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朝鮮勤務だった日本人警察官の「自分史」
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  前回③で、渡邉茂さんが述べていた「警察が職務に熱心で民衆の悩み事の相談にのっていた」、という証言を裏付ける資料が私の手元にあります。これは当時、朝鮮で警察官を務めていた稲葉豊作氏による『私の生きてきた道』という自分史です。稲葉氏のご子息からいただいたもので、当時の実態がわかる第一級の資料です。稲葉氏は昭和14年(1939年)9月に警察学校を卒業後、江原道平昌警察署へ派遣されました。そして朝鮮での警官の日常について書き遺しています。
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昭和14年(1939年)
  日勤の仕事は直轄以外の巡察や諸調査、春秋2回の掃除検査、種痘および予防注射の立ち合い(警察が立ち会わないと出て来ない人がいる)その他である。
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  田舎回りをしてみると人々の衛生思想は低く不潔であった。農家の住宅と牛舎が一緒であったり、蝿が多く追い払うのに一苦労する。出された食事を断れば「美味しくないからか、汚いからか」と親切で迫ってくる。最後は断り切れず、ご馳走になった。
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  どこでも田舎に行くほど人間は純朴で、親切で心根がやさしい。田舎回りをするとき清潔の点であまり神経質になると、民衆の中に溶け込むことはできないと思い、その後は臨機応変にやることにした。
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昭和15年(1940年)
  容疑者のほとんどは麻薬取締法違反(平昌はケシ栽培地域であった)又は賭博(冬は凍って仕事がない)で他は傷害、詐欺などで数字的には少ない。仕事は大分馴れてきたが、朝鮮語はなかなか上手くならずに苦労した。田舎回りをした際、日本語がわかる人がいないので、漢文を理解する人を探し出し、筆談でようやく調査目的を果たしたこともあった。
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  平昌郡美灘面(ミタンミヨン)に転属したときは、面長(村長)および幹部、警防団など多数の出迎えを受けて感激した。内地(日本)人は小学校の校長夫婦だけだったから、私たち夫婦を加えても内地人住人は4名である。次席には朝鮮人職員の安田巡査(朝鮮名は安徳玄)が勤務していた。
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  彼は頭もよく、キャリア7年のベテランであった。当時の(朝鮮の)田舎では一にも二にも警察を頼った。前に外勤勤務で述べた仕事の外、種痘に来なかった者の呼び出しやケシ栽培の割り当て指導があり、例外としては夫婦げんかの仲裁まで持ち込んで来るものもある。
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  田植え時になると猫の手も借りたいほど忙しいのに、女の人は手をかそうともしない。そこで田植えに私の家内を連れて行って手伝わせるとともに、世話人を通じて主婦たちが田植えに出るよう督励した。私の家内が手伝いに来ているので、主婦達も致し方なく出て来て田植えをするようになった。
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昭和19年(1944年)
  戦争の長期化で朝鮮人にも徴兵制度が行なわれた。警察はこの理解を深めるために、地区座談会を開いて宣伝につとめた。
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  これを見ると当時の朝鮮の田舎で日本人警察官と住民との、ほのぼのした交流風景が見えてきます。「日本語を奪った!」と韓国はヒステリックに非難しますが、日本人警官は日本語が通じずに苦労したのです。また徴兵制度導入にあたっては、理解を深めるために地区座談会まで開いています。
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  これが当時の実態であり、日本軍や警察が暴力的に農村から女性たちを連行して性奴隷にしたなど、荒唐無稽の作り話であることがよくわかります。河野洋平が「官憲による強制連行」を認めたのは、稲葉氏のような現地で朝鮮人のために尽くした日本人警察官への侮辱であり、名誉棄損以外の何ものでもありません。
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朝鮮人女衒(ぜげん)の日記に記された慰安婦の日常
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  さらに”慰安婦性奴隷説”を否定する明確な証拠が韓国側でも出てきました。それは大東亜戦争時に、ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働いていた朝鮮人女衒の日記が見つかったことです。これを発見したのは安乗直(アンビョンジク)ソウル大学名誉教授ですがその後、京都大学の堀和生教授および神戸大学の木村幹教授によって監訳されました。
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   私の手元にはその翻訳文前文があります。そこには当時の女衒の日常生活が淡々とつづられており、慰安婦への気遣いがいたるところに見られ、日本の軍人とも仲良くしており、朝鮮人差別の”さ”の字もありません。
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(朝鮮語から日本語への翻訳文)
 昭和18年3月8日(水)晴天
  55師団から金川氏の慰安所をマンダレー近くのイェウというところに移転しろという命令があり、今日、某所の部隊長が来て、行こうと言っていたが、慰安婦一同は絶対反対で行けないとのこと。
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 6月2日(水)雨曇天
  正金銀行によって村山氏の慰安所の慰安婦2人の貯金をした。
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 8月13日(金)曇細雨天
  鉄道部隊で映画の上映があって慰安婦たちが観てきた。
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 昭和19年3月3日(金)曇晴天
  慰安婦の〇子とお〇の2名が廃業した。
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 4月14日(金)晴曇天
  西原君と横浜正金銀行支店に行き、今般帰郷した李〇玉、郭〇順の2名に対する送金を済ました。
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 6月29日(木)晴曇天
  新入りの慰安婦、宋〇玉を連れて、特別市保安課に行って就業許可の下付を受けてきた。
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 7月4日(火)晴曇天
  慰安稼業婦の許〇祥(○江)は今のところ妊娠7ヵ月で休業届を提出した。
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 7月9日(日)晴天
  金本〇愛とその妹の〇愛が今般帰郷のため廃業するといい、主人の西原様は承諾したので今日廃業届を出した。
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 8月9日(水)雨暴雨後曇晴天
  朝食を食べて、正金銀行に行って、金本〇愛ら姉妹2名に対する送金許可申請を提出した。
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 10月25日(水)曇小雨天
  宮本敬太郎と、第一白牡丹の前慰安婦で今は中居が今回結婚したが、今夜両国食堂で知己を招き、祝賀の酒を飲むと誘われて行ったが、帰路、白牡丹まで寄って祝った。
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 12月4日(月)晴天
  正金銀行に行って金〇守の許可済の送金1万1千円を送金してもらった。
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  この日記からは、次のことがはっきり分かります。
1、慰安婦は自分たちの意思で移転するしないを決定できた。
2、慰安婦を稼業としてやるには十分な身元証明が必要だった。
3、慰安婦は大金を稼いで、送金していた。
4、慰安婦は外出の自由があった。
5、慰安婦は妊娠すると、休業届を出して休業した。
6、慰安婦は廃業できた。
7、慰安婦をやめて結婚する人もいた。
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  これを読む方には、当時の状況が十分よく分かると思います。”慰安婦”とは大金を稼いでいた”商業慰安婦”であり、絶対に”性奴隷”などではないのです。
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文玉珠(ムンオクチュ)の証言
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  私の手元に1冊の貴重な本があります。文玉珠という人物の証言で構成された『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎)がそれです。文玉珠は韓国で3番目に名乗り出た「元慰安婦」であり、日本の郵便局に慰安婦時代の貯金(元金2万5千145円)の払い戻し請求を行なったことから、日本でもその名が知られるようになりました。彼女はこの本の中で、慰安婦時代の思い出を語っています。
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 「私は一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。2、3か月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。『ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました』。ヤマダイチロウは私に向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、閉店休業だ。早速私たち慰安婦も1円(今のお金で1万円弱)ずつ出し合って大宴会をしたのだった」
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 「お金を500円預けた。わたしの名前の貯金通帳ができあがってくると、ちゃんと500円と書いてあった。生まれて初めての貯金だった。大邱で小さい時から子守りや物売りをして、どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が1軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった」
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 「ラングーンの市場で買い物をしたことは忘れられない。(中略)私はイギリス人のやっている洋服屋で服を買った。ハイカラな服だった。頼まれていた友達のも買って帰った。他の友達と行ったこともあった。2、3度行ったと思う。(中略)宝石店もあった。ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠(ヒスイ)が安かった。友達の中には宝石をたくさん集めている人もいた。わたしも1つくらい持っていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。(中略)日本の活動(映画)や内地から来た歌舞伎を観に行ったこともあった。歌舞伎は衣装をたくさんつけて、男が女の役をしているのが珍しかった」
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 「わたしはここラングーンでもすぐに売れっ子になった。将校の数も前線とは比べものにならないくらい多かったので、宴会にたびたび呼ばれた。チップがもらえるのが楽しみで、わたしは喜んでうたいにいったものだ」
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 「2か月ほどかかって帰国許可がでた。(中略)帰国の許可がおりたのなら、帰らなければならなくなっていた。それは命令なのだった。帰りたくないのなら逃げるしか方法はなかったのだ」
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 「日本の軍人が出入りしている(サイゴンの)キャバレーに入った。海軍のパイロットが数人いて(中略)『どうしてこんなところにいるの』と聞く。『朝鮮に帰りたくないので、ラングーンにまた戻りたいのですが、証明書を書いてもらうにはどうすればいいでしょうか』と事情を話してたのんでみた。『自分たちにはできないけれど、司令部に行けば書いてもらえるだろう。そこを紹介してあげるから、しばらく遊んでいきなさい』パイロットたちは御馳走してくれた」
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 「ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな格好でサイゴンの町を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう」
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 「ラングーンはやはり大きくてきれいで、いい街だった。軍人が自転車に乗ってやってきた。そして『ヨシコは乗れるか』と聞く。『乗れない』と答えると『教えてやろう』という。よろこんで教えてもらうことにした。(中略)私は緑のレインコートを着て、ラングーンの街をスイスイ走った。女で自転車に乗っている人などだれもいなかったので、通りをあるく人たちはみな、わたしを振り返って見ていた。ラングーンの街にでかけることは楽しみだった」
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 「その兵長は(酔っぱらっていて)ヤアーッとすごい形相をして切りつけてきた。私は夢中で体当たりをした。男は刀を床に落とした。私は夢中でそれを拾い、男に向かって真っすぐ突き出した。刀は男の胸を刺した。すぐに私は営倉に入れられた。兵長は何日目かに病院で死んだ。私が殺したのだ。(中略)日本軍の軍法会議で正当防衛が認められて無罪となった。(中略)『慰安婦に刀を抜くとはもってのほか』だと、わたしの無罪に多くの日本人の軍人たちも喜んでくれた」
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 「アユタヤの病院にいた時は母に送金もした。(中略)貯金から下ろして5000円送金した。係の兵隊に頼むと『貯金があるなら全部送ったほうがよい』といった。私は『あとのお金は朝鮮に帰ってからおろすからいいです』と答えて送らなかった」
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 「アユタヤで貯金を全て国に送るよう勧めてくれたあの軍人は日本が負けることを知っていたのでしょうね。言われた通り送っておけばよかった」
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   慰安婦だった文玉珠という女性は、ダイアモンドを買い、韓国に5千円送金しています。それは故郷に家が5軒も建つ金額です。また、いったん帰国許可が出ていながら、わざわざラングーンに逃げ帰って仕事を続けています。さらに日本の軍人を殺傷しながらも、日本の軍法会議で無罪判決を得ているのも注目すべき事実です。これが元慰安婦の実態だったのです。もちろん辛いこともたくさんあったでしょう。しかし彼女たちが決して日本軍の「性奴隷」などではなかったことは、これらの証言からも明らかなことです。
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【コラム】米軍も日本軍”慰安婦”とは”売春婦”と認定
  米軍は1944年、ビルマ(ミャンマー)のミートキーナにおいて、捕虜になった朝鮮人慰安婦20名と慰安所経営者2名を尋問しており、その報告書である「心理戦チーム報告書第49号」(1944年10月1日付)が、日本政府が収集した慰安婦に関する調査資料の中にあります。その報告書の序文には、”A Comfort girl"
is nothing more than a prostitute or professional camp follower と記載されています。当時、現地にいた米軍も「慰安婦とは売春婦、あるいはプロのキャンプ追っかけ以外の何者でもない」と記録しています。
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  アメリカでは連邦議会をはじめ、次々に地方議会で女性を性奴隷としたという対日非難決議が採択されていますが、自分たちが作った公文書をしっかり読み直すべきです。(p.140の公文書掲載を参照)
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韓国こそ自ら米軍に”慰安婦”を提供してきた
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  実は日本を非難しながら、韓国政府自身が朝鮮戦争以降、膨大な数の女性を文字通り”慰安婦”として国連軍(ほぼ全員が米軍であったため以下米軍と記す)に提供していたのです。米軍も多くの慰安婦のお世話になっていたわけです。『軍隊と性暴力――朝鮮半島の20世紀』(宋連玉ソンヨンオク 金栄編著 現代資料出版)に次のような記述があります。
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 「韓国政府は朝鮮戦争開始の翌年1951年5月に、米軍(国連軍)向けの慰安方法の検討を行ない『国連軍への慰安方法に1例』という方針を決定した。これに基づき同年7月に釜山で米軍(国連軍)専用慰安所が74軒公認されたが、このような米軍慰安所の設置には米軍側もしばしば関与している。例えば1951年9月には米軍とソウル市当局の間で、ソウルの性売買女性を永登浦(ヨドウンポ)に集め、米軍向けとすることが協議されている。」
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  このように朝鮮戦争時に米軍(国連軍)と韓国政府がともに韓国における軍隊向け性売買を組織的に生み出し、これが後の「基地村」(米軍向け性売買特別地区)に繋がっていったのです。朝鮮戦争以降の韓国における”米軍慰安婦”の実態について、その本の”まとめ”には次のようにあります。
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  「米軍は公娼制度廃止を公式には実施しながらも、売春に関わる女性の性病管理策を米軍の指導で導入していった。米軍にとって将兵の性病予防が何よりの関心事であった。朝鮮戦争とその後の米軍の駐留中においても、米兵の性病予防のためにそうした政策が実行されていた。1958年の報道では、韓国の売春女性は30万人余りで、そのうち国連軍を顧客とする『洋公主』(ヤンコンジュ)が59.1 を占めるとされており、韓国での売春にとって米軍の占める割合はきわめて高かった」
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  この報道内容が事実であれば、1958年の時点で30万人の売春婦が韓国に存在しており、そのうち約6割の、何と約18万人が米軍相手の”慰安婦”だったことになります。次のページ(p.143)の写真は、1961年9月14日の東亜日報の記事です。そこにはこのように書いてあります。
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 「ソウル市警では市社会局に、『UN(国連)軍相手慰安婦性病管理事業計画』に基づいて、3日からUN軍相手の慰安婦登録を菅下一線署に伝達し実施している。ところで今回の登録対象は、▲法的婚姻関係なしにただ1人の相手と同居している女性▲ UN軍相手の慰安婦などであるという」
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  つまり韓国の公的機関が米軍(国連)相手の慰安婦を、しっかり管理していたことが分かります。さらにp.144の写真の上記にあるのは1961年1月31日付東亜日報の記事です。そこには韓国の警察署が慰安婦への性病管理の講習会を主催し、米軍第7師団憲兵司令部司令官が堂々とそこに参席しています。沖縄の米軍司令官は、橋下大阪市長から「風俗を利用しては」と言われて真っ青になったそうですが、当時、韓国に駐留していた司令官のほうがよほど「腹が据わって」いたようです。
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  その後、米軍向け売春特区「基地村」では暴力事件や性病問題が相次ぎました。それについても前述の本では、当時の事情を次のように明らかにしています。
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 「米軍側は韓国政府に対して基地村の環境改善を要求し、勧告案を作成した。1971年12月、朴正熙大統領は『基地村浄化委員会』を設置して大統領府で会議を開くとともに、政府関係部署、地方政府に対して浄化政策を立案するように命じた。こうして米韓合同で取り組まれた浄化運動は、基地村の一般的な環境の改善と、人種間の葛藤に対する取り組み、性病対策を中心とする売春女性の統制を課題とした」
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  朴槿恵元大統領の父である朴正熙大統領は、売春女性の統制についての最高責任者であったのです。その証拠も出てきました。2013年の京郷新聞電子版によれば、韓国国会で行われた国政監査で、民主党の愈承希(ユスンヒ)議員が趙允旋(チョユンソン)家族相に対し、朴正熙大統領が直接署名した「基地村浄化対策」を示し、「政府が(慰安婦管理に)直接介入したことがはっきりし、特に性病患者を監禁治療までしたことが明らかになった。独裁軍事政権時代の人権侵害と過誤を認めて実態調査すべき」と詰め寄ったのです。
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  父親の朴正熙大統領が慰安婦管理を直接指導していたことを隠したまま、日本を執拗に非難する朴大統領は偽善者としか言いようがありません。――⑤に続く
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       『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                                 抜粋
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    多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

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