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・自分を愛し、自分のすべての行為を愛する

  あなたがいつも人に認められる必要を感じているのは、自らが自分自身を受け入れていないからだ。だからそれに代わる代用品として、人に認めてもらいたくなる。いったん、自分自身を受け入れたら、人が自分のことを良く思おうが悪く思おうが問題ではない。どう思うかは彼らの問題であってあなたの問題ではない。自分が自分のやり方で人生を生きていれば、それを他人がどう考えるかは、もうあなたの問題や心配ではない。
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  あなた方は本当に子どもの時から、自分はそのままではいけないのだ、という考えを絶えず浴びせられ、頭に叩き込まれて来た。こう振る舞うべき、ああ振る舞うべき、そうして初めて自分は受け入れられるのだと。だから人々が自分を受け入れてくれ、評価してくれ、尊敬してくれたら、それが自分が良い人間だということを意味すると、あなたは考えるようになる。
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  だが自分を受け入れていないために、このことが世界中の誰にとっても問題のすべてを創り出している。誰もが他人の意見に依存するようになり、他人の意見に支配されている。こういう単純な事実を見て、私は他人の意見を気にするという考えを捨てた。するとそれは、まったく名状し難いような自由を私に与えてくれた。ただ自分自身でいられるということは、非常な解放感だ。
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  もしあなたが人々の中に出て行って、人に出会うことを恐ろしいと思っているとしたら、それはあなたが自分をひどく空虚なものに感じているということだ。だがそうあるべきではない。人は自分自身で溢れているべきだ。他の誰の意見でも評価でもなく、自分自身の活気と心からの喜びで溢れているべきだ。そしてそれこそが、私が意図しているものだ。
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  瞑想は人に権威を、力を与える。その権威と力は他人を支配するためのものではなく、ただ誰もその人から奪い去ることのできない力の質であり、権威という質だ。それこそが、その人間のものだ。
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  自分自身の足で立ちなさい。聖者であろうが罪人であろうが、自分が何であれ、誰からも奪い去られないように、ただ自分自身を拠り所にしていなさい。大衆の意見に支持された聖者であるよりは、自分自身の足で立つ罪人の方がましだ。
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もはや「私」はいない
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  スーフィーの重要な導師の1人バヤジットは、弟子によく次の話をしたという。「わが師の許(もと)にいた頃、私は3年間というもの、師から目を向けてもらったことがなかった。それはまるで、私などいないかのようだった。そして、師は正しかった。今だからこそ私は、自分が実際にそこにいなかったことがわかる。体は確かにそこにあったが、私の意識(マインド)は世界中をさまよっていた。私は(師に無視されることで)ひどく傷つけられた感情を持っていた。師が私に何かを尋ねることはおろか、私の方を見ることさえしなかった。
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  3年経ったある朝、師は初めて私の方を見た。それは私にとって初めてのことだった。それからまた3年が経ったが、今や師は私がそこにいることを認めてくれたので、次は何か声をかけてくれるだろうと私は希望し、そのことを強く望んでいた。しかしやがて、その願いも希望も消え失せた。この人は変わった人のようだった。師は他の者とはよく話すし、しょっちゅうやってくるよそ者とも話す。一方、こちらは1日中、朝から晩まで座っている。
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  それからまた3年が経った時、師は私の方を見てほほ笑んだ。今なら私にはわかる。これまでなぜ師が私を見たり、ほほ笑みかけたりしなかったのか、今ならわかる。それは私の願いのせいだった。(私を認めてほしいという強い願い)が障害になっていた。私は、この人は変わった人だ、(認めてもらおうと)期待しても意味はない。私はもはやそんな願望を、希望をまったく忘れてしまった。私にとってそこにいるのは習慣になっており、ただそこにいるのが嬉しかったのだ。師の存在だけで充分だった。
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  また3年が経った。そのことが起こったのは、私が初めてその希望を捨てた時だった。師は初めて私の方を見ると、『バヤジット、どうかね?』と言った。そして私は今なら、師がなぜ12年後に初めて私に声をかけたのかが、わかる。人々は互いに出会った時に、『お元気ですか?』と声をかける。だが12年後ということはない! しかし師は正しかった。なぜなら師が『バヤジット』と私の名前を呼び、『元気かね?』と声をかけてもらったあの夜こそ、私が存在せず、師だけが存在している初めての時だったからだ。
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  その12年間は、(内なる)絶えざる溶解、消滅の月日だった。そして何という不思議な方だったのだろう。「私」がいる時には1度も尋ねず、「私」がいなくなった時、初めて『元気かね?』と尋ねて下さるとは。
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  その同じ日、師は私に言った。『あなたはもう準備ができている。あなたは行きたいところ何処へでも行き、言葉を伝えるがよい。あなたはもういないので、あなたのところにいるのは私だ。あなたは私のためにその場所を空けてくれた』と。それ以来、私はこの世に何の責任も、何の問題もない。すべては師が肩代わりしてくれた」
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「無選択」(無条件)に生きる
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  問題のすべては、人がどんな選択もなしに生きられるかどうかにある。何が来ようとも楽しみなさい。それが過ぎ去り何か他のものが来たら、それを楽しみなさい。昼は素晴らしい、だが夜もそれなりに素晴らしい。どうしてその両方を楽しまないのか? 一方に執着しなければ、人はその両方を楽しめる。
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  だから選択しない人だけが、生(せい)のジュースを全部搾り取る。決して惨めになることはない。彼は何が起ころうとも、それを楽しむ方法を見つける。そしてそれこそが、生のアートのすべてだ。その根本条件を覚えておかねばならない。それが無選択であれということだ。それは(無意識的ではなく)意識的で注意深い時にだけ、人は無選択(無条件)でいられる。そうでない限り、人は選択に陥ることになる。
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  それは(成り行きに任せるという放棄ではなく、意識的にする)無選択であり、気づいていることである。そうなれば人は、あらゆるものを楽しむことができる。成功が来たらそれを楽しめる。失敗が来たらそれも楽しめる。健康ならそれを楽しめばいいし、病気ならそれを楽しむことができる。何しろ、何にもどんな執着も持っていないのだから。
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  自分の命を、どんなものにも閉じ込めないあなた方の生は、自由な動きだ。それは時とともに動き、内なる存在の車輪とともに足並みをそろえて動き、しかも決して遅れない。生とは確かにアート、素晴らしい芸術だ。そしてその最も短い公式が、「無選択」(無条件)の気づきだ。
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自分を愛し、自分のすべての行為を愛する
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  あなたはまだ、自分を受け入れていない。あなたはまだ、「内なる存在」に対し、自分の存在を感謝したことがない。「内なる神」に対する心からの感謝がない。逆に恨みを抱いている。「なぜ私を創ったのか」と、心の奥底で問い続けている。「なぜ私は存在へと投げ込まれたのか?」「いったい何の目的で?」と。
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  もしどこかで神に会ったら、あなたは最初に何を尋ねるか考えてごらん。多分こう尋ねるだろう。「なぜ私を創造したのか? それは苦しめるためか、悩みを与えるためか? ただ繰り返し生まれて来ては、生から生へと彷徨(さまよ)わせるためなのか? なぜ私を創造したのか? さあ答えてほしい!」
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  あなたは自分を受け入れていない。それなのに、どうして自分の行為を受け入れられるだろうか。要は自分を愛することだ。あるがままの自分を受け入れることだ。もし私が自分を愛していれば、何をしようと私はその行為を愛する。私の行為は自分の存在から溢れ出てくるものだ。もしその行為を愛していないのなら、私はそれを止(や)める。続ける必要がどこにあるのか。
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  でも、あなたは自分の行為を愛してはいない。源泉である自分自身を愛していないのだから、それが生み出す産物も愛されることはない。それはあなたが何をしようと、あなたが技師であれ、医者、科学者、教育者であろうと、何をしてもあなたはその中に憎しみを持ち込む。その憎しみが行為を反復的にする。それを自覚していないが、あなたは嫌悪している。
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   そしてその口実を探す。「これをしているのも妻のため、子どものためだ」。そしてあなたの父親もそれをあなたのためにやり、そのまた父親も子どものためにそれをやった。あなたの子どももそれを自分の子どものためにやり、こうして誰も生きることを楽しまない。
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  あなたはただの臆病者だから、そこから逃れられない。臆病者だからこそ、それを捨てて自分の好きなことをすることができない。それであなたはすべてを子供や妻の上にのせ、彼らのせいにする。だから彼らもまた同じことをする。
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  子どもに聞いてごらん。子供は学校に行っている。でも退屈している。「自分が学校に毎日行くのは親のためだ。行けば親は安心するが、行かなければ親は心配するし、とても悲しむ」。妻はどうか。彼女はすべてをあなたと子どものためにやっている。
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  結局、誰も真に自分のためには生きてはいない。しかも自分をそれほど愛してはいないので、自分自身のためには生きられない。その結果、すべてがおかしくなる。自分という源泉が愛されていないために、つまり源泉が毒されているから、その源泉から生じるもののすべてが毒されるということが起きる。
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  では別の仕事だったら自分の行為を愛せるかというと、そういうわけでもない。あなたは自分の生きる姿勢をその仕事にも持ち込む。始めのうちは目新しさのために、興奮するかもしれない。でもそのうちに、それに慣れてしまい、また同じことが始まる。
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  だから自分自身を変えることだ。自分自身を愛し、何であれ、自分のすることを愛する。それがどんなに小さなことであれ、自分から溢れ出た行為として愛することだ。
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           『神秘家の道』『存在と一つに』 OSHO 市民出版社
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                      抜粋 
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――多くの方々の著書や文章から掲載させて頂いています。
   私は基本的に「誰もが知るべき真実」は、まだ知らない人に伝えなければならないと考えています。その意味で、新たな情報、真実と考える物を掲載させて頂いています。削除をお望みの際は、コメント欄にてお知らせください。いつでも削除致します。掲載させて頂き、ありがとうございます。

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                                   zeranium

 

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