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・韓国人も[慰安婦強制連行の嘘]にやっと気づき始めた?!

国連事務総長が慰安婦の日韓合意に「賛意」と「歓迎」
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   日本の安倍晋三首相は、5月27日午前(日本時間27日夜)、イタリアで開かれていたG7、7ヵ国首脳会議(イタリア・フランス・カナダ・アメリカ・日本・ドイツ・イギリス)の後、タオルミーナ市内で国連事務総長アントニオ・グテレス氏と会談した。
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   グレテス氏は慰安婦問題に関する日韓合意について、日韓双方が「履行」することの重要性を強調し、合意に「賛意」と「歓迎」を表明した。安倍首相がグテレス氏と会談するのは、今年1月の事務総長就任後はじめて。
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   安倍首相は日本政府が国際組織犯罪防止条約締結に向けて、「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案の、今国会成立を目指していることを説明した。
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   グテレス氏は改正案を批判した国連特別報告者ケナタッチ氏について、
「国連特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は必ずしも国連の総意を反映するものではない」と述べた。
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   核・ミサイル開発を進める北朝鮮も話題となり、安倍首相は北朝鮮に影響力をもつ中国をはじめ、関係諸国による圧力強化の必要性を強調した。グレテス氏は北朝鮮の行動を非難した上で、「北朝鮮に対して、圧力を強化するためのツールを国連安全保障理事会は有している。今後、関係国の間でも北朝鮮問題を真剣に取り上げる」と応じた。
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サミット後の安倍首相の声明 
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   「サミットに支持された犯罪準備罪を確実に成立させる」
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   「国際犯罪防止条約に日本も参加し、テロ根絶を目指す」
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   「サミットは自由、民主主義、人権、法の価値観を共有している」 
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   「北朝鮮の行動は、そうした世界の価値観への挑戦である」
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   「北朝鮮の脅威は北東アジアだけでなく、世界全体というグローバルな脅威であることで一致した」
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   「現在6隻のイージス艦のうち4隻に弾道ミサイル対処能力が備わっているが、残りの2隻にも同様の能力が持てるよう改修する。さらに新造艦を2隻追加する」
                  ソース:産経ニュース 共同通信その他
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   韓国の主張する根拠なき慰安婦強制連行ですが、少しずつ真実は明らかになってきており、当の韓国人たちでさえ、自分たちの主張は嘘かもしれないことに気づき始めています。強制連行されたと主張する慰安婦だったという女性たちも、韓国政府の指示に従っただけなのでしょう。
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   .多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

・ガチでテレビや新聞を見るのはやめよう!

 東京倶楽部さんより転載です。 
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  .これは朝鮮総連の巧妙な圧力から、採用にあたり、無試験の在日朝鮮人枠を設けるようになったTBSが、徐々に在日朝鮮人に乗っ取られる様子を克明に記した告発です。
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元TBS社員のひとりごと

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  あなたはTBSテレビ局が朝鮮人に乗っ取られた事実を知っていますか?
  TBSがこんな状態になってしまった経緯をお話ししましょう。
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  「それは1960年代から始まった。
  テレビ放送が始まってまもない頃のことだ。放送中のちょっとした言葉使いの問題で、たとえば「朝鮮民主主義人民共和国」を”北朝鮮”と言ってしまったことに対し、朝鮮総連からクレームが入るようになった。それはTBSの会社にだけではなく、経営陣幹部の自宅にまで及び、脅迫に近い抗議行動が繰り返されるようになったのだ。彼らはヤクザまがいの風貌で、自宅を探し出しては押しかけるようになった。
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  その後、彼らの抗議行動は功を奏したようで、それに対する「手打ち」として採用枠に”在日枠”が密かに設けられるようになった。それは朝鮮総連の人間の子弟を中心に行なわれ、入社試験は無く、カタチだけの面接だけで在日の採用が毎年続いた。
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  「在日枠の密約」をしていることがバレないよう、所轄官庁に対して内密にしてもらうよう、今度はこちらから総連に「お願い」することでさらに弱みを握られることになった。こうして素人(しろうと)のような甘い対応で次第に身動きが取れなくなっていった。
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  1970年代とは、政府を叩きさえすれば世論が喝采するという狂った時代だった。在日枠で入って来た在日社員が作る「反日番組」を、「権力に対するペンの戦い」「調査報道」と勘違いした経営陣幹部が、社内で在日を積極的に登用するようになった。
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  表向きは、「日本人社員と在日社員に昇進の差別があってはならない」とする理想論が説かれたが、実際には課長、部長と昇進した在日社員は、帰化した在日二世を徹底して優遇する酷い差別人事を行なった。それに異を唱えた日本人社員は徹底的にマークされ、営業や総務、番組制作の第一線から退けられていった。
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  1980年から90年頃には、昇進した在日社員が主要な報道番組のプロデューサーや報道局長などの、決定的なポストを占めるようになった。某左翼週刊誌の在日朝鮮人編集長・筑紫哲也をキャスターに迎え、ニュース23という番組が高い視聴率を得るようになった。それを支えたのは、かつて学生運動に没頭した団塊世代の高い視聴率であった。
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  1989年の参議院議員選挙では、TBSは「土井社会党」「マドンナブーム」を盛り上げ、「消費税反対キャンペーン」で徹底的に社会党を援護した。一方、宇野総理のスキャンダルを連日報道することに力を入れ、社会党在日朝鮮人党首の土井たか子を徹底して「おたかさん」と呼ぶなど、あからさまな社会党支持に終始した。社会党が地すべり的に勝利すると、「山が動いた」と感動の報道を行なった。
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  1990年から2000年には、偏向報道や捏造報道など、取材報道を特定の勢力に提供するようになり、本来の報道機関としては存在を否定されかねない不祥事が続発した。TBSと同様に、「左翼的」と言われる朝日新聞や系列のテレビ朝日が、「北京の意」を汲んだ報道を多く行ない、そのやり方は非常に手の込んだ計算高いものだった。
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  だがTBSの場合、この時期に発生した数多くのトラブルのほとんどが朝鮮半島絡みのものだった。不祥事の内容も、テロを実行した朝鮮カルト(統一教会)の手伝いをしたオウム事件に絡んでいたりし、その行動すべてが粗雑で行き当たりばったりだった。
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  時代はバブル崩壊以降の景気低迷に落ち込み、ただでさえ厳しい広告収入が在日の「サラ金」と「パチンコ」に大きく依存していた。まさに在日朝鮮人の資金で、在日朝鮮人が運営しているのが、TBSといううちの放送局だったのだ。
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  TBSだけに限らず、NHKも含めほとんどすべてのテレビ局では毎年、無試験入社で在日韓国・朝鮮人の採用が行なわれている。当然、在日韓国・朝鮮人たちは日本国籍をとり、日本名を名乗って入って来る。いわゆる「成りすまし日本人」ということである。
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  その在日朝鮮人社員が昇進して、主要な報道番組のプロデューサーや報道局長など、1980年以降に決定的な権力を持ったポストにつくようになった。すなわち、日本の各テレビ局は在日朝鮮人に乗っ取られているのである。その証拠が、韓流ブーム捏造と韓流ゴリ押しであり、それがテレビを通して日本全国に繰り広げられてきたのだ。
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  TBSを脅迫することで味をしめた朝鮮総連は、他のテレビ局だけでなく新聞社にも同じような因縁をつけて脅迫し、採用の在日枠を設けさせていった。NHKも同じであり、こうして「朝鮮人の成りすまし日本人」によって日本のテレビ局はすべて支配されてしまった。
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  日本のメディアを支配した在日朝鮮人は、日本社会における「獅子身中の虫」だ。獅子の体に住み込み、その恩恵をこうむっている虫が、ついには獅子の肉を食い尽くし、獅子を死に至らしめる。つまり、組織などの内部から害を為す虫とは、恩を仇(あだ)で返す者たちのことだ。だが、獅子が死ねば虫も死ぬということが、何故わからないのだろうか?
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  そしてTBS社長の井上弘が入社式で、新入社員を前に驚くべき発言をしている。
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1998年の新人入社式にて
  「テレビは洗脳装置。嘘でも放送しちゃえばそれが真実」
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2002年の新人入社式にて
  「社会を支配しているのはテレビ。これからは私が日本を支配するわけです」
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2003年の新人入社式にて
  「日本人はバカばかりだから、われわれテレビ人が指導監督してやっとるんです。
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2010年の新人入社式にて
  「君たちは選ばれた人間だ。君たちは報道によって世の中を動かす側の人間。対して一般国民はわれわれの情報によって動かされる人間だ。日本は、選ばれた人間であるわれわれによって白にも黒にもなる」
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  こんな考えを持つ在日朝鮮人が、TBSテレビの社長に収まっているようでは日本もおしまいである。そしてこれはすべてのメディアに言えることである。マスコミが乗っ取られたということは、日本が乗っ取られていることに等しい。
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  補足
  ヤフー知恵袋も、左翼や韓国朝鮮に都合の悪い文書は見ることもコピーすることもできない。
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  もう一つ、知っておくべき事実は、韓国の報道局が日本の報道局の中に在るという驚くべき事実である。次に挙げる「住所」に注目してほしい。
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 NHK           渋谷区神南2-2-1
 韓国放送協会    渋谷区神南2-2-1
 (中国国営放送新華社もNHKと同じ場所にある)
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 フジテレビ     港区台場2-4-8
 韓国文化放送   港区台場2-4-8
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 TBSテレビ     港区赤坂5-3-6
 韓国聯合     港区赤坂5-3-6
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 読売新聞     千代田区大手町1-7-1
 韓国日報     千代田区大手町1-7-1
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 毎日新聞     千代田区一ツ橋1-1-1
 朝鮮日報     千代田区一ツ橋1-1-1
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 朝日新聞     中央区築地5-3-2
 東亜日報     中央区築地5-3-2
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 東京新聞     港区港南2-3-13
 大韓毎日     港区港南2-3-13
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.                                                 sun
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   .多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 
 
 

・勝田銀次郎さんと茅原基治さん ―― ②

『世界と日本感動CH』さんより転載です。

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 90年の時を超えて 
 800人のロシアの子どもたちを救った日本人たち
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.........2011年に、あるロシア人の女性が来日しました。
   その女性はオルガ・モルキナさんといいます。彼女によると、「私がこうして生きていられるのは、私の祖父母たちをある日本人が救ってくれたおかげなのです」と話しました。
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  勝田銀次郎さんは1873年に愛媛県松山市で生まれました。
  そして18歳の時に、現在の青山学院に当たる東京英和学校に入学します。その後、海運業の世界に飛び込みました。そして27歳にして独立を果たし、貿易会社「勝田商会」を立ち上げました。
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    .1918年、勝田さんは海運業界で活躍していましたが、ロシアではロシア革命が起きていたのです。ロシアのペトログラードは、革命により治安が悪化し、深刻な食糧不足に陥っていました。子どもを抱える親たちは、子どもたちだけでも助けたいと考え、遠く離れたウラル地方の田舎へ疎開させることにしました。しかし避難したはずの田舎町にまで戦火が襲い、幼い子どもたちは難民のような状態に置かれました。そんな子どもたちが800人もいたのです。
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  そのような中、米国赤十字が800人の子どもたちを保護し、ウラジオストクの施設に移送しました。そしてこのロシアの子どもたちの救出計画を立てたのです。それはいったんロシアを離れて、子どもたちを彼らの故郷ペトログラードに近いフィンランドへ送るという計画でした。そのために安全なヨーロッパ海路で移送し、その後ロシアの混乱が落ち着いた頃に、子どもたちを親元に帰すという案です。
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  そこで米国赤十字は関係各国の船舶会社に、難民となった800人の子どもたちの移送を依頼しました。しかしどの船舶会社もすべて、それを断ったのです。つまり、世界中のどの国の船会社も、ロシアの子どもたちの移送を引き受けてはくれなかったのです。なぜならアメリカやイギリス、フランスなど、資本主義を掲げる各国は、ロシア革命により新たな社会主義を掲げるロシアに脅威を感じており、敵対していたからです。
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  そんな中、米国赤十字は最後の望みをかけ、ロシアの子どもたちの移送の依頼を、日本の海運会社にも送りました。その一つが勝田銀次郎さんの会社だったのです。その依頼が届いた1920年とは、日露戦争が終結してから十数年が経った頃のことです。さらに革命によって世界初の社会主義確立を目指すロシアと、資本主義を掲げる日本は敵対関係にありました。
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  . 勝田さんは苦悩しました。
  もし、日本と敵対関係にあるロシアの子どもたちを助ければ、おそらく日本国中から非難され、彼の会社は倒産へと追い込まれるかもしれない、それがその時代の状況だったのです。さらに勝田さんの会社は物資を運送する海運会社だったことから、当然、800人もの子供たちを移送するために必要な客室などありません。
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  ですが、それでも勝田さんは800人のロシアの子どもたちを助けることにしたのです。この決断に反対する社員は1人もいなかったそうです。そして会社で一番新しい貨物船だった「陽明丸」を客船に改造することにしました。800人もの子どもたちが長期間船内で移動できるように、洗面所やトイレ、寝室などを増築しました。
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  しかもその船の改造費は会社のお金からではなく、そのほとんどが勝田さん自らの私財が投じられました。その金額は現在の額にすると数千万になります。船の改造は通常なら1年がかりの大がかりなものですが、それを最優先として1か月という短期間で仕上げました。
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  しかし船の運航に関して、勝田さんには一つ解決しなければならない問題がありました。それは陽明丸を運航する船長を決めることでした。さまざまな船乗りたちに「船長をやる」ことを依頼しますが、「ロシア」「800人のロシア人の子ども」というのを聞くだけで、彼らは誰もがそれを拒否したのです。さらに、子どもたちをフィンランドまで移送する航路には、第一次世界大戦中に仕掛けられた機雷がまだ多く残っていたのです。
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  そして、名乗りを上げたのが茅原基治(かやはらもとじ)さんでした。
  茅原基治さんはこれまでにも数々の航海実績を持つ、伝説の船長としても名を馳せた人物でした。
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  1920年7月、神戸を出発した陽明丸は、800人の子どもたちの待つロシアのウラジオストクに到着しました。しかし茅原さんの目に映ったのは、彼に向けられた戸惑いの表情でした。なぜなら日露戦争の記憶がまだ根強く残っていた当時ですから、日本にとってのロシアがそうであったように、ロシアにとっても日本はかつての敵国だったからです。ロシアの子どもたちは、自分たちを助けるといって現れた日本人を前に、どう接すればよいのかわからなかったのです。
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  茅原さんは、ロシアの子どもたちと信頼関係を築きたいと考えました。
 それでフィンランドへ向かう航海の途中、日本へ寄って、少しでも日本を知ってもらいたいと思ったのです。しかし、敵対関係にあったロシアの子どもたちに、日本への上陸許可は下りなかったのでした。
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  そこで、茅原さんは日本の北海道室蘭に寄港します。
  そして、「全ての責任を自らが取る」という条件の下、ロシアの子どもたちの日本上陸許可を得ることができました。茅原さんが日本上陸を許可された子どもたちと向かったのは、室蘭にある小学校でした。
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  茅原さんは役所にお願いし、ロシアと日本の子どもたちが触れ合う機会を設けてくれるよう依頼しました。たとえ言葉は通じなくても、子ども同士は仲良くなるのにそう時間はかかりませんでした。こうして日本人の温かさがロシアの子どもたちの心の雪を溶かしてくれたのです。
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  こうして室蘭を出港した陽明丸は、一路フィンランドへと本格的な大航海が始りました。そして、茅原さんと子どもたちの関係にも変化が現われました。茅原さんは子どもたちのためにハーモニカを吹き、子どもたちも音楽に合わせて踊ったり、歌ったりと楽しい時間を過ごしたそうです。子どもたちは茅原さんのことを「ニイサン」と日本語で呼んでいました。
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  何ヵ月もかかる航海の間、船は赤道を通りますが、そこで多くの子どもたちが日射病で倒れてしまいました。寒いロシア育ちの子どもたちには、赤道直下の太平洋の焼けつくような暑さが耐えられなかったのです。
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  そして数か月後、船はフィンランド近くまでやって来ました。
  当時のヨーロッパの海には、第一次世界大戦中に仕掛けられた機雷が、未だ数多く残っていました。それでも子どもたちを届けるためには、この海を通るしかありません。茅原さんは細心の注意をはらい、機雷が海上に浮かぶ危険海域を進みました。
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  そして、命がけの航海を始めてから3か月後、目的地のフィンランドへ到着しました。その後、子どもたちは無事に故郷ペトログラードへ戻ることができ、親との再会を果たしたのです。
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  ですがなぜ、この物語は約90年もの間、世に出て人々に知られることがなかったのでしょうか? それはこの航海に関わった日本人乗組員が、勝田銀次郎さんと茅原基治さんが日本で非国民扱いされないよう、固く口を閉ざしてきたからです。
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  ところがオルガ・モルキナさんという、自らの祖父母が日本人によって助けられたという人が、この物語を語ることにより、この事実が世に出て知られることとなったのです。そして2009年、オルガさんは、命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたところ、北室南苑さんという日本人とロシアで出会いました。そこで当時の救出劇を話し、その奇跡の物語は初めて日本へ伝えられることとなったのです。
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  北室さんは日本に帰国すると、オルガ・モルキナさんのために「2人の日本人」の消息を探すために尽力します。そして勝田銀次郎さんと茅原基治さんのお墓を突き止めました。その後2011年、オルガさんは日本へやって来ました。こうしてやっと彼女は2人の墓前で、祖父母の遺志を継いで感謝の意を伝えることができたのです。
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   多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 
 
 
 
 
 

忘れてはならない「李承晩ライン」の悲劇

    .サンフランシスコ講和条約発効3か月前、そして日韓会談開始の1か月前である1952年1月18日、韓国の李承晩大統領は突如、「海洋権」を宣言し、公海上にいわゆる「李承晩ライン」(以下、李ライン)を引いて漁業資源独占を画策したのです。
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   この李承晩大統領の「海洋宣言」は、アメリカ大統領の「トルーマン宣言」をもとにしたものでしたが、この「トルーマン宣言」はあくまでも関係国間の協定によって保護区域を設けようというものでした。1948年12月にチャップマン国務相漁業補佐官は「トルーマン宣言」は領域外に主権を行使しようとするものではなく、また漁業者がどの国籍に属し、どの漁業を為すものであっても、これを排除しようとするものではない」と説明しています。
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   ですが李ラインは、当時のどのような国際法をもってしても正当化できるものではなく、当然、日本政府はこれを拒否しました。朝鮮海峡は西日本の漁民が長年かけて開拓した漁場であったので、ここを奪われては死活問題だったのです。しかし韓国側は一方的な李ライン設定を強行し、その後、14年にわたり日本の漁民は塗炭の苦しみを味わうことになりました。
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  この間の韓国の日本漁民虐待については、日韓漁業協議会発行の『日韓漁業対策運動史』に詳細が記載されているので、同書に基づいて当時の実態を明らかにしていきます。
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「マッカーサーライン」に代わる「李ライン」設定
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  日本漁船が韓国艦船に拿捕(だほ)される事件は、実は李ライン設定以前から頻繁に起きていました。それも日本漁船の操業区域を限定する「マッカーサーライン」を侵犯したという理由で、非武装の日本人漁船員を無慈悲に銃撃し、乗組員を殺害したことが何度もあったのです。当時の韓国に日本漁船の取り締まりを行なう権利などあるはずもなく、当然銃撃は不法であり、射殺は完全な殺人であったにもかかわらず、アメリカの占領下にあって外交権のなかった日本は抗議すらできず、泣き寝入りを強いられていたのです。
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  このマッカーサーラインは前章でも触れたように、他の制限とともに1952年4月にサンフランシスコ講和条約発効の直前に廃止されており、晴れて独立国となった日本は国際法に則って公海で漁業ができることになりました。しかし韓国は日本独立の直前にマッカーサーラインに代わるものとして、勝手に李ラインを設定しており、公海上で正当に漁業している日本漁船を韓国の警備艇は「李ライン侵犯」を理由に拿捕し、漁船員を釜山に連行しては一方的な裁判により刑を科すようになったのです。(裁判に日本人弁護士を派遣することも韓国は正式に拒否している)
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韓国は「李ライン侵犯船は発砲・撃沈する」と宣言
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  1952年9月27日、当時、朝鮮戦争を戦っていた国連軍(ほとんどが米軍)は来た朝鮮スパイの浸透を防ぐなどの軍事上の理由から、朝鮮半島の周りに「防衛水域」を設け、このなかでの日本漁船の操業を事実上禁止にしました。この水域の警備を任せられた韓国海軍は、ここぞとばかりに国連軍(米軍)の威を借りて、防衛水域内だけでなく水域外でも、やりたい放題で勝手に日本漁船を拿捕し、朝鮮戦争をともに戦った韓国軍に甘かった米軍を当惑させました。(注1)
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  この「防衛水域」は11か月後の1953年8月27日、休戦協定調印に伴って廃止されましたが、これにより日本漁船拿捕の名分を失った韓国側は「李ライン」を再び表に出し、その同日に即座に「李ラインを実力で警備する」と宣言し、9月3日には韓国海軍が「李ライン侵犯船を発砲・撃沈する」と警告しました。その後、1965年の日韓基本条約締結に至るまで、日本漁船は常に韓国海軍の銃砲撃の脅威に曝されながら、命がけの操業を強いられることとなりました。(1955年11月には韓国参謀本部も侵犯船に砲撃するとの声明を出し、同月、韓国軍参謀長が空軍の出動も言明)
(注1)『From the Danube to the Yalu』by Mark W.Clark GENERAL,US ARMY
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丸腰の日本巡視船
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  日本政府も漁民保護のために巡視船を増派しましたが、韓国との間に武力紛争を起こすことを極度に警戒し、朝鮮海峡水域を巡視する時は搭載してある砲を取り外して出動させられました。しかしこの処置はむしろ、かえって韓国側に「日本艦艇は何をされてもどうにもできない」と思わせることになり、結果的に彼らはより自由気ままに暴行を行なうようになったのです。
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  武器のない日本巡視船は韓国警備艇と漁船との間に割って入り、身を挺して漁船乗組員を守る以外にできることはなく、1954年には巡視船「さど」が韓国艇に銃撃されて済州島に連行され、釈放を求めた巡視船「くさなぎ」も銃撃されました。その後も巡視船への発砲は続き、1959年には第27松島丸を救うために接近した巡視船「こうず」が銃撃を受け、松島丸の漁労長は大腿部に貫通銃創を受けました。
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  1961年9月には、巡視船「ひらど」が猛烈な銃撃を受けて、瀕死の状態で帰って来ました。「ひらど」の無残な姿をテレビニュースで見て、「なぜやられっぱなしなのだ!」、と子ども心に強い怒りを感じたことを、私は今でもよく覚えています。
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日本の漁船が拿捕された時の状況
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  拿捕されて韓国で抑留生活を送った経験のある乗組員によって、昭和33年に組織された韓国抑留船員協議会がまとめた『韓国抑留生活実態報告』では、各漁船が拿捕された時の状況には、次のような共通点があることを明らかにしています。
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1、日本漁船が公海において航海・操業中であろうと、李ラインの内外を問わず拿捕された。
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2、拿捕の際、韓国警備艇の銃撃を受けて、人命や船体に危機が生じ、逃げることが不可能となって停止し、拿捕された。
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3、韓国警備艇は日本漁船を拿捕すると、一方的に位置確認書を作成し、捺印を強制した。
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4、韓国の警備艇は夜間無灯火で、日本漁船に接近していた。
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5、巡視船の積極的救助を受けていない。
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6、船備品(海図、航海器具、ロープ等)および漁獲物を強奪、横領。
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7、韓国警備艇員の極端な反日、侮辱的言動があった。
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8、取り調べは一方的に行なわれた。
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  このような状況下で、日本の業界の一部では日本の巡視船の武装による日本漁船保護の要望が出され、それが叶わないなら自ら猟銃を持って、相手の暴挙に備えるしかないという悲壮な議論も出たのです。昼夜を問わず、韓国の銃撃と拿捕の危険に曝されていれば当然のことです。
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【コラム】拷問による自白を強制
  『日韓漁業対策運動史』には、韓国海洋警察隊で行なわれた調書作成の様子の事実が明らかにされています(以下、本文引用)
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 「出港祝いの酒盛りの中でと、出港直前にデッキに皆が集まって、平和ライン(李ライン)を侵犯して操業する共同謀議を行なったろう?」
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 「地下牢にぶち込んで真っ裸にし、氷水を腹の中に押し込んでやろうか?」
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 「あくまでデタラメを言って、あのようにされたいか?」
などと言い、無理矢理に嘘の調書を作成しようとするのである。
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  「あのようにされたいか」と指しているのは、調書作成に当たり、韓国警備艇員が他に拿捕した日新丸と大邦丸の船員を、その時こん棒で殴りつけているところを見ながらそう言ったのだ。
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悲惨な抑留生活
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  さらに『韓国抑留生活実態報告』は抑留生活の実態を暴露しています。
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 「部屋は雑居房と独房があり、雑居房は約2間四方より少し小さく、雑居房には20人前後が、独房には6人収容で、手足だけでなく体も重ね合って寝なければならず、窮屈をきわめた」
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 「洗濯は当初全くできず、看守の目を盗み房内で、食器を洗った後の汚水で下着類を洗った。
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 「外部との接触は厳重に禁止され、彼ら公務員を通して物一つ購入するにも手数料が取られ、家族から送られてきた差し入れや慰問品も安く買い取られた。警備隊長から単なる警備員に至るまで、抑留者の膏血(こうけつ)を絞る人間たちだった。
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 「食事の不潔さは言語に絶し、カビの生えた麦、腐敗した魚などはしょっちゅうで人間の食事ではなかった。自炊ができたので、私物を売って中の売店から材料を購入することができた。だがその自炊もやがて禁止され、ほとんどの者が栄養失調に陥った。
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  そしてついに昭和31年12月には、品川国松氏が栄養失調で死亡した。その後、外から視察団が来たが、その時は麦飯の上に白米をかぶせてごまかしていた。視察団も事前に脅迫されていて、収容者の声を伝えることはできなかった」
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【コラム】大邦丸事件
  昭和28年(1953年)2月4日、済州島西方20浬(カイリ)で操業していた第一大邦丸に韓国漁船が接近し、「魚は取れますか」と日本語で話しかけ安心させておいて、突如発砲し、第一大邦丸は操舵室に42発、機関室に32発、その他合計78発を撃ち込まれた。銃撃で瀬戸漁労長が頭部を負傷したが、船はそのまま拿捕されて済州島へ曳航(えいこう)された。到着後、浜船長や同僚が瀬戸漁労長を助けるべく、韓国側に必死に治療を求めたが韓国側は対応せず、その日の夜遅く、瀬戸漁労長は死亡した。
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  日本政府は抗議したが、韓国側は「国籍および目的不明の船の乗組員の1人に、警告発砲による誰何(すいか)を強行する合法的目的のために行なった銃弾で負傷した」と正当化し、さらに「国際平和を不謹慎に無視し、韓日両国政府の威信を尊重しなかった貴国一部漁夫の軽率な態度だ」と言い放った。日本側の第一大邦丸はブリッジの横に「日の丸」と漁船登録番号を表示しており、操業中であることは遠くからでも確認可能だった。攻撃は「日本漁船の弾圧」そのものが目的であったことは明白である(『日韓漁業対策運動史』)より。
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  (拿捕された日本漁船328隻の漁船名の一覧がp.201~209に掲載)
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韓国の裁判所が下した「刑期」満了後も「人質」として抑留
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  韓国による日本漁船の拿捕は昭和26年から始まっており、それまでは韓国の裁判所が下した「刑期」は半年から1年でしたが、昭和29年後半からは「刑期」を満了した抑留者や裁判に附せられなかった年少者すら釈放しなくなりました。日本が抗議すると、韓国側はその代わりに、日本の大村収容所に収容されている韓国人全員を釈放せよと要求してきたのです。
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  当時、大村収容所には朝鮮半島からの密航者1千人と、犯罪の刑期は終えているものの、母国である韓国が彼らの受け入れを拒否しているために、韓国へ強制送還ができず、身元引受人がいないために日本国内で釈放もできない朝鮮人凶悪犯が、約400人収容されていたのです。韓国側は「大村収容所では朝鮮人8人が劣悪な環境のなかで死亡したため、韓国の世論は激高しており、ただちに全員釈放せよ。さもなくば釜山の刑務所にいる日本漁船員はたとえ刑期を満了しても返さない」と言ってきたのでした。
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  実際には大村収容所での死亡者は4人であり、原因は肺結核2人、脳溢血1人、仲間内の喧嘩による死者が1人でした。病気死亡者は完備した医療施設における治療のうえでの死亡であり、金銭問題が原因による仲間同士の喧嘩の死亡は日本の責任ではありません。
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「朝鮮人凶悪犯を日本国内で釈放せよ」
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  日本の出入国管理令では、日本国内で犯罪を犯して1年以上の刑に処せられた者は刑期満了後、国外退去させることができます。そして大村収容所には前科11犯、12犯の凶悪な犯罪者もおり、当然、国外退去させるべきです。それに国際慣例から言っても密入国だけでなく、受刑者・生活無能力者はその出身国で引き取る義務があります。
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   しかしもともと何の罪もない拿捕された抑留者と、悪質な犯罪者である凶悪犯や密航者を引き合いに出して、相互取引すること自体、まったく筋が通りません。さらに韓国は密航者は韓国に引き取るが、凶悪犯は引き取りたくないので日本国内で釈放せよ、と要求してきたのです。現在、日本国内にいる在日韓国・朝鮮人も凶悪犯と一緒にされては大迷惑でしょう。こうして交渉はしばらく膠着状態となりました。
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「身代金」を1億ドル出せ
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  すでに述べましたが、李ラインは日韓交渉直前に一方的に設定されたものであり、竹島を韓国側に取り込むことで漁業資源独占を図り、当初から日韓交渉を有利に進めるために利用しようとする狙いがありました。そして1957年、韓国の曹外務部長官が「日韓問題解決の”合理的”方法」として、次の3条件を日本側に提示しました。つまりあからさまに、李ライン侵犯として拿捕された日本人抑留者の釈放問題を日韓会談と絡(から)めてきたのです。
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(1)大村収容所の韓国人と釜山収容所の日本人漁夫を相互釈放する。
(2)日本は財産請求権を放棄し、久保田発言(日本は併合時良いこともしたという主旨)の撤回を正式に表明する。
(3)第四次会談準備に関する話し合いをする。
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  ”人質”を取られている日本側は妥協する以外ありません。
  (併合時に)朝鮮半島に残した日本人の資産返還を請求する正当な権利がありながら、4千人からなる抑留者釈放のために涙を呑んでこの権利を放棄し、韓国側の3条件を実質的に受け入れたのです。これで誰もが、今度こそ日本人が釈放されるはずと思いました。しかし韓国側は日本が条件をすんなりと受け入れたことから、「さらに取れる」と思ったようです。
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  結局、韓国は釈放には応じず、日本側が提示した「財産権は相互放棄とするが、韓国側が請求する場合は検討する」という最大限の譲歩案を蹴って、日本の財産請求権の一方的放棄を求め、さらに3条件に加え、何と1億ドルを要求してきたのです。これで日本政府は万策尽きてしまいました。
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抑留船員3929人、死者29人
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  日本の国際赤十字への訴えは効果があり、米国からの圧力もあって、1957年末、ようやく相互釈放の合意に至りました。日本側は本来なら韓国へ強制送還すべき凶悪犯400人を、韓国の要求どおり、身元引受人がないままに日本国内で釈放しました。しかし韓国側は、抑留者約500人を3年半ぶりに返したものの、日本が朝鮮人の一部を北朝鮮へ送還したことに反発して、残り約400人の送還をわざと遅らせ、どこまでも日本側をいたぶりました。
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  しかしこの後も日本漁船の韓国による拿捕は続き、韓国は漁民を抑留しては日韓交渉の取引の道具として利用したのです。その結果、1956年に「日韓請求権並びに経済協力協定」が締結され、韓国は莫大な援助を日本から手に入れることになりました。(この援助金が韓国の漢江の奇跡と言われる元となる)
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  戦後20年にわたり、韓国による不法行為によって、実に日本漁船328隻が捕らえられ、抑留された漁民は3929人に上りました。銃撃などによる犠牲者は29人、障害者となった者84人に達しています。この間、漁民が受けた物的損害の総額は当時の金額で90億円という膨大なものでした。
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  これほどの長期間(1947年~1965年)、罪もない多くの日本人を殺害し、虐待し、莫大な精神的・物質的被害を日本に与えておきながら、韓国は今日に至るまで一言の謝罪も補償もしていないのです。日本に文句を言う前に、自分たちが日本漁民に行なった残虐行為を思い出し、猛省すべきではないでしょうか。
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日本の海を守った英霊たち
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  読者の皆さんは、なぜそこまでして漁民が危険な漁場に出て行ったのか疑問に思うかもしれません。当然、生活のためという理由もあったでしょう。しかしそれだけなら、まだ命のほうが大事なはずです。仕事を替えようと考えるのも当然です。実は彼らは自分たちが出漁しなければ、「李ライン」を世界が認めてしまうことを恐れたのです。日本政府が憲法(9条)に縛られてまったく身動きがとれない中、日本漁民は銃撃を覚悟のうえで海に乗り出し、命がけで操業を続けることで李ラインの定着を防いだのです。
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  韓国の警備艇が近づいて来ると、丸腰の日本の巡視船は自ら銃弾を浴びることで日本の漁船を逃がしたのです。彼らは文字通り、身命を賭けて日本の国益を守り通してくれたのです。亡くなった方々は護国の英霊として遇するべきと私は思います。本当にご苦労様でした。
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【コラム】あまりに理不尽な出来事だった
 日韓漁業協議会事務局長の田中道知氏は 、『日韓漁業対策運動史』の「あとがき」で次のように述べています。非武装中立論者にぜひ聞かせるべきでしょう。
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  「日韓漁業紛争は世界に類例のない激しく、そして理不尽な出来事でした。銃撃、拿捕、抑留と、あたかも戦争の如きものでした。それは戦争中といえども、一般産業である漁船へは無差別攻撃はしなかったはずです。まさにこれは自衛力すら持たない、みじめな戦後日本の姿そのものと考えられます。相手から銃撃される、連れ去られる、財産生命を奪われる。これを見殺しにする哀れな姿、それが当時の日本の現実であったのです。
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  同胞の生命財産を保護する目的で派遣される巡視船は、この海域へ行く時はわざわざ砲を外していく無抵抗主義の保護でしかなく、負け犬が尾を股に巻き込む哀れな恰好でしかない。それも相手が、話せばわかる君子ならいざ知らず、理由が何であるかを問わず、銃口を向ける暴力団とあっては論外のはずなのに、わかっていてもそうするしかなかった当時の日本の力について、実に考えさせられるものがあります」
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   『こうして捏造された韓国『千年の恨み」』 松木國俊著 WAC
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                      抜粋   
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     多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 

・日本こそ「千年の恨み」がある

  韓国・朝鮮人が日本に対して抱いている「千年の恨み」は、反日教育で植えつけられた”逆恨み”に過ぎません。実際には日本のほうこそが、韓国に対して正真正銘の「千年の恨み」があります。ですが「和」を重んじる日本人は、その恨みをあえてこれまで水に流してきたのです。しかし世界中で日本人を鬼畜のように喧伝(けんでん)されたのでは、もはや黙ってはいられません。彼らの反日妄想からの覚醒と自省を促すために、韓国・朝鮮人が日本に対して過去に、どのようなことを行なったのか、その残虐行為の数々を彼らに突き付けましょう。
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(1)元寇は”高麗寇”だった
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  1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の2回にわたり、元軍は日本に大挙して侵攻して来ました。ですが実はその時、多くの日本人を惨(むご)い方法で虐殺したのはそのほんどが高麗兵だったのです。記録に基づいてその実態を確認してみましょう。
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高麗兵による「文永の役」の虐殺
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  文永11年10月5日、蒙古人と漢人からなる混合軍2万人に加え、金方慶(キムパンギョン)が率いる8千人の高麗軍を乗せた900隻の元軍船団が、最初に対馬(つしま)を襲いました。それに対し、手勢80騎で立ち向かった宗助国(そうすけくに)は奮戦むなしく、多勢に無勢で討ち死にし、日本軍を打ち負かした元軍は対馬島内に侵攻し、老人や子供までことごとく斬り殺し、地獄のような有り様となりました。女性は生け捕りにされたうえ、手の平に穴を開けられ、そこに綱を通して船ベリに結び付けられたといいます。この時の様子が、蒙古来襲関連資料『伏敵編』(山田安栄編)の中の『高祖遺文録』(日蓮の遺文を集めたもの)に次のように記録されています。
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  去(さる)文永十一年太蔵甲戌(こうじゅつ)十月ニ蒙古国ヨリ筑紫(ちくし)ニ寄セテ有りシニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレバ、百姓等ハ男ヲ或(あるい)ハ殺シ、或ハ生捕リニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生捕リニス、一人モ助カル者ナシ。壱岐(いき)ニヨセテモ又如是(かくのごとし)」
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  百姓とは一般人のことであり、この記録にははっきりと一般人の男は殺されたり生け捕られ、女性は手に紐(ひも)を通されて船に結わえ付けられたり、生け捕りにされて一人も助かるものはなく、壱岐でも同じだったと書かれています。さらに編者の山田安栄氏はこの部分に、次のような解説を加えています。
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  「索ヲ以テ手頭ト手頭トヲ連結シタルニ非ズシテ、女虜ノ手掌ヲ穿傷シ索ヲ貫キ舷端ニ結付シタルヲ謂フナリ。日本書記天智帝二年紀ニ、(百済王豊璋嫌福信有謀叛心以革穿掌面縛)トアリ以テ證スベシ」
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  つまり編者は、「百済(くだら)王豊證(ほうしょう)が、福信に謀叛(むほん)の心があるのを嫌って、革をもって掌(たなごころ・手の平)を穿(うが)ち縛る」という記述が日本書記にあることから、古来より朝鮮半島には手に穴を開けて革や縄を通すやり方があり、捕らえられた女性たちは縄で手を縛られたのではなく、手に穴を開けてそこに縄を通されたと断じています。それが朝鮮半島の伝統的行為である以上、壱岐・対馬での残虐行為は当然、高麗兵の仕業(しわざ)だったのです。
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  その後、博多湾に上陸した元軍は、日本軍の激しい抵抗に遭って、わずか1日で退却し、博多湾を出たとたんに暴風雨にあって大半の船が沈没しました。それでも逃げ延びた元軍は帰途、再び壱岐・対馬に上陸して童男、童女二百人あまりを捕らえてフビライ王に差し出しました。せめてもの戦功としたかったのでしょう(注1)。(注1)『元寇』(監修白石一郎、元寇七百二十年記念事業実行委員会発行)
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高麗王がフビライをけしかけた「弘安の役」
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  弘安4年5月、元軍は再び日本を襲いました。今回は東路軍4万人、軍船900隻、江南軍10万人、軍船3500隻で前回よりはるかに大軍でした。実はこの第2回目の日本侵攻をフビライに勧めたのが、高麗の忠烈王だったのです。彼は1278年にフビライに対して、次のように訴えています。
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  「日本はただの野蛮な国でありながら、交通の難しいのをいいことに元朝に来貢せず、あえて皇帝の軍隊に抵抗しています。わたしが思いまするに、(あの国は)元朝の徳に報いることはありません。この際、船を造り食料をためて、罪を強調して討伐しようと思います」(『高麗史日本伝』家089、注1)
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  そして忠烈王は自ら第二の長官として東路軍の統轄者となり、出発地の合浦(ごうほ)で軍馬を閲兵して東路軍を送り出したのです。(注2)”元寇”はまさに”高麗寇”ともいえるものでした。
   (注1)吉川広文館『蒙古襲来』新井孝重より
   (注2)光風社出版『蒙古襲来』山口修より
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「千年の恨み」の高麗兵の残虐行為
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  「弘安の役」では、合浦を出た東路軍はまず独自で壱岐・対馬を攻めました。対馬へは高麗軍のみが上陸し、文永の役を上回る残虐な殺戮を行ない、対馬は再び阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵の世界となりました。その時の高麗兵の残虐行為について、『日本思想体系20』所収の『八幡愚童記下』は次のように記述しています。
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  「ソノ中ニ高麗ノ兵船五百艘ハ壱岐・対馬ヨリ上リ、見ル者ヲバ打殺ス。人民堪兼難(たえかね)テ、妻子ヲ引具シ深山へ逃入処(のがれいるところ)ニ、赤子の泣声ヲ聞付テモ押寄ケレバ、片時ノ命モ惜ケレバニヤ、サシモ愛スル緑子ヲ我ト泣々害シツツ、世ノ中ニ最惜キ(もっともおしき)物は子也ケリ 其ニ増(まさ)ルハ我身也ケリ」
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  高麗の兵は山奥まで掃討しており、赤子が泣けばこれを聞きつけて高麗の兵がやってくるので、泣く泣く我が子を殺すという凄惨な状況が繰り広げられていたのです。この折、壱岐に攻め入った元軍は島民を捕らえ、妊婦の腹を裂いては胎児を掴みだし、乳呑み児は股を引き裂き、捕らえた男女は耳や鼻を削(そ)ぎ、その苦しむさまを見て楽しんだと言われています。また、ここでも女は犯されて手に穴を開けられて船べりに吊るされたそうです。(注1)
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  高麗の兵船が特に”残虐的”だったという分析もあり(注2)、実際に700年後の高麗兵の子孫である韓国軍が、同じような残虐行為をベトナムでやっています。当時の島民が、高麗兵の手にかかるのを恐れ、自分の愛する赤子を殺してしまうという、切羽詰まった気持ちも当然かもしれません。元軍は再び、暴風雨(神風)によって壊滅しましたが、高麗兵が犯した残虐行為は日本人に大きな傷跡を残しました。
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  これを読む読者の皆さんは、「むくりこくりの鬼が来る」という言葉をご存知でしょうか? ”むくり”は”蒙古”で、”こくり”とは”高麗”の意味であり、子どもを脅して言うことを聞かせるための言葉です。「むごい」という言葉の語源とも言われています。蒙古人と高麗人の恐ろしさが日本人の心にしっかり刻まれ、それがこのような言葉として現在でも残っているのです。
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  文永の役からまだ7百数十年しか経ていません。朴槿恵前大統領が「千年の恨み」と言うのなら、まず壱岐・対馬に「高麗軍蛮行の碑」を立て、教科書にもしっかりと高麗兵の残虐行為を書き、”高麗寇”被害者遺族に心からの謝罪と補償をするのが先決ではないでしょうか?

 (注1)『元寇』(監修白石一郎。元寇720年記念事業実行委員会発行より
 (注2)『SAPIO』2001年9月26日号「『蒙古襲来』で壱岐・対馬を蹂躙した高麗軍の蛮行は忘れられたか――東北女子大教授太田弘樹」より
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(2)終戦時に日本婦女子に行なわれた暴虐・非道
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  終戦後、博多湾に入港した引揚船から降りて来る女性たちの多くは、一様に目を背けるほどの悲惨な姿をしていました。当時、在外同胞援護会の医師をしており、引揚者の診療を行なっていた西岡利之氏は『ある戦後史の序章――MRU引揚医療の記録』(西日本図書館コンサルタント協会編)のなかで、次のように述べています。
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  「程度の差こそあれ、引揚者は一般に粗悪なみすぼらしい服装で、一見して敗戦国民の印象が強かった。極端な例は、引揚婦人の中には文字通り一糸も纏わぬ全裸か、あるいはそれに近い状態で、ただ局部に布切れや一塊の古綿を当てがっただけの姿で、担送下船して来たのを見たときは、一見屍体(したい)かと見間違うような哀れさであり、敗戦国の悲惨さ、口惜しさに暗澹たる気持ちになったことが、今更のように思い出される。また北鮮・満州・北支(那)等から引き揚げてきた若い婦人たちの多くは断髪し、女性の命ともいうべき顔面などを煤(すす)などで故意に汚し、胸部は厚く布を巻いて乳房を圧し、ズボン姿の男装が多く、その脱出の苦労が察せられた」
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極悪非道の朝鮮保安隊
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  終戦後、2週間も経たないうちに、朝鮮半島の38度線以北はソ連軍が全面的に制圧し、治安維持の名目で朝鮮人による保安隊が組織されました。そして彼らによる日本人圧迫と虐殺が始まったのです。当時を体験した人たちの証言を挙げます。北朝鮮の興南(フンナム)市に居住していた鎌田正二氏は月刊誌『潮』昭和46年8月号「引揚者100人の告白」の中で次のように書いています。
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  「ここでは特に、咸鏡北道(ハムギョンプクト)からとるものも取りあえず難を避けて南下、厳寒に越冬した人たちの実情を拾ってみる。吉州(キルジェ)や端州(タンシュウ)の海岸線に出た人たちに対する、ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と横暴は残酷を極めた。夜中に雨戸を蹴破って侵入して来たソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れ果てて幽鬼のごとく帰って来たという。それらはみな朝鮮人がソ連兵を手引きしたのだった。
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  部落ごとの保安隊の関所では厳重な身体検査が行なわれ、金や着物や米などが取り上げられた。靴の底や女の髪の中から金を探し出すのはふつう。一糸まとわぬ裸にされ、取り調べられた若い女性もあった」
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  さらに前出の「ある戦後史の序章」には、避難民救済活動を行なっていた石田一郎氏の手記が掲載されています。
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  「すでにジャーナリズムや文学などによって紹介され尽した観はあるが、満州からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦がおり、彼らは年頃の娘2人を連れ、辛苦の末にやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。だがそこで見たものは、日本人の娘たちが次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて、さらにさんざん辱められたうえ、虐殺されている光景であった。せっかくここまで連れては来たが、最愛の娘たちもまもなく同じ運命をたどるであろうと不憫に思い、近くの林の中の松の木に縊(くび)って自決させたという。これは娘たちの遺髪ですと言って、私に見せてくれたが、もう涙も涸れたのか、淡々と他人(ひと)事のように語る表情の中に、私は深い悲しみを見た」
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  当時の状況を知るには、この2つの証言だけでもう十分でしょう。他に悲惨な話はいくらでもありますが、これ以上載せる気がしません。
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超法規堕胎病院「二日市保養所」
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  厳寒が終わり昭和21年(1946年)の春になると、38度線を脱出しようとする女性たちが、ソ連兵や朝鮮人に暴行されて妊娠させられたり、性病に冒されて帰国する女性たちが激増しました。昭和21年3月に、釜山日本人世話人会により婦人に対する調査が行われましたが、検診者885人のうち暴行被害者が70名、性病罹患者が19名もいました。実に約1割が被害者だったのです。引き上げ船が博多湾に入る時、海に身を投げる女性もいました。それも当時は堕胎が法律で禁止されていたために、犯されて身ごもってしまった子どもを、どうすればいいかと思い悩んだ末のことだったのです。
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  そのような暴虐の犠牲となった女性たちを何とかして救おうと、民間組織である在外同胞援護会救療部が立ち上がり、厚生省引揚援護局の協力を得て「二日市保養所」という施設を福岡県二日市町につくりました。厚生省はこの施設に限り、超法規的処置として「強姦によって妊娠した女性たち」の堕胎手術を黙認し、その運営資金を提供しました。実際の医療活動はすべて援護会救療部が行ない、性病に罹った女性たちについても病気が回復するまでこの施設に匿(かくま)い、治療を続けることができました。(注1)
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  当初は「恥を晒(さら)したくない」と考えて、被害を隠したまま船を降りると港を去る女性も多かったようですが、当人のプライバシー厳守を徹底し、やがて救護活動は順調に進むようになりました。
   (注1)『水子の譜』(上坪隆 社会思想社)より
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ソ連兵より朝鮮人から受けた被害が圧倒的に多かった
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  二日市保養所の医務主任を務めた橋爪将氏により提出された、昭和21年(1946年)6月10日付現状報告書(注1)には、次のような事実が報告されています。
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  「不法妊娠ヲ地区別ニ分類スルニ北鮮24にして最多、南鮮14、満州4、北支3ノ順ニシテ鮮人に因(ヨ)ルモノ28、ソ連人に因るモノ8、志那人ニ因ルモノ6、米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ」
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  この時期は、北朝鮮経由の帰還者の比率が多いために、北朝鮮で暴行されたケースが多くなるのは当然としても、朝鮮人による暴行はソ連人によるそれの3倍に達しています。日本人女性に暴行を加えた者の圧倒的多数は朝鮮人だったのです。
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  韓国が慰安婦問題で日本を貶めようとするいまこそ、終戦時に多くの日本女性が朝鮮人に凌辱され、虐殺された真実の歴史を突き付けて糾弾すべきでしょう。「それは北朝鮮がやったこと」などという言い逃れは許しません。「大韓民国憲法第三条(領土)」には、韓国の領土は「韓半島(注2)および付属の島嶼(とうしょ)」ときっちり書いてあります。韓国の憲法上、北朝鮮も韓国であり、北朝鮮は同胞のはずです。(注2)「韓半島」は韓国における「朝鮮半島」の呼称。
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        『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                       抜粋
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  多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

・憲法9条のために竹島を守ることも取り返すこともできない

【コラム】民族の名誉を守ったトルコ政府
  アメリカ連邦下院決議は、次のような言葉から始まっています。
  「1930年代から第二次世界大戦までの間、日本政府は『慰安婦』と呼ばれる若い女性たちを日本軍に性的サービスを提供する目的で動員させた。日本政府による強制的な軍隊売春制度は、『集団強姦』や『強制流産』『恥辱』そして『手足切断、死亡および結果的自殺に至る性的暴行』などの残虐と規模において前例のない20世紀最大規模の人身売買の一つである」  朝日新聞夕刊2007年7月31日付
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  韓国の捏造した途方もない嘘がそのまま決議文として採択され、残虐民族とされた日本人の名誉は地に堕ちました。同じ時期にアメリカ連邦下院では、第一次世界大戦期のオスマン・トルコによるアルメニア人大虐殺非難決議採択の動きがあり、トルコ政府は「トルコ民族の名誉が永遠に失われる」と猛反発し、アメリカとの軍事協定の無効化まで持ち出したのです。これに慌てたブッシュ政権は議会に最大限の圧力をかけ、採択は阻止されました。民族の名誉を守ることがいかに大切か、誇り高きトルコ人は熟知しているのでしょう。
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【コラム】韓国式謝罪とは
  拓殖大学教授の呉善花(オソンファ)氏は『Voice』(2013年5月号)の「朴槿恵大統領『親日幻想』に騙されるな」で、韓国式謝罪について次のように述べています。「日本の政治家がこれまで謝ってきたけれども、いまなお韓国人が要求するのは、その謝り方が韓国式の謝り方ではないからである。ではどのような謝り方をすればいいのかといえば、土下座して、手をすり合わせながら涙を流し、繰り返し『悪かった』と云ったうえで、日本の領土の3分の1を差し出す、これである」
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竹島は合法的に日本の領土となった
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  竹島は間違いなく日本の領土です。まず、竹島が正式に日本の領土となった経緯から振り返ってみましょう。
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1904年、隠岐島民の中井養三郎が内務、外務、農商務省に竹島の領土編入と貸下げを願い出た。
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1905年、他国が占拠したと認められる形跡のないこと。すでに隠岐島の漁業会社がアシカ漁のために小屋を建設しており、これが占領の事実に当たることを確認。国際法上の「先占」の法理により、竹島を日本領とすることを閣議決定した。
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1951年5月8日に調印したサンフランシスコ講和条約でも、改めて日本領と確定した。これは国際法に準拠したもので、どこからも文句のつけようがないはずです。ところが韓国は、実力行使でこれを奪い取りました。つまり、竹島を日本領とするサンフランシスコ講和条約が発効する直前の1952年1月に突如、「李承晩ライン」を宣言し、竹島を韓国側に取り込んだのです。この時点では日本はまだ独立しておらず、(戦争の疲弊に加え軍事力もなく)手も足も出なかったのです。
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韓国側の主張には根拠がない
韓国のいう根拠
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  竹島問題について、韓国が自国領とする主な根拠は次の4つです。
独島(竹島)は歴史的に于山島、三峰島、可支島、石島と呼ばれており、独島が韓国領になったのは、于山島を含む于山国が新羅に編入された512年である。
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安龍福(アンヨンポク)の活躍で、鬱陵(ウルルン)島と独島(竹島)を朝鮮領と日本が認めたことが、1728年編纂の『粛宗実録』に記載」されている。
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日本が竹島を編入した1905年は日本に外交権を奪われていたから、韓国は抗議できなかった。
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1946年の連合国最高司令官総司令部指令で、独島は韓国領となった。
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韓国側の根拠への反論
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  では、韓国主張のこの①から④について順に反論します。
  ①の韓国の主張は、1770年に朝鮮で編纂された『東国文献備考』にある「興地誌」(よちし)によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山島はいわゆる松島(竹島)だ」との記述が根拠になっており、于山島が新羅に編入された512年から竹島は自国領だと主張しているのです。しかし『東国文献備考』の下地になった『界考』には「興地誌」によれば于山島と鬱陵島は同じ島」となっています。(注1)
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  島の名前は時代とともにめまぐるしく変わっており、『東国文献備考』の記述をもって領有権を主張するのは無理があります。いずれにせよ、古い資料を持ち出し、昔に遡って領有権を主張し出したらキリがないでしょう。前にも述べましたが、5世紀に書かれた『五漢書・韓伝』には、馬韓の領域について「その北は楽浪郡と、南は倭と接する」と書いてあります。半島最西南部は、倭人倭種が支配する領域だったと言っているわけです。(注2) ならばこれを根拠に、半島南西部は日本領だと主張してもいいことになります。
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  ②の安龍福という朝鮮の人物が1696年に鳥取藩に密航し、朝鮮に帰還後、「松島(竹島)は于山島で朝鮮領だとの訴えを日本側も認めた」、と供述していることが『粛宗実録』に記録されていると韓国は指摘しています。この時、安龍福は鳥取藩主に面会して訴えた結果、鬱陵島と于山島が朝鮮領となったと証言していますが、これはあり得ません。なぜなら当時の記録では、鳥取藩主は参勤交代で江戸にいて安龍福には会っていないからです。(注3)
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  もし仮に会えたとしても、領土問題について一地方藩主に対外交渉権はありません。江戸幕府は対馬藩の進言によって鬱陵島については事実上、朝鮮領と認め、安龍福が来る5ヵ月前の1696年1月28日付で鳥取藩に鬱陵島への渡航禁止令を発し、対馬藩に対し同方針を朝鮮王朝へ伝達するよう命じています。(注3)  一方、竹島については、江戸幕府は朝鮮領であるなどとは認めてはおらず、よってその後も日本人のみが利用してきたのが歴史的事実です。
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  ③については韓国の全くの事実誤認です。日本が韓国の外交権を掌握するようになるのは、竹島の日本領編入から9ヵ月後の1905年11月に第二次日韓協約が結ばれてからです。その前の第一次日韓協約では、大韓帝国の外交にアメリカ人顧問を置くことが決まったのみで、竹島編入の段階で日本は大韓民国の外交に干渉する立場にはなかったのです。したがって、本当に大韓帝国が竹島を自国領だと思っていれば日本へ抗議できたはずです。
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  当時、朝鮮人が竹島を自国領だと思っていなかったという決定的証拠があります。朝鮮の歴史家、玄采(げんさい)の監修により、光武3年(1899年)に朝鮮の地理書「大韓地誌」が編纂されました。これは、日本の保護国になる前に大韓帝国自身が作ったものであり、当時、学校でも使用されてきた「準公文書」でもあります。そこにはこう書いてあります。
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  「我が大韓国位置はアジア州東部に在り、志那の東北部から日本と黄海渤海間に突出した半島国であり、北緯33度15分より42度25分に至り、東経(グリニッジ天文台により)124度30分から130度35分に至り、東は日本海を界とし、西は黄海に臨み、東南は一海峡を隔てて日本対馬島と相対し・・・・」 つまり、竹島の位置は東経131度52分であるので、大韓帝国には含まれてはいません。
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  ④については最終的事実関係の「意図的誤認」なので、これにきっちりと反論することが最も大切です。なぜなら、これまでの①から③は過去の経過についての議論でしたが、領土の最終確定は戦争後の講和条約によるのが国際法の大原則だからです。
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  1945年9月27日、連合軍総司令部によって竹島と日本の間に「マッカーサーライン」が引かれ、占領政策の一環として日本の漁船の活動が制限されることになりました。続いて1946年1月29日付、連合国最高司令部総司令(GHQ)の指令第677号で、日本の行政権の及ぶ範囲から鬱陵島とともに竹島を排除しました。さらに船舶及び乗組員に対し、竹島の12カイリ以内への接近を禁じました。つまり、韓国はこれらが「竹島が韓国領である証拠」としているのです。
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  しかしこれらは占領下における一時的処置であり、指令第1033号でも「日本国家の管轄権、国際境界線、または漁業権に関する最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」と断っていました。領土の最終的確定はあくまで講和条約によるのが通則ですから、竹島が日本領か韓国領かは、サンフランシスコ講和条約で決着がつくことになります。
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  1951年6月14日付のサンフランシスコ講和条約 改訂英米草案では、韓国との関係において日本が放棄する領土は「済州島、巨文島、鬱陵島」とされ、放棄すべき領土に竹島は含まれてはいなかったのです。これに激怒したのが韓国です。同年7月19日付で、アメリカへ竹島を日本領土から除外するように猛烈に要求しました。(韓国はアシカ漁のために竹島がどうしても欲しかった。その後密漁で絶滅)  .しかしこれに対しアメリカは、同年8月10日付ラスク国務次官補名で次のように正式に回答し、韓国の要求を完全に退けました。
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  「独島もしくは竹島あるいはリアンクール岩に関して、この無人の島嶼(とうしょ)は、我々の情報によれば、これまで韓国の一部として扱われたことは一度もなく、1905年より日本国島根県隠岐島(おきのしま)庁の管轄下にある。この島は韓国政府によって権利の主張がなされていることがこれまで明らかになっていない」
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  サンフランシスコ講和条約は同年1951年9月8日に改訂英米案どおりで調印され、翌1952年4月28日に発効し、日本は独立しました。これに伴って、占領下でのみ有効だったマッカーサーラインも、GHQ指令第677号や第1033号も失効となりました。竹島はサンフランシスコ講和条約で国際法上、間違いなく日本領土であることが確認されたのです。
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(注1)(注3)『竹島』島根県/竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議発行
(注2)室谷克美『日韓がタブーにする半島の歴史』(新潮社)
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憲法9条があるために竹島は奪われた
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  サンフランシスコ講和条約で「竹島は日本の領土」と確定していながら、条約発効直前の1952年1月に、韓国は一方的に李承晩ラインを設定し、竹島を強引に取り込みました。その後、韓国によって竹島を占領された経過は次の通りです。
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1953年4月20日
  竹島の韓国側保持を目的とした民兵組織「独島義勇守備隊」が結成され、韓国警察から武器の供与を受けて竹島に上陸。
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同年7月12日
  日本の巡視船「へくら」が、竹島近くで韓国船からおよび上陸している竹島から発砲され、一発が船体に命中。これに対して岡崎外相は、「竹島が日本領であることは明確である。米英に調停を依頼することは考えていない。相手は韓国政府であり、十分に話し合いたい」
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1954年6月17日
  韓国内務部は、「韓国沿岸警備隊は竹島を日本の侵略から守るため駐留部隊を同島へ急派した」と発表。日本政府の小滝外務次官の見解は、「我がほうが武力行使することは憲法9条違反であるから、あくまでも外交的解決をしたい」
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同年7月29日
  韓国政府治安局は、「今後、竹島に警備員を常駐させる」と発表。日本側無反応。
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同年8月26日
  日本の巡視船「おき」が竹島の韓国側警備員から銃撃を受け、一発命中。計400発の銃撃を浴びる。日本が韓国政府に抗議するも、韓国側は「日本側が挑発した」と逆抗議。山田防衛庁防衛局長は、「武力による不法侵入というより、不法入国というものだと思う。したがって自衛隊の防衛出動は考慮していない」と述べた。
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同年9月25日
  日本政府は竹島問題を国際司法裁判所に付託(ふたく)することを決定し、付託に同意するよう韓国側に伝えた。しかし韓国側は、竹島は韓国領であり、日本側提案は全く非常識である」と一蹴。
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  日本政府は竹島の解決を日韓国交回復の条件にするとの姿勢も見せましたが、あとで述べるように、多数の日本人漁船員を人質に取られていたため、やむを得ずこの条件を取り下げて日韓交渉に臨みました。(韓国によって海上に突然引かれた李承晩ラインにより、その時漁に出ていた多くの日本の漁船乗組員約4千名が拿捕され、韓国へ連れて行かれて拷問を受けたり殺されたりし、交渉の人質として使われた)
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  その結果、竹島問題については「両国政府が合意する手続きに従い、調停によって解決を図るものとする」という、一般的懸案処理の形でしか合意できなかったのでした。その後、韓国はヘリポートや接岸施設、警備隊宿舎などを建設して着々と実効支配を進め、今日(こんにち)に至っているのです。
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  韓国の力づくの竹島不法占拠に対し、日本政府は抗議の口上書を昭和27年(1952年)以降、韓国側に送り続けていますが全く相手にされていません。結局、力の裏付けのない話し合いなど全く無意味であることがよく分かります。
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  昭和20年代後半、韓国は日本を相手に全面戦争をする意思も力もありませんでした。もし日本が普通の他の国のように自衛権を発動して侵略者を力で排除しようとすれば、韓国はすぐに引っ込み、現在のような領土問題はなかったはずです。

    しかし(アメリカがつくって与えた)憲法9条が障害となって、領土を守るために戦うという意思表示すらできず、憲法前文のとおり「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようとした」結果、韓国にやすやすと日本国の一部である竹島を奪われてしまったのです。
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  日本に接している近隣諸国を見ると、北方領土を不法に占拠して未だに返さないロシア人、そして反日で凝り固まった韓国・朝鮮人、それに中国人がいます。どこに、この憲法の前文にあるような「平和を愛する諸国民」や「公正と信義に信頼」する人々の国があるというのでしょうか?
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  2013年11月23日、中国は一方的に尖閣列島上空を含む広大なエリアを防空識別圏に設定しました。(これは空の”李承晩ライン”と同じようなもの)  なぜなら日本が憲法9条に縛られて、手も足も出せないことが分かっているのでやりたい放題なのです。このままではいずれ尖閣列島だけでなく、さらに沖縄や対馬も、竹島と同じようなパターンで中国に奪われてしまうでしょう。

  このように日本国憲法は平和憲法どころか、実際には隣国から侵略を呼び込む「極めて危険な憲法」であることが、これでよくわかるでしょう。
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国際司法裁判所へ引っ張りだそう
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  2012年8月10日、李明博大統領が大統領として初めて竹島に不法上陸し、韓国領であるとして世界にアピールしました。これに対し、日本政府がとった行動は国際司法裁判所への共同提訴を韓国に呼びかけただけでした。韓国が乗ってこないことは最初から分かっていたことなので、ただ国民の「ガス抜き」をやっただけでしょう。当然、韓国は拒否し、その後は韓国に配慮して単独提訴もしないので、日本国民の「ガス」は溜まるばかりです。
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  2013年10月25日には、韓国海空軍と海上警察が竹島で防衛訓練をやりましたが、菅官房長官は「わが国の立場からは受け入れられず、極めて遺憾だ」とだけ述べました。そのような生ぬるい対応がこれまで繰り返されてきたからこそ、竹島を取られてしまったのです。日本が単独提訴をやらないまま時間だけが経過していけば、韓国の実効支配が既成事実化し、裁判でも不利になります。
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  竹島は間違いなく日本の領土であり、これを取り返すために日本は本気であることを世界中に示さなければなりません。そのためには国際司法裁判所への単独提訴を繰り返し、日韓間に領土問題が存在することを諸外国に知らしめ、日本の正当性を訴えなければなりません。韓国がいやでも裁判に応じざるを得ない環境をつくり、裁きの場に引っ張り出す以外に竹島を取り戻す道はありません。
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【コラム】外交に「誠」で臨むのは日本だけ
  外交の目的は国益の維持・拡大です。国益を追求すれば必ず、他国の国益とぶつかります。それが「外交は戦争の延長」と言われる所以です。それを、外交交渉に”誠”を持って臨めば相手も”誠”で応えてくれると考えるのは、日本人の完全な思い違いです。「謙譲の美徳」で相手の「尊大さ」に勝てるわけがなく、日本の譲歩は相手の勝利でしかありません。
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  相手の主張は「嘘」が半分、「ダメ元」が半分と思ってちょうどいいのです。かつて福田康夫首相は靖國参拝をしない理由を、「他国の嫌うことはやらない」と言いました。ならば、竹島や尖閣列島を日本が領有するのは、韓国や中国が嫌うことなので、韓国や中国に差し出すべきとでも言うのでしょうか? 嫌われるのを避けて「いい顔」ばかりしていては、国益を失います。相手国に嫌われる首相や外交官こそ、日本のために必要な人なのです。
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    『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                     抜粋
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     多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 

・「強制連行がなかったとしたら、韓国世論を抑えられない。賠償は一切要求しないから、あったことにしてほしい」  ⑤

悲惨だった米軍慰安婦
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  米軍慰安婦の生活は悲惨でした。22歳の時から25年間、米軍慰安婦として過ごした金蓮子(キムヨンジャ)さんは『基地村の女たち』という手記のなかに書いています。「病院へ行くとお金がたくさんかかりそれがすべて自分の借金になるので、子どもを堕ろすのに生理不順の薬を飲み、何日も下腹部をえぐるような痛みに耐え、拳(こぶし)のような塊りが出てきて気を失った」(『週刊新潮』平成25年11月28日号「大新聞が報じない韓国の馬脚」より)
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  前144ページの写真の下部分の記事は、1957年7月21日の東亜日報の記事です。「行けども行けども耐えがたい慰安婦生活。借金がたまり、死ぬ以外にない」との遺書を遺しています。米軍慰安婦の悲惨な状態がよくわかります。日本軍慰安婦のほうがよほど恵まれていたのではないでしょうか。韓国は日本軍慰安婦問題を追及する前に、自分たちが米軍に差し出した慰安婦への補償を一刻も早く行うべきです。(日本向けはできても)なぜ「米軍向挺身隊問題対策協議会」は韓国にできないのでしょうか?
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「河野談話」で強制連行が定着した
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  これまで述べてきたように、日本軍による「慰安婦強制連行」という非難が、いかにいい加減で荒唐無稽であるかがよくわかると思います。韓国は米軍(国連軍)に自国の慰安婦を提供しており、韓国軍自体も朝鮮戦争時に「特殊慰安隊」と称する”慰安婦”を使っていました。ではなぜ、今でも日本は世界中から”性奴隷国家”という”濡れ衣”記せられているのでしょうか?
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  それは河野洋平氏が官房長官を務めていた平成5年(1993年)8月4日に、「日本軍による「強制連行」を認めた談話を出したからです。これがいわゆる「河野談話」です。そこには「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者がこれに当たったが、その場合も甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかとなった」と書かれています。この内容はどうひっくり返して読んでも、「日本人の官憲が本人の意思に反して、女性を強制的に慰安婦にした」としか読めません。
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   この河野談話の存在こそが、”強制連行”があった証拠であると世界中が解釈し、それが”事実”として国内外に定着する元となったのです。ではなぜ河野洋平氏はここまで嘘に満ちた談話を出したのでしょうか? 当時の石原信雄官房副長官は後日、裏の事情を次のように証言しています。
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  「調査した書類からは一切、強制連行した証拠は見つからなかった。根拠となったのは彼女らからの聞き取り調査と証言だけである。これは『強制連行がなかったとすると、韓国世論を抑えられない。賠償は一切要求しないから、あったことにして欲しい』と韓国から依頼され、政治的に認めたものである」
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  当時の駐日韓国大使であった孔魯明(コンノミョン)氏も、「韓国政府は金銭的な補償を求めなかった」とそれを裏付ける証言をしています。『反日で大義を失った韓国』(『ニューズウィーク』日本版2013年6月11日号)
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  要するに、韓国の要求の前に萎縮した河野洋平は、元慰安婦だったと名乗り出た人々の一方的な言い分だけを根拠に、何の証拠もない”強制連行”を”あった”ことにして河野談話を出したのです。よって当然ながら、内容は嘘だらけの談話になったのです。
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【コラム】セマラン事件
  政府調査資料の中で唯一、軍人が強制売春をさせた事件があります。
  これは昭和19年2月から4月にかけて、インドネシアのジャワ島セマランの慰安所で、陸軍軍人がオランダ人捕虜の女性に強制売春をさせた事件です。これをもって強制連行の証拠に用いられることがありますが、あくまでも軍本部は「同意の上…自発的に働く」という許可条件で(慰安所を)認可しているので、一部軍人が強要したことを知った軍本部は直ちに慰安所を閉鎖させています。
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  さらに戦後の連合国による戦犯裁判で、これに関与した軍人は「軍本部が出した許可条件が満たされていないのを知り得たのに、その監督義務を怠った」という理由で、責任者は死刑の判決を受けています。本件は一部の軍人が軍命令に違反して行なった違法行為であり、軍による強制連行とはまったく関係がありません。
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完全に崩れた「河野談話」の根拠
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  日本政府は平成19年(2007年)3月16日、第一次安倍内閣において「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」という国会答弁書を正式に閣議決定しています。したがって河野談話の根拠はまさしく「元慰安婦の証言」だけになりました。
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  この「元慰安婦」への聞き取り調査は、平成5年(1993年)7月26日から30日までの5日間、ソウルで実施されたもので、平成19年(2007年)当時の内閣外政審議室審議官・東良信(ひがしよしのぶ)氏は自民党の勉強会で、「(聴き取り調査の内容は強制性認定の)明確な根拠として使えるものではなかった」と証言しています。
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  しかしながら日本政府は、この調査内容を「個人情報保護」などを理由にこれまで開示してきませんでした。韓国に「過剰配慮」した問題の多い調査だったことが、一般国民に知られるとまずいと思った(人間がいた)のでしょう。ところが産経新聞社がその調査報告書を入手し、平成20年(2008年)10月16日付朝刊一面トップで、次のようにその杜撰(ずさん)な調査内容を天下に知らしめたのです。
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  「産経新聞は15日、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年(1993年)8月の『河野洋平官房長官談話』の根拠となった、韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査報告書を入手した。証言の事実関係は曖昧(あいまい)で、別の機会での発言との食い違いもい目立つほか、氏名や生年すら不正確な例もあり、歴史的資料としては通用しない内容だった。軍や官憲による強制連行を示す政府資料は一切見つかってはおらず、決め手の元慰安婦への聞き取り調査もずさんだったと判明したことで、河野談話の正統性は根底かた崩れたといえる」
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  また、「慰安所がない地域で働いていたという証言がある」「人選は韓国側が行なっており、日本政府は裏付け調査や確認作業を一切行なっていない」など、河野談話の唯一の根拠であった元慰安婦への聴き取り調査には、まったく信憑性(しんびょうせい)がないことを明らかにしています。
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  さらに驚いたことに、この「河野談話」は韓国との合作だったことが分かりました。平成26年(2014年)1月1日付産経新聞によれば、当時の政府関係者の証言として日韓両国政府は談話の内容や字句、表現にいたるまで綿密にすり合わせており、日本側の原案は各所で韓国側の要求どおりに書き換えられていたのです。
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  たとえば「心からお詫び申し上げる」とある箇所は、韓国側に「反省の気持ちを」付け加えるように指摘されて盛り込まれたとのことです。韓国に嘘の歴史を押し付けられて「反省文」を書かされ、その書き方まで指導されていたのです。いつから日本は韓国の占領下になったのでしょうか? これを担当した日本政府関係者には、「日本人の誇り」の欠片(かけら)すらなかったに違いありません。
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  これらの報道は国会でも取り上げられ、平成26年(2014年)2月20日の衆議院予算委員会で、前出の石原信雄元官房副長官は河野談話が16人の証言だけをもとにしていたこと、証言の裏付け調査は全く行なっていなかったことを改めて認めています。いずれにせよ、これで河野談話の根拠はもはや完全に崩れたのです。
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  日本は決して”慰安婦の強制連行”などやってはいないのです。
  どこの国の軍隊であれ、職場である駐屯地で血気はやる若者が「強姦事件」などを犯さぬよう、そして将兵が性病に罹患(りかん)するのを防ぐために「慰安施設」を使用していました。唯一それがなかったソ連軍では第二次世界大戦直後、ドイツ占領時に200万人ものドイツ人女性を強姦したと伝えられおり、日本や満州や樺太(からふと)でも多くの女性がソ連軍の犠牲となったのです。
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  「慰安婦問題」を論ずるうえでは、”慰安婦”を利用したのは日本軍だけではなく、米軍も韓国軍も、おそらくほとんどの国の軍隊が”必要悪”としてそれを利用していた(利用している)事実をまず指摘しなければなりません。”慰安婦”つまり”売春婦”を利用するのは女性の人権を踏みにじる行為だというのなら、まずあらゆる国の軍隊が非難の対象になるはずです。
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 さらに、そこまで女性の人権にこだわるのなら、世界中で現在進行形で行われている通常の”売春行為”も同時に問題にすべきです。しかしながら、慰安婦問題を追及する韓国や日本の反日団体は、いま現在も「売春によって人権を踏みにじられている」はずの多くの女性たちには目もくれません。それだけでも彼らの”うさん臭さ”がよくわかろうというものです。
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  つまり、彼らの目的は「女性の人権侵害糾弾」などではなく、「日本を潰すこと」なのです。「売春をなくすこと」――それは全人類が有史以来、抱えてきた共通の重い課題であり、それを実現するためにはこれから何百年をかけて、人類全体の倫理性が向上すること以外、解決の道はありません。
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河野談話を撤回し、日本の名誉を守ろう
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  ひるがえり「日本軍による慰安婦強制連行」は、韓国が大東亜戦争時に日本軍相手に合法的に行なわれていた売春だけを切り取り、悪質な作り話をもとにして「女性の人権問題」に仕立て上げ、日本の国際的地位を失墜させるために政治的に利用しているまったくのデマゴギーに過ぎません。しかし、いくら荒唐無稽な”嘘”であっても、100回言い続ければ他人は信じてしまいます。このままでは日本国の威信は傷つき、国民は誇りと自信をなくし、韓国・北朝鮮・中国の狙い通り、日本は衰亡へと向かうでしょう。
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  本来なら日本政府が「慰安婦強制連行はなかった」ときっちり反論しなければなりません。ところが外務省がやっているのは、「慰安婦問題ではすでになんども謝罪しており、『女性のためのアジア平和国民基金』を通して元慰安婦への補償もしている」という弁解ばかりです。河野談話がある限り、これ以上の反論はできないのでしょう。しかしこれでは「慰安婦強制連行」が実際にあったことになってしまいます。これは完全に逆効果です。
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  日本政府は、根拠がまったく喪失している河野談話を即刻撤回し、「強制連行はなかった」と歴史的事実を明確に世界に発信しなければなりません。なぜなら国民の名誉を守ることは国の義務だからです。
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コラム】『女性のためのアジア平和国民基金』
  日本政府としては「日韓間の補償問題はすべて決着済み」という立場にあるため、代わりに日本政府が元慰安婦への”償い”を目的として国民に呼びかけて設立された基金のことです。この呼びかけ文には、次のようなことが書かれています。
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  「従軍慰安婦を作り出したのは過去の日本の国家である」
  「十代の少女までも含む多くの女性を強制的に慰安婦として軍に従わせたことは、女性の根源的な尊厳を踏みにじる残酷な行為でした」
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 従軍慰安婦という制度も、強制連行も全くなかったにもかかわらず、日本政府は嘘の上に嘘を重ねてこのような「基金」を作り、日本を貶めたのです。
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    『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                             抜粋
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   多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

・韓国公認30万人の慰安婦がいた ④

朝鮮勤務だった日本人警察官の「自分史」
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  前回③で、渡邉茂さんが述べていた「警察が職務に熱心で民衆の悩み事の相談にのっていた」、という証言を裏付ける資料が私の手元にあります。これは当時、朝鮮で警察官を務めていた稲葉豊作氏による『私の生きてきた道』という自分史です。稲葉氏のご子息からいただいたもので、当時の実態がわかる第一級の資料です。稲葉氏は昭和14年(1939年)9月に警察学校を卒業後、江原道平昌警察署へ派遣されました。そして朝鮮での警官の日常について書き遺しています。
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昭和14年(1939年)
  日勤の仕事は直轄以外の巡察や諸調査、春秋2回の掃除検査、種痘および予防注射の立ち合い(警察が立ち会わないと出て来ない人がいる)その他である。
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  田舎回りをしてみると人々の衛生思想は低く不潔であった。農家の住宅と牛舎が一緒であったり、蝿が多く追い払うのに一苦労する。出された食事を断れば「美味しくないからか、汚いからか」と親切で迫ってくる。最後は断り切れず、ご馳走になった。
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  どこでも田舎に行くほど人間は純朴で、親切で心根がやさしい。田舎回りをするとき清潔の点であまり神経質になると、民衆の中に溶け込むことはできないと思い、その後は臨機応変にやることにした。
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昭和15年(1940年)
  容疑者のほとんどは麻薬取締法違反(平昌はケシ栽培地域であった)又は賭博(冬は凍って仕事がない)で他は傷害、詐欺などで数字的には少ない。仕事は大分馴れてきたが、朝鮮語はなかなか上手くならずに苦労した。田舎回りをした際、日本語がわかる人がいないので、漢文を理解する人を探し出し、筆談でようやく調査目的を果たしたこともあった。
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  平昌郡美灘面(ミタンミヨン)に転属したときは、面長(村長)および幹部、警防団など多数の出迎えを受けて感激した。内地(日本)人は小学校の校長夫婦だけだったから、私たち夫婦を加えても内地人住人は4名である。次席には朝鮮人職員の安田巡査(朝鮮名は安徳玄)が勤務していた。
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  彼は頭もよく、キャリア7年のベテランであった。当時の(朝鮮の)田舎では一にも二にも警察を頼った。前に外勤勤務で述べた仕事の外、種痘に来なかった者の呼び出しやケシ栽培の割り当て指導があり、例外としては夫婦げんかの仲裁まで持ち込んで来るものもある。
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  田植え時になると猫の手も借りたいほど忙しいのに、女の人は手をかそうともしない。そこで田植えに私の家内を連れて行って手伝わせるとともに、世話人を通じて主婦たちが田植えに出るよう督励した。私の家内が手伝いに来ているので、主婦達も致し方なく出て来て田植えをするようになった。
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昭和19年(1944年)
  戦争の長期化で朝鮮人にも徴兵制度が行なわれた。警察はこの理解を深めるために、地区座談会を開いて宣伝につとめた。
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  これを見ると当時の朝鮮の田舎で日本人警察官と住民との、ほのぼのした交流風景が見えてきます。「日本語を奪った!」と韓国はヒステリックに非難しますが、日本人警官は日本語が通じずに苦労したのです。また徴兵制度導入にあたっては、理解を深めるために地区座談会まで開いています。
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  これが当時の実態であり、日本軍や警察が暴力的に農村から女性たちを連行して性奴隷にしたなど、荒唐無稽の作り話であることがよくわかります。河野洋平が「官憲による強制連行」を認めたのは、稲葉氏のような現地で朝鮮人のために尽くした日本人警察官への侮辱であり、名誉棄損以外の何ものでもありません。
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朝鮮人女衒(ぜげん)の日記に記された慰安婦の日常
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  さらに”慰安婦性奴隷説”を否定する明確な証拠が韓国側でも出てきました。それは大東亜戦争時に、ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働いていた朝鮮人女衒の日記が見つかったことです。これを発見したのは安乗直(アンビョンジク)ソウル大学名誉教授ですがその後、京都大学の堀和生教授および神戸大学の木村幹教授によって監訳されました。
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   私の手元にはその翻訳文前文があります。そこには当時の女衒の日常生活が淡々とつづられており、慰安婦への気遣いがいたるところに見られ、日本の軍人とも仲良くしており、朝鮮人差別の”さ”の字もありません。
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(朝鮮語から日本語への翻訳文)
 昭和18年3月8日(水)晴天
  55師団から金川氏の慰安所をマンダレー近くのイェウというところに移転しろという命令があり、今日、某所の部隊長が来て、行こうと言っていたが、慰安婦一同は絶対反対で行けないとのこと。
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 6月2日(水)雨曇天
  正金銀行によって村山氏の慰安所の慰安婦2人の貯金をした。
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 8月13日(金)曇細雨天
  鉄道部隊で映画の上映があって慰安婦たちが観てきた。
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 昭和19年3月3日(金)曇晴天
  慰安婦の〇子とお〇の2名が廃業した。
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 4月14日(金)晴曇天
  西原君と横浜正金銀行支店に行き、今般帰郷した李〇玉、郭〇順の2名に対する送金を済ました。
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 6月29日(木)晴曇天
  新入りの慰安婦、宋〇玉を連れて、特別市保安課に行って就業許可の下付を受けてきた。
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 7月4日(火)晴曇天
  慰安稼業婦の許〇祥(○江)は今のところ妊娠7ヵ月で休業届を提出した。
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 7月9日(日)晴天
  金本〇愛とその妹の〇愛が今般帰郷のため廃業するといい、主人の西原様は承諾したので今日廃業届を出した。
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 8月9日(水)雨暴雨後曇晴天
  朝食を食べて、正金銀行に行って、金本〇愛ら姉妹2名に対する送金許可申請を提出した。
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 10月25日(水)曇小雨天
  宮本敬太郎と、第一白牡丹の前慰安婦で今は中居が今回結婚したが、今夜両国食堂で知己を招き、祝賀の酒を飲むと誘われて行ったが、帰路、白牡丹まで寄って祝った。
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 12月4日(月)晴天
  正金銀行に行って金〇守の許可済の送金1万1千円を送金してもらった。
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  この日記からは、次のことがはっきり分かります。
1、慰安婦は自分たちの意思で移転するしないを決定できた。
2、慰安婦を稼業としてやるには十分な身元証明が必要だった。
3、慰安婦は大金を稼いで、送金していた。
4、慰安婦は外出の自由があった。
5、慰安婦は妊娠すると、休業届を出して休業した。
6、慰安婦は廃業できた。
7、慰安婦をやめて結婚する人もいた。
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  これを読む方には、当時の状況が十分よく分かると思います。”慰安婦”とは大金を稼いでいた”商業慰安婦”であり、絶対に”性奴隷”などではないのです。
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文玉珠(ムンオクチュ)の証言
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  私の手元に1冊の貴重な本があります。文玉珠という人物の証言で構成された『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎)がそれです。文玉珠は韓国で3番目に名乗り出た「元慰安婦」であり、日本の郵便局に慰安婦時代の貯金(元金2万5千145円)の払い戻し請求を行なったことから、日本でもその名が知られるようになりました。彼女はこの本の中で、慰安婦時代の思い出を語っています。
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 「私は一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。2、3か月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。『ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました』。ヤマダイチロウは私に向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、閉店休業だ。早速私たち慰安婦も1円(今のお金で1万円弱)ずつ出し合って大宴会をしたのだった」
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 「お金を500円預けた。わたしの名前の貯金通帳ができあがってくると、ちゃんと500円と書いてあった。生まれて初めての貯金だった。大邱で小さい時から子守りや物売りをして、どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が1軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった」
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 「ラングーンの市場で買い物をしたことは忘れられない。(中略)私はイギリス人のやっている洋服屋で服を買った。ハイカラな服だった。頼まれていた友達のも買って帰った。他の友達と行ったこともあった。2、3度行ったと思う。(中略)宝石店もあった。ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠(ヒスイ)が安かった。友達の中には宝石をたくさん集めている人もいた。わたしも1つくらい持っていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。(中略)日本の活動(映画)や内地から来た歌舞伎を観に行ったこともあった。歌舞伎は衣装をたくさんつけて、男が女の役をしているのが珍しかった」
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 「わたしはここラングーンでもすぐに売れっ子になった。将校の数も前線とは比べものにならないくらい多かったので、宴会にたびたび呼ばれた。チップがもらえるのが楽しみで、わたしは喜んでうたいにいったものだ」
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 「2か月ほどかかって帰国許可がでた。(中略)帰国の許可がおりたのなら、帰らなければならなくなっていた。それは命令なのだった。帰りたくないのなら逃げるしか方法はなかったのだ」
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 「日本の軍人が出入りしている(サイゴンの)キャバレーに入った。海軍のパイロットが数人いて(中略)『どうしてこんなところにいるの』と聞く。『朝鮮に帰りたくないので、ラングーンにまた戻りたいのですが、証明書を書いてもらうにはどうすればいいでしょうか』と事情を話してたのんでみた。『自分たちにはできないけれど、司令部に行けば書いてもらえるだろう。そこを紹介してあげるから、しばらく遊んでいきなさい』パイロットたちは御馳走してくれた」
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 「ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな格好でサイゴンの町を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう」
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 「ラングーンはやはり大きくてきれいで、いい街だった。軍人が自転車に乗ってやってきた。そして『ヨシコは乗れるか』と聞く。『乗れない』と答えると『教えてやろう』という。よろこんで教えてもらうことにした。(中略)私は緑のレインコートを着て、ラングーンの街をスイスイ走った。女で自転車に乗っている人などだれもいなかったので、通りをあるく人たちはみな、わたしを振り返って見ていた。ラングーンの街にでかけることは楽しみだった」
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 「その兵長は(酔っぱらっていて)ヤアーッとすごい形相をして切りつけてきた。私は夢中で体当たりをした。男は刀を床に落とした。私は夢中でそれを拾い、男に向かって真っすぐ突き出した。刀は男の胸を刺した。すぐに私は営倉に入れられた。兵長は何日目かに病院で死んだ。私が殺したのだ。(中略)日本軍の軍法会議で正当防衛が認められて無罪となった。(中略)『慰安婦に刀を抜くとはもってのほか』だと、わたしの無罪に多くの日本人の軍人たちも喜んでくれた」
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 「アユタヤの病院にいた時は母に送金もした。(中略)貯金から下ろして5000円送金した。係の兵隊に頼むと『貯金があるなら全部送ったほうがよい』といった。私は『あとのお金は朝鮮に帰ってからおろすからいいです』と答えて送らなかった」
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 「アユタヤで貯金を全て国に送るよう勧めてくれたあの軍人は日本が負けることを知っていたのでしょうね。言われた通り送っておけばよかった」
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   慰安婦だった文玉珠という女性は、ダイアモンドを買い、韓国に5千円送金しています。それは故郷に家が5軒も建つ金額です。また、いったん帰国許可が出ていながら、わざわざラングーンに逃げ帰って仕事を続けています。さらに日本の軍人を殺傷しながらも、日本の軍法会議で無罪判決を得ているのも注目すべき事実です。これが元慰安婦の実態だったのです。もちろん辛いこともたくさんあったでしょう。しかし彼女たちが決して日本軍の「性奴隷」などではなかったことは、これらの証言からも明らかなことです。
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【コラム】米軍も日本軍”慰安婦”とは”売春婦”と認定
  米軍は1944年、ビルマ(ミャンマー)のミートキーナにおいて、捕虜になった朝鮮人慰安婦20名と慰安所経営者2名を尋問しており、その報告書である「心理戦チーム報告書第49号」(1944年10月1日付)が、日本政府が収集した慰安婦に関する調査資料の中にあります。その報告書の序文には、”A Comfort girl"
is nothing more than a prostitute or professional camp follower と記載されています。当時、現地にいた米軍も「慰安婦とは売春婦、あるいはプロのキャンプ追っかけ以外の何者でもない」と記録しています。
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  アメリカでは連邦議会をはじめ、次々に地方議会で女性を性奴隷としたという対日非難決議が採択されていますが、自分たちが作った公文書をしっかり読み直すべきです。(p.140の公文書掲載を参照)
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韓国こそ自ら米軍に”慰安婦”を提供してきた
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  実は日本を非難しながら、韓国政府自身が朝鮮戦争以降、膨大な数の女性を文字通り”慰安婦”として国連軍(ほぼ全員が米軍であったため以下米軍と記す)に提供していたのです。米軍も多くの慰安婦のお世話になっていたわけです。『軍隊と性暴力――朝鮮半島の20世紀』(宋連玉ソンヨンオク 金栄編著 現代資料出版)に次のような記述があります。
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 「韓国政府は朝鮮戦争開始の翌年1951年5月に、米軍(国連軍)向けの慰安方法の検討を行ない『国連軍への慰安方法に1例』という方針を決定した。これに基づき同年7月に釜山で米軍(国連軍)専用慰安所が74軒公認されたが、このような米軍慰安所の設置には米軍側もしばしば関与している。例えば1951年9月には米軍とソウル市当局の間で、ソウルの性売買女性を永登浦(ヨドウンポ)に集め、米軍向けとすることが協議されている。」
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  このように朝鮮戦争時に米軍(国連軍)と韓国政府がともに韓国における軍隊向け性売買を組織的に生み出し、これが後の「基地村」(米軍向け性売買特別地区)に繋がっていったのです。朝鮮戦争以降の韓国における”米軍慰安婦”の実態について、その本の”まとめ”には次のようにあります。
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  「米軍は公娼制度廃止を公式には実施しながらも、売春に関わる女性の性病管理策を米軍の指導で導入していった。米軍にとって将兵の性病予防が何よりの関心事であった。朝鮮戦争とその後の米軍の駐留中においても、米兵の性病予防のためにそうした政策が実行されていた。1958年の報道では、韓国の売春女性は30万人余りで、そのうち国連軍を顧客とする『洋公主』(ヤンコンジュ)が59.1 を占めるとされており、韓国での売春にとって米軍の占める割合はきわめて高かった」
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  この報道内容が事実であれば、1958年の時点で30万人の売春婦が韓国に存在しており、そのうち約6割の、何と約18万人が米軍相手の”慰安婦”だったことになります。次のページ(p.143)の写真は、1961年9月14日の東亜日報の記事です。そこにはこのように書いてあります。
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 「ソウル市警では市社会局に、『UN(国連)軍相手慰安婦性病管理事業計画』に基づいて、3日からUN軍相手の慰安婦登録を菅下一線署に伝達し実施している。ところで今回の登録対象は、▲法的婚姻関係なしにただ1人の相手と同居している女性▲ UN軍相手の慰安婦などであるという」
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  つまり韓国の公的機関が米軍(国連)相手の慰安婦を、しっかり管理していたことが分かります。さらにp.144の写真の上記にあるのは1961年1月31日付東亜日報の記事です。そこには韓国の警察署が慰安婦への性病管理の講習会を主催し、米軍第7師団憲兵司令部司令官が堂々とそこに参席しています。沖縄の米軍司令官は、橋下大阪市長から「風俗を利用しては」と言われて真っ青になったそうですが、当時、韓国に駐留していた司令官のほうがよほど「腹が据わって」いたようです。
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  その後、米軍向け売春特区「基地村」では暴力事件や性病問題が相次ぎました。それについても前述の本では、当時の事情を次のように明らかにしています。
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 「米軍側は韓国政府に対して基地村の環境改善を要求し、勧告案を作成した。1971年12月、朴正熙大統領は『基地村浄化委員会』を設置して大統領府で会議を開くとともに、政府関係部署、地方政府に対して浄化政策を立案するように命じた。こうして米韓合同で取り組まれた浄化運動は、基地村の一般的な環境の改善と、人種間の葛藤に対する取り組み、性病対策を中心とする売春女性の統制を課題とした」
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  朴槿恵元大統領の父である朴正熙大統領は、売春女性の統制についての最高責任者であったのです。その証拠も出てきました。2013年の京郷新聞電子版によれば、韓国国会で行われた国政監査で、民主党の愈承希(ユスンヒ)議員が趙允旋(チョユンソン)家族相に対し、朴正熙大統領が直接署名した「基地村浄化対策」を示し、「政府が(慰安婦管理に)直接介入したことがはっきりし、特に性病患者を監禁治療までしたことが明らかになった。独裁軍事政権時代の人権侵害と過誤を認めて実態調査すべき」と詰め寄ったのです。
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  父親の朴正熙大統領が慰安婦管理を直接指導していたことを隠したまま、日本を執拗に非難する朴大統領は偽善者としか言いようがありません。――⑤に続く
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       『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                                 抜粋
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    多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

「慰安婦強制連行」への反論  ③

     .韓国は慰安婦問題を日本潰しの切り札と位置付けています
    慰安婦問題は事実の歪曲と捏造から成り立った虚構ですから、反論は簡単です。にもかかわらず、日本政府が韓国に気兼ねして謝罪を繰り返したことでドツボに嵌(はま)ってしまいました。韓国では「女子挺身隊」を「従軍慰安婦」であると歴史を歪曲しています。私が調べた限り、この説を最初に「事実」として打ち出したのは朴慶植です。彼は昭和40年(1965年)に発行された『朝鮮人強制連行の記録』の中で次のように書いています。
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  「うら若い同胞の女性が多数『女子挺身隊』『戦線慰問隊』などの名目でひっぱられ、慰安婦として戦争遂行の犠牲にされた」
  「同胞女性は中国や南方、沖縄の戦線にも多数連行されているが全体の数は数万に上ると思われる」
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   このようにまったく何の根拠もなく、唐突に「数万が連行された」と決め付けています。さらに金賛汀はその10年後に『証言 朝鮮人強制連行』の中で、またもや何の根拠もなく次のようにその数字を増やしています。
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 「1944年8月には『女子挺身勤労令』が発布され、連行に国家権力の強権が伴った。『女子挺身勤労令』によって数十万人に達する朝鮮人女性が軍需工場、軍要因として『徴用』されたが、これらの女性たちのうち本人も知らぬままに、中国大陸に、南方戦線に『軍慰安婦』として送られた人々も多かった。その総数は今日に至るもはっきりしないが、10万人内外であったろうと推定されている」
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   と、このように書きたい放題に書いています。ですがそもそも朝鮮では、女子に対する「徴用令」である『女子挺身勤労令』は発布されてはいないのです。朝鮮で「女子挺身隊」として工場で働いた女性たちはすべて自ら志願したものであり、もちろん慰安婦にされるはずがありません。事実、元慰安婦であったと告白した韓国の女性たちでさえが、誰1人として挺身隊として引っ張られたと証言している者はいません。(李榮薫『大韓民国の物語』文藝春秋)
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   ところが韓国の中学・高校の歴史教科書には「女性たちも挺身隊という名で引いて行かれ、日本軍の慰安婦として犠牲になった」と書かれています。朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』をそのまま写したと思われます。
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   「従軍慰安婦の碑」をソウルの日本大使館前に設置した市民団体の名称も「韓国挺身隊問題対策協議会」であり、そのホームページでは「日本軍慰安婦問題は第二次世界大戦時、日本帝国主義がアジアの女性十乃至二十万人を国家制度で企画立案し、組織的に強制連行し、日本軍の性奴隷とした世界でも類を見ない残酷な犯罪である」と書いてあります。
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   これを「事実」として、韓国側は日本に謝罪と賠償を求めているのです。ちなみにYahooKoreaの日本語辞典で「挺身隊」を引くと、「従軍慰安婦に対する日本側の公式名称」となっています。もしそれが事実なら「挺身隊」として徴用された何百万人の内地の女性も慰安婦だったことになります。私の母も「女子挺身隊」として働きました。侮辱するのもいい加減にしろ、と言いたいです。いずれにせよ、「挺身隊=慰安婦」という歴史の極端な歪曲を指摘するだけでも、韓国の主張は根底から崩れるのです。
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歴史の捏造「慰安婦狩り」
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  次は歴史の捏造です。
  日本の軍や官憲が、「海辺や畑で働いている女性を拉致し、無理やりトラックに積み込んで戦地に送って慰安婦にした」というものです。この「慰安婦狩り」は吉田清治なる人物が『私の戦争犯罪』(三一書房)として本に書いたものですが、内容に疑問点が多く、現地調査の結果、事実ではないことが判明しています。
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  吉田自身も自分の本を売るために書いた「嘘」であることを後に認めています。しかしこのような捏造本が、韓国語に翻訳されたのではたまったものではありません。それで「慰安婦狩り」が、実際に行なわれたと韓国人の大多数が信じてしまい、「鬼畜日本!」と非難の嵐となっているのです。
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  ですがこの嘘に対しては簡単に反論できます。なぜならもし自分の子どもが、兄弟姉妹が、恋人が日本の軍や官憲に拉致されて慰安婦にされそうになったら、どんな罰を受けようとも誰であれ必ず、命がけで戦って取り返そうとするはずだからです。ましてや親族間の絆が深い朝鮮であれば必ずや暴動が起き、それが何十万人も拉致されたとなれば、その騒ぎはたちまち朝鮮半島全土に広がったはずです。
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  しかしそのような暴動は1件も記録されてはいません。「慰安婦狩り」が捏造であるいう何よりの証拠でしょう。それでもあったと言うのなら、それこそ「朝鮮の男たちは自分の娘や、姉妹や、恋人が強制的に慰安婦にされても何一つ抵抗しなかったという、世界でも類を見ない冷酷で不甲斐ない連中だった」ということになります。
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           秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)
           杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』(展転社)
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当時を知る人々の証言
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  前著『救った!』では当時の資料をもとに慰安婦の実態を明らかにしました。ですが当時の状況を自分の目で見た人々の証言を求めて各方面に当たり、幸いに何人かの方々から証言を得ることができました。
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(1) 昭和17年(1942年)~昭和18年(1943年)に、ソ連に近い黒龍江省孫呉に駐屯していた玉第1師団歩兵第1連隊第5中隊に所属していた高橋哲郎氏からは、「慰安婦は韓国の女衒(ぜげん)が連れてきた単なる売春婦だった」という証言をいただきました。
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(2) 昭和18年(1943年)に、ハル2983部隊第4中隊の一員として北京の近くの駐屯地にいた福島悟朗氏は、「慰安婦は朝鮮人女衒が連れて来た。彼女たちは『朝鮮では貧しくて食事もろくにできません。日本の兵隊さんはとても親切です。毎月、郷里へお金を送ると、感謝の手紙が家族から届きます。慰安婦になって幸せです』と言っていたと、当時の慰安婦の様子を語ってくれました。
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(3) 見習い士官として中国に出征していた緒方基一氏によると、昭和19年末、内蒙古の厚和(こうわ)での体験談を、次のように手紙で知らせていただきました。「糧秣(りょうまつ)の集積作業をしていた苦力(クーリー)の年長者が慰安所に行って(おり)、点呼(する)にも不在で(いない)というので、その慰安所に呼びに行って外部より『帰隊せよ』と言ったことがあります。すると憲兵隊から『民間人の営業を邪魔するな』と苦言を言われました。当時、慰安所は軍ではなく民間人が経営していたのです」
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  その手紙には続けて次のようにありました。
 「昭和20年(1945年)8月、ソ連軍内蒙古侵入の報に師団は北上。最終梯団で北上して12日間を要する北上となったが、その列車の一車両に朝鮮の芸者(売春婦)が居り、大元気で「内地(日本)の女性は弱虫。役に立つのは我ら半島出身の女性のみ」と大威張りであったのには驚いたことあり」
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  当時は朝鮮の女性までがお金のためだけではなく、「お国のため」という気概をもっていたことがわかります。ですからいっそのこと、麻布の韓国大使館の向かい側に「韓国人慰安婦に感謝する碑」を立ててはどうでしょうか。
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朝鮮に駐屯していた元陸軍軍人の決定的証言
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  これらの証言だけでも当時の実態がわかる貴重なものですが、できれば韓国の主張する「日本兵が何十万人という女性を強制連行して慰安婦にした」という期間に、実際に朝鮮に兵隊として駐屯していた人の証言が欲しいと思っていたところ、幸運なことにまさにそのような人に巡り合いました。

  その方は東京都杉並区在住の渡邉茂さんという95歳の人です。高齢ですが非常に健康で、1週間に数冊も読まれる頭脳明晰な読書家です。そして渡邉さんは中国戦線での慰安婦の状況を見ていた方です。以下は渡邉さんとのやり取りの会話です。(質問は筆者)
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  「戦時中はどちらにおられましたか?」
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    「昭和15(1940年)年1月から17年(1942年)12月まで、朝鮮北部の羅南(ラナム)に駐屯していました。その後いったん除隊して、昭和19年に再び召集がかかり、中国湖南省の湘潭(ショウタン)に終戦までいました。約1年間の除隊期間を除き、21歳から28歳までの間ほとんどが軍隊生活でした。
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  「朝鮮での日本軍の配備状況を教えてください」
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    「朝鮮には二個師団が配備されていました。一つは第19師団で、歩兵は羅南に第73連隊および76連隊、咸興に74連隊、会寧(フェリョン)に75連隊が駐屯していました。また羅南には別に騎兵1個連隊、砲兵1個連隊、輜重(シチョウ)1個連隊が駐屯していました。もう一つは第20師団で京城(ソウル)の龍山(ヨンサン)、大邱(テグ)、大田(テジョン)にそれぞれ駐屯していました」
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  「所属部隊はどちらでしたか?」
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    「第19師団の中で75連隊及び76連隊は、新潟と福島出身の兵隊で構成されており、新潟の今で言う上越市出身の自分は76連隊でした。朝鮮に駐屯していた時の階級は、幹部候補生(軍曹)でした」
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 「中に朝鮮人の兵士もいましたか?」
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    「羅南駐屯地では150名で編成される各中隊に、昭和15年(1940年)と16年にそれぞれ3名、17年には6名の朝鮮人志願兵が初年兵として配属されました。彼らは非常に優秀で、昭和16年に自分の中隊に入って来た金君、李君、朴君は第一選抜で上等兵候補となりました。前年に創氏改名があって朝鮮人も日本名を名乗れるようになったのですが、彼らは3人とも堂々と朝鮮名を名乗る頼もしい連中でした。隣の中隊には朝鮮人の伍長がおり、部下の日本人兵士を絶対服従させていました」
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   「駐屯地から外に出ることはありましたか?」
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    「軍隊行動としては時々、演習に出かけました。演習地は山間部で民間人の家はなく、第一稜線、第二稜線、第三稜線などと呼ばれる演習地で演習をしました。演習以外に軍隊が外に出ることはありませんでした。ソウルや大邱、大田に駐屯していた第20師団も全く同じです。個人的には、日曜日に希望を出すと外出できました。その場合も『民間人にはなるべく接触するな』という軍の方針があったので、居酒屋などでお酒を飲む程度でした」
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  「近くに慰安所はありましたか?」
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     「近くにはありませんが、町に出れば遊郭もあり、兵隊の中にはそこへ遊びに行く者もいました。特に既婚者のほうがよく遊びに行ったようです。私のような独身者は、そちらのほうにはそれほど興味がありませんでした」
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 「遊郭の状況はどのようなものでしたか?」
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     「同僚たちから聞いたところでは、日本人娼婦と朝鮮人娼婦の両方がおり、だいたい4対6ぐらいの割合でした。料金は内地からやって来た日本人娼婦が4円から5円、朝鮮人娼婦が2円から3円でした。当時、一般の兵隊の月給が4円から5円だったので、兵隊はほとんどが朝鮮人の娼婦を相手にしていました」
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  「中国での経験を教えてください」
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     「中国では第14師団傘下の独立混成旅団第15連隊第1大隊で分隊長をしており、終戦までの1年間、湖南省の湘漂に駐屯していました。その間、1回だけ朝鮮人女衒が朝鮮人娼婦の一団を連れてやって来ました。近くにテントを張って3日程度営業して帰りました。当時はこのような施設を匪賊(ひぞく)などが襲うことがあり、自分は彼らが安全に営業できるよう警備を命じられ、テントの周りの警備をしていました。したがって、慰安婦の顔は見ていません。兵隊たちは列を作って順番を待っており、1人の慰安婦が多い場合は10人程度相手をしていたようです。
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  しかし1人当たりの時間が極めて短く、あっという間に終わってしまうケースがほとんどで、10人相手にしてもそれほど苦痛だったとは思えません。当時、歌手などが慰問にやって来ましたが、全くそれと同じような『慰問』という感じであちこちを1年ほど回り、大変なお金を貯め込んで帰国していました」
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 「『慰安婦強制連行』についてどう思われますか?」
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      「強制連行などとんでもありません。日本の軍隊は民間人に神経質なほど気を使っていました。戦地では慰安婦の一団が襲われたりしないよう、安全な輸送を図ってやりました。軍人が慰安婦も含めた民間人になにか酷いことをすれば、憲兵が絶対に許しませんでした。
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      特に女性問題が人心に与える影響が最も大きいため、一般の婦女子には絶対に手を出してはいけない、というのが当時の軍全体の了解事項でした。民間人を守る立場の軍隊が駐屯地から外に出て、朝鮮の女性たちを『組織的に強制連行して性奴隷にする』など、あまりにも馬鹿げています。一体、誰がそんなことを言い出したのでしょう。第一、そんなことを朝鮮の人々が許すはずもないでしょう」
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  .「当時の治安維持はどうなっていましたか?」
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      「当時、朝鮮の治安維持は全て警察が担当していました。普段、民衆と接する巡査クラスはほとんどが朝鮮人でしたね。彼らは職務にとても熱心で、民衆の悩み事などの相談にのっていました。治安は極めてよく、『強制連行』など絶対にあり得ません」
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  渡邉さんは戦後32年間に渡り、規模の大きい会社の社長をされており、社会的に高い信用を得ている人です。そうした人の詳細にわたる明確な証言は何にも代え難い千鈞(せんきん)の重みがあります。日本政府も、出自も名前も不確実な自称元慰安婦の女性たちの曖昧な証言ではなく、このような人の証言をこそ尊重すべきです。  ――④に続く
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           『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                             抜粋
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    多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 

・「強制連行の嘘」補償問題は「完全に決着済み」 ②

朝鮮労働者の実態
朝鮮人労働者に配慮した内地企業
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   戦前・戦中の朝鮮人労働者の日本での待遇は非難されるほど悪くなく、それどころか高額の賃金が支払われていました。昭和15年(1940年) 4月21日付大阪朝日新聞・中鮮版には次のような記事が掲載されています。
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【朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備・まるで旅館住まい同様】
  「福岡県遠賀郡水巻町の日産鉱業所では、石炭増産の一方策として多数の朝鮮人鉱夫を採用し、彼らのために特別の社宅やアパートなどを新築して優遇、特に南鮮旱害(かんがい)地からの醇朴(じゅんぼく)な出稼者たちのために建設された第一、第二尚慶寮の如きは、入寮者一同まるで旅先の旅館にでも泊まっている気持ちらしく、その行き届いた設備にすっかり感激している。」
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   これは決して日本政府におもねた”御用記事”ではありません。
   昭和19年(1944年)11月に徴用された鄭忠海(チョンチュンヘ)という人物は『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)という本の中で、広島での徴用先であった東洋工業の生活環境について詳しく書いています。
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  「新しい木造建ての寄宿舎があり、そこがこれから我々が寝起きする寄宿舎で、朝鮮応徴士たちを迎えるために新しく建てられた寄宿舎だという。20畳ほどの広い部屋に、新しく作った絹のような清潔な寝具が10人分、きちんと整頓されており、片方には布団と私物を入れるのだろう、押し入れが上下二段になっている。住についてはまずまずだ」
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  「食事は食卓の前に座っているとやがて各自の食事が配られた。飯とおかずの2つの器だ。飯とおかずは思いのほか十分で、口に合うものだった」
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  「会社側では、我々朝鮮半島出身応徴士を迎えるに当たり、いろいろ神経を使ったようだ」
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   昭和19年(1944年)末の日本の状況では、まずまずどころの話ではなくそれが特別なことであることが、日本人ならよくわかるでしょう。また鄭忠海氏は次のようなことも語っています。
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  .「みんなが集まって生活してみると、いろいろな人がいる。ある人はミカンやネーブルを、またある人はなまこやあわびなど、さらには酒まで求めて来て、夕食後に宴会を開く。これはここに来ている人たちの愉しみであり、唯一の慰めであった」
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   彼の証言によれば、正月には演芸会も開いて日本人とともに楽しく過ごしています。日本人女性との恋愛も経験しています。休暇もきっちりあり、奈良の職業訓練所では休日に寮長の引率の下に、奈良市内の名所旧跡を見学し、日本文化に触れて感激しています。
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   鄭忠海氏が終戦後に帰国する際には、船の出発にあたり簡単な送別会があり、日本人の舎監長が声をつまらせながら別れの言葉を述べ、鄭氏は100人を代表して挨拶したそうです。このように親しくなった町の人たちと別れを惜しんで出発したことが、この本で述べられています。
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   もちろん、徴用工の誰もが皆、このように恵まれた環境にあったとは限らないかもしれません。炭坑などの厳しい環境の中で働いて苦労した朝鮮人も多かったのは事実でしょう。しかしこの頃、(西欧の白人によるアジア植民地を解放するための)大東亜戦争の戦況は悪化し、内地日本人の青壮年がほとんど兵隊として召集され、死地に赴いて玉砕戦を戦っていました。多くの日本の若者が「神風特攻隊」として、二度と戻ることなく海に空に散っていたのです。そのようななかで同じ日本国民であっても、半島の人々に対しては特別の配慮がなされていたこともまた事実なのです。
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高額の賃金が支払われていた 
(本書P.101の1940年5月28日付大阪朝日南鮮版の新聞記事を参照)
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   戦時に半島から動員された人々は、高額の賃金を受け取っていました。特に炭鉱のような危険な場所で働く作業者の給与は極めて高く、昭和19年(1944年)頃に九州の炭鉱で支払われた賃金は、各種手当を含めて月収で150円~180円、また勤務成績のよい者は200円~300円と、同じ職種の日本人徴用者に比較すると「はるかにいいのが実情である」と指摘されています。
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   当時の炭鉱での賃金算定は、作業習熟度や出炭量などを基に厳格に計算されており、日本人と朝鮮人の間に全く差別はありませんでした。朝鮮から動員されて来た若者は炭鉱労働に向いた屈強な若者ばかりであり、一方で日本には若者はいなかったことから高齢者が多くて体力的にも劣るために、朝鮮人労働者の給与が日本人より上回ることは当然あり得たことでしょう。
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   ちなみに当時、巡査の初任給が月額45円、上等兵以下の兵隊の俸給は10円以下でした。ですから300円ともなると、当時の陸軍や海軍の大佐クラスの俸給であり、朝鮮人労働者の給与がいかに相当な高額であったかがわかります。さらに稼いだお金は朝鮮へ送金されていました。当時の炭鉱会社の人事担当者であった人物は次のように証言しています。(『証言 朝鮮人強制連行』金賛汀著 新人物往来社)
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  「仕送りは会社のほうで強制的にやらせました。当時50円から80円位まででした。金を持っているとあまりいいことないし。また郷里に送金するとその鉱山の一つの宣伝にもなりましたからね。送金は面長(村長)あてです。そうすると、お前の息子から送って来た金だと言って家族に渡す。これが一つの宣伝です。非常に(稼ぎの)いい者は2年間くらいで、家族の者が「両班」(ヤンバン)といってこっちでいうお金持ちになったのもあるのです。
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  その頃、朝鮮で牛の仔が1頭50円くらいです。毎月50円送金されると毎月仔牛が1頭買える勘定になります。それを貧乏人に1ヵ月いくらで貸すのです。牛20頭持てば「両班」、いわゆる金持ちなんですよ。募集も案外、家族から喜ばれたところもあるのです。あまり話したくないのですが、殉職者なんかは、当時2500円から3000円くらいもらうんです。それを面長に持って行くと、面長は牛を買わせることを第一条件とするのです。乳牛でなく使役牛です。そして独立させるんです。牛を持って他人に賃貸するので相当、牛を買うことが奨励されていましたね」
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  ちなみに、この『証言 朝鮮人強制連行』は金賛汀が強制連行を糾弾するために書いた本なのです。そこに収録してある内容ですから、まさしく真実でしょう。
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炭坑内で日本人と朝鮮人は一緒に働いていた
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   すでに述べた通り、炭坑では日本人も朝鮮人と一緒に働いていました。別表をご覧ください。(p.103参照)炭坑によっては坑内労働者が日本人のほうが多いところもあります。坑内では「掘進」「採炭」「充填」「運搬」などの一連の作業があり、互いに力を合わせて慎重に仕事をしなければ、作業の能率が落ちるだけでなく落盤の危険があります。坑内では日本人も朝鮮人も差別なく、一致強力して作業していたのです。
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   『朝鮮人強制連行の記録』のまえがきに、朴慶植は「日本の各地の炭鉱や土木工事場あたりを回ってみると、いたるところに朝鮮人の遺骨が放置されており、また南方その他の戦線に動員されて死亡したものも多い」などと、途方もないことを書いています。事故が起きれば日本人も朝鮮人も一緒に死亡するでしょう。
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       それに日本人と朝鮮人の遺骨をいったいどのようにして区別できるというのでしょうか。万が一、朝鮮人が死亡した場合は、前述の証言にもある通り、多額の慰謝料が支払われたのです。奴隷としてこき使うどころか、差別などまったくなく、事業主は半島から来た人々を大切に扱っていたのです。
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【コラム】差別と思ったのは17年間で1回だけ
  1928年に日本に渡航し、日本人の妻をめとって一男三女を儲けた裴又星(ペウソン)は『百万人の身世打鈴』(東方出版)のなかで次のように回顧しています。
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    「私は差別されたなって思ったのは、一つあった。それは町内会に入れてくれなかったことだ。あんときは朝鮮人はうちだけだった。入れてくれんという。被爆者の手帳もあることを知らなかった。町内会に入って初めて近所の人に、そういうものがあることを聞いて、(被爆者手帳を)もらった。なんで今まで黙っとったんかって、言われたけど、知らんかった」
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  彼は徴用工ではありませんが、日本に来て17年の間、差別と感じたのはこの1回だったと言っています。当時の実態を知るうえで、注目すべき証言でしょう。
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大部分の朝鮮人は自由意志で日本にやってきた
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   「強制連行説」がまったく非現実的であることは、当時の朝鮮から日本への出稼ぎ労働者が大量にやって来た事実からも明らかです。朝鮮人の内地渡航は一貫して制限されていましたが、日韓併合以来、内地の朝鮮人の人口は増え続けていました。大正元年(1912年)には約3千人だったものが、大正10年末には3万5千人にまで増えています。さらに大正10年からはこれが急増しており、昭和2年(1927年)末には16万5千人と増加し、昭和13年(1938年)末には80万人に達しています。
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   朝鮮半島での”自由募集”は昭和14年(1939年)に始まりましたが、この時点ですでに約80万人の朝鮮人が日本に居住していました。(p.106の1911年~1960年における在日朝鮮人人口の推移の表を参照) このように渡航が制限されていたとはいえ、当時の朝鮮人は同じ日本国民であり、日本政府も朝鮮総督府も、手続きさえ正統に踏むなら出稼ぎ移住を認めていたため、職を求めて大量の朝鮮人が日本に渡って来たのです。
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   このような出稼ぎ渡航は、その後も終戦に至るまで続きました。”自由募集””官斡旋””徴用”と並行して、大量の朝鮮人が日本にやって来たのです。自由募集期間である昭和14年(1939年)から昭和16年(1941年)の3年間の間に、内地に渡航した朝鮮人の総数は107万1千人ですが、このうち”自由募集”で内地に来た朝鮮人は、前述のとおりで14万7千人に過ぎません。
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   もちろん渡航者の中には内地と半島を往復した人の数も入っていますが、「自由募集者」による渡航が全体の16%に過ぎなかったことは特筆すべき事実です。しかもこの傾向は、”官斡旋””徴用”の時期でも変わっていません。昭和17年(1942年)1月から昭和20年(1945年)5月までの内地への動員数は52万人ですが、同じ時期に朝鮮半島からの渡航者は延べ147万7千人なので、ここでも渡航者の約6割が動員以外の人たちであることがわかります。
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終戦時、在日朝鮮人の78%が自由意志で日本に滞在していた
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   こうした渡航・移住によって、終戦時には約200万人の朝鮮人が内地にいたと推定されており、1939年から1945年までに約120万人が増えたことになります。終戦当時、動員先の職場にいた朝鮮人は約32万3千人(厚生省統計)で、それ以外の軍人・軍属が約11万3千人(引揚援護庁調査)で合計43万6千人となりますが、これは終戦時の朝鮮人の人口の32%に過ぎません。いずれにせよ残りの78%の朝鮮人が自分の意思で日本に出稼ぎに来た者とその子弟、および動員先の職場を離脱し、または契約完了後に、日本に残ってお金を稼いでいた人たちでした。
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   戦時中、労働力不足が激しかった内地に、朝鮮の人々は自分から希望し、大量に渡航して来て日本で稼いでいるのです。「嫌がる朝鮮人を拉致同然の方法で、無理やり大量に日本に連れて来て酷使した」という、”強制連行”のイメージとはほど遠い当時の実態をこの数字が物語っています。
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【コラム】期限終了後も日本で稼ぐ
  『証言 朝鮮人強制連行』(金賛汀)のなかに当時、期限が終わって朝鮮半島へ帰る時の様子についても、次のような炭坑関係者の証言が載せられています。それは強制連行どころの話ではありません。金儲けに来ているのです。
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 「家族持ちでも一期限が終われば12から15世帯をまとめ、係員が2人くらいついて送っていくのです。すると旦那さんが大阪か京都かどこかでいなくなるのがあるんです。こっちで心配すると、これは予定の行動で責任は一切お宅さん(係員)のほうにはありませんと、子どもも妻も平気でいるのです。(つまり)旅費は向こう(半島)までもらい、途中で旦那だけ逃げる。嫁さんやなんかはそのまま朝鮮へ帰って行くというのがあったですね。妻子だけは郷里へ帰り、(旦那)本人は大阪かどこかでまた金儲けして(後で)帰るというふうに、あらかじめ決めてあるのですね」
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当時の朝鮮人は日本に憧れていた
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   当時の朝鮮人の日本への思いがどのようなものであったか。具体的な証言をあげてみます。(いずれも『百万人の身世打鈴』裴又星(ペウソン)東方出版より)前述のペウソンは、日本に渡航した動機を次のように証言しています。
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 「日本はいいらしいよって言うので、にわかに来てしまったんです。憧れておったんですよ。日本に行けば儲かると思って。日本に行けば朝鮮での1年分が何ヶ月かで儲かるんだと」
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 また同じころに”斡旋”を受けた李斗煥という人物も次のように証言しています。
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 「役所に呼び出されて『日本に行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直言えば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても仕事もないし、百姓くらいだから。俺だけじゃなくて、日本に来たがってたの大勢いたんだ」
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  当時の朝鮮では強制どころか、一般の人々の間でいかに渡航熱が高かったかがよくわかります。
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大量の朝鮮人が密航して来た
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   このように日韓併合以降、日本に憧れて賃金の高い日本で働くために、多くの朝鮮人が自らの意志で日本に渡って来ました。そして出稼ぎ渡航の資格がない人々は、密航してでも日本へ渡ろうとしたのです。内務省の統計によると、1930年から1943までの13年間に発見された不正渡航者は、4万人近くになります。しかし実数はその数倍に上るでしょう。しかも戦時動員の始まった昭和14年(1939年)から昭和17年までの4年間に発見された不正渡航者は2万2千800人に及び、なんと戦時動員前よりも増加しているのです。
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   では、それで捕まった密航者はどうなったでしょうか?
   「もし「強制連行」が事実であれば、彼らを捕まえて鉱山にでも放り込めばいいはずです。しかし逮捕された密航者は、法律に基づいて朝鮮半島に帰されたのです。1939年から1942年までの間に、1万9千200人が朝鮮に強制送還されています。これが本当の”強制連行”です。
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【コラム】鉱山会社の募集担当者の証言
             .(『証言 朝鮮人強制連行』金賛汀著より)
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  「釜山で最後の検査をやるんです。戸籍謄本と本人と対照して渡航許可をするのですが、そのときまで(身元がわかっている人間は)100名のとき、105名つれてきたものです。朝鮮では替え玉が沢山いるんです。そういう者は査証のときばれてしまう。そういう者は全部、釜山から帰す。
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   この場合も同じく、もし強制連行が事実であれば、帰さずに日本へ引っ張っていくはずだと思われます。
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補償問題は解決済み
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   第1章で、戦時徴用労働者に対する賠償命令が、ソウル高裁と釜山高裁から出されたことを書きました。しかしその判決の不当性は『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫)にある次のような事実からも明らかです。
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   「徴用者に対する未払い賃金が問題となっているが、終戦の日、歓声を挙げながら厳しい労働条件に不満を募らせていた労働者は、給料も受け取らずにさっさと退去したのである。場所によっては社宅や寮を襲い、係員や寮長を殴打し、米や酒を強奪し、窓ガラスなどを片っ端から叩き壊したりした所もあったという。このようにして発生した未払い賃金は、厚生省の行政指導により原則として法務局に供託された。
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   1965年、日韓基本条約の締結で、3億ドルの無償協力と5億ドルの借款で、韓国は日本に対するすべての請求権を放棄した。これに伴いこの供託金は国庫に納められ、この(韓国への)無償協力の一部となったのである。すなわちこの時点で日本は韓国政府に支払い済みであり、この取り扱いは今後は韓国政府に委ねられたのである」
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   「日韓請求権ならびに経済協力協定」によって補償問題は完全に決着済みであり、平成17年(2005年)1月に韓国政府が一般公開した議事録により、韓国側は日韓基本条約の交渉過程で、「個人への補償は韓国政府が行なう」と表明していたことも明らかになっています。
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   ですから日本政府も日本の企業も、この点で絶対に韓国に譲ってはいけないのです。弱みを見せればすぐつけ込まれます。企業が個別に補償金支払いに応じてしまうと、”決着済み”の大原則が崩れて、ここぞとばかりに雪崩(なだれ)を打ったように訴訟を起こされるでしょう。もし韓国の最高裁判所が最終的に支払い命令を出した場合、日本政府は国際司法裁判所に訴えて争うべきです。理は日本にあります。争えば必ず勝てるはずです。
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【コラム】朝鮮人飯場長による折檻(せっかん)
  炭坑などの厳しい環境で働いていた朝鮮人労働者の中には、職場に不満で勝手に逃げ出し、捕まって折檻されたことを恨みに思う人もいたでしょう。姜壽熙(カンスヒ)は『百万人の身世打鈴』裴又星著の中で、次のように証言しています。
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  「飯場長や労務係が木刀で叩くのです。(中略)それでも人夫に対する処遇は飯場長によって違ってきます。飯場長はたいてい朝鮮人でした」
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   棒などで叩くのは、朝鮮人や中国人のやり方です。
   彼らを捕まえて折檻するのは、たいてい朝鮮人の飯場長だったことも知っておくべき事実と思います。
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ともに大東亜戦争を戦った記憶を取り戻そう
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  しかし、何としても”強制連行”をでっち上げて日本を貶めたい韓国や反日日本人たちは、「法律論はともかく、日本の朝鮮支配そのものがもともと不法であり、その意味で朝鮮人を使うこと自体が”強制連行”だ」という反論が出てくるかもしれない。ですがそれならば、戦時動員をはるかに上回る大勢の朝鮮の人々が、なかには密航までして日本に働きにやって来た事実をどう説明するのでしょうか。しかも彼らはあくまでも、自分たちの意思と都合で日本に来ているのです。
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     日本による朝鮮統治の実態については、私の著書『救った!』に詳しく書きましたが、いずれにせよ日本は「一視同仁」という建前のもとで、日本人も朝鮮人も平等という考えでした。それなのに半島から無理やり朝鮮人を連行して、酷使するような乱暴なことができるはずがありません。当時、日本の青壮年は召集令状によって戦地へ送られました。彼らは戦場で飢えと渇きに耐えながら、塹壕堀りや洞窟陣地の構築という重労働に従事し、しかもその先に彼らを待っているのは”死”だけだったのです。
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   それに比べて敵弾が飛んで来る心配もなく、毎日食糧の配給を受けて賃金をもらいながら、工場や炭鉱や建設現場で働いた朝鮮の人々は、同じ重労働といっても意味合いが違うはずです。仕方なくいやいや行ったのが強制連行だと言うのなら、「日本の青壮年兵が徴兵により戦場に強制連行され、朝鮮の人々は徴用によって、その穴埋めとして内地の事業所に強制連行された」と言うべきです。
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   日本人は国のためだから当然だと言うのであれば、当時朝鮮人(と国連の強い要請により実施された併合により)、朝鮮人は日本国民の一部を構成しており、日本という法治国家において法律の保護を受けていたので、法律に従うのは当然のことなのです。
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   しかしそんな理屈よりも当時、朝鮮人も内地の日本人も、(西欧諸国による300年も続くアジア植民地の)アジア解放の大儀のために大東亜戦争を共に戦っていたのです。その民族的記憶を互いに取り戻すならば、すべては過去の”苦労話”として終わらせることができるはずなのです。
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 【コラム】動員されて日本に残ったのは245人のみだった
                .(1959年7月31日付朝日新聞朝刊より)

 
 「在日韓国・朝鮮人は、無理やり強制連行されてきた人たちとその子孫だから「外国人参政権を与えるべきだ」との意見がありますが、これは明らかに間違いです。終戦時、日本にいた朝鮮人の総数は約200万人とされていますが、この大部分が昭和21年(1946年)末までに、日本政府が用意した帰還船で帰国しました。戦時動員されて終戦時に、動員先の職場にいた約30万人については優先的に帰国できる処置が行なわれ、そのほとんどがこの時に帰国しています。
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   昭和34年(1959年)7月13日の朝日新聞は当時、登録されている在日韓国・朝鮮人の人数は61万人であり、そのうち戦時動員で残っていた者はわずかに245人であるとの外務省発表をしています。しかも「現在日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思で在留した者である」と外務省は明言しています」
 
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     『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                                                  抜粋
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   多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

・シベリアへ送られたポーランドの子どもたち 

      ,平成7年(1995年)1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。
     被災者は、死者6433名、行方不明者3名、負傷者4万3千792名という大惨事でした。

     その翌年、震災で親を亡くした子どもたち30名がポーランドに招待されました。それも3週間という長い期間です。そして招待された子どもたちは、ポーランド各地で大歓待を受けています。
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   この招待旅行の時、子どもたちの世話をした1人のポーランドの夫人がある話を語っています。それは1人の日本人の少年が片時もリュックを手離さず、背から降ろさないのだそうです。
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   夫人が少年に理由を尋ねると、震災の時、一瞬のうちに彼の両親や兄弟を亡くし、家もすべて焼けてしまったと言います。でも少年は、焼け跡から見つかった家族の遺品をできるだけリュックに詰めたのです。そしてそのリュックを、彼は片時も手放そうとはしませんでした。それを聞いて夫人は、不憫で涙が止まらなかったそうです。
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   ポーランドでの歓待の最終日、震災孤児が帰国するお別れパーティに、4名のポーランド人の高齢者がやって来ました。この4名はかつて、シベリア孤児だった方です。ですがすでに高齢で歩行もままなりません。彼女たちはある話をするためにここに来てくれたのでした。
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   「あなた方を見ていると、75年前の自分たちのことが思い出される。
   可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たのだから、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞いてもらいたい」
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   4人の元シベリア孤児の女性たちは、涙を流しながらバラの花を日本の震災孤児たち1人1人に手渡しました。会場は万雷の拍手に包まれました。75年前に、いったい何があったのでしょうか?
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シベリアへ送られたポーランドの子どもたち
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   その昔、ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。
   あくまでも、祖国ポーランドの独立を図ろうとするポーランド愛国者たちがこれに対抗しました。ですが彼らは、ロシアのシベリアに強制的に送られ流刑となってしまいました。そうです。何もかもが凍ってしまう凍土シベリアは、かつてのソ連の流刑地だったのです。
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   その後、大正8年(1919年)ポーランドはロシアから独立しました。
   この時、ロシアは革命、反革命勢力が争う内戦状態にありました。極東地域へは政治犯の家族や、混乱を逃れて東に避難した難民を含め、十数万人のポーランド人がいたのです。そのポーランド人たちは、飢餓と疫病の中で苦しい生活を送っていました。彼らは本来が、帝政ロシアの圧政下にありながらも、祖国の独立を果たそうと活動していた愛国者たちですから、知的レベルも高い。
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   ですが凍土と食料不足の前に、多くの愛国者たちが病と飢えに倒れてしまいました。問題はその愛国識者たちの子どもたちです。親を失っただけでなく、子どもたちはより一層悲惨な状態に陥ってしまいました。大人たちの願いは、「せめてこの子どもたちだけでも生きて祖国に送り届けたい」ということです。
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   大正8年(1919年)9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは、「ポーランド救済委員会」を組織し、子どもたちを何とかして祖国に送り返そうと考えました。ですが全員が流刑者の身です。まずお金がない。会員を募り、資金をカンパしても、子どもたちを飢えから救い、祖国に送り返すだけの資金がありません。
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   その翌年の大正9年(1920年)の春、ポーランドとロシアの間に戦争が始りました。これで、孤児たちをシベリア鉄道で祖国に送り返すことは、事実上不可能になってしまいました。そこでポーランド救済委員会のメンバーは欧米諸国に、子どもたちを救うための援助を求めました。
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   ですがポーランドの孤児たちを支援するということは、大国ロシアを敵に回すことになるため、ヨーロッパ諸国はことごとく、救済委員会の申し出を退けたのです。こうしてシベリアにいるポーランドの孤児たちは、ヨーロッパ中の国々から見捨てられてしまいました。
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日本へ援助を要請
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   そして救済委員会のあるメンバーが、窮余の策として日本政府に援助を要請したのです。それが救済委員会会長のビエルケビッチ女史です。女史は満州にいた日本軍の協力を得て、大正9年(1920年)6月に来日しました。そして外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴え、援助を懇請しました。
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   この頃の日本は、独立間もないポーランドとまだ国交もなく、外交官の交換もないことから国家として未承認という立場にありました。そのような国交もない未承認国家であり、しかも流刑者の子どもたちに支援の手を差し伸べるなど、普通ならあり得ないことです。
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   しかし女史の嘆願は、外務省を通じて日本赤十字社へ伝えられ、わずか17日後には、日赤はシベリア孤児の救済事業を行なうことを決定したのです。日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て、決定からわずか2週間後には動き出しました。
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   その日、56名の孤児の第一陣がウラジオストクを発って、敦賀(つるが)経由で東京に到着しました。それから翌、大正10年(1921年)7月までに5回に分けて、ポーランド孤児375名が来日したのです。さらに大正11年(1922年)夏には、第二次救済事業として3回に分けて、390名の孤児が来日しました。こうして合計765名のポーランド孤児たちが日本にやって来ました。そして後に、第1陣はアメリカ経由で、第2陣は日本船により直接に、祖国ポーランドに送り返されることになるのです。
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   この孤児たちの来日にあたり、「習慣や言葉の違う孤児たちの世話のためには、ポーランド人の付き添いの人がいるのがよい」ということで、日赤は孤児10名に1人の割合で、合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしています。
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   日本に到着したポーランド孤児たちの回想です。
   「ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されました。そのあと支給された浴衣(ゆかた)を着て、浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れてもらいました。とっても感激しました」
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   また特別に痩せていた女の子は、
 「日本人のお医者さんが心配して、毎日1錠飲むようにと特別に栄養剤をくれました。でもその栄養剤がとてもおいしかったので、一晩で仲間に全部食べられてしまってとても悔しかったです」
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   到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。この孤児たちのためにと、日本では無料で歯科治療や理髪を申し出る人たちもいました。学生たちの音楽隊なども慰問に訪れました。仏教婦人会や慈善協会は、子どもたちを慰安会に招待しました。他にも個人で慰問品を届ける人々や、寄贈金を申し出る人たちが後を絶ちませんでした。
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   こんなこともありました。
   腸チフスにかかっていた子どもがおり、ある若い看護婦が必死に看病していましたが、その看護婦がチフスに感染して亡くなり殉職してしまったのです。そんな事件もありましたが、人々の好意はそれでも後を絶たなかったのです。
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   大正10年(1921年)4月6日に、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后陛下(大正天皇の御妃)も、日赤本社病院で孤児たちを親しく接見されました。皇后陛下は、可愛い3歳の女の子ギエノヴァファ・ボグダノビッチをそばへ呼び、その頭を何度も撫でながら、健やかに育つようにと言葉をかけられました。
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   こうして日本の手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で憔悴しきっており、哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻しました。日本を出発する前には、各自に洋服が新調されました。さらに航海中の寒さも考慮されて、全員に毛糸のベストが支給されました。さらに多くの人々が、子どもたちに衣類やおもちゃなどの贈り物をしてくれました。
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   横浜港から祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは親身になってくれた日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて拒んだそうです。埠頭で孤児たちは「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表しました。
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   また神戸港からの出発では、児童1人1人にバナナと菓子が配られ、大勢の見送り人たちは子どもたちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振りました。子どもたちを祖国に送り届けた日本船の船長は、毎晩ベッドを見て回り、子どもたちの頭を撫で、熱が出ていないかを確かめたそうです。その手の温かさが忘れられないと、1人の孤児だった人が回想しています。
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   平成7年(1995年)10月、ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、阪神淡路大震災で孤児となり、ポーランドへ招かれて来ていた日本人孤児たちを大使館へ招き、そこへかつて元ポーランド孤児だった8名の女性も招待しました。全員が80歳以上の高齢です。1人の婦人は歩くのがやっとの困難のなか、お孫さんの介添えで公邸にやって来ました。その女性の話です。
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   「私は生きている間にもう一度日本へ行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼が言いたかった。しかしもうそれは叶いません。だから大使からお招きいただいた時は、,這ってでも行きたいと思いました。なぜならここは小さいながらも日本の領土だと聞いたからです。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません」
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   この女性たちは、70年以上前の昔の日本での出来事を、細かなところまでよく覚えていました。また別の1人の女性は、日本の絵はがきが貼られたアルバムや、見知らぬ日本人から送られた扇子を今も大事に持っていると皆に見せました。日本を離れる際に贈られた布製の帽子や、聖母像の描かれたお守りなど、それぞれが宝物として持っている物を互いに見せ合いました。
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   ポーランド極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、私たちは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べています。
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   「日本人は私たちポーランドとはまったく縁故のない、遠い異人種です。しかも日本は我がポーランドのある場所から、全く異なる地球の反対側に存在する国でもあります。それなのに我が不運なポーランドの子どもたちにこれほどの同情を寄せてくれ、心から憐憫の情を表わしてくれました。私たちポーランド人はこのことを肝に銘じて、その恩を忘れることはありません。
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   私たちの子どもたちをしばしば見舞いに訪問してくれた裕福な日本人の子どもたちが、孤児たちの服装が惨めなのを見て、自分が着ていたきれいな服を脱いで与えようとしたり、髪に結っていたリボンや櫛、飾り帯、指輪までもとってポーランドの子どもたちに与えようとしました。このようなことはしょっちゅうであり、1度や2度ではありません。
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   ポーランド国民もまた気高い国民なので、私たちはいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人にお伝えしたいのです。日本人がポーランドの子どもたちのために尽くしてくれたことは、ポーランドをはじめ米国でも広く知られています。ここにポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬と、最も深い感銘、そして最も深い感謝と、最も温かい友情、愛情を日本の人々にお伝えします」
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   平成11年(1999年)8月、ポーランドからジェチ・プオツク少年少女舞踏合唱団」が来日しました。この時、合唱団はヘンリク・サドスキさん(88歳)の次のようなメッセージを持って来ました。
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   「20世紀の初め、ポーランドの孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子どもたちは劣悪な条件の下にありましたが、その恐ろしいところから子どもたちを日本へ連れて行き、その後、無事に祖国へ送り届けてくれました。あなた方が与えてくれた親切を忘れません。合唱団は、私たちの感謝に満ちた思いをあなた方に運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう」
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      「よちよちチャンネル」さんからの転載です。
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   多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 
 
 
 
 
 
 
 

・世界最大の捕鯨大国・韓国の嘘

「すごいぞニッポン 海外の反応」さんからの掲載です。
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  日本は反捕鯨国から袋叩き状態ですが、実は韓国は日本以上に捕鯨大国なのです。韓国がIWC(国際捕鯨委員会)に報告している数字と実態には大きな隔たりがあります。そのカラクリは単純ですが、とても大胆です。
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   韓国南東部の
蔚山市は、韓国最大の自動車生産拠点ですが、捕鯨の町としても有名です。韓国国内で消費される鯨の水揚げは、蔚山港で行われているのです。

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   2008年には、クジラ文化特区にも指定され、市内の鯨博物館では日本語のパンフレットを見ながら、気軽に韓国の捕鯨の歴史や文化を楽しむことができます。また数多くのくじら調理店があり、市場にはくじら肉が豊富に並んでいます。
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   では、捕鯨の世界情勢はどうなっているのでしょうか?
   IWCの加盟国の中で、捕鯨支持国は39ヵ国で、反捕鯨国は49ヵ国です。ヨーロッパの多くの国が反捕鯨国となっています。グリーンランドのように、IWCを脱退して捕鯨をしている国(自治政府)もあります。
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   2013年度の世界中で捕獲されたクジラの数は1864頭すが、その内訳は
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     日本が       .654頭、
   ノルウェーが   594頭
   グリーンランドが 198頭となっています。
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   その他では韓国が  58頭で6位、
   アメリカが              53頭で7位です。
      アメリカは反捕鯨国ですが、自国の捕獲枠は例外としているのです。
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   現在、日本はIWCで認められている枠内で捕鯨をしています。
   その数は年間に550~650頭ほど。
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韓国の嘘
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 一方、韓国は年間58頭とIWCに報告をしていますが、実際には莫大な量のクジラ肉が国内で流通しています。山の研究機関の発表によると、2012年に韓国が近海で捕獲したクジラは、なんと2350頭!
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   これは混獲、つまり他の漁をしている時に偶然捕まって死んだクジラとして、正式な捕鯨にカウントしていないのです。一方、2012年の日本の混獲のクジラは116頭だけです。
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   ですが韓国のこんな大量の混獲はあり得ないことです。
   人口が日本の半分にも満たない韓国が、事実上は日本の4倍のクジラを捕獲していたことになります。
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   韓国はとても複雑な国です。
   捕鯨・クジラ食文化があり、韓国政府はIWCで捕鯨支持の立場をとっています。ですがその一方で強力な捕鯨反対の団体が存在しており、しかも自国にではなく、その矛先は日本の捕鯨を厳しく糾弾しているのです。
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   お決まりのいつもの光景ですが、日本大使館前でも捕鯨反対の反日パフォーマンスを行なっています。ですが不思議なことに、彼らの矛先はどの国よりも多い韓国国内の大量の捕鯨・クジラ食には決して向けられないのです。
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   韓国は混獲と称して実際には毎年、韓国一国だけで世界全体の捕獲数すら超える莫大なクジラを捕獲している。IWCへは嘘の数字を報告し、嘘で体裁を繕っている。なぜならその虚偽は、日本の捕鯨を糾弾するために必要なものだからだ。ここで一つ新たな真実が明らかとなる。それは、他人を攻撃し、糾弾する者は、実は自分がそれを行なっているという事実である。日本だけを執拗に糾弾するシー・シェパードだけでなく、世界中がいかに韓国に騙されているかが良く判る。
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    多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 
 

・徴用工強制連行の嘘  ①

韓国の歴史捏造の嘘を暴く
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   アジア情勢に精通する元ニューズウィークの記者レノックス・サミュエルズ氏は、「日本は慰安婦問題 において欧米では相当不利な立場に置かれている。韓国が仕掛けた長年の広報活動戦争によって、片方の言い分を聞き続けることでそれが『事実』になってしまった。いま、日本の前に立ちはだかる世界的認識の山はエベレスト級だ」と語っています。(『週刊ポスト』2013年10月11日号「韓国人の『嫌がらせ反日』が止まらない!」)
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徴用工強制連行の嘘
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   東京書籍の中学校教科書の平成13年版(2001年検定済)は、いわゆる「強制連行」について次のように記述しています。「不足する労働力を補うために、外国人を強制的に連行して、本国の鉱山や工場で働かせました。日本で働かせられた朝鮮人、中国人などの労働条件は過酷で、賃金は安く、極めて厳しい生活を強いるものでした。」
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   また平成11年(1999年)発行の教育出版社の中学教科書は、金大植(キムデシク)という人物が強制連行された様子を次のように具体的に書いています。「寝ているところを警察官と役場の職員に徴用令状を突きつけられ、手錠をかけられたまま連行された」
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   さらに、平成12年(2000年)発行の大阪書籍の中学校教科書には、「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というか人さらいですよ」という証言が掲載されています。ですが果たして、本当にこのようなことがあったのでしょうか?
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朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』が広めた嘘
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   ”強制連行”問題がクローズアップしたのは、朴慶植(パクキョンシク)という朝鮮大学の教員が昭和40年に書いた『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)がきっかけでした。昭和40年とは日韓基本条約が締結された年であり、その直前の4月にこの本が出されています。その前書きは次のように書かれています。
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   「現在のアジア情勢、特に朝鮮と日本を取り巻いている現状は重大である。アメリカ帝国主義の指図の下で強行されている『日韓会談』は、今から90-60年前に日本帝国主義が朝鮮に侵入し、強奪を進めた情勢をほうふつさせるものがあり、現在日本独占資本はアメリカ帝国主義を背景にして堰を切っておとすがごとく、南朝鮮に進出しつつある」
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   要するにこの本の内容は、当時の日本政府と韓国の朴正煕(パクチョンヒ)政権が進めていた、日韓条約交渉を妨害するための北朝鮮プロパガンダそのものであり、左翼イデオロギーに満ち溢れています。そしてこれが、「強制連行」という言葉が初めて明確に使われた時であり、日本が無理やり朝鮮人を連行し、日本の炭鉱などでこき使って虐待した、とまことしやかに書いています。
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   それ以後、NHKや朝日新聞など「韓国にとって良心的な」マスコミが何の検証もすることなくこれを受け入れたことで、それが正しい言説として1人歩きを始めたのです。先に載せた教育出版と大阪書籍の中学教科書への記述も、何とこの本からの引用だったのです。
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日本統治時代、朝鮮人は法的に優遇されていた
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 (朝鮮人から暗殺された当時の首相伊藤博文の意に反し、朝鮮人団体「一進会」など多くの朝鮮人だけでなく、国連からの強い要請の下に仕方なく併合が実施されましたが)、日本統治時代は朝鮮人も日本国民であり、日本の法律を守る義務がありました。では当時の法律は日本人以上に朝鮮人にだけ負担を強いていたというのでしょうか? とんでもないことです。
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   たとえば徴兵制度は朝鮮では大東亜戦争も終わり頃の、昭和19年になってやっと実施されました。しかもこの時に招集された朝鮮人兵士は、訓練中に終戦となったために実際には戦場には出なかったのです。もし朝鮮半島に徴兵制度を敷けば、大勢の朝鮮人を戦場に駆り立てることになります。(本来、併合を望んでいなかった)日本政府は、朝鮮人にそこまでの負担を強いることに最後まで躊躇したのです。イギリスが大東亜戦争初期に、インド植民地軍を組織して日本軍と戦わせたのとは大違いです。
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   昭和14年(1939年)、国家総動員法第4条に基づいて「国民徴用令」が発布されました。国民を徴用して指定された職場で働くようにするものですが、これも発令の時点では内地のみの適用であり、朝鮮で日本人同様の徴用令が施行されたのは昭和19年のことでした。しかし女子については、(日本人女子が徴用されていたにもかかわらず)、朝鮮では最後まで適用されてはいません。法律上では同じ日本国民でありながら、明らかに朝鮮人の負担を日本人よりも軽く計らっていたのです。
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労働者募集はすべて合法的に行なわれた
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   朴慶植(パクキョンシク)は『朝鮮人強制連行の記録』で次のように書いています。「昭和14年の『募集』段階から計画的に『連行』が実施され、『強権的な拘束』によって『朝鮮人は大部分が行方も知らされずに連行された』。この『募集』よりも『より強制的な連行政策』が『官斡旋(あっせん)』であり、さらに『強制的な日本への連行』が『徴用』である」
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   ではこの「募集」や「官斡旋(あっせん)」、そして「徴用」が実際にはどのような形態で行われていたのかを見ていきましょう。なお、この朝鮮人労働者の実態や数字は、以下の論文を参考にしました。杉本幹夫著『「植民地朝鮮」の研究』(展転社) 森田芳夫著『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』(明石書店) 鄭大均著『在日・強制連行の神話』(文藝春秋) 西岡力著『朝鮮人「強制連行」説の虚構』(月刊『評論』平成12年8月~12月号)
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朝鮮からの募集を解禁した”自由募集”
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   昭和12年(1937年)にシナ事変(日中戦争)が勃発し、多くの日本の若者が戦地に向かい、国内の工場や鉱山などは人手不足をきたしました。国家総動員法はその対応策として昭和13年に制定されたものであり、これに基づいて国民徴用令が翌年の14年に発令されました。しかし前述のとおり、この時点では朝鮮半島では施行されず、代わりに始まったのが”自由募集”でした。
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.しかし純朴な朝鮮の農民が、不十分な教育と日本語が未熟なまま貧困の身で、生存競争の激しい内地へ流入し、その結果、治安や労務面などで社会問題が起きたことから、戦前の日本政府は就職や生活できる見通しのない朝鮮人が、日本へ渡航することを制限していたのです。日本への渡航には証明書や戸籍抄本の提出が義務付けられ、釜山などの出港地では就職先や渡航費を持たない者の渡航を認めない渡航禁止制度を設けていました。
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   ちなみに大正14年から昭和13年までに、証明書などの所定の条件の不備から渡航を差し止められた朝鮮人は、労働者や家族を含めて約89万1千人に上りました。また遡って昭和8年から12年までを見れば、渡航を出願した朝鮮人が108万8千人に対し、その6割の65万2千人が諭止されています。
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   昭和14年9月に開始された”自由募集制度”は、「募集手続きに従った内地渡航については、従来の煩雑な手続きを免除する」というものでした。この制度により、炭鉱、鉱山などの内地の事業主は、厚生省と朝鮮総督府の認可を受け、朝鮮総督府が指定する地域で割り当ててもらった数の労働者を直接募集しました。それに応じた人たちが内地(日本本土)に集団渡航するものであり、(5、60年前の)いわば日本の高度成長期時代に、人手不足のために事業主が田舎まで行って「金の卵」を」募集し、それに募集した者が東京や大阪などの都会へ「就職列車」で「集団就職」したのと同じであり、そのような光景がこの時も繰り広げられたのです。
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   しかしこの”自由募集”については炭鉱や鉱山の事業主が主であり、経験のない朝鮮の農民からの応募は少なく、人手不足は解消できませんでした。また一方で、応募者の中には便乗渡航者が大勢いました。つまり当初から炭鉱で働く意思などなく、日本に出稼ぎに行く手段として、取りあえず鉱山会社の募集に応募して渡航費用会社負担の「官費旅行」で来て、しばらく働いてすぐ退職しては他の勤め先に代わる者が跡を絶たなかったのです。鉱山会社と契約した者のうち、60%がそうした便乗渡航者だったと推定されています。
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強制力のなかった「官斡旋」
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   そこでこの”募集”に代わって昭和17年から始まったのが”官斡旋”という方式でした。これは企業主が朝鮮総督府に対して、必要とする人員について許可申請を行ない、総督府が道(日本の県に相当)を割り当て、道は郡・府を通じて巴・面(村)に人員の割り当てを行なう、つまり行政をを通して労務者を募集するという方式でした。
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   ”自由募集”や”官斡旋”について、韓国では「実態として強制だった」と主張しています。特に”官斡旋”については朝鮮総督府が割り当て数を決め、末端では面長(村長)などの行政圧力があり「実質強制だった」というのです。しかし”官斡旋”も”自由募集”と同じく、応募するかどうかは全く本人の自由でした。”官斡旋”で人数を割り当てられ、朝鮮人の募集担当者が成績を上げるために「進んで応募すべし」というキャンペーンをやったかもしれない。しかし仮にそのようなことがあったとしても、制度自体に強制力はまったくなく、当然、応募しなくても何の罰則もなかったのです。
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   このような”自由募集”や”官斡旋”で渡航した朝鮮人は、配属された職場から離脱するのも自由だったので、職場が気に入らなければ食費や未払い賃金などを清算してどんどん離脱し、より待遇のよい先に転職しました。離脱したり契約期間(多くの場合、1、2年)を終えて内地に残留しても食糧の配給もあり、日本国民として公民権(参政権など)も保障されたのです。後で書きますが当時、多くの出稼ぎ労働者が朝鮮から日本に自由意志で渡って来ており、基本的に”自由募集”や”官斡旋”での渡航者も、これら自分の自由意志で渡って来た労働者とまったく差はない生活状態だったのです。
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国民の義務であった「徴用」
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   ”官斡旋”は昭和19年9月から”徴用”に切り替わりました。
   前述したように内地ではすでに昭和14年に徴用令が施行されていましたが、朝鮮では実に5年遅れて適用されました。戦争が激しさを増して内地ではいよいよ人が足らなくなったために、これまで猶予していた朝鮮半島の人々にも同じ日本国民として”徴用”に応じてもらうことにしたのです。
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   ”徴用”を朝鮮半島に適用するに当たり、当時の小磯国昭朝鮮総督は自ら陣頭に立ち、関係者を徴用事務所に派遣し、将来朝鮮の技術向上の礎石として活動できるよう受け入れ側に体制の整備を要求しました。”徴用”によって朝鮮人が技術を身につけ、朝鮮の発展に役立てることを朝鮮総督府として望んでいたのです。
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  さらに徴用先も労務管理の整備された場所に限られ、給与も法律できっちり決めて、朝鮮人の留守家族に対しては収入源を補償するなど、まさに致せり尽くせりの対応だったのです。そのことは大蔵省管理局名で戦後に発刊された『日本人の海外活動に関する歴史的調査書』第五巻朝鮮編4(小林英夫監修 ゆまに書房)にあるように、次のような記述からも明らかです。
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  「阿部監督(小磯監督の後任者)は着任するやいなや労務問題の重大性に着目して、昭和19年度鉱工間内に勤労部を設け、動員援護の二課を置いて援護の徹底を期すると共に、朝鮮労務援護会を創設して本人に対する慰問はもちろん、家族の援護に遺憾なきを期するため相当経費を国庫補助として計上すると共に、事業主に於(お)いても相当負担を為さしめて、これを賃金の家族送金、賃金差額補助金、別居手当家族手当等の名目の下に各家族あて送金しその生活を保護した。
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   尚(なお)留守家族に対しては各種物資に優先配給は勿論(もちろん)、愛国班を中心とする隣保補助の風(ふう)を助長して援護の完璧を期した。殊(こと)に本件に付いては19年度の対内地緊急産業への労務送出に当たっては、『勤労管理に更に留意すると共に残留家族の扶助援護に力むること、之がため事業主より一定額の定着手当及び家族慰労金を支給すること』を確約せしめた」
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   このように当時、朝鮮の人々を徴用するにあたり、腫れ物に触るように気を使ったのです。それを「朝鮮人を無理やり引っ張ってこき使い、虐待した」など、とんでもないことです。”徴用”は本来、すべての日本国民に課された法的義務であり、徴用されれば炭坑でもどこでも行かねばなりません。当時は日本国民だった朝鮮人男性に適用されることに、何の不自然さもないことなのです。
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   仮に”徴用”を強制連行と言うならば、内地で徴用された日本人もすべて”強制連行”されたことになります。しかし朝鮮においてはむしろ厳罰主義を避けたために炭鉱労働などを嫌った徴用拒否者が続出し、昭和19年の徴用令施行から昭和20年6月までに、割り当て数の79%しか送り出すことができませんでした。
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    『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』 松木國俊 WAC
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                     抜粋
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  多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 

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