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・シベリアへ送られたポーランドの子どもたち 

      ,平成7年(1995年)1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。
     被災者は、死者6433名、行方不明者3名、負傷者4万3千792名という大惨事でした。

     その翌年、震災で親を亡くした子どもたち30名がポーランドに招待されました。それも3週間という長い期間です。そして招待された子どもたちは、ポーランド各地で大歓待を受けています。
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   この招待旅行の時、子どもたちの世話をした1人のポーランドの夫人がある話を語っています。それは1人の日本人の少年が片時もリュックを手離さず、背から降ろさないのだそうです。
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   夫人が少年に理由を尋ねると、震災の時、一瞬のうちに彼の両親や兄弟を亡くし、家もすべて焼けてしまったと言います。でも少年は、焼け跡から見つかった家族の遺品をできるだけリュックに詰めたのです。そしてそのリュックを、彼は片時も手放そうとはしませんでした。それを聞いて夫人は、不憫で涙が止まらなかったそうです。
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   ポーランドでの歓待の最終日、震災孤児が帰国するお別れパーティに、4名のポーランド人の高齢者がやって来ました。この4名はかつて、シベリア孤児だった方です。ですがすでに高齢で歩行もままなりません。彼女たちはある話をするためにここに来てくれたのでした。
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   「あなた方を見ていると、75年前の自分たちのことが思い出される。
   可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たのだから、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞いてもらいたい」
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   4人の元シベリア孤児の女性たちは、涙を流しながらバラの花を日本の震災孤児たち1人1人に手渡しました。会場は万雷の拍手に包まれました。75年前に、いったい何があったのでしょうか?
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シベリアへ送られたポーランドの子どもたち
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   その昔、ポーランドは帝政ロシアの支配下にありました。
   あくまでも、祖国ポーランドの独立を図ろうとするポーランド愛国者たちがこれに対抗しました。ですが彼らは、ロシアのシベリアに強制的に送られ流刑となってしまいました。そうです。何もかもが凍ってしまう凍土シベリアは、かつてのソ連の流刑地だったのです。
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   その後、大正8年(1919年)ポーランドはロシアから独立しました。
   この時、ロシアは革命、反革命勢力が争う内戦状態にありました。極東地域へは政治犯の家族や、混乱を逃れて東に避難した難民を含め、十数万人のポーランド人がいたのです。そのポーランド人たちは、飢餓と疫病の中で苦しい生活を送っていました。彼らは本来が、帝政ロシアの圧政下にありながらも、祖国の独立を果たそうと活動していた愛国者たちですから、知的レベルも高い。
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   ですが凍土と食料不足の前に、多くの愛国者たちが病と飢えに倒れてしまいました。問題はその愛国識者たちの子どもたちです。親を失っただけでなく、子どもたちはより一層悲惨な状態に陥ってしまいました。大人たちの願いは、「せめてこの子どもたちだけでも生きて祖国に送り届けたい」ということです。
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   大正8年(1919年)9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは、「ポーランド救済委員会」を組織し、子どもたちを何とかして祖国に送り返そうと考えました。ですが全員が流刑者の身です。まずお金がない。会員を募り、資金をカンパしても、子どもたちを飢えから救い、祖国に送り返すだけの資金がありません。
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   その翌年の大正9年(1920年)の春、ポーランドとロシアの間に戦争が始りました。これで、孤児たちをシベリア鉄道で祖国に送り返すことは、事実上不可能になってしまいました。そこでポーランド救済委員会のメンバーは欧米諸国に、子どもたちを救うための援助を求めました。
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   ですがポーランドの孤児たちを支援するということは、大国ロシアを敵に回すことになるため、ヨーロッパ諸国はことごとく、救済委員会の申し出を退けたのです。こうしてシベリアにいるポーランドの孤児たちは、ヨーロッパ中の国々から見捨てられてしまいました。
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日本へ援助を要請
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   そして救済委員会のあるメンバーが、窮余の策として日本政府に援助を要請したのです。それが救済委員会会長のビエルケビッチ女史です。女史は満州にいた日本軍の協力を得て、大正9年(1920年)6月に来日しました。そして外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴え、援助を懇請しました。
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   この頃の日本は、独立間もないポーランドとまだ国交もなく、外交官の交換もないことから国家として未承認という立場にありました。そのような国交もない未承認国家であり、しかも流刑者の子どもたちに支援の手を差し伸べるなど、普通ならあり得ないことです。
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   しかし女史の嘆願は、外務省を通じて日本赤十字社へ伝えられ、わずか17日後には、日赤はシベリア孤児の救済事業を行なうことを決定したのです。日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て、決定からわずか2週間後には動き出しました。
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   その日、56名の孤児の第一陣がウラジオストクを発って、敦賀(つるが)経由で東京に到着しました。それから翌、大正10年(1921年)7月までに5回に分けて、ポーランド孤児375名が来日したのです。さらに大正11年(1922年)夏には、第二次救済事業として3回に分けて、390名の孤児が来日しました。こうして合計765名のポーランド孤児たちが日本にやって来ました。そして後に、第1陣はアメリカ経由で、第2陣は日本船により直接に、祖国ポーランドに送り返されることになるのです。
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   この孤児たちの来日にあたり、「習慣や言葉の違う孤児たちの世話のためには、ポーランド人の付き添いの人がいるのがよい」ということで、日赤は孤児10名に1人の割合で、合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしています。
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   日本に到着したポーランド孤児たちの回想です。
   「ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されました。そのあと支給された浴衣(ゆかた)を着て、浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れてもらいました。とっても感激しました」
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   また特別に痩せていた女の子は、
 「日本人のお医者さんが心配して、毎日1錠飲むようにと特別に栄養剤をくれました。でもその栄養剤がとてもおいしかったので、一晩で仲間に全部食べられてしまってとても悔しかったです」
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   到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。この孤児たちのためにと、日本では無料で歯科治療や理髪を申し出る人たちもいました。学生たちの音楽隊なども慰問に訪れました。仏教婦人会や慈善協会は、子どもたちを慰安会に招待しました。他にも個人で慰問品を届ける人々や、寄贈金を申し出る人たちが後を絶ちませんでした。
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   こんなこともありました。
   腸チフスにかかっていた子どもがおり、ある若い看護婦が必死に看病していましたが、その看護婦がチフスに感染して亡くなり殉職してしまったのです。そんな事件もありましたが、人々の好意はそれでも後を絶たなかったのです。
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   大正10年(1921年)4月6日に、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后陛下(大正天皇の御妃)も、日赤本社病院で孤児たちを親しく接見されました。皇后陛下は、可愛い3歳の女の子ギエノヴァファ・ボグダノビッチをそばへ呼び、その頭を何度も撫でながら、健やかに育つようにと言葉をかけられました。
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   こうして日本の手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で憔悴しきっており、哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻しました。日本を出発する前には、各自に洋服が新調されました。さらに航海中の寒さも考慮されて、全員に毛糸のベストが支給されました。さらに多くの人々が、子どもたちに衣類やおもちゃなどの贈り物をしてくれました。
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   横浜港から祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは親身になってくれた日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて拒んだそうです。埠頭で孤児たちは「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表しました。
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   また神戸港からの出発では、児童1人1人にバナナと菓子が配られ、大勢の見送り人たちは子どもたちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振りました。子どもたちを祖国に送り届けた日本船の船長は、毎晩ベッドを見て回り、子どもたちの頭を撫で、熱が出ていないかを確かめたそうです。その手の温かさが忘れられないと、1人の孤児だった人が回想しています。
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   平成7年(1995年)10月、ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、阪神淡路大震災で孤児となり、ポーランドへ招かれて来ていた日本人孤児たちを大使館へ招き、そこへかつて元ポーランド孤児だった8名の女性も招待しました。全員が80歳以上の高齢です。1人の婦人は歩くのがやっとの困難のなか、お孫さんの介添えで公邸にやって来ました。その女性の話です。
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   「私は生きている間にもう一度日本へ行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼が言いたかった。しかしもうそれは叶いません。だから大使からお招きいただいた時は、,這ってでも行きたいと思いました。なぜならここは小さいながらも日本の領土だと聞いたからです。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません」
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   この女性たちは、70年以上前の昔の日本での出来事を、細かなところまでよく覚えていました。また別の1人の女性は、日本の絵はがきが貼られたアルバムや、見知らぬ日本人から送られた扇子を今も大事に持っていると皆に見せました。日本を離れる際に贈られた布製の帽子や、聖母像の描かれたお守りなど、それぞれが宝物として持っている物を互いに見せ合いました。
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   ポーランド極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、私たちは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べています。
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   「日本人は私たちポーランドとはまったく縁故のない、遠い異人種です。しかも日本は我がポーランドのある場所から、全く異なる地球の反対側に存在する国でもあります。それなのに我が不運なポーランドの子どもたちにこれほどの同情を寄せてくれ、心から憐憫の情を表わしてくれました。私たちポーランド人はこのことを肝に銘じて、その恩を忘れることはありません。
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   私たちの子どもたちをしばしば見舞いに訪問してくれた裕福な日本人の子どもたちが、孤児たちの服装が惨めなのを見て、自分が着ていたきれいな服を脱いで与えようとしたり、髪に結っていたリボンや櫛、飾り帯、指輪までもとってポーランドの子どもたちに与えようとしました。このようなことはしょっちゅうであり、1度や2度ではありません。
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   ポーランド国民もまた気高い国民なので、私たちはいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人にお伝えしたいのです。日本人がポーランドの子どもたちのために尽くしてくれたことは、ポーランドをはじめ米国でも広く知られています。ここにポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬と、最も深い感銘、そして最も深い感謝と、最も温かい友情、愛情を日本の人々にお伝えします」
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   平成11年(1999年)8月、ポーランドからジェチ・プオツク少年少女舞踏合唱団」が来日しました。この時、合唱団はヘンリク・サドスキさん(88歳)の次のようなメッセージを持って来ました。
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   「20世紀の初め、ポーランドの孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子どもたちは劣悪な条件の下にありましたが、その恐ろしいところから子どもたちを日本へ連れて行き、その後、無事に祖国へ送り届けてくれました。あなた方が与えてくれた親切を忘れません。合唱団は、私たちの感謝に満ちた思いをあなた方に運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう」
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      「よちよちチャンネル」さんからの転載です。
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   多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。
 
 
 
 
 
 
 
 

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