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・日本の真珠湾攻撃は「騙し討ち」ではなかった

  日米両国を愛する私にとって、日本とアメリカはなぜあのような戦争をしたのかということは、ずっと解けない疑問でした。しかし最近、多くの歴史書を読みながら痛感したことは、日本が始めた大東亜戦争を語るには、フランクリン・ルーズベルト大統領の正体を知る必要があるということです。結論から先に言えば、彼はとんでもない悪人だったということです。
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  たとえば、日米戦争の開戦についていつも語られるのは、日本の真珠湾攻撃が、果たして卑怯な「騙し討ち」であったかどうかということです。今日でもほとんどのアメリカ人と多くの日本人は、「アメリカ側は日本海軍の真珠湾攻撃を全く予期しておらず、日本側も完全な無線封鎖による隠密行動によりハワイの奇襲に成功した」というのが定説になっています。しかし私は、それは余りにもルーズベルトという人物の本質を見誤った結論だと思います。ルーズベルトという人物を甘く見てはいけません。
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ルーズベルトとスターリンは「同志」だった
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  日本の大東亜共栄圏構想は、「欧米の植民地にされていたアジア諸国を白人の支配から解放し独立させる」という趣旨だったと思うのですが、ルーズベルトの頭の中にあったのはまったく違うことでした。ルーズベルトは全世界をソ連のスターリンと2人で2分割して、自分たちの所有にするという構想を持っていました。私自身もこのことを最近になって初めて知ったので、ほとんどのアメリカ人はこの事実を知らないと思います。
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  ルーズベルトが何を思ってそんなバカなことを考えたのか、当初はほとんど理解できなかったのですが、実はスターリンとルーズベルトは「同志」だったということが、最近ようやくわかりました。だから彼の政権には共産主義者が非常に多く混じっていたわけです。そんな彼らにとってイギリスのチャーチルは邪魔なわけで、2人はいろいろ画策してチャーチルを無視、あるいは重要な決定から外し、米ソだけが第二次世界大戦の勝ち組になるようにしました。その結果、イギリスは大戦以後から急速に力を失いました。
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  ドイツの占領の時も、実はもっと早くアメリカ軍がドイツの東部まで進軍できたはずなのに、わざと進軍の速度を緩め、わざわざソ連軍が東半分を侵略するまで待った、ということが明らかになっています。ルーズベルトとスターリンは密約していたのです。その結果、計画通り、スターリンは東欧すべてを占領し、アメリカは西側を押さえ、NATO(北大西洋条約機構)という形で、アメリカの強い影響力を欧州でも行使できるようにした、という事実があります。
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  一方、極東ではアメリカはもっと積極的でした。しかしスターリンと密約を交わしていたルーズベルトは、幸いなことに1945年4月12日に病死します。そこで副大統領だったトルーマンが大統領に昇格します。しかし彼はソ連に対してまったく気兼ねをしません。
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  ルーズベルトの病死で新たに大統領になったトルーマンは、原爆投下命令を下したことで、多くの日本人から悪印象を持たれていますが、もし日本の降伏があと半年早かったら、あるいはルーズベルトがあと半年長く生きていたなら、日本の戦後がもっと悲惨なことになったのは確実です。トルーマンはスターリンを同志だなどと考えてはいません。だから純粋に、対ソ連戦略として日本を利用したかったようですが、ドイツに進駐してきたソ連軍の惨酷なやり方を見て、彼らの暴虐性と威力に驚いた可能性があります。
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日本分割統治案があった
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  実はルーズベルト体制の時に作った、日本分割統治案というものがありました。つまり戦勝国の仲間内だけで、日本を分割して分け合おうというものです。(中国は戦勝国ではないが戦勝国側に入っている)それによると北海道・東北までをソ連、東京を含む中央部分をアメリカ、それにイギリスやフランス、中国まで加わって分割占領するという計画です。
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  しかしトルーマンはそれらを完全に無視し、アメリカ一国で日本をすべて占領することにしたのです。原子爆弾の開発に成功したことで、ソ連に頼らなくても日本を占領できるという確信を得たのが大きかったと思います。
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  それに対しソ連は強く反応し、その結果、日本のポツダム宣言受諾の直前になって対日参戦したソ連は、8月15日の(終戦)受諾後も日本に対して激しい攻撃を継続して北方領土などを占領したのです。そしてその勢いで、北朝鮮と中国をソ連が確保し、韓国、日本、台湾をアメリカが何とか押さえました。
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  最終的に、ルーズベルトからトルーマンになったことで、トルーマンの邪魔によって計画に多少「狂い」が出たものの、基本的にはルーズベルトとスターリンが描いた筋書きでした。そしてこの「狂い」が生じたことが、戦後の日本にとって本当に幸いしたのです。
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  スターリンがいかに惨酷で酷い人間かは、調べれば調べるほど明らかになるわけですが、ルーズベルトは彼を敵だとは全く思わず、それどころか同志のように信頼し、世界の二分割支配案を本当に実行したのでした。
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  一方、そこではじき出されたのがイギリスのチャーチルです。第二次世界大戦までの世界の大国といえば、アメリカ、イギリス、そしてソ連です。世界中に多くの植民地を持つイギリスの影響力はまだ強く、アメリカは今ほどの超大国ではなかったのです。しかし第二次世界大戦が終わってみると、実はあの戦争はイギリスの1人負けだったことがわかります。
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  大東亜戦争で日本が白人相手に堂々と戦って彼らを追い出し、東南アジアやインド、中東、アフリカなどの各地域で独立の機運が高まり、その結果、イギリスは次々に植民地を失っていきました。ですから日本を逆恨みしているイギリス人は意外と多いと思われます。
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戦前からルーズベルトは日本本土爆撃と占領計画を立案していた
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  日本を戦争に誘い込もうとするルーズベルトの謀略が、日本の真珠湾攻撃のはるか以前から計画されていたことが、徐々に明らかとなってきています。評論家の加瀬英明さんとニューヨーク・タイムズ元東京支局長のヘンリー・S・ストークス氏の対談をまとめた、『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(祥伝社新書)には、昭和15年(1940年)9月27日、日独伊3国同盟条約が調印されたことを聞いたルーズベルト大統領が側近に向かい、「これで日本を我々との戦争に誘い込める」と語ったとあります。
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  また同年10月7日には、アメリカ海軍情報部極東部長のアーサー・マッコラムによって、対日戦略に関する提案書が出され、ルーズベルトはただちに承認していますが、それには中国の蒋介石政権に大量の支援を行なうことや、米英が協力して各種資源の対日禁輸を行ない、またオランダ領インドネシアから日本へ石油を輸出させないなどの項目が書かれていました。つまり、日本を対米戦争へと追い詰めるための謀略が書かれていたのです。
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  その後もルーズベルトの謀略は続きます。昭和16年(1941年)2月3日、日本政府が交渉使節団を送って対米和平交渉を進めているその最中に、ルーズベルト大統領は国務省内において、「戦争で日本を降伏させた後、日本をどのように統治するか」を研究するための特別チームを発足させています。
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  また1991年11月22日のアメリカABCテレビ『20/20』で放送されたのですが、それによると日米開戦の5ヶ月も前の昭和16年(1941年)7月21日付の、ルーズベルト自身が署名した「対日爆撃計画書」が存在していたのです。そして当時のパイロットや大統領補佐官などの証言により、ルーズベルトは中国本土から日本への長距離爆撃計画を承認していたとの事実が伝えられました。
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  この計画は「JB355」と名付けられ、当時のスティムソン陸軍長官や海軍長官などもこの計画に署名しており、またビルマ(現ミャンマー)から中国への物資補給路を援護するために中国に雇われた米国人パイロット・グループ「フライング・タイガース」を率いるクレア・りー・シェンノート将軍が、この計画に絡んでいました。
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  注目すべきは、ルーズベルトが日本への石油禁輸を決めた時期と、この(5ヶ月前の)対日爆撃計画承認がほとんど同時期であったことです。このように当時の大統領補佐官の証言にもあるように、ルーズベルトが強い意思を持って日本を戦争へと追い込んだことを明らかにしています。
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経済政策としての戦争
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  ではなぜルーズベルトは、そこまでして戦争を欲したのでしょうか? 実は大東亜戦争が始まる前までのアメリカは、1929年の大恐慌の後もずっと経済が停滞していました。それでルーズベルトは大統領としてニューディール政策というのを導入したのですが、これが極めて社会主義的な政策だったのです。
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  こうした経済停滞期の一番の特効薬は何かというと、やはり石油や鉱物資源、食糧など、様々な物資を大量に消費してくれる戦争なのです。ウォー・エコノミー、つまり戦争経済にしてしまえば一気に国が潤うわけです。そこでスターリンと2人で世界を分割統治するために、どうしても第二次世界大戦に参戦したかったルーズベルトは、これによって経済政策の側面を持つ戦争を、心の底から欲したのでした。
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  しかし当時のアメリカは、「モンロー主義」を源流とする「孤立主義」を採用しており、アメリカ国民のほとんどは欧州で行なわれていた第二次世界大戦への参戦を望んでいなかった。ルーズベルトはアメリカ史上唯一、4選した大統領でしたが、それでもさすがにそんなアメリカ世論に抗することはできず、3期目の時には「攻撃を加えられた場合以外には」、海外での戦争には参加しないという公約を掲げて当選しました。ですからいかに彼自身が戦争をやりたくても、それは許されないことだったのです。
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  そのようなアメリカ国民の意識を一夜にして変えるために、ルーズベルトはさまざまな謀略を巡らせました。一番いいのは、「攻撃を加えられた場合」を作ることで、つまり敵に攻撃させることです。そこでルーズベルトは最初に、ドイツに対して様々な挑発的行動を取りました。たとえばイギリスに様々な武器を提供し、ドイツ潜水艦に攻撃さえしましたが、ヒトラーはそれには全く乗ってこなかった。そこで日本に最初の1発目を、米国に向けて撃たせることにしたのです。
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  ルーズベルトには当然、日本人に対する人種差別的な思想がありました。日本人の頭蓋骨は「我々のものよりも約2千年も発達が遅れている」、というようなことを平気で言う人間でした。そして日本は、そんな悪辣なルーズベルトの策略にまんまと乗せられてしまったわけです。日本が戦争を初めるきっかけにされた結果、あれだけ戦争参加に否定的だったアメリカ人は、一夜にして一気に奮い立ち、対日戦だけでなく、ヨーロッパ戦線にまで参戦して一気に拡大させることになりました。
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  こうしてルーズベルトは、日本という道具を使い、アメリカ合衆国という眠れる獅子を「無理やり」目覚めさせたわけです。これによりアメリカ経済は劇的に回復したばかりか、結果的にアメリカを世界の「超大国」の地位にまで一気に押し上げることになったのです。
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  ルーズベルト政権で商務長官を務め、戦争中は大統領外交顧問となったハリー・ホプキンスは、「この戦争が終わったときには、我々は間違いなく世界で最も豊かで、最も強力な国民となっているだろう」と言いましたが、まさにその通りになったわけです。ルーズベルトによる完全な「アメリカ1人勝ち」戦略を、日本がお膳立てしたということになります。
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日本の「一撃」を待ち続けていたアメリカ
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  よって、こうしたルーズベルトによって立案された様々な計画は「極秘裏」に進められました。実際に、その意図を漏らさないためにルーズベルト政権の動きは徹底していました。日本政府は昭和16年(1941年)1月から真剣に対米和平交渉を行なってきましたが、交渉はまったく進展せず、11月25日の段階でアメリカ政府内では、ついに「ハル・ノート」の内容が正式にまとめられました。これが、日本の譲歩案をアメリカがすべて蹴ることで、日本に開戦を決意させた、あの有名な文書です。
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  この日、日本海軍機動部隊が真珠湾に向けて出発しましたが、ワシントンからは、同時にアメリカと同盟国のすべての艦船に向けて、「北太平洋における一切の航行を禁じる」という指示が出ています。当然これはルーズベルト自身が、(コーデル・)ハル・ノートが事実上の宣戦布告であることを理解しており、また日本の暗号解読や、日本海軍や日本国内内部に巡らせたスパイにより、日本海軍の動きをかなり正確に察知していたからこそできたことです。
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  11月25日の会議に参加していたスティムソン陸軍長官は、自らの日記の中で次のように書いています。
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  「大統領は『日本人は元来、警告せずに奇襲することで悪名高いから、米国はおそらく次の月曜日(12月1日)ごろに攻撃される可能性がある」と指摘して、いかにこれに対処すべきかを問題にした。当面の問題は、我々があまり大きな危険にさらされることなしに、いかにして日本側に最初の攻撃の「火ぶた」を切らせるような立場に彼らを追い込むか、ということであった。これは難しい命題だった」
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  これを見ただけでも、ルーズベルトは日本が攻撃して来ることを十分に理解しており、それどころかこの頃には、日本に最初の1発目をいかに撃たせるかに腐心していた様子がわかります。ハル・ノートは、アメリカの事実上の宣戦布告でした。その内容を読んだ東郷重徳外務大臣は、目もくらむような失望感に打ちのめされ、「長年にわたる日本の犠牲を無視し、極東における大国たる地位を捨てよと言うのか。これは日本の自殺に等しい」と感想を漏らしています。
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  またアメリカのスティムソン陸軍長官もこのハル・ノートを見て、「我々の提案は非常に激烈なものなので、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」と言っています。11月26日にハル・ノートを日本側に手交したコーデル・ハル国務長官は、27日の朝、スティムソン国務長官に向かい、「私はこの件(日米交渉)から手を引いた(役目を終えた)。あとはあなたとノックス海軍長官の出番だ」と言っています。つまり外交交渉は終わったから、あとは軍の出番だぞということです。
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  このハル・ノートの草案を作ったのは、財務長官ハリー・デクスター・ホワイトですが、後に明らかになったことは、この男はソ連のスパイだったということです。そんな男の草案をなぜルーズベルトが採用したのかということが、以前から不可解でしたが、もともとスターリンとの間で世界を二分割して統治する計画があったことがわかり、すべての疑問が氷解しました。ルーズベルト大統領の娘婿であったドール大佐は、後に次のように述べています。
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  「ホワイト・ハウスで、1941年11月25日に開かれた運命的な会議の記録を読み返してみて、私の以前の岳父ルーズベルト大統領および彼の側近たちの戦略は、平和を維持し保障することではなく、事件を組み立て、あるいは引き起こさせて、アメリカを日本との戦争に巻き込むという陰謀にもっぱら関わっていたと、私は悟ったのです。それを知って、私の心は張り裂けんばかりでした。そしてこれは「裏口」からヨーロッパの戦争に入ることを可能にする計略でした。
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  アメリカ国民は、日本との戦争を欲していないことを彼は十分に知っており、それゆえに、いかなるコストを払おうとも、戦争をアメリカ国民の頭上に押し付けなければならなかった。かくて欺瞞に満ちたもろもろのことがこの舞台上に入り込むよう、アメリカ国民の激しい怒りと、感情的爆発を引き起こす「事件」を創作する必要があったのです。そこで、この怪しげな「マント」が、巧妙に日本人の肩に掛けられなければならなかった」(カーチス・B・ドール著 馬野周二訳『操られたルーズベルト』プレジデント社)
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  ところで、日本海軍が真珠湾に向けて出撃をしたのは、ハル・ノートが渡される1日前であり、そのことをもって「日本は最初から騙し討ちを計画していた」とする意見がありますが、それは誤りです。国家というものは、外交および軍事においてはあらゆる手段を準備するものです。つまり、対米交渉がダメになってから初めて軍を動かしていたのでは、敵に大きな遅れを取ることになり、国家としては二流です。
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  しかも日本から真珠湾までは非常に距離があるので、早目に手を打っておく必要がありました。もちろん対米交渉がうまくいけば、途中で機動部隊に秘密暗号を用いて連絡し、いつでも引き返させることができるわけです。ただ、ここまでは良かったのに、ワシントンの日本人大使館が、宣戦布告の手交に遅れを取ってしまいました。その結果、日本は「騙し討ちをした」という汚名を着せられることになってしまったのです。
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  (日本が騙し討ちをしたという汚名を着せられた結果、戦争に否定的であったアメリカ人の憎悪の感情に火が付き、以後アメリカは戦争へ突き進んで行けるようになり、ルーズベルトの謀略はうまく実現した)
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    『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』ケント・ギルバート著 PHP
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                                              抜粋
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 ――多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に、隠されている、公けにされていない、あるいは「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人々に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。侵害とお考えの際は、いつでも削除しますので、コメント欄にてお知らせください。ありがとうございます。

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