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朝鮮労働者の実態
朝鮮人労働者に配慮した内地企業
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   戦前・戦中の朝鮮人労働者の日本での待遇は非難されるほど悪くなく、それどころか高額の賃金が支払われていました。昭和15年(1940年) 4月21日付大阪朝日新聞・中鮮版には次のような記事が掲載されています。
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【朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備・まるで旅館住まい同様】
  「福岡県遠賀郡水巻町の日産鉱業所では、石炭増産の一方策として多数の朝鮮人鉱夫を採用し、彼らのために特別の社宅やアパートなどを新築して優遇、特に南鮮旱害(かんがい)地からの醇朴(じゅんぼく)な出稼者たちのために建設された第一、第二尚慶寮の如きは、入寮者一同まるで旅先の旅館にでも泊まっている気持ちらしく、その行き届いた設備にすっかり感激している。」
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   これは決して日本政府におもねた”御用記事”ではありません。
   昭和19年(1944年)11月に徴用された鄭忠海(チョンチュンヘ)という人物は『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)という本の中で、広島での徴用先であった東洋工業の生活環境について詳しく書いています。
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  「新しい木造建ての寄宿舎があり、そこがこれから我々が寝起きする寄宿舎で、朝鮮応徴士たちを迎えるために新しく建てられた寄宿舎だという。20畳ほどの広い部屋に、新しく作った絹のような清潔な寝具が10人分、きちんと整頓されており、片方には布団と私物を入れるのだろう、押し入れが上下二段になっている。住についてはまずまずだ」
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  「食事は食卓の前に座っているとやがて各自の食事が配られた。飯とおかずの2つの器だ。飯とおかずは思いのほか十分で、口に合うものだった」
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  「会社側では、我々朝鮮半島出身応徴士を迎えるに当たり、いろいろ神経を使ったようだ」
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   昭和19年(1944年)末の日本の状況では、まずまずどころの話ではなくそれが特別なことであることが、日本人ならよくわかるでしょう。また鄭忠海氏は次のようなことも語っています。
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  .「みんなが集まって生活してみると、いろいろな人がいる。ある人はミカンやネーブルを、またある人はなまこやあわびなど、さらには酒まで求めて来て、夕食後に宴会を開く。これはここに来ている人たちの愉しみであり、唯一の慰めであった」
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   彼の証言によれば、正月には演芸会も開いて日本人とともに楽しく過ごしています。日本人女性との恋愛も経験しています。休暇もきっちりあり、奈良の職業訓練所では休日に寮長の引率の下に、奈良市内の名所旧跡を見学し、日本文化に触れて感激しています。
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   鄭忠海氏が終戦後に帰国する際には、船の出発にあたり簡単な送別会があり、日本人の舎監長が声をつまらせながら別れの言葉を述べ、鄭氏は100人を代表して挨拶したそうです。このように親しくなった町の人たちと別れを惜しんで出発したことが、この本で述べられています。
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   もちろん、徴用工の誰もが皆、このように恵まれた環境にあったとは限らないかもしれません。炭坑などの厳しい環境の中で働いて苦労した朝鮮人も多かったのは事実でしょう。しかしこの頃、(西欧の白人によるアジア植民地を解放するための)大東亜戦争の戦況は悪化し、内地日本人の青壮年がほとんど兵隊として召集され、死地に赴いて玉砕戦を戦っていました。多くの日本の若者が「神風特攻隊」として、二度と戻ることなく海に空に散っていたのです。そのようななかで同じ日本国民であっても、半島の人々に対しては特別の配慮がなされていたこともまた事実なのです。
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高額の賃金が支払われていた 
(本書P.101の1940年5月28日付大阪朝日南鮮版の新聞記事を参照)
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   戦時に半島から動員された人々は、高額の賃金を受け取っていました。特に炭鉱のような危険な場所で働く作業者の給与は極めて高く、昭和19年(1944年)頃に九州の炭鉱で支払われた賃金は、各種手当を含めて月収で150円~180円、また勤務成績のよい者は200円~300円と、同じ職種の日本人徴用者に比較すると「はるかにいいのが実情である」と指摘されています。
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   当時の炭鉱での賃金算定は、作業習熟度や出炭量などを基に厳格に計算されており、日本人と朝鮮人の間に全く差別はありませんでした。朝鮮から動員されて来た若者は炭鉱労働に向いた屈強な若者ばかりであり、一方で日本には若者はいなかったことから高齢者が多くて体力的にも劣るために、朝鮮人労働者の給与が日本人より上回ることは当然あり得たことでしょう。
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   ちなみに当時、巡査の初任給が月額45円、上等兵以下の兵隊の俸給は10円以下でした。ですから300円ともなると、当時の陸軍や海軍の大佐クラスの俸給であり、朝鮮人労働者の給与がいかに相当な高額であったかがわかります。さらに稼いだお金は朝鮮へ送金されていました。当時の炭鉱会社の人事担当者であった人物は次のように証言しています。(『証言 朝鮮人強制連行』金賛汀著 新人物往来社)
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  「仕送りは会社のほうで強制的にやらせました。当時50円から80円位まででした。金を持っているとあまりいいことないし。また郷里に送金するとその鉱山の一つの宣伝にもなりましたからね。送金は面長(村長)あてです。そうすると、お前の息子から送って来た金だと言って家族に渡す。これが一つの宣伝です。非常に(稼ぎの)いい者は2年間くらいで、家族の者が「両班」(ヤンバン)といってこっちでいうお金持ちになったのもあるのです。
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  その頃、朝鮮で牛の仔が1頭50円くらいです。毎月50円送金されると毎月仔牛が1頭買える勘定になります。それを貧乏人に1ヵ月いくらで貸すのです。牛20頭持てば「両班」、いわゆる金持ちなんですよ。募集も案外、家族から喜ばれたところもあるのです。あまり話したくないのですが、殉職者なんかは、当時2500円から3000円くらいもらうんです。それを面長に持って行くと、面長は牛を買わせることを第一条件とするのです。乳牛でなく使役牛です。そして独立させるんです。牛を持って他人に賃貸するので相当、牛を買うことが奨励されていましたね」
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  ちなみに、この『証言 朝鮮人強制連行』は金賛汀が強制連行を糾弾するために書いた本なのです。そこに収録してある内容ですから、まさしく真実でしょう。
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炭坑内で日本人と朝鮮人は一緒に働いていた
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   すでに述べた通り、炭坑では日本人も朝鮮人と一緒に働いていました。別表をご覧ください。(p.103参照)炭坑によっては坑内労働者が日本人のほうが多いところもあります。坑内では「掘進」「採炭」「充填」「運搬」などの一連の作業があり、互いに力を合わせて慎重に仕事をしなければ、作業の能率が落ちるだけでなく落盤の危険があります。坑内では日本人も朝鮮人も差別なく、一致強力して作業していたのです。
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   『朝鮮人強制連行の記録』のまえがきに、朴慶植は「日本の各地の炭鉱や土木工事場あたりを回ってみると、いたるところに朝鮮人の遺骨が放置されており、また南方その他の戦線に動員されて死亡したものも多い」などと、途方もないことを書いています。事故が起きれば日本人も朝鮮人も一緒に死亡するでしょう。
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       それに日本人と朝鮮人の遺骨をいったいどのようにして区別できるというのでしょうか。万が一、朝鮮人が死亡した場合は、前述の証言にもある通り、多額の慰謝料が支払われたのです。奴隷としてこき使うどころか、差別などまったくなく、事業主は半島から来た人々を大切に扱っていたのです。
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【コラム】差別と思ったのは17年間で1回だけ
  1928年に日本に渡航し、日本人の妻をめとって一男三女を儲けた裴又星(ペウソン)は『百万人の身世打鈴』(東方出版)のなかで次のように回顧しています。
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    「私は差別されたなって思ったのは、一つあった。それは町内会に入れてくれなかったことだ。あんときは朝鮮人はうちだけだった。入れてくれんという。被爆者の手帳もあることを知らなかった。町内会に入って初めて近所の人に、そういうものがあることを聞いて、(被爆者手帳を)もらった。なんで今まで黙っとったんかって、言われたけど、知らんかった」
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  彼は徴用工ではありませんが、日本に来て17年の間、差別と感じたのはこの1回だったと言っています。当時の実態を知るうえで、注目すべき証言でしょう。
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大部分の朝鮮人は自由意志で日本にやってきた
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   「強制連行説」がまったく非現実的であることは、当時の朝鮮から日本への出稼ぎ労働者が大量にやって来た事実からも明らかです。朝鮮人の内地渡航は一貫して制限されていましたが、日韓併合以来、内地の朝鮮人の人口は増え続けていました。大正元年(1912年)には約3千人だったものが、大正10年末には3万5千人にまで増えています。さらに大正10年からはこれが急増しており、昭和2年(1927年)末には16万5千人と増加し、昭和13年(1938年)末には80万人に達しています。
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   朝鮮半島での”自由募集”は昭和14年(1939年)に始まりましたが、この時点ですでに約80万人の朝鮮人が日本に居住していました。(p.106の1911年~1960年における在日朝鮮人人口の推移の表を参照) このように渡航が制限されていたとはいえ、当時の朝鮮人は同じ日本国民であり、日本政府も朝鮮総督府も、手続きさえ正統に踏むなら出稼ぎ移住を認めていたため、職を求めて大量の朝鮮人が日本に渡って来たのです。
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   このような出稼ぎ渡航は、その後も終戦に至るまで続きました。”自由募集””官斡旋””徴用”と並行して、大量の朝鮮人が日本にやって来たのです。自由募集期間である昭和14年(1939年)から昭和16年(1941年)の3年間の間に、内地に渡航した朝鮮人の総数は107万1千人ですが、このうち”自由募集”で内地に来た朝鮮人は、前述のとおりで14万7千人に過ぎません。
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   もちろん渡航者の中には内地と半島を往復した人の数も入っていますが、「自由募集者」による渡航が全体の16%に過ぎなかったことは特筆すべき事実です。しかもこの傾向は、”官斡旋””徴用”の時期でも変わっていません。昭和17年(1942年)1月から昭和20年(1945年)5月までの内地への動員数は52万人ですが、同じ時期に朝鮮半島からの渡航者は延べ147万7千人なので、ここでも渡航者の約6割が動員以外の人たちであることがわかります。
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終戦時、在日朝鮮人の78%が自由意志で日本に滞在していた
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   こうした渡航・移住によって、終戦時には約200万人の朝鮮人が内地にいたと推定されており、1939年から1945年までに約120万人が増えたことになります。終戦当時、動員先の職場にいた朝鮮人は約32万3千人(厚生省統計)で、それ以外の軍人・軍属が約11万3千人(引揚援護庁調査)で合計43万6千人となりますが、これは終戦時の朝鮮人の人口の32%に過ぎません。いずれにせよ残りの78%の朝鮮人が自分の意思で日本に出稼ぎに来た者とその子弟、および動員先の職場を離脱し、または契約完了後に、日本に残ってお金を稼いでいた人たちでした。
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   戦時中、労働力不足が激しかった内地に、朝鮮の人々は自分から希望し、大量に渡航して来て日本で稼いでいるのです。「嫌がる朝鮮人を拉致同然の方法で、無理やり大量に日本に連れて来て酷使した」という、”強制連行”のイメージとはほど遠い当時の実態をこの数字が物語っています。
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【コラム】期限終了後も日本で稼ぐ
  『証言 朝鮮人強制連行』(金賛汀)のなかに当時、期限が終わって朝鮮半島へ帰る時の様子についても、次のような炭坑関係者の証言が載せられています。それは強制連行どころの話ではありません。金儲けに来ているのです。
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 「家族持ちでも一期限が終われば12から15世帯をまとめ、係員が2人くらいついて送っていくのです。すると旦那さんが大阪か京都かどこかでいなくなるのがあるんです。こっちで心配すると、これは予定の行動で責任は一切お宅さん(係員)のほうにはありませんと、子どもも妻も平気でいるのです。(つまり)旅費は向こう(半島)までもらい、途中で旦那だけ逃げる。嫁さんやなんかはそのまま朝鮮へ帰って行くというのがあったですね。妻子だけは郷里へ帰り、(旦那)本人は大阪かどこかでまた金儲けして(後で)帰るというふうに、あらかじめ決めてあるのですね」
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当時の朝鮮人は日本に憧れていた
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   当時の朝鮮人の日本への思いがどのようなものであったか。具体的な証言をあげてみます。(いずれも『百万人の身世打鈴』裴又星(ペウソン)東方出版より)前述のペウソンは、日本に渡航した動機を次のように証言しています。
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 「日本はいいらしいよって言うので、にわかに来てしまったんです。憧れておったんですよ。日本に行けば儲かると思って。日本に行けば朝鮮での1年分が何ヶ月かで儲かるんだと」
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 また同じころに”斡旋”を受けた李斗煥という人物も次のように証言しています。
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 「役所に呼び出されて『日本に行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直言えば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても仕事もないし、百姓くらいだから。俺だけじゃなくて、日本に来たがってたの大勢いたんだ」
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  当時の朝鮮では強制どころか、一般の人々の間でいかに渡航熱が高かったかがよくわかります。
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大量の朝鮮人が密航して来た
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   このように日韓併合以降、日本に憧れて賃金の高い日本で働くために、多くの朝鮮人が自らの意志で日本に渡って来ました。そして出稼ぎ渡航の資格がない人々は、密航してでも日本へ渡ろうとしたのです。内務省の統計によると、1930年から1943までの13年間に発見された不正渡航者は、4万人近くになります。しかし実数はその数倍に上るでしょう。しかも戦時動員の始まった昭和14年(1939年)から昭和17年までの4年間に発見された不正渡航者は2万2千800人に及び、なんと戦時動員前よりも増加しているのです。
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   では、それで捕まった密航者はどうなったでしょうか?
   「もし「強制連行」が事実であれば、彼らを捕まえて鉱山にでも放り込めばいいはずです。しかし逮捕された密航者は、法律に基づいて朝鮮半島に帰されたのです。1939年から1942年までの間に、1万9千200人が朝鮮に強制送還されています。これが本当の”強制連行”です。
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【コラム】鉱山会社の募集担当者の証言
             .(『証言 朝鮮人強制連行』金賛汀著より)
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  「釜山で最後の検査をやるんです。戸籍謄本と本人と対照して渡航許可をするのですが、そのときまで(身元がわかっている人間は)100名のとき、105名つれてきたものです。朝鮮では替え玉が沢山いるんです。そういう者は査証のときばれてしまう。そういう者は全部、釜山から帰す。
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   この場合も同じく、もし強制連行が事実であれば、帰さずに日本へ引っ張っていくはずだと思われます。
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補償問題は解決済み
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   第1章で、戦時徴用労働者に対する賠償命令が、ソウル高裁と釜山高裁から出されたことを書きました。しかしその判決の不当性は『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫)にある次のような事実からも明らかです。
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   「徴用者に対する未払い賃金が問題となっているが、終戦の日、歓声を挙げながら厳しい労働条件に不満を募らせていた労働者は、給料も受け取らずにさっさと退去したのである。場所によっては社宅や寮を襲い、係員や寮長を殴打し、米や酒を強奪し、窓ガラスなどを片っ端から叩き壊したりした所もあったという。このようにして発生した未払い賃金は、厚生省の行政指導により原則として法務局に供託された。
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   1965年、日韓基本条約の締結で、3億ドルの無償協力と5億ドルの借款で、韓国は日本に対するすべての請求権を放棄した。これに伴いこの供託金は国庫に納められ、この(韓国への)無償協力の一部となったのである。すなわちこの時点で日本は韓国政府に支払い済みであり、この取り扱いは今後は韓国政府に委ねられたのである」
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   「日韓請求権ならびに経済協力協定」によって補償問題は完全に決着済みであり、平成17年(2005年)1月に韓国政府が一般公開した議事録により、韓国側は日韓基本条約の交渉過程で、「個人への補償は韓国政府が行なう」と表明していたことも明らかになっています。
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   ですから日本政府も日本の企業も、この点で絶対に韓国に譲ってはいけないのです。弱みを見せればすぐつけ込まれます。企業が個別に補償金支払いに応じてしまうと、”決着済み”の大原則が崩れて、ここぞとばかりに雪崩(なだれ)を打ったように訴訟を起こされるでしょう。もし韓国の最高裁判所が最終的に支払い命令を出した場合、日本政府は国際司法裁判所に訴えて争うべきです。理は日本にあります。争えば必ず勝てるはずです。
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【コラム】朝鮮人飯場長による折檻(せっかん)
  炭坑などの厳しい環境で働いていた朝鮮人労働者の中には、職場に不満で勝手に逃げ出し、捕まって折檻されたことを恨みに思う人もいたでしょう。姜壽熙(カンスヒ)は『百万人の身世打鈴』裴又星著の中で、次のように証言しています。
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  「飯場長や労務係が木刀で叩くのです。(中略)それでも人夫に対する処遇は飯場長によって違ってきます。飯場長はたいてい朝鮮人でした」
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   棒などで叩くのは、朝鮮人や中国人のやり方です。
   彼らを捕まえて折檻するのは、たいてい朝鮮人の飯場長だったことも知っておくべき事実と思います。
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ともに大東亜戦争を戦った記憶を取り戻そう
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  しかし、何としても”強制連行”をでっち上げて日本を貶めたい韓国や反日日本人たちは、「法律論はともかく、日本の朝鮮支配そのものがもともと不法であり、その意味で朝鮮人を使うこと自体が”強制連行”だ」という反論が出てくるかもしれない。ですがそれならば、戦時動員をはるかに上回る大勢の朝鮮の人々が、なかには密航までして日本に働きにやって来た事実をどう説明するのでしょうか。しかも彼らはあくまでも、自分たちの意思と都合で日本に来ているのです。
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     日本による朝鮮統治の実態については、私の著書『救った!』に詳しく書きましたが、いずれにせよ日本は「一視同仁」という建前のもとで、日本人も朝鮮人も平等という考えでした。それなのに半島から無理やり朝鮮人を連行して、酷使するような乱暴なことができるはずがありません。当時、日本の青壮年は召集令状によって戦地へ送られました。彼らは戦場で飢えと渇きに耐えながら、塹壕堀りや洞窟陣地の構築という重労働に従事し、しかもその先に彼らを待っているのは”死”だけだったのです。
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   それに比べて敵弾が飛んで来る心配もなく、毎日食糧の配給を受けて賃金をもらいながら、工場や炭鉱や建設現場で働いた朝鮮の人々は、同じ重労働といっても意味合いが違うはずです。仕方なくいやいや行ったのが強制連行だと言うのなら、「日本の青壮年兵が徴兵により戦場に強制連行され、朝鮮の人々は徴用によって、その穴埋めとして内地の事業所に強制連行された」と言うべきです。
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   日本人は国のためだから当然だと言うのであれば、当時朝鮮人(と国連の強い要請により実施された併合により)、朝鮮人は日本国民の一部を構成しており、日本という法治国家において法律の保護を受けていたので、法律に従うのは当然のことなのです。
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   しかしそんな理屈よりも当時、朝鮮人も内地の日本人も、(西欧諸国による300年も続くアジア植民地の)アジア解放の大儀のために大東亜戦争を共に戦っていたのです。その民族的記憶を互いに取り戻すならば、すべては過去の”苦労話”として終わらせることができるはずなのです。
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 【コラム】動員されて日本に残ったのは245人のみだった
                .(1959年7月31日付朝日新聞朝刊より)

 
 「在日韓国・朝鮮人は、無理やり強制連行されてきた人たちとその子孫だから「外国人参政権を与えるべきだ」との意見がありますが、これは明らかに間違いです。終戦時、日本にいた朝鮮人の総数は約200万人とされていますが、この大部分が昭和21年(1946年)末までに、日本政府が用意した帰還船で帰国しました。戦時動員されて終戦時に、動員先の職場にいた約30万人については優先的に帰国できる処置が行なわれ、そのほとんどがこの時に帰国しています。
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   昭和34年(1959年)7月13日の朝日新聞は当時、登録されている在日韓国・朝鮮人の人数は61万人であり、そのうち戦時動員で残っていた者はわずかに245人であるとの外務省発表をしています。しかも「現在日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思で在留した者である」と外務省は明言しています」
 
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     『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊著 WAC
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                                                  抜粋
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   多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

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