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・知識があらゆる恐怖を駆逐する

   .出来上がった人間らしさを与えられている人などいない。
   それは自分自身で築くものだ。だがこれは恩恵でもあるが災いの元でもある。それが恩恵であるのは、自分自身を創造するという自由があるからであり、それが災いの元であるのは、全く人間にならずに一生を終える可能性が常にあるからだ。
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  人間は、自分自身を向上させることで神になるのではない。
  自分自身を充分に開くことができたなら、自分がすでに神であることを、今ここで知るだろう。私の考えでは、自己を完全に明らかにすることだけが、唯一の向上だ。
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  私たちは自分自身を忘れてしまったと言っても過言ではない。
  私たちは自分自身の誕生を忘れてしまってはいないだろうか? もしそうなら、自己忘却という基盤に成り立った人生について、いったい何を言うことができるだろう? このような生は、実は単なる夢に過ぎない。夢の中では、夢を見ている自分は完全に忘れられている。夢は彼を圧倒する。それはまさに彼の面前で起きているが、彼は夢の中には存在しない。
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  グルジェフは「人間は機械だ」と言った。
  なぜなら全ての活動において、人は受身的な参加者に他ならないからだ。その行動は無意識で、気づいていない。それらは単なる反応でしかない。人は愛し、憎み、そして怒りを感じたりするかもしれないが、これらは単なる内側で感じる無意識的な機械的反応の表現でしかない。彼には独自の意識的な生命力がない。本当の生と呼べるものは、人がこうした機械的反応の状態より高く上昇する時にだけ始まる。
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  眠っている人、(つまり無意識的反応、条件反射だけで生きている人)は1人ではなく、彼は群衆に属している。彼は群集心理を生きている。そして群衆は何も決められず、判断を下せない。

  .何かを少しでも成し遂げるためには、私たち1人1人の魂が活性化され、目覚めることが不可欠だ。それは現状の無秩序な群衆に代わるものである。私たちはそうして一つにならなければならない。独自の個人性に気づかなければならない。その時にだけ反応は行動に取って代わる。ユングはこれを個人における中心の達成と名付けた。
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    人が目覚めていないなら、その努力のすべては無駄になる。
  そうした人には方向感覚がない。だから彼の一部が作るものを、自分の別の部分が壊す。普通の人生はまさにこのようなものだ。彼は自分がどこかにたどり着くと思っているが、本当は少しも動いたことがない。彼は何も成し遂げず、ただエネルギーを使い尽したのだ。
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  惨めな自分の存在に気づき、何らかの努力をした人だけが人間になることができる。人間らしさは自動的には獲得できない。それは自分自身の内側で生まれるものだ。あなたは現状の自分に満足できない。そうした自分自身についての深くて強烈な不満だけが、あなたの進化を推し進める。
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  多くの人々は、彼らが他人に知られるのと同じほど、自分自身を知ることに熱心ではない。だから生は暗闇の中で、ますます深く覆い隠されるようになる。あなたが自分自身をまったく知らないならば、どうやってあなたの周囲に光を放つのか。
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  最大の自由とは、自分自身から自己が自由であることだ。 
  通常、私たちは自分自身を最も堅く締める鎖であり、また自分自身の肩にある最も重い重荷である、という事実に気づくことができないでいる。
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  道徳家と同様に、不道徳な人もまた彼の習慣の単なる奴隷に過ぎない。
  不道徳な人は彼自身の本性のおもむくままに従い、道徳的な人は社会の規則に従う。彼らは両方ともが、外部の指針によって生きており、両方ともが依存している。真に独立している唯一の活動とは、自己の探求だ。自己を実現する人だけが本当の自由を得る。
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  この自己の体験から、新しい類(たぐい)の規律が人間に生じる。
  それは外部から課されるものではない。それは自然で、自己のインスピレーションからくる。それは内側から生まれるもので、道徳の発生とは完全に異なるものだ。それは(社会的に)定められた一連の規則の不自然な模倣ではなく、自分の内なる実存の自発的な現れだ。
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  この一つの真理を生涯ずっと忘れないで覚えておきなさい。
  それは人を欺(あざむ)くことは、結局はあなた自身を欺くということだ。あなたが他の誰かにしたり言ったりすることは、何でもどんなことでも、常にあなたに戻って来るということを。
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  善行は自己に触発される行為だ。
  それは外部の何かへの反応ではない。反応とはお返しに行なわれる何かであり、私たちは反応を自分自身の行為のように見ると言う間違いを犯す。行為と反応との間には、天と地ほどの大きな隔たりがある。外部の環境からくる刺激に対して、人の内側に起こる感情や言動の行為が反応だ。だが反応ではなく、内なる自己が触発されて起きるものが本当の行為だ。
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  外部から来る刺激に対する言動あるいは感情的反応は、私たちを拘束する。それは自発的ではなく、外から触発されるものだからだ。だが自発的行為は私たちを解放する。それは自己の現れだから。反応的行為は依存的であり、自発的行為は自主的だ。反応的行為がある種の堕落であるのはそれが機械的であるからだ。
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  あなたでないものになろうとすることよりも、大きな苦悩はない。
  この願望には終わりがなく、何の充足もない。だがほとんどの人は、彼ら自身とは異なる見せかけを作ることにより尽力し、成功している。あなた自身の本性を知りなさい。あなたとは誰なのかを認識しなさい。あなた自身の本性に従って生きることが、天上の至福なのだ。
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  非常に小さなランプの灯りであっても、何年も閉ざされた家の中の闇を追い払うことができる。それと同じく、自分自身を理解する最も小さな光線は、何百もの転生の間に蓄積してきた無知を消し去るのだ。
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  恐れてはいけない。
  あなたは、自分が怖れる人からは決して自由ではいられない。あなたが怖れるがゆえに、彼は常にあなたにつきまとうだろう。あなたの敗北は、常にあなたの恐怖と比例している。
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  世間の中で生きても、世間に属さないことが放棄だ。
  しかし放棄は、しばしば三匹の猿と比較されてきた。一匹の猿は世間の凶悪な光景から逃れるために自分の目を覆う。二匹目は邪悪な音を聞かないように自分の耳を塞ぐ。そして三匹目は、悪い会話を避けるために自分の口を覆う。猿ならこの種のことは許されるかもしれないが、人間に関する限り、馬鹿げている。
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  恐怖のために世間から逃げることは、世間からの自由ではない。
  それは微妙だが非常に強い束縛だ。世間から逃げてはいけない。ただあなた自身に気づいていなさい。あなたが逃げようとするなら、さらに大きな恐怖があなたの肩を掴むだろう。もしあなたが気づきに留まるならば、安全を見出す。あなたに自由を与えるのは、知識を通して得られた「恐れのなさ」だけなのだ。
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  私は誰もが、あたかも世界中から注目されているかのように生きてほしいと思っている。なぜなら、私たちが知っているいないにかかわらず、隠されているものは何もないからだ。たとえそれがどんなに不可解であろうともだ。全体から切り離されて全く無関係でいられる人など誰もいない。つまり、人の中に生じたあらゆるものの「こだま」は、周囲に拡散し、人々に届く。人の生は周りを流れている生全体の一つのピースであり、生の不可欠な部分なのだ。
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                 講和録『真理の泉』 OSHO 市民出版社
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                               抜粋
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   .多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

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