて体を硬くしていた私ですら、思わず笑ってしまった。

   だがダセンは、笑われて激怒した。
   彼は立ち上がると、上着を素早く脱いで床に激しく投げつけた。それは誰か一言でも何か言ったら飛びかかってきそうな剣幕だった。私は驚いてティアサを見、周りを見た。何人かがサッと壁寄りに後ずさりしたが、その顔にはニヤニヤ笑いが残っている。ティアサもゆっくり壁まで退いたのを見て、私も何が何だかよくわからないが壁に後ずさりした。先ほどティアサから「暖かさを隠すな」と言われた中年のイギリス人アニケッタは、隅のガラクタが置いてある近くにいたが、古いテニスラケットをダセンの足元に投げた。

   ダセンはそれを拾うと、「ギャアー!」という叫び声を出して床を激しく叩き始めたかと思うと、部屋を飛ぶように横切ってドア近くの壁に行き、ラケットでめちゃめちゃ叩き始めた。だが誰も何も言わず、ティアサも止めなかった。私には何が起きているのか理解できなかった。

   数分後、エネルギーを使い果たしたダセンはドアの前の床に伸びてしまった。すると、その近くにいた白っぽいブロンドをした強い斜視の北欧女性デヴァダシが、自然な動きでダセンにすり寄ると、そのからだを優しくさすり始めた。それを見ていた美しいドイツ人女性ブルネットもダセンに近寄り、頭から肩をなでてやる。誰も一言も発しなかった。

   「グループが本格的に進む前に、言っておきたいことがある」
   ティアサの声に私は我に返った。「まず朝のダイナミック瞑想と講話には必ず出ること。何をしていても、私がストップをかけたら必ずやめること。そして、どんなに腹が立っても私のからだには触れないでほしい」。私は半ば呆然としてそれを聞いていた。グループって、いったい何だ?

   第1日目の午後のエンカウンターグループのことはあまり記憶にない。
   というのも私は、この午前中の展開に完全に混乱して動揺し落ち込んでいて、そこにいるのはいたが、実際には気持ちは皆と一緒にそこには居なかったからだ。皆もそれを感じていただろうし、私は徹底的に無視された。そのことに屈辱感を感じながらも、どうしていいのか判らなかった。

   2日目、相変わらず誰も私に話しかけない。
   ティアサも、「ハロー」と挨拶した私には目もくれず、まるで皆で相談でもしたかのかと思うほど、皆にとって私は存在しなかった。今、輪の真ん中にいて、両親との問題を身振りを入れながら饒舌に話しているのは、イタリア系らしい黒髪の太った女性プリヤだ。だが言葉が表面的なものに感じられ、実感がない。そう感じたのは私だけではないらしく、ボーディはあくびをするとそっぽを向き、ダセンは寝転び、ヴィーラは眼鏡をふいている。

   そのうち金髪をしたモデルのように細い女性が、癖のある英語で「あんたお喋りやめなさいよ。サック(人のエネルギーを吸い取っている)だけじゃないの」と早口で言った。それがきっかけになり、「そうだ、そうだ。きみは劣等感の塊なのにそれをしゃべりでごまかしている」とボーディが言うと、アニケッタが「きみはそこに座って何をするつもりなのか解らない」と言い、ブルーと呼ばれるドイツ系のヒョロッとした若者も、どもりながら「声にエネルギーがない」と言ったが、すぐさまダセンから「プロジェクション!」(投影だ!)と言われて引っ込んだ。

   次から次へと周りから厳しい言葉が彼女に投げつけられる。
   だがプリヤは負けずに応戦している。そんななかで何も言わないのは、イタリア男性ダニーと、ティアサから「キラーがいる」と言われた薄笑い金髪男、それに私の3人だけだ。私は口には出さなかったが、よってたかって皆で1人をやっつけるのは卑怯だと思っていた。しかしプリヤはなぜか、集中砲火を浴びていながら、さっきより元気になったように見えた。その時ずっと眼を閉じていたティアサが、眼を開けてプリヤに向かい、「おめでとう。みんなはきみの思うツボにはまってくれて注目してくれたね」と言った。

   そして黙ってしまったみんなを見回すと、「サック屋(エネルギーを吸い取っている)と見抜きながら、皆して攻撃というハイエネルギーのご馳走をおごったわけだ」と言い、プリヤを見据えて言った。「そこに座ったとき、きみは物欲しげで半分死んでいた。しかしみんなして批判し始めたら生き生きしてきた。これはおそらく、きみが子どもの時、自分を護るため、生き延びるために憶えた自己防御のかたちだろう。それは攻撃というかたちを通してであれ、何を通してであれ、人から注目されることで生気を得る。それがきみのパターンだ。つまりきみは何も与えず、他からエネルギーを奪い取るというゲームをしている」

   プリヤの表情は私の席からは見えなかった。
   しかしティアサの言葉の一言一言が彼女の全身を突き刺しているかのように、体がピクピクしていた。「奪うだけというのは、愛においてもそうなってしまう。それは恋人、友人、家族の愛を、自分は愛さずに奪うだけになる。このパターンは意図的というよりは、機械的な悪癖の繰り返しのようなものだ。だが今がそれに気づくためのチャンスだよ」 ティアサの声は静かだった。

   プリヤは自分の席に戻り、彼女の顔が私のいるところからようやく見えた。
   それを見て私はあれっ? と思った。顔がずい分違っている。それは何かが剥ぎ取られた顔で、表面的な付け足しがなくなった顔だった。私はプリヤの顔を見て怖じけずいた。ここではたとえ意図的でなくても、表面だけの取り繕いやカッコづけ、きれいごとは通じないようだ。つまりその人の素の素顔、余計な化粧のない顔しか通じないのだ。自分はこうだとイメージしているものが本物でなかったなら、私にそれが感じ取れるように、みんなにもそれを感じ取られてしまうのだ。

   みんなの目が、特にティアサの目が怖くなった。        つづく

                                       
   inner labyrinth

   『インナーラビリンス』 ナルタン(日家ふじ子) メルクマール

                        抜粋


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・自分自身のマスター(主・あるじ)になる

   主体性とは、あなた自身があなたの主(あるじ)でありマスターであるという意味です。
   あなたの上には誰もいません。あなたに答えをくれるのはあなただけなのです。あなたにはグルも、何をすべきかを教えてくれる人も必要ではありません。あなたの内部にすべてがあるからです。どんな人生を選ぶとしても、それはあなたの選択なのです。

   今というこの地球の特別な時期において、私たちは完全な覚醒への道を歩んでいます。ですが誰かに依存していては、そこに到達することはできません。たとえばあなたが天国の門の前に立っているとしましょう。なぜ入りたいのかと問われて、もし「私は誰それを信じており、その教えを学び終えたので入れてください」と応えたとしたら、おそらくあなたは「帰りなさい」と言われるでしょう。

   多くの人が、この種の共依存的な関係を何らかの人と結んでいます。
   その相手はパートナーかもしれず、宗教やグルや霊的な指導者、本の著者、あるいは親しい友人かもしれません。そして自分自身の内なる叡智を信頼できずに、自己不信と責任放棄のなかで生きています。いつも、人に言われたことや勧められたことをし、他に従順であろうと一生懸命なので、自分への信頼を育てることができません。

   それでいったい、どうやって覚醒し、自分自身のマスターになることができるのでしょうか。マスターとは、あなた自身が自分の主人になるということであり、あなたの他に頼る人はいないのです。マスターは24時間常に、主体的でいなければならないのです。

   あなたにはグルも、何をすべきか教えてくれる人も必要ではありません。
   自分の主権を誰かに預けて生きるのも、それもあなたの選択です。ですがそれは決して、よい選択とは言えません。なぜなら私たちはあらゆる面で、自らのマスターとしての主体性を身につけるためにこの地上に来ているからです。あなたに必要な答えはすべて、あなた自身の中にあります。そうです、すべてです。

   もちろん、霊的な指導者やヒーラーや本の中から学ぶことはたくさんあるでしょうし、パートナーや友人からも学ぶものがあるでしょう。ですが、それを信じるかどうかはあなたの選択であり、その結果、自分の力を誰かに譲り渡してしまうこともあなた次第なのです。

   ここで言っている力とは、あなた自身と内なる導きを信じるというあなたの内的な力のことです。もしあなたが自分を決して信頼せず、内なる導きに決して従わないとすれば、それもあなたが自分で選択していることです。どのような選択をしようとも、あなたが自分の運命の主人であることに代わりはありません。誰かに寄りかかって生きようと、あなたの人生を支配したり選んだりできる人はいません。それができるのはあなただけなのです。

   現実とは何とよくできているのでしょうか。
   そのように気づいていようといまいと、いつだってあなたは自分の運命の主人なのです。あなたが自分の真実を言わないなら、言わないことをあなたは選んでいます。たとえば誰かがあなたを脅し、怖がらせたとしても、そのような現実が自分に起きることをあなたは許容したのです。重要なのは他の人が何をしたかではなく、自分の人生がそれに支配されることを許すかどうかなのです。それが誰かに選択をゆだねた結果であろうと、そうなることをあなたが許したのです。

   もしあなたが霊的な自らのマスターの道を歩もうと思うなら、自分自身に新たな誓いを立てましょう。それは意識的に、あなたの人生と運命の主人として生きることです。あなたはこれまで、その主体性をその時の気分次第で使ってきたかもしれません。ですがここでちょっと立ち止まり、自分自身について、そして人生の選択について見直してみてはどうでしょうか。

   たとえばこのように自分にたずねます。
   毎日をただ漫然と、決められた通りに過ごしてはいないだろうか。生命の呼びかけに、自分の全存在と信頼をもって応えているだろうか。それともただ自動的に周囲の要求に応じているだけだろうか。自分がすることを意識的に選んでいるか。あるいはただのロボットのように生きているのか。自分自身として存在し、人生で起きてくることを意識的に見つめているだろうか。それとも、ただ周囲に適応しているに過ぎないのだろうか?

   多くの人が子どもの頃に、「みんなと同じでなければいけない。思っていても本当の自分を出してはいけない」という契約(約束)を自分自身と、そして親と結びました。あなたもそうでしょうか? もしそうなら、それらの契約を解消して新しい誓いを立てましょう。まずは自分が今生きている現実と、自分の選択を問い直すことから始めてください。

   定期的に瞑想を続けるにつれて、誰と一緒にいても、あるいはどのような環境にあっても、少しずつあなた自身として存在できるようになっていきます。そしてあなた自身でいればいるほど、あなたの内なる導きも感じやすくなってきます。

   ガイドや守護霊、ハイアーセルフは、あなたの代わりに何かをするためにいるのではありません。彼らは常にあなたが主体となり、意識的に自分のマスターになる道を歩めるように助けています。あなたの代わりにそれをしてしまえば、あなたは何も学べないことを彼らはよく知っています。彼ら光の存在たちは、しばしばあなたに問いかけてくるでしょう。彼らはあなたが自分で考え、自分なりの考え方を身につけられるよう導いてくれます。あなたが物事の是非をよく吟味し、何が絶対的な善でもっとも望ましいことなのかを、自分で選び取れるようにと願っています。

   そのために大切なのは、たとえどのような理由があっても自分をごまかさず、つねに自分の真実を口にするということです。他者の意見に同感ならそう言いましょう。異論があるときも、やはり言いましょう。もしあなたがぞんざいに扱われていると感じたら、感じていることを相手に知らせて、なぜそうするのか理由をたずねてみましょう。もしそれで相手が激怒したら、それは仕方ありません。なぜなら相手の反応はあなたの責任ではないからです。あなたの責任は、あなたの真実を話すことです。

   以前、こんなことがありました。
   ある女性の家を訪ねたとき、その女性はひどく憤慨しており、同居人のことを悪しざまにけなし始めたのです。私は彼女をさえぎり、そんな会話は続けたくないと言いました。私は自分の人生では、もう他人の批判的な決め付けはしないことを誓っていたからです。

   そうした批判的な意識が、どれほど人を損なっているかに気づいたことを私が話すと、彼女は私を睨みつけ、「でも私にはそう感じるだけの正当な理由がある」と言いました。私は、「もしあなたが感じることを正直に分かち合いたいのなら、私は喜んで聞き役になる。でも誰かをクソみそのように言うのは聞きたくない」と言いました。その瞬間、彼女はこれからもその態度は変える気がないことがはっきりわかりました。

   たとえ他の人と違っていても自分の選択を伝え、なぜそうなのかを話せばいいのです。もし相手が私の話を聞きたくなければ、私は自分の真実を伝えてそこから離れます。ですがそのためには、”ものごとを個人的に取らない”という内なる場所に立っている必要があります。

   世界中の人々がそれぞれのペースで学び、成長しています。
   あなたはある分野では人より抜きん出て前を歩いているかもしれませんが、ほかの分野ではずっと後ろを歩いているかもしれません。そのように見るならば、人がすることには何ひとつ個人的なものはないという真実がわかってきます。人はみなそれぞれが、成長と進化において、自分が今いるところを表現しているのです。

   ですから未だに、他人の批判や不誠実などその他の好ましくない体験を学んでいる人は、近くにいる誰にでもそれをぶつけようとするでしょう。そこにあなたが巻き込まれる必要はありません。たとえあなたがその人と向き合っていようとも、あなた自身が相手から蔑(さげす)まれたように感じるとしたら、それは違います。その人は自分の学びと成長のために、今の状況を生きているだけなのです。あなたがこのことを理解するとき、自然と愛と慈しみがわいてくるでしょう。

   私たちは、自由意志という宇宙の法則を大切にし、尊重しなくてはなりません。それは求めていない人に癒しを送ることはできず、相手が学びたくないものを教えることはできないからです。つまり、人に変化を強いることは自由意志の法則に反するのです。

   この地球という学びの学校において、誰もが自分にふさわしい居るべきところにいます。そしてそれは、すべての人にとって普遍的な権利だということを忘れないでください。真に主体的であるとは、自分自身を頼りに、内なる叡智を深く誠実に信じることです。あなたの内なる導きを信頼してください。あなたがそうしたことにまだ気づいていないとしても、それは常に手の届くところにあり、あなたはそれを聴くでしょう。


      book『 ワンネスを生きる 』 アモラ・クァン・イン著  太陽出版

                           抜粋


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・「聖なる母」「聖なる父」である大いなるもの

   この世界は過去に3つのパターンを経験してきました。
   太古の時代、男性と女性は対等に生きていました。また、女性が男性を支配した時代もありました。その後、男性が女性の上位に立って支配する時代が最近まで続きました。そして今、ふたたび男女が対等に戻りつつあり、それはこれから永遠に変わらないでしょう。

   あなたが信じるかどうかはさておき、私たちは地上での恋愛や友情といった人間関係においても、純粋無垢な無条件の愛を体現することができます。けれども私たちはとてもたくさんの先入観や分離感、不信感などを生まれ持っているために、まずはそこから癒さなくてはなりません。

   長い年月にわたり、私たちは男女の分離という問題を抱えてきました。
   それが今、地球のこの時代においてピークに達し、多くの人々が開放を求めて自由になろうとしています。こうした男女の分離について、トートはあなた方に次のように語りかけます。


   『聖なる子どもたち、聖なる創造者よ、
   地上ではあまりにも長い間、父親の役割が人間の宗教的習慣によって歪められてきました。それはキリスト教だけでなく、仏教やイスラム教、ヒンズー教などその他のあらゆる宗教でもそうでした。世界中の宗教において、聖なる父という側面だけを唯一の神とみなし、あるいは神の代行者として厳格な役目をあてはめてきたのです。

   こうした神は、子どもたちを裁くために監視し、罪を犯す者を罰する神です。
   これはあなた方と聖なる父との溝を広げるばかりでした。このような役目は真実ではありません。しかし、あなた方が純粋で神聖だとみなす先住民族の文明においてでさえ、災いが起きるとそれを神の罰だと解釈しました。自然界の精霊や天の父が、自分たちの過ちを罰したというわけです。そんなことはあり得ません。

   物理的次元には因果の法則というものがあります。
   つまり、あらゆる動きが原因となって、何らかの反応や結果を引き起こすというものです。これが、次々と連鎖反応を作り出していくわけで、それは物質界における自然の法則です。ですが創造それ自身に原因と結果が内包されていることから、この法則は実際にはもっと高い次元にまで及びます。したがってこれは自然の法則でありながら次元によって意味が異なり、しかも互いに絡み合っています。ですが、あやつり人形の糸を引いて、あなた方の運命を決定する神など、どこにもいないのです。

   一なるものは、人々が学んで成長できるように、あなた方の自由意志による選択を尊重します。存在するのはただ、大いなる愛の神だけです。その大いなるものは男性でも女性でもなく、また男性でもあり女性でもあります。大いなるものである神の聖なる父の側面はひたすら創造を愛し、あなたの美しさを見てただ愛します。あなたによって触発されると、愛を電気的な生命力としてあなたに伝えます。

   神は偉大なる創造者であり、守護者です。
   あなたを見ていとおしみ、そして触発されます。あなたはそのエネルギーに抱かれているのです。ですからいつどんな瞬間にもその大いなる愛の安らぎを感じ、聖なる父の叡智と理解を深く受け取ることができます。

   あなたがいだく男性性のイメージによく注意を払うよう、私たちは願っています。
   というのも、これまで長きにわたり、宗教による原罪や分離のパターンにおいて、しばしば男性性とは支配し罰するものであり、暴力的で利己的で他者への思いやりがないものと見なされてきたからです。

   ですがあなた方は、一方でそうではない男性性を見たことがあるはずです。
   聖なる母を体現している女性たちがいるのと同じように、聖なる父を体現している男性たちもいます。ハートの叡智と冷静な知性により、過去のそうした見方を慈しみとともに今の認識に置き換えていきましょう。

   男性性は美しい聖なるエネルギーです。
   この世界で男性たちが、加害者でもなく父権的支配者でもないことを証明できるように、ただ彼らの真価を認めてください。彼らが本来の自分自身である聖なる父の性質を顕せるよう手助けしてください。あなたの過去の体験を、それとはまったく無関係な男性に投影するのはやめましょう。

   言うまでもなく、同じように女性に対しても投影が行なわれています。
   それでも私たちがあえてこのことに言及するのは、この地球上では父権的な家父長制がきわめて長期に渡り、威力を振るい続けてきたからです。確かにこの惑星に長い間、恐怖をはびこらせてきた闇の支配者たちは男性でした。ですがこのことと、男性性の本来の普遍的な資質とは何の関係もありません。それは完全に演じられているドラマに過ぎないのです。

   女神にもやはり、支配したり悪態をつくという闇の側面はあります。
   こうしたことは特定の属性や誰かを責めるために言っているわけではありません。責められるべきは、現実への誤解と無知なのです。

   この地球上に、女性の種族が男性を奴隷にして性的に虐待していた時代があったことを知っているでしょうか。彼女たちは男性にオーラルセックスを強要し、また性器を勃起させる物質を知っていたので、男性は常におびえて生きていました。未だにそういうドラマを生きている男性もいます。今の時代、性的な傷を抱えている女性たちは、自分を被害者だと考える傾向が男性よりも強いようです。それが女性たちを後退させ、男女の隔たりをいっそう大きくしています。

   今という時代はもう、どちらが先に傷つけたか、どちらが深く傷つけたかという議論はやめなければなりません。このような比較意識は精神の深いところにあり、人によってはそれが特に強くなっていることがあります。男性の中には、自分が加害者でないことを証明するために何度も転生を繰り返した人もいます。つまり彼らは闇の役割を演じたことがあるからです。ですが同じく女性もそうであり、ほとんどの女性は過去に男性として転生したことがあり、誰もが光と闇の両方を経験しています。

   そうです、あなたの中にはすべてがあるのです。
   性的虐待の被害者だと感じているあなたの中に、加害者であったかつてのあなたがいます。ですがあなたの汚れない本質はこれまでも、そしてこれからも常に在り続け、決して変わることはありません。それはたとえ、それを探している真っ最中であっても、あなたの純粋無垢な本質は変わらず存在し、決して汚されることはあり得ないのです。

   あなたが、ただ「あなた」という存在であるために、誰かに対して何かを証明して見せなければという欲求は、癒しの中で取り除かれなければなりません。なぜなら自分の無実や真価を証明したり、自分が愛に値する存在であることを証明する必要はもうないのです。人の期待に応えたり自分の価値を証明しようとすることをやめ、今はもう決して朽ちることのないあなたの純粋無垢を抱きしめるときです。それは瞑想や霊的な鍛錬を通してやってきます。

   瞑想に深く入れば入るほど、あなたは自分自身を見る観照者としての位置に立ちやすくなります。それは好感も嫌悪もなく、ただあるがままを見守る人です。それはニュートラルで、無心な立場の存在です。あなたの中のそうした観照者と深くつながればつながるほど、自然に内なる自分との絆を取り戻し、誰かに自分の価値を証明したり、誰かを責めたいとも思わなくなるでしょう。

   そしていつでも聖なる母と聖なる父、ワンネスである大いなる存在とつながっているのを感じるようになるでしょう。あなたはあなただけの道を歩いています。私たちにできることは、あなた方が少しでも速やかに故郷への道を歩んで行けるよう、ただそれを思い出させるだけです。

   あなた方の誰1人、純粋無垢でない人はいません。
   ほんの一瞬であれ、聖なる母と聖なる父、つまり”すべてなるもの”の根源である神から愛されなかったことなどないのです。それは1秒たりとも、私たちがあなたと共にいなかったときはありません。あなたの内側でこれが本当だと気づく時、この真実を心から確信できるようになり、これまでの人生のあらゆる状況でそうであったことがわかります。その時あなたは自分の癒しがずい分進んだことに目を見張り、その恩恵に感謝するでしょう。なぜならまさに、それに対する疑いこそが葛藤を生み出してきたからです。

   愛が常に普遍的に存在していることが信じられないという、この疑いこそが、分離と非難、憤怒、抵抗、無価値感、恥、恐れといった幻想をつくりだしてきました。愛が永遠にあり続けることをハートと知性で知っている時、故郷へ帰る道のりはずっと優しく、はるかに速やかです。あなたはどのような1瞬1秒にも、絶えずやむことのない無条件の愛に満たされ、その美しさと恵みを感じることでしょう。

   こうした現実を迎え入れ、あなたの内なる世界を変えてください。
   すると周りの世界が変わっていきます。それが真実の世界であり、そうした時が来ます。すでにそうなっている人もいますが、痛みが解放されると同時に、愛を感じるでしょう。その愛は、これまであなたが作りだした幻想を一掃する強さをもたらし、絶望やあきらめという幻想を乗り越えさせてくれます。ですから痛みを感じている解放のさなかに、あなたの高次の自己から、そして聖なる母と聖なる父、高次元の光の存在からやって来る愛とよろこびを、受け取るように心がけてください。

   なぜならそのような時にこそ、愛は強められるからです。
   痛みを感じている時、それ以外何も感じられないと信じているのはあなたの一部に過ぎず、痛みと同時に愛を感じることができます。その時、あなたは壁を打ち破ったのです。自分が感じているのはただ流れ行く過去のエネルギーに過ぎないとわかり、それがあなたの意識を通り抜けるだけで癒されるのがわかるでしょう。癒しが起きた時、愛は永遠の今となります。

   かつてこの地球上に生きていた私たちは、人間であることの苦難をよく知っています。そして幻想の闇を突き抜けて来たことで、体の内に留まる魂が手にする栄光もまた良く理解できます。それゆえ私たちは体験からも、そして体験を超えたところからも語りかけているのです。愛は常に変わらず存在しています。

   最後にもう一つ。
   もしあなたを深く愛し、あなたのことを気遣ってくれる親友がいたら、あなたもその人のことを深く愛して気遣うでしょう。それはたとえ、あなたが海の向こうに旅していてもその愛は消えたりしませんね。ですからあなたさえ距離や隔たりという幻想に捉われないならば、大海原を越えて愛を感じることができます。ある朝目覚めたときに、そこにいない誰かの愛を身近に感じたり、ふと思った瞬間電話や手紙、メールが来たりすることでしょう。

   聖なる母と聖なる父の永遠の愛も、そのようなものです。
   その時あなたは、彼らとともにいるとは思えないかもしれませんが、実際にはすぐそばにいても、地上世界では感じにくいのです。ですがあなたはいつでも大海原を渡っていくことができます。愛は軽やかに旅することができます。あたかもそこにあるかのように見える物理的な距離に注目するか、それともただ愛を感じて感謝を送り返すかは、それはあなた次第なのです。つまり、あなたの選ぶ視点だけが違いを生み出すのです。

   あなたがうずくまって自分を憐れみ、「故郷に帰りたい。私はこの地球の存在ではない、ここは私の居場所じゃない・・・」と言う時、実は自分に嘘をついていることに気がついてください。それはあなたの出身がどこであろうと、何の違いもないからです。たとえはるか遠い宇宙からやって来たとしても、あるいは地球出身だとしても、故郷とはあなたの意識があるところのことなのです。

   あなたの魂が存在するところ、そこが故郷なのです。
   あなたの姿かたち、体型や皮膚の色や性別が何であれ、その身体こそがあなたの住む家です。その家を故郷にするかどうかはあなた次第です。あなたがそこにいて、自分の住まいを慈しみ、居心地のよい家にしようとすることでそこは故郷になります。つまり故郷とは、どこであろうとあなたのハートがその時存在する場所のことです。

   もしあなたが、故郷から遠く離れていると感じ、帰りたいと切望しているとしたら、自分自身との関係を見直し、しっかり築き直す必要があります。なぜなら常に愛し愛されている関係が、自分との間に確立されれば、故郷から遠く離れているようには感じなくなるからです。どれほど遠い宇宙を旅して来ているとしても、究極の故郷とはあなたの内なる世界以外にはどこにもありません。魂とは、どこまでもあなたと一緒に旅してくれる「常に携帯する」家のようなものだと言えます。その家があなたの故郷なのです。

   あなたが私とともにいて、この言葉を聞き、いま受け取れる限りの愛を受け取ってくれたことに感謝しています。その愛は決してやむことなく、私も聖なる母も聖なる父も、時の果てまで常に変わらずあなたとともにいます。』


    book『 ワンネスを生きる 』 アモラ・クァン・イン著  太陽出版

                          抜粋

・学びが完了するまで同じ出来事に直面する

   今という時期は、今の人生だけでなく、すべての過去世においてあなたが出会ったすべての人々や出来事に感謝する時です。すべての体験が学びのためであったなら、私たちに起きたどんなことも、そこから学ぶためにあったのです。

   真実の自己に帰るという魂の旅において、まず学ぶ必要があるのは、私たちは体ではないということです。それは心でもないし、感情でもなく、経験でもありません。私たちはそうしたすべてのものから学び、より高次の自己に進化する自分を見守っている観照者です。私たちはまさに、すべてを”学びの体験”として祝福することを学んでいるところなのです。

   その学びの体験は、実にさまざまな形をとることでしょう。
   たとえば私は生後6週間のほんの赤ん坊であった時に、父親から性的な虐待を受けるという体験をしました。そして1歳の時、父は私を枕に押し付けて窒息死させようとしました。ですがその時1度死んだ私は、プレアデスの天使たちに助けられて息を吹き返したのです。

   こうした体験を最初に思い出した時、私は長い間ずっと苦しみ続けました。
   ですが最終的にその傷を乗り越え、自分がその体験から何を学んだのかを理解するようになりました。それは自分が、この家族を選んで生まれて来たということでした。つまり私はこの人生において、多くの試練を乗り越えるという契約(承諾)をして来ていたのです。そのためには、いくつかのカルマを浄化するための体験が必要だったのです。

   なぜなら私は、過去世で体験したことを未だにトラウマや痛みとして持っていたからです。その中には人を傷つけたこともありました。それらの体験を、トラウマという幻想として抱え続けるのをやめ、愛と慈しみのまなざしで見られるようになるまでは、同じような体験が繰り返されることになるのです。

   人生最大のレッスンとは、私たちは永遠の存在であることを知ることであり、どのようなことが起ころうともそれはほんのひと時の体験に過ぎず、そこから学び霊的に進化していく必要があるということを知ることです。

   私たちは永遠なる光の存在です。
   すべては一時的なものであり、越えていくことができます。ですから本当の意味では、被害者というものは存在しません。そうした体験を通して私たちは幻想を超え、自分について、あるいは自分に”ひどい仕打ちをした”相手についても、赦しと慈しみを学ぶことができます。

   加害者を非難しても何にもなりません。
   すべての人は体験を通して成長しなければならないからです。その相手が学べなくて進歩できない時、あるいはその時点で誰かを傷つけるしかできなかったのかもしれません。つまり誰もがその時その時に、できる限りの精一杯のことをしているのだと私たちは認識する必要があります。そこには責めるべき相手はいません。

   もし彼らもまた体験から学び、自らの内なる神と深くつながることができていたなら、あるいはそうした行為には及ばなかっただろうと見ることもできます。それがたとえ欺きやあらゆる不道徳、暴力や性的虐待、あるいは過去世での黒魔術や殺人であろうともです。

学びが完了するまで、限りなく同じ出来事に直面する

   私たちの実体、本質は、人間としての自己ではありません。
   私たちは高い目的のために、この今の人格をまとっているだけなのです。やがて肉体が消滅すると、私たちは高次元の光の存在となります。そして、もし必要であれば、その人にとって重要な意味を持つ事柄が別の人生に持ち越されることになります。

   たとえば今の人生で、「私は誰からも深く愛されることがない」という現実を生きているとしましょう。それは幻想なのでその幻想を超えるまで、何度でも別の人生で「愛されない」体験を繰り返すことになります。つまり、”愛されない自分”を作りあげている原因である無価値感や自己卑下、親密さへの恐れなど、こうしたすべての思い込みをこそ取り除く必要があるのです。そして、自分が愛に値することを理解し、親密さへの恐れを手放すまで、そうした現実が続くのです。

   あるいは、「私は決して自由になれない」という幻想を信じているならば、その思い込みがなくならない限り、次の人生でもそのまた次の人生でも、自由が侵害されるような状況が生み出されることになります。自分は本当は自由であり、自分以外には誰も私から自由を奪うことはできないということを学ぶ必要があるのです。

   今の人生で、いつも自分が被害者のように感じているならば、これから後も同じく、無力で被害を受けるだけの犠牲者の状況に置かれるような、自分の人生を創造し続けるでしょう。ですがあなたが体験から学び、犠牲者に留まることを乗り越えてしまうならば、同じ体験はもう二度と起こりません。同じく、自分の本心を正直に話すことに怖れを持っているならば、誰に対してもいつでも正直に話せるようになるまで、そうした問題に何度でも繰り返しぶつかることになるでしょう。

   体験から学び、成長して幻想を超えれば超えるほど、あなたは進化します。
   それはあなた本来の真の自己が戻ってきて、偽りの自己の人格が消えていくからです。私たち1人1人は大いなる全体の一部であり、そのゆえにすべてが可能であり、本来私たちはみな一つなのです。

   今という時は、それぞれが抱えている過去のトラウマを癒し、そこから学ぶべき時です。たとえあなたの過去に何があったとしても、これまで押し込めて封じてきた古い感情を体の外に出すことで、自分を赦し人を赦すことを学ぶ時、あなたの成長が始まります。

   ”小さい暴君、小暴君”から学ぶべき教えはたくさんあります。
   ”小暴君”とは、あなたに苦しみをもたらすような人のことです。そこには裏切りや不道徳、盗み、暴力などありとあらゆる行為があります。しかしそれがたとえ何であったとしても、”小暴君”はその行為によってあなたに何かを教えている先生なのです。

   たとえば私は、父から殺されかけたことで、霊は肉体を超えて生きていることを知りました。後に、身をもってこのことを学べたのは父のおかげだと気づいて以来、私は父に感謝し、愛と慈しみを感じられるようになりました。そうした学びは、私を教師やヒーラーとして成長させてくれました。ある意味では、私は父との問題を通して否応なく癒しのプロセスを通らなければならず、そうしてようやくこの問題を乗り越え、終わりにすることができたのでした。

   もちろん当初は、そのような父に愛や慈しみを持つなどとんでもないことで、あまりにも大きすぎる感情的トラウマを癒すのは不可能に思えました。私は感情を、心の奥深くに封印していました。父との問題だけでなく、浄化しなければならない思い込みや契約(約束ごと)が山のようにありました。私はすべてのプロセスに取り組み、そして何とかそれをやり遂げました。今、私は父に愛を感じています。赤ん坊だった頃の自分を愛して慈しむのと同じように、こうして今の自分を深く愛せるようになったのも、やはり父のおかげだと思えるようになり、とても感謝しています。

   体験するすべてのことが、私たちの学びと成長、進化を促してくれます。
   それはとてもありがたいことです。最終的に、その体験をさせてくれた相手に、私たちは感謝することになるでしょう。そこから学んで成長していけるわけですから、その時”小暴君”は、私たちの愛すべき先生となります。それは親しく愛しあえる相手ではないかもしれませんが、その人はよき先生役を果たしてくれたのです。

   人生に起きるあらゆる体験を祝福してください。
   それはこの人生だけでなく、過去世であろうとすべての人生をです。あなたが過去世で殺されたのなら、あなたを殺した相手への恐怖を手放し、同じシナリオが繰り返される恐怖を超えなければなりません。あなたが過去世で黒魔術師や黒い魔女であったのならば、再び同じ過ちをしないために、よく調べてその可能性を超える必要があります。

   私たちが過去世で他者に行なった有害な行為はすべて、自分がどのような人間であるかを認識し選択する機会として、体験する必要があったものです。そしてもう二度と同じことはしないという意識レベルに達した時、私たちはそのカルマを超えて、より健やかな人間になります。

   私たちは過去の自分の”悪”を超えることができるのと同じく、他者への”非難”も超えることができます。彼らもあなたと同じように学び、成長し、乗り越えていく過程にあることに気づいてください。彼らのその奥深くには、健やかな人が宿り生まれ出て来る機会を待っているのです。彼らがいつの日かそうなる可能性を祝福してください。

   あなたと彼らとの間には、何の約束も貸し借りもありません。
   私たちはみな平等です。1人1人の進歩と成長が、ある人は今日起こり、またある人は2つ先の未来世で起ころうとも、誰もが対等です。誰もがそれぞれ、聖なる計画にもとづいて自分自身の道を歩いています。個人に起きた出来事によって、人の価値が決まるわけではありません。その聖なる計画を今ここで終えたとしても、あるいはすでに先年先に終えていたとしても、未来で終えようとも、大いなるものの目から見れば、すべてが等しいのです。

   私たちは誰とも比較のしようがありません。
   なぜならすべての人が永遠に体等な存在だからです。この深い気づきに感謝しましょう。それは「すべてよし」ということであり、1人1人みなが申し分なく、すべてありのままでいいのです。


   book『 ワンネスを生きる 』 アモラ・クァン・イン著  太陽出版

                          抜粋

・本来薬とは自然の中にあるもの

   これは新潟での話です。
   50歳くらいの男性が脳溢血で倒れ、3人の子どもを抱えながら苦しんでいることを小耳に挟みました。早速電話したところ、長女が電話に出て、「父は食事もできないしお手洗いにも行けない、しかも仕事にも行けないのです。私たちはどうなってしまうの」と泣きじゃくっていました。

   早速自転車に乗り、私は隣村のその男性の家を訪ねました。
   かわいそうに彼は顔と体の左半分がまったく動かず、話すこともできず、よだれが口から垂れて、悲惨さのどん底という状態でした。脈診をしたところ、高血圧でコレステロールも高く、便秘気味でめまいや耳鳴りもありました。原因は働き過ぎと、体力が必要なために肉中心の食生活をしていたことで、肉体的精神的な疲労が重なっていることでした。

   しかも奥さんを亡くしてから、子ども3人を男手ひとつで育てていたことから、当然眠れない夜も多く、お酒を飲んで酔いつぶれて寝てしまうことも多々あったそうです。そしてある時、裏庭で薪を割っていた時に、脳溢血を起こして倒れてしまったのでした。

   早速、「心通力」という「気」を整える治療をしたところ、体を流れる電磁波が正常化したので、鍼灸治療を行なうことができました。これで治るプロセスに入ったので、娘たちに、青汁を作って小さじでお父さんの口に入れてあげることを勧めました。それから裏庭の崖っぷちに植わっていた赤松の葉をバケツ一杯取ってきて、それを大鍋に入れ、松葉が浸かるほど水を入れてふたをし、2日間ほどとろ火で煮詰め、やかん一杯ほどの液体に煮詰まるまで煎じ詰めてくださいと伝えました。

   次にその松葉液を大鍋から違う容器に移し、飴状になるまで蜂蜜を入れながらかき混ぜます。その出来上がった飴状のものを、平べったい板の上に延ばし、乾燥させるように伝えました。翌日、平べったい飴が出来上がっているので、それを口に入れられるサイズに切り、お父さんに食べてもらうよう伝えました。

   他にも、コップ半分のお水に小さじ2杯のリンゴ酢を混ぜ入れ、お父さんにストローで飲ませるように言いました。また、梅干を毎食2、3個食べることと、副交感神経を活性化するためにお父さんの手足の指を中心に、マッサージを1日2回、子ども3人で30分行なうようにもアドバイスしました。その上で、娘さんに翌日漢方薬を取りに来てもらい、それを煎じたものを少しずつ飲ませるようにと伝えました。

   私は1週間に1回治療に行くことにしました。
   普通では、これほど重症な脳溢血な人は、少なくとも半年、長い時は4、5年も動けず、治らない人がほとんどですが、彼は2ヶ月もしないうちにしゃべれるようになり、左手でお茶碗を持ったり、お手洗いにも自力で行けるようになりました。

   これは松葉の煎じ液が血管をきれいにし、コレステロールと血圧を下げ、また松葉の中に含まれている葉緑素および生命力が、毒性の活性酸素を排除した結果と思われます。松葉はそれほどの栄養素を含んでいるということなのです。もちろんこの液はコールタールではないかといわれるほどまずくて、とても飲みにくい民間薬ですが、蜂蜜を混ぜたことで蜂蜜の栄養素と松葉液のそれが混ざり、化学変化が起こったのだと考えられます。

   脈診からわかったことは、腎臓が非常に活性化され、体液、特に血液をさらさらにして血管の柔軟性を高め、脳の血の滞りが改善されたということでした。ですが忘れてはならないのが、子どもたちの並々ならぬ必至の看病と愛情とが、これほど効果的にお父さんの病気を治したということです。

   私は医師というよりも、マスターヒーラー(熟練治療師)と呼ばれていることの大切さと、その責任の重さを考えさせられるこの頃です。医師としては、その症状を止めて症状をコントロールするだけで、立派な医師として認められるかもしれませんが、人々が求めている「今生きている」という喜びを持ち続けることを助けることこそが、真の医師の使命であるとも思っています。

粗食と小食、信念が治した大腸がん

   今から4ヶ月前の話です。
   末期の大腸がんの男性が訪ねて来ました。もうすでに48回の化学療法と38回の放射線療法、そして2回手術をしていました。医者からは、長くて3ヶ月、もしくは数週間の命と言われたそうです。ですが私は、死ぬか生きるかは神のみが知ることであり、他の人間が知るわけもないので、「神が言ったのでなければ、医者は神ではないのでこの際言われたことは水に流しましょう」と言いました。

   一般的には、それだけ進行した末期がんは誰にも治すことはできないと考えられます。それに医者は大量の化学薬品と化学療法、それに放射線療法でどのくらいの毒を患者に投入したかを知っています。ですからそれを元に逆算して、およそ3ヶ月の命という推測が可能だったのでしょう。そうであれば、その毒を体外に出すならば、本人の自然治癒能力の恒常性が戻り、彼のがんを治せる可能性はあると私は考えました。

   実際に人の持つ恒常性は、病気のおよそ90パーセント以上を治せる力を持っています。彼のその力はわずかではあったにしろ機能していたことから、私のところを訪ねたわけです。ただしその恒常性には3つの必要事項があるのですが、それが快眠、快食、快便であり、それを正常に保てていないと充分に働くことができません。そこで私は彼に、「我々は医者を尊敬しています。ですがあなたの状態は充分な恒常性が働いているので、90パーセントの確率であなたは自分の病気を治せる」と伝えました。つまり、必要事項を100パーセント満たしているからです、と。

   早速脈診をしたところ、肝臓、腎臓、小腸と、すべての内臓が健全でしたが、ただ彼の内臓を構成している細胞の中に、信じられないほど大量の工業用の重金属と、工業用の化学製品から出る毒素、活性酸素、それに肝臓の細胞の中にサナダムシのような毒虫やウイルス、細菌がウヨウヨ住んでいたのです。

   ですから肝臓で十分な白血球であるリンパ球が作れず、それと同時に医者が行なった治療により顆粒球が増加しすぎて、正常細胞まで破壊していたのです。それだけではなく、その顆粒球が発がん性物質である活性酸素に変化していたのでした。しかも体が非常に酸性になっており、ガンの増殖に相応しい格好の状態にありました。そうしたことからガンが彼の体を支配しており、それが医者の死の宣告に至ったと思われました。

   私は、「あなたが『私は治る』と決心し、祈るだけでなくそれなりに努力すれば、おそらくあなたは自分を治せるだろう」と言いました。彼は、「自分にはまだ住宅ローンが残っており、妻と2人の娘のためにもまだ死ぬわけにはいきません」と断言しました。

   そこで私の得意とする和漢方を飲んでもらい、さらに自然療法で使われるMMSという抗生物質で肝臓、腎臓、小腸、大腸にあるウイルスや細菌などの毒素を(殺すのではなく)、体外に追い出すための溶液を処方しました。また一切の動物性食物を中止し、和食と小食を徹底してもらい、消化機能に負担をかけないことで、大切な血液が消化のために働くよりも病気の治療に働くようにしました。さらに緑黄色野菜から作った青汁を飲み、タンパク質を果物や野菜から摂るようにアドバイスしました。

   でも彼にはどうしても肉を食べたいという望みがあり、甲殻類(エビ、貝など)であれば必ずレモン液をかけて食べる分には大丈夫と言いました。甲殻類は、肝臓機能の強化には抜群であるからです。他にも、よく笑い、面白い映画を見たり、友達と遊ぶのもよし、よく眠る。最後に、もうガンのことは忘れて、くよくよしないことなどの大切さも伝えました。

   1週間後に彼から連絡があり、とても気分が良いとのこと。
   その後、3週間後、そして1ヶ月後にも連絡してきて、とても体調が良いと言いました。自然療法を始めてから2ヶ月後、彼はもう一度私に会いに来ました。その時はびっくりするほど顔色が良く、話す声にも力があり、とてもきつい印象だった目は穏やかな目に変化していました。それらはおそらく、すべての怖ろしいストレスから解放され、自分が心からやりたいことを見出し、自分自身を取り戻した結果だと思います。

   それにより、癒された恒常性との相乗効果が出て、体がアルカリ性に戻り、体からガンを追い出すことに成功したのです。ただ症状を一時的に止めてコントロールする今の医学ではなく、人間医学である本来の治癒力を信じて引き出し、それを行動に移した結果だと私は信じています。
                                      ケン・コバヤシ


 book『これからの医療』 小林健×増川いづみ×船瀬俊介  ヒカルランド

                           抜粋
   

・自分のやりたいことをしよう

   自分を信じることができないと、外側に誰か信じられる人を探したくなります。
   自分を愛したり、自分を愛するのは利己的で悪いことだと考える人もいます。私たちはこれまで、自分が感じたことを表現したりしないように教えられ、学んできたので、そうした感情を抑えつけて閉じ込めてきました。そして人々から「~すべきでない」と見なされることや、人々から受け入れられそうにないことは考えないように、しないようにしてきました。

   自分の霊は未熟で劣っており、そこが望まない場所であっても、そこにずっと生きていかなければならないと思い込んでいます。そこが満足できない状態であっても、生活のためにはこの仕事をするしかないと信じ、自分には他の人のような創造性はないと信じています。そしてあらゆることを好きになれないまま、自分を好きになれないままに人生を送っています。

あなたは自分の身体を愛していますか?

   ほとんどの人は、どこかしら自分の身体を否定して嫌っています。
   以前、私の教師であった女性は、自分の膝をひどく嫌っていました。彼女は自分の膝をとても醜いと思い込んでいたのです。ですがその人は私が出会った中でも特に美しい女性だったので、私にはまったく理解できませんでした。あるいはくせ毛や縮毛、直毛など、自分の髪質に強くこだわる人もいます。でも一方で、そういう髪質をうらやましいと感じる人もいるのです。

   大方の基準からすると、私は大柄な体つきで太っており、そのことをいつも非常に恥ずかしく感じていました。体型について触れられるのが怖くてたまらず、もし何か言われたら死んでしまうかもしれないと思っていました。ところがある日、目の覚めるような気づきがやってきました。私は女神の存在として生きるために、まさに完璧な今の肉体の中に宿っていたのです。その時から私は癒されていきました。

   この地上の人生が何のためにあるのであれ、すべての人は完璧な身体を持っています。そして私たちは身体ではありません。私たちはその中に宿っている意識という霊なのです。なぜテレビや雑誌の中には、ごく平均的な人々の姿をめったに見ることがないのでしょうか? それは単に、多くの人々が完璧さの理想像ばかり見たがっているからです。

   ですが自分の嫌いな身体の部分に、愛といたわりを込めて触れてみてはどうでしょうか? 身体への批判や葛藤を外し、その身体は、あなたが生きるための完璧な身体であると見始めてみてはどうでしょうか? あなたの身体に対して抱いている決め付けや思い込みを、きれいに一掃してしまいませんか?

自分を信頼していますか?

   人はよく過去に起きた物事について、自分を責め続けるものです。
   そしてその過去の出来事に囚われるあまり、これから先も自分はよく生きることはできないと思っています。こうして自分への信頼をすっかり失ってしまいます。ですが、もしそこから違う生き方ができるとしたらどうでしょうか? たとえば恋人と別れた時に何があったのかを詳しく思い出し、考察してみることです。

   最初に誰かと恋に落ちた時、何らかの警告のサインを無視しなかったでしょうか? 
   すべてうまくいっているという「ふり」をしなかったでしょうか? 2人の間に問題が持ち上がった時、それをあえて口にせず、黙殺したりしなかったでしょうか? 恋人を失うのが怖くて、不安を押し隠してしまったりしなかったでしょうか? 次の出会いで違う行動を取るために、そこからあなたが学べるとしたら、それは何でしょうか? どうすればもっと真実への洞察力が養えるでしょうか?

   こんなふうに自分を見つめることができれば、それを学びと成長の機会とすることができます。そして新たな気づきを得た自分を、もっと信頼できるようになります。何かが自分の望まない結果に終わってしまった時には、いつでもそこから学び、その学びを次に生かし、より高いレベルの気づきを得ることができます。そのようにして自己を信頼する力が生まれ、自信が深まっていくでしょう。

あなたの感情をを愛していますか?

   感情はあなたに連れそう友です。あなたがそのように信じるかどうかに関わらずそうなのです。私たちの多くは、感情を怖れている親の元で育ちました。そして感情を感じない、あるいは感情を表現しないという契約(暗黙の了解)を親と交わしています。それは思うままを表現すると罰せられるという体験によって、そう学んだのです。こうして私たちは、感情とは危険なものだと怖れるようになりました。

   けれども実は、感情は私たちに教えているのです。
   外側で起きたことに対して、自分は内側でそれをどう感じているかを知らせてくれます。何かがおかしい、何か変える必要があると感じたことはありませんか? あなたに対する誰かの振る舞いに、不愉快になることはありませんか? そうしたことになぜ気づくかといえば、あなたの感情が意識の表面にのぼってくるからです。あなたが過去を癒すうえで、このプロセスはとても大切です。

   過去の何かのトラウマがある時、私たちはしばしば感情を閉ざして抑圧しています。なぜならそのような感情は隠しておき、なかったことにしなければならないと信じているからです。ですが過去を癒すためには、身体を開いて古いエネルギーを感じ、そこから何を学ぶかを見出さなくてはなりません。

   ”そのとき”、あなたはいったい何を感じたのでしょうか?
   誰かにひどい仕打ちを受けたのでしょうか? その相手に立ち向かうのが怖かったのでしょうか? 怖かったとしたら、それはなぜだったのでしょうか? あなたの中に深く埋められていた感情を表に出してやり、その感情から学ぼうとするとき、私たちは真に成長し始め、より健やかになります。成長し、進歩すればするほど、自分の感情が感じられるようになり、ただ感じたままを表現することで、相手を傷つけることなく自然に伝えることができるようになります。(略)

自分の霊を愛していますか?

   あなたは自分が意識という霊であることを知っていますか? 
   自分の存在を、学び成長する可能性を持ったものとして信じていますか? 多くの人々は、自分が不十分な存在だという懸念を常に抱いています。「他の人は進歩して覚醒できても、自分にはできない。瞑想して心を鎮めることだって自分には無理」。あるいは「私のハイアーセルフ(高次の自己)は、あまり私を助けてくれないみたいだし、自分は神から赦されることなんかない」と思い込んでいる人もいます。

   私たちはみんな、光と愛の美しい存在です。
   それが真実です。すべての人が、申し分なく素晴らしいのです。それ以外の存在ではあり得ません。誰もがそれぞれに進化して覚醒することができます。ただそれとは逆の私たちの思い込みだけが、その現実を歪めて見せるのです。瞑想から学べるかどうかは、向き合う姿勢によって決まります。自分が今も、学び成長していることを知るならば、自分に対してもっと忍耐強く寛容になれるはずです。

   ハイアーセルフがあなたの人生に手出しすることはありません。
   ハイアーセルフやガイドは、あなたが学んで成長するのを助けるためにいるのであり、あなたに代わって何かをするためにいるわけではないからです。彼らとの親密な絆と信頼を深めるためには時間をかけなくてはなりません。そして内なる神やハイアーセルフはあなたを赦す必要さえありません。そもそもあなたを咎めたことなど1度もないのです。「自分は赦されない」と思い込んで、内なる霊との深い結びつきを妨げているのはあなた自身なのです。(略)

あなたの住んでいる場所を愛していますか?

   あなたが今住んでいる場所を愛していますか? 
   誰もが、心から愛し感謝できる場所で生きる必要があるというメッセージが、数年前からガイドたちによって繰り返しもたらされています。つまり、建物も土地も自分の好きなところで暮らしなさいということです。

   なぜなら、あらゆる人だけでなくすべての物が、常に愛されて感謝される価値を持っているからです。「好きではない場所で生きていることは間違いだ」とガイドたちは言っています。好きになれない場所で暮らし続けていると、その否定的なイメージがあなたの問題を悪化させ、さらに地球の問題をも増大させてしまうからです。

   どこか別の場所に住みたいのであれば、ぜひあなたが好きになれそうな場所を選んでください。なぜならあなたは、愛する場所に住むにふさわしい存在だからです。そして私たちはみなそうなのです。毎朝、今いるところに感謝しながら目覚めることができます。そうでないと、その場所に対するネガティブな思いを、自分自身に向けてしまうようになるからです。そうした否定や批判は、環境に広がり地球にまで広がっていくのです。

   自分にたずねてみましょう。
   「私が好きな場所で、幸せで居られる場所はどこだろう?」と。どこか他の町でしょうか? それともほかの県、他の国でしょうか? あなたの大好きな場所を自分にプレゼントしてください。そうすると、その幸せはあなただけでなく、あらゆる人や物がその恩恵を受けるのです。

あなたの仕事を愛していますか?

   仕事についても同じことが言えます。
   「好きなことをしていると、宇宙が手を差し伸べてくれる」とよく言われますが、これは本当です。生活のためだから仕方がない、いやでもしなければ生きられないからと思い、その仕事をするとき、その人は実際に戦争に加担しています。そうです、戦争です。なぜなら戦争のエネルギーとは、「そうしなければ生き延びることができない」という否定的な思い込みや観念でできているからです。

   このような姿勢で生きているなら、その人の内面は絶え間ない戦争状態です。
   それだけでなく、仕事仲間や同僚まで好きになれないとすると、周りの人たちとも静かな戦争をしていることになるからです。

   霊的な人生を大切にするならば、”生活のための仕事”という固定観念を手放す必要があります。そうした固定観念は幻想に過ぎません。なぜならあなたを含めたすべての人が幸福に値する存在だからです。ですからあなたが心から愛せる仕事や、心から楽しんで働けるところを見つけてください。そうすれば、あなたも世界ももっと平和になるでしょう。

   自分を誰かと比べることは偽りのエゴの手段です。
   人との比較はいつだって間違っています。私たち1人1人が”すべてなるもの”ワンネスのかけがえのない1部であり、それぞれがユニークな個性を持った存在なのです。誰1人が欠けてもそれは完成しません。ですから、どの人がすることにもすべて価値があるのです。他の人が何をしているかに関係なく、誰もがみな自分のしていることの中に貴重な価値があります。

   あなたが有名ではなくても、歌っている自分を愛していれば、それは二つとない独自性のゆえに、あなたは最高の存在です。自分がしていることを愛してください。。あなたが一番好きなことを創造的なやり方でできるように、インスピレーションに導いてもらいましょう。


      book『ワンネスを生きる』 アモラ・クァン・イン著  太陽出版

                          抜粋  
    

・自分自身の居心地悪さの原因を探る

   人のマインド(表面意識)は病み、傷ついている。
   もはやそれは健全な中枢ではなく、不健全な病根となってしまった。そのためにあなたの関心は、すべてマインドに集中している。おそらく考えたこともないだろうが、身体の一部が病気になると、すべての関心はそこへ向くものなのだ。あなたのマインドは確かに病んでいて居心地が悪い。そのためあなたは他のことはそっちのけで、一日中、マインドつまり気分にばかり翻弄されてしまう。

   自分の心に浮かぶすべてを正直に、10分間だけでも書き留めるならば、あなたはそこで起きていることにとても驚くだろう。だがあなたはほんの10分ですら、自分の中に起きていることを見ようともしない。あるいは自分の深いところで何が起きているかに、すでに気づいているから、だから見ようとはしないのかもしれない。おそらく、あなたは怖れているのだ。

   だから人々は孤独を恐れ、1日24時間、誰か仲間を探し、友達に会いたい、クラブなどに行きたいと思っている。誰も見つからないと、新聞を読んだり、テレビを見たり、ラジオを聞いたりする。というのもずっと1人でいると、(不快な)自分の本当の状態が分かり始めるからだ。他者がいると、あなたは人と関わることで自分を忘れることができる。だから人を追い求めることは、自分自身から逃げる機会を求めていることに他ならない。

   他者に興味を引かれる理由は、結局、自分に向き合うことの恐れからだ。
   そしてあなたは、自分でもそのことをよく承知している。この状況から逃げるために、人は仲間を求め、誰かと交際を求め、集団を求める。

   人は自分自身から逃げる方法を限りなく発明してきた。
   しかもマインドの状態が悪くなればなるほど、自分自身から逃げる新しい発明がなされてきた。これまでの50年間を見ると、そのために歴史上かつてないほどに、多くの娯楽が生み出されてきたことがわかるだろう。映画やラジオ、テレビ、携帯やスマホ、パソコン、ゲームなどは、すべて自分自身から逃げるための方法だ。

   人は本来の落ち着きを失ってしまった。
   誰もが気晴らしを求めている。そのために、しばし自分自身を忘れるためにありとあらゆることをしている。それはあなたの内面の状態が悪くなっているからだ。ヨーロッパやアメリカの文化的な都市や、教育を受けた人々の間では、今ある薬物だけでは飽き足らず、新たなドラッグを作り出す試みが最高潮にある。つまり、自分自身を忘れるための確実な手段を発見する探求が続けられている。さもないと、とても困ったことになってしまう。

   こうしたことの背後にある理由は何だろうか?
   なぜ、あなたは自分自身を忘れたいのだろうか? なぜそれほどまでに、自己忘却を望むのか? だが自分自身を忘れたがっているのは、何も映画を見たりテレビを見ている人々だけだと思ってはいけない。寺院や教会へ行く人々も同じ理由で出かけて行く。そこには何の違いもない。寺院や教会は、本来自己忘却のための古い手段であり、テレビや映画は新しく作られた手段だ。

   寺院に座って「ラーム、ラーム」とマントラを唱えている人を見て、まさか詠唱しながら自分を忘れようとしているはずはあるまい、と思ってはいけない。それは他の人がテレビを見ながら、自分自身を忘れようとしているのと同じだ。そこに違いはない。

   自分の外側にある何かに、あえて巻き込まれていようとする努力、それが「ラーム」であろうと、テレビ、携帯、ネット、音楽であろうと、深いところでは自分自身からの逃避に他ならない。あなた方はみな、何らかの方法で気を紛らし、自己から逃避することに気をとられている。これはあなたの内なる状態が悪くなっているということであり、それに目を向ける勇気すら失っていることを意味する。

他人にどう見られているかを気にしない

   人は外見とはまったく異なるものだ。
   あなたが自分の外側に貼り付けたものに、他人が騙されるのは仕方ないとしても、問題なのはあなた自身が自分に騙されてしまうことだ。他人が騙されるのは仕方ないし、それはいつものことだ。人というものはたいてい外側しか見ないものだから。しかしあなたは自分を、他人が見ているイメージのままの自分だと思ってしまう。つまり、あなたは他人の目を通して自分を見る。あなたは決して、ありのままの自分、本来の自分を直接見ることはない。

   このようにして、他人の目の中につくられたイメージはあなたを欺き、あなたは自分の内面を見ることを怖れるようになる。あなたは自分の現実ではなく、他人があなたに抱いているイメージを見ていたいのだ。”人々は自分のことをどう思っているのだろう?” あなたは人から自分がどう思われているかを知ることに、非常に興味を持つようになる。

   この知りたがる好奇心の背後にあるものは、まさしくこれだ。
   あなたは他人の持つ自分のイメージを通して、自分を認識できると思っている。これは実に驚くことだ! なぜなら自分自身を知るために、あなたは他人の目の中を覗き込まなくてはならないからだ。

   人々は自分が、他人に悪く言われているのではないかと怖れる。
   良いことを言われているならうれしい。なぜなら、あなたの自分自身についての理解は、他人の意見に依存しているからだ。人々には自分自身についての直接的な理解がないし、理解しようとする直接的な体験がない。その自覚があればこの体験は起きるはずだが、それは起こらない。なぜならあなたがそれから逃げようとしているからだ。

   自分のマインド(表面意識)に直面するには、まず他人の言うことを気にしないこと。他人にどう見られているかを気にしないことだ。それよりも、あなたが本質的に何であるかに直面するほうがいい。独り在る中で、自分のマインドを完全にさらけ出し、そこにあるものを見るといい。それは勇気ある行為だ。自分の内側に潜む地獄の渦中へ入って行こうという決意は、途方もなく勇気ある行為だ。裸の自分を見ることは、大いに勇気ある行為だからだ。


           内なる旅
       book『インナー・ジャーニー』 OSHO  市民出版社


                         抜粋

・繰り返しという「無意識」

   ある友人が、詠唱(決められた祈りの文言)――聖なるマントラの詠唱は、瞑想の助けになるかどうかと尋ねた。それは何の助けにもならない。それどころか障害になる。なぜならマントラを詠唱すると、同じ思考を何度も繰り返すことになるからだ。「マントラ」とは思考だ。ある名前を繰り返すとき、あなたは同じ言葉を何度も繰り返す。

   言葉は思考の一部であり、思考の断片だ。
   ある思考を繰り返すことによって、思考から自由になりたいとしたら、あなたは間違っている。ひとつの思考をひたすら繰り返す間、マインド(表面意識)には他の思考は存在しないように見える。だが話したように、それは一つ思考に固執する表面意識の性質によるものだ。

   あなたが決められた文句を繰り返している思考は、他のほとんどのものと同じように立派な思考だ。それを繰り返してもまったく役には立たない。それどころか有害だ。なぜなら、同じ言葉を何度も繰り返すと、表面意識に無意識と眠りが生じるからだ。

   どのような言葉でもいいから、それを繰り返してごらん。
   しばらくすると目覚めではなく、眠気が生じるだろう。つまりどんな言葉であれ、繰り返しは眠気を誘う手段となる。だから眠れない場合にはそうした言葉を繰り返すといい。だがそれは、自己実現や、真理や、より深い存在の開示に向かう探求には役立たない。

   それは誰でも知っている。
   母親が子供を寝かしつけたい時、彼女は「寝んねしなさい、良い子だね・・・寝んね、寝んね、良い子だね」と言う。彼女はマントラを使っている。二つの同じ言葉をただ繰り返す。しばらくすると子供はきっと眠るだろう。子供が自分の声で眠ると思っていたら、それは彼女の勘違いだ。子供は退屈して眠るのだ。幼い子どもはどこにも逃げられない。だから唯一の逃げ道は眠ることだ。

   それはどんな言葉であれ、繰り返し続けるならばどれもみな一緒だ。
   あなたは母親が幼い子どもにしているのと同じことを、自分の表面意識にやっているのだ。だからやがてマインドが疲れて退屈し、うんざりすると、逃げ道は一つしかない、つまりマインド(表面意識)は眠る。

   この眠りを瞑想と思うなら、それは大きな間違いだ。
   この眠りは無意識の状態だ。当然、あなたは後でいい気分になる。この眠りのあとは、あらゆる眠りの後と同じようにいい気分になる。あなたはほっとするだろう。なぜならその間、心配事や痛みや人生そのものから,束の間逃れることが出来たからだ。

   それは何らかに酔って(あるいは服用し)、麻痺している時に感じるのと同じ種類の感覚だ。意識が戻り、依然として痛みがあるのに気づくまで、彼はすべての悩みを忘れる。だがそうしているうちに、彼はもっと多くのそうしたものを必要とするようになる。それは唱えることも同じだ。いまや唱えれば唱えるほど、それはさらに重要に思えてくる。そこから出て来ると苦痛を感じるほどになる。そして彼は言う――今度からはもっと時間を増やし、絶え間なく唱えようと。

   だが、これは狂気と紙一重だ。
   こんなことをしても、生に知識や理解は芽生えない。繰り返しは無意識を生み出すだけなのだ。人生は、奮闘と苦闘によって変わるものだ。それに直面し、それを変えようと努力することによって人生は変わる。人生は、目を閉じてマントラを詠唱すれば変わるものではない。これらはすべて、アヘンに過ぎない。だから何かの言葉や名前、マントラを唱えることは忘れてしまいなさい。

   瞑想とは、あなたの内側深くにある意識を目覚めさせる手段だ。それは意識を眠らせてしまう手段ではない。あなたの内側深くに隠れているものが目覚め、気づきがみなぎる。内側で眠ったままでいるものが何一つないほどに、あなたの実存全体が目覚める。瞑想とは、そうした気づきの境地の呼び名だ。

   私は、詠唱や繰り返しを瞑想とは呼ばない。
   瞑想の意味はふたつ、瞑想する努力をすること。そして内側に気づきを生み出すことだ。だから瞑想の中で眠ってはいけない。リラックスし、表面意識を沈黙させる。内側で完全に目覚めていなさい。だから私は外側のすべてに耳を傾けていなさいと言う。耳を傾けていれば、あなたは目覚めたままでいる。だがそうしないなら、あなたは眠ってしまうかもしれない。

   眠りは良いものであり、眠るのは悪いことではない。
   だが眠りを瞑想と思わないように。


          内なる旅
       『インナー・ジャーニー』 OSHO 市民出版社


                         抜粋
   

・健康的に軽快に、溌剌として生きるために必要なもの

   労働は、もはやあなたの生の重要な一部を占めてはいない。
   肉体労働は、今や恥ずべき行為になってしまった。西洋の思想家、アルバート・カミュは、手紙の一つで冗談まじりに書いている――「自分の代わりに愛してくれと、金を払って依頼する時代が来るだろう。恋に落ちたら、彼は自分の召使に命じて、自分の代わりに愛を交わしてきてくれと言うだろう。」と。

   あるいはいつか、こんなことが起きるかもしれない。
   なぜならあなたはすでに、あらゆることを他人に委ね始めているからだ。まだ自分でやっているのは、好きになったり愛することだけだ。あなたは人に金を払い、自分のために祈ってもらう。金を払い、自分の代わりに祈り、自分の代理で儀式を執り行ってもらう。あなたはそんなことまで他人にやらせている。

   仕事をしてくれる人を雇えない人は自分がとても貧しく、いずれ、自分で愛さなければならないことまで恥じるようになるだろう。いつか、そんなことも起こり得るだろう。というのも、生には重要なことがたくさんあるのに、いまでは多くのことを金を払って他人にしてもらっているからだ。

   こうして重要なことから逃れたために失ってしまったものに、あなたは少しも気づいていない。失われたのは、生の力強さや活力のすべてだ。なぜなら人間の身体や人の存在は、何らかの労働をするようにつくられているからだ。しかし今ではそうした労働をすべて、免れている。正しい労働もまた、人の意識やエネルギーを目覚めさせるという点で、重要な位置を占めている。

   ある朝、リンカーンは家で自分の靴を磨いていた。
   そこへ訪ねて来た友人が言った、「えっ? 自分の靴を磨くのか?」 リンカーンは言った、「何だって? 君は人の靴を磨くのか?」 友人は言った、「いや、いや。自分の靴は人に磨いてもらっているさ!」 リンカーンは言った、「人の靴を磨くより、自分の靴を人に磨いてもらうほうが、ずっとよくないことだよ」

   これはどういう意味だろう?
   つまり私たちは、生との直接的な接触を失いつつあるということだ。なぜなら生との直接的な接触は、労働を通してやって来るからだ。

   昔、孔子が生きていた頃のことで、約三千年前のことだ。
   彼がある村を訪れた時、年老いた庭師が井戸から水を汲み上げているのを見た。その様子は老人にとって、その作業が実に骨の折れる仕事であるのがわかった。その頃でさえ井戸から水を汲み上げるのに、牛や馬が使われていたのに、老人は懸命に自力で汲み上げていたのだ。

   そこで孔子は老人に言った、「馬や牛を使って汲み上げたらどうかね?」。
   すると老人は答えて言った、「そういう方法や発明は知っています。ですがそのような発明はどれも、人を肉体労働から引き離してしまうんです。肉体労働から離れてしまう日、人は生そのものから離れてしまいます」。

   生と労働は同義語だ。
   生と労働には同じ意味がある。でもあなたは次第に、肉体労働をしなくてもよい人たちは幸運で、肉体労働をしなくてはならない人たちは不運だと考えるようになった。そうした考え方のせいで、多くの人たちが労働をやめてしまい、一方で重労働をしなくてはならない人々がいる。

   重労働はあなたを殺すが、一方で少なすぎる労働もまた、あなたを殺す。
   だから私は、正しい労働と肉体労働の適切な割り振りが必要だと言うのだ。それぞれの人が、何らかの肉体労働をするといい。もっと熱心に、もっと至福に満ち、もっと感謝に溢れて自らの生に労働を組み込むならば、生エネルギーが脳から臍(へそ)の近くへ移動し始めるのがわかるだろう。

   肉体労働には頭脳もハートも必要ない。
   労働のためのエネルギーは臍(へそ)から直接引き出される。そして、そこがエネルギーの源だ。正しい食事の他に、多少の肉体労働がぜひとも必要だ。だがそれは、他人の利益になることをせよということではない。何らかの労働をすれば立派な社会奉仕になる、ということでもない。これらはすべて偽りだ。

   労働はあなた自身のためであり、他人のためではない。
   それによって何かの恩恵を受けることもあるだろうが、それは第一にあなた自身のためなのだ。裕福な者たちが肉体労働をやめてしまったのは、人に働いてもらう金があるからだ。その結果、敬われる二つの社会階級が労働から遠ざかり、手に職を持つ人々は次第に蔑(さげす)まれていった。

   より健康的で軽快に、溌剌と生きるためには、どれだけ肉体労働をするべきか、それぞれが自分自身に応じて、自分の身体に応じて見つけるとよい。それを通して身体の中に新鮮な空気が多ければ多いほど、一つ一つの呼吸が至福に満ちていればいるほど、内なる世界を探求するバイタリティーをさらに手にするだろう。

   フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、その自伝で実に素晴らしいことを述べている。彼女は言っている、「30歳まで、私は常に病気がちだった。不健康で、頭痛持ちだった。40歳になってやっと、私は自分がこれまで物質主義者であったことに気づいた。そして、より精神的になり、健康になった。自分が不健康だったのは、自分の物質主義的な考えに関係していたことが、後年ようやくわかったのだ。」

   病的で不健康な人は、存在に対して感謝に満ちていることができない。
   彼には存在というものに対する感謝の念がない。あるのは不機嫌と怒りばかりだ。そのような怒りに満ちている人にとって、存在から何かを受け取ることは不可能だ。彼はただ拒絶するだけだ。

   正しい労働や正しい運動を通して、生に一定の健康のバランスがとれていないなら、生に対して拒絶や抵抗や怒りを感じるのも当然だ。正しい労働は、”究極的な宗教性”に至る梯子(はしご)の重要な一段だ。


         内なる旅
         『インナー・ジャーニー』 OSHO  市民出版社


                            抜粋
   

・人のような牛

  話者/押部キヨさん(大正15年生まれ)=金山町八町

   オレの家ではむかし、牛とヤギを飼っていた。
   同じ家の中にいたから、家族のようなものだった。何頭か飼ったが、中でも忘れられない牛がいる。それが農耕用に飼った最後の牛だ。言うことをよく聞き、まるで人間のような気持ちを持った牛だった。

   わが家の田んぼは、狭い田が何枚もあったが、その牛は来るとすぐから、ハナドリ(鼻取り・鼻輪に付けられた紐)もなしに上手にうなったり(耕したり)、代掻き(しろかき)をした。そのみごとな稼ぎぶりには驚くばかりだった。

   ある時、親戚の田んぼを手伝って欲しいと言われた。
   そこは上(のぼ)り下(お)りのあるきつい場所だった。ともかく牛を連れて行ってみた。すると牛は、上りは前足の膝(ひざ)を曲げながらのぼり、下りは前足を少し上げて尻餅のような格好でズルズルと下る。そんなこと教えもしないのに何でも自分で考える牛だった。

   時おり、「今日は頑張ってくれたな」と、好物の蕎麦粉(そばこ)で作った焼き餅を食べさせたものだった。牛は父ちゃんに対しては緊張していたが、オレには甘えるような仕草をした。

   牛とヤギに食べさせるための草刈りにも、毎日欠かさず連れて行った。
   刈った草を牛の左右の鞍(くら)に三束(さんたば)ずつ積むのだが、はじめのうちは積むのに難儀していた。

   ある日、「いまちっと、かがんでくれっと積みやすいんだがなぁ」と独り言をつぶやいたときのことだ。牛は急に前足を上げて、近くの低い窪(くぼ)みのようなところにもたれかかり、体を低くしてくれた。おかげで楽に積むことができるようになった、それからは毎日、そうしてくれるようになった。

   その牛が来て三年ぐらい経った頃、いよいよ耕運機を買うことになった。
   それで仕方なく、牛を引き取ってもらうことになった。だが、迎えに来た博労(ばくろう)の人がいくら引っ張っても、牛は頑として動かない。

   オレも切なくて、「いままでよっぱら、骨折って頑張ってくれただから、これからは家さ帰ってゆっくりすんだぞ。博労さんの言うこと聞いて行くんだぞ」と言うのがやっとだった。

   すると牛は長く一声鳴いて、大きい涙を一筋流した。
   そして、踏ん張っていた足を緩(ゆる)めたようだった。

   あれのことは一生忘れられない。


     book『会津物語』 赤坂憲雄+会津学研究会  朝日新聞出版
              
   

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